婚約破棄された直後、公爵令息から契約結婚を持ちかけられました
どうしてこんなことになったのだろう。
きらびやかに飾り立てられたホールは冷徹な空気に満ちていた。
卒業パーティーに似つかわしくない嫌な空気。
今すぐ逃げ出してしまいたかったけれど、私は当事者だった。
「……失礼します、殿下。もう一度お伺いしてもよろしいでしょうか」
「一度では理解できなかったか。シンシアは相変わらず頭が悪いな」
エルドレッド王太子殿下は私を鼻で笑った。
ずっと彼には見下されている。
都合のいい女、政略であてがわれた家柄だけの女。
そうではないと言えるほど私も気が強いわけではなかったから、つまらない女なのだろう。
「お前と婚約を破棄する。お前のような性悪で可愛げのない女など王妃にふさわしくない」
思わず眩暈で倒れそうになる。
可愛げはともかく性悪は心当たりがない。
それに、今までふさわしくあれるように頑張ってきたつもりだった。
それでもエルドレッド様には認められなかった。
「エルドレッド殿下のご期待に沿えず申し訳ございません……ですが」
「謝罪も弁明も不要だ。だが……」
エルドレッド殿下は隣にいる……確か、カーラ男爵令嬢だったか。
最近エルドレッド殿下とよくお話しされている令嬢だ。
エルドレッド殿下と同じ、生徒会の一員だったはずだ。
幼い顔立ちの可愛らしい少女はおどおどと私を上目遣いに見ている。
「彼女に謝罪してもらおう!」
「あの、カーラ様に何を謝罪すればよろしいのでしょうか?」
私の言葉にエルドレッド殿下は勝ったというように笑った。
王太子があからさまに人を見下す態度を取ってはいけないと言っているのに。
いつだって殿下はうるさいと言って聞かない。
「彼女に悪意ある対応をし続けていることは聞き及んでいる。お前がそんな性悪だったとはな。一介の男爵令嬢の名を覚えていることこそが証拠だ」
「そ、そんな……!」
将来の王妃として同じ学年の者は覚えている。
そもそもこの学園は立場を超えた関係を結ぼうという理念から建設されたものだ。
なのに一介の男爵令嬢などという言い方は問題がある。
……だけど、それを指摘したところできっと殿下は聞く耳持たない。
「カーラ様、僭越ながら気分を害した扱いの詳細を伺ってもよろしいでしょうか」
「シンシア様にはお心当たりがないのですか!」
カーラ様はヒステリックに叫んだ。
私は思わずその声量に圧倒される。
「私の教科書を破き、ノートを燃やし、あまつさえ私を召使のように扱ったではありませんか!」
舞台役者にも似た大げさな身振り手振りで私からの被害を訴える。
しかし最後の召使いのような扱いとは……?
もしや最近彼女が周囲をうろうろしていたことだろうか。
この学園では自立していたかったから申し出はすべて断った。
――私を婚約者の座から追いやることが目的だったのかもしれない。
周囲からの反論を望んだが、誰も何も言わない。
まわりから見たらカーラ様を侍らせていたのかもしれない。
私の顔色の変化を読み取ったのか、エルドレッド殿下は勝ち誇ったように笑う。
「悪行を行う人物など我が王妃にふさわしいわけがないだろう」
「だから、婚約破棄なさるのですか」
確かにふさわしい言い分だ。
学園の卒業を祝う席で、私ごときに気を使わせて申し訳ない。
あちらこちらで誰かがひそひそと話している。
エルドレッド殿下はまだ言葉を続けている。
「お前はいつも……」
すべてキンと高い耳鳴りがしてまったく聞こえない。
今すぐ倒れたかったが、こんなところで倒れては淑女の恥だ。
私は涙がこぼれないよう前を向いてなるべく微笑みを作る。
言葉を言い終えて満足したのだろうが、視界がぼやけてよく見えない。
「私には殿下の相手は荷が勝ちすぎていたようです。ご期待に沿えず申し訳ございません」
習った通りのカーテシーをして、その場を後にする。
パーティーを楽しみに来た学生たちは波がひくように私の道を作る。
早足になってはいけない、無様な引き際になってはいけない。
そう言い聞かせながら私は会場を後にした。
背後で扉がバタンと閉じる音がする。
私の緊張の糸はそこで切れた。
涙が堰を切ったようにあふれ出す。
今すぐへたり込んでドレスを汚して滅茶苦茶にしてしまいたかった。
門番は気遣わしい視線を送り合うも何も言わない。
当然だ、身分が違う。
私は公爵家の令嬢だ。
お父様にもお母さまにも、恥じない令嬢でいたかった。
何より殿下にふさわしい令嬢でいたかったのに。
――それも全部、今日でおしまい。
ふらふらとさまよえば、誰もいないガゼボに辿り着いていた。
あのパーティーから離れたかったから丁度いい。
ガゼボ内の椅子に座ってこぼれるままだった涙を何度も拭う。
でもどんなに拭っても、とめどなく涙があふれてくる。
「こちらにいましたか、シンシア様」
背後から誰かの声がかかった。
思わず身体を震わせて振り向く。
今は誰にも会いたくなかったが、私は何とか笑顔を取り繕う。
「先ほどは取り乱して申し訳ありませ、……ああ、ユリシーズ様」
金色のウェーブがかった髪を後ろで一つに結わえている。
普段の制服と違い、白いタキシードを着ていた。
ユリシーズ様は同じ授業でよく話をする男子生徒だ。
魔法科学省の寵児ともいわれる俊英だ。
またその省を管轄する公爵家の跡取りでもある。
彼の安堵した表情に思わず肩の力が抜けてしまう。
「シンシア様……あの場は酷いものでした。貴方が気丈に振舞う必要はないのです」
「ありがとう、ユリシーズ様。ごめんなさい、涙が止まらなくて」
「私でよければ話を伺いましょう。大丈夫です。ここには誰も来ませんよ」
ユリシーズ様は私の隣に腰かけた。
彼は私が落ち着くまで私の話を聞いてくれた。
エルドレッド殿下への思い、裏切られた気持ち、陥れられたショック。
すべてを涙と共に吐き出したそれを、ユリシーズ様は静かに聞いてくださった。
「……今後のことは、いかがされますか?」
私が落ち着いて少したら、ユリシーズ様は真剣な面持ちで呟いた。
今後のことなど考えられる状況ではなかったが、落ち着けば大変な事態だ。
「確かに……もう私、卒業するのに、婚約がなくなってしまいました」
学園を卒業する女性はおおよそ二つの道に分かれる。
結婚か、花嫁修業のため家庭教師になるかだ。
私は幼い頃から王子の結婚相手になることが決まっていたから考えていなかった。
だがこうなったら学園から去る二週間で家庭教師としての道を探さなければならない。
「……私が家庭教師など勤まるでしょうか」
今まで私がお世話になった先生方は皆立派な人だった。
こんな間抜けな卒業パーティーを迎えた者を引き取りたい家など考えられない。
暗澹たる気持ちに飲み込まれかけた時、ユリシーズ様がそっと私の手を取った。
「もしよければですが、私と契約結婚しませんか?」
「契約……結婚ですか?」
最近流行りの小説に頻出する言葉だ。
お互いの利害のために結婚をする、ということだろうか。
それを現実でするなんて、と脳裏をかすめた。
だが考えてみれば家同士が決めた政略結婚も似たようなものか。
「勿論契約結婚後のサポートもいたします」
ユリシーズ様は跪いて、私に笑顔で契約を迫る。
彼の言葉に今すぐ飛びつけば私の将来は一気に安泰だ。
でも分からないことがいくつかある。
「私と契約結婚しても、ユリシーズ様に利がありません」
「親が連れてきた知らない相手を結婚相手にしなくて済むメリットがあります」
ユリシーズ様は知っている相手と結婚がしたいのか。
確かに表向き結婚相手がいるから、本当に愛する相手との逢瀬が出来るだろう。
もしユリシーズ様の相手が身分違いなら、公爵家の私は都合よく使えるだろう。
カモフラージュくらいなら、私でも役に立てそうだ。
私は彼の手を取る。
「ええ、わかりました。契約結婚いたしましょう」
「……ありがとうございます」
ユリシーズ様の浮かべる笑顔に、何か複雑なものが見えた気がした。
彼が裏で何を考えていてもかまわない。
少なくとも、お父様とお母様にはご心配をかけずに済みそうだ。
次の日、事件は立て続けに起きた。
最初はユリシーズ様だ。
「おはようシンシア様。今日から婚約者だから迎えに来ました」
「お、おはようございます……」
やけに空気が甘い気がする。
今までエルドレッド殿下との関係しか知らなかった。
世の中にいる普通の婚約者は皆こうなのだろうか。
私はひとまず表で待たせるわけにはいかないので身支度を整えた。
「ユリシーズ様、お待たせしました」
私の部屋の前にいたユリシーズ様は、気づけば女生徒たちに囲まれていた。
そういえば同じクラスの少女が彼に恋文を書いて玉砕したことを泣きながら話していた。
今まで婚約者がいたので気にしたこともなかったが、ユリシーズ様は確かに美形だ。
「ふふ、紹介しよう。私の婚約者だ」
ユリシーズ様の言葉に、女生徒たちは一様にショックを受けていた。
その言葉は甘く、嘘など少しも含まれていない。
勇気ある一人が震えながら私を指し示す。
「で、ですがユリシーズ様。彼女は昨日婚約破棄されたばかりではないですか」
その言葉にユリシーズ様は微笑んだ。
私を胸元に抱きよせ愛おしいと言わんばかりに頭に重みがかかる。
すごいな、カモフラージュとはいえここまでするのか。
「そう。だから昨日のうちに急いで私の元へ来てくれるよう頼んだんだ」
ユリシーズ様の表情は伺い知れない。
でもその言葉一つ一つが高級砂糖菓子より甘いことだけが分かる。
「だから彼女は少しも悪くない。いいね?」
目の前の女生徒達がみるみる青ざめていく。
先ほどの言葉がどれほどいけない言葉だったのか理解したらしい。
「も、申し訳ありません! そうとは知らず……!」
先程の勇気ある少女とは別の方が、半分泣きながら頭を下げる。
ユリシーズ様はくすくす笑いながら言葉を紡ぐ。
「私は構わないけれど……シンシア様はどうでしょう」
「わ、私も構いません」
カモフラージュ役に徹しよう。
ユリシーズ様が求めているのは立場ある令嬢。
ならば私が違いますと否定するのは筋が通らない。
契約とはいえ結婚するのだ、堂々としよう。
「私はユリシーズ様の婚約者なのですから」
それっぽく見える様に胸を張る。
一瞬ユリシーズ様が固まったように思えたが何故だろうか。
すぐ気を取り直すように咳ばらいをして女生徒達に言う。
「それでは、私達は失礼しますね」
ユリシーズ様はさらりと手を繋いできた。
しかも指を絡める流行りの繋ぎ方だ。
普段エスコートばかりされるからこういうのは慣れていない。
我慢できずユリシーズ様に問いかけた。
「こ、ここまでする必要ありますか……!?」
「ありますとも。私達は結婚するんですから」
ユリシーズ様の微笑みにすべて塗り変えられてしまう。
何だか妙にドキドキする。
ほんの数十メートルの登校までの道のりだ。
なのに何故か景色がいつもよりきらめいて見えた。
そして次の事件。
エルドレッド殿下が私達の教室に怒鳴り込んできたのだ。
わざわざ一限目終わりの短い休み時間に。
「シンシア! どこにいる!」
「ひっ」
私はその声に思わず身をすくめた。
一気にエルドレッド殿下から受けた過去の罵倒が脳裏を過る。
殿下に見つかる前に、ユリシーズ様が私を庇うように立ちあがる。
「彼女と話すなら私を通していただけますか、殿下」
ユリシーズ様の言葉に殿下は目を見開いた。
いつもその表情の殿下に叱られてきた。
歯を食いしばり、手を握りしめる。
「大丈夫です。貴方は私が守ります」
私の肩にユリシーズ様の手がそえられる。
頭に乗せなかったのは、本命の恋人の為だろうか。
だとしても、彼の手のひらは頼もしかった。
「何故だシンシア! 貴様、その男と組んでいたのか!?」
そんな訳がない、ずっと貴方だけを思っていた。
思っていても声にはならなかった。
「エルドレッド殿下、組むとは彼女に失礼です。私からシンシア様に結婚をお願いしました」
ユリシーズ様は毅然とした態度で殿下に相対する。
身分の区別なく平等が理念の学園でも王太子に真っ向から歯向かう者はいなかった。
エルドレッド殿下がどれほど忖度をされていたかはそばで見てきたから知っている。
殿下はユリシーズ様の言葉にさらに血が上ったようだ。
「貴様っ、王太子の婚約者に手を出したのだぞ。ただで済むとは」
「おや、殿下は昨晩彼女を手酷く裏切ったではないですか」
ユリシーズ様はどこか怒りを滲ませてそう告げた。
私の視点からは彼の表情を窺い知ることはできない。
でも、殿下はわずかにたじろいだ。
その隙を見逃さず、ユリシーズ様はたたみかけた。
「昨晩の婚約破棄は国王陛下も承知なのでしょうか」
「……何が言いたい。学園での素行は国の未来にも関わることだろう」
エルドレッド殿下は忌々しそうに私を睨みつけた。
私の意思に関わらず全身が震えあがる。
それに気をよくしたのか殿下はにやりと笑った。
「王妃が毒婦などと国民に知られたらどうする。政敵には恰好の餌ではないか」
「元とはいえ己の婚約者を毒婦呼ばわりですか」
ユリシーズ様は呟くように言った。
殿下の言葉に思わず俯いてしまう。
清廉潔白であろうとした。
それでも殿下にとって私は毒婦だった。
「話を戻しましょう。婚約破棄の件を敬愛すべき国王陛下はご存じだったのでしょうか」
ユリシーズ様はまるで戦闘をするかのように声を張り上げる。
教室にいた生徒たちは事の成り行きを黙ってみている。
皆ここで割りこんでも利益がないことを分かっている。
「国王陛下がもしご存じならばあのような公開処刑の形にはしないでしょう。陛下は人心が分かるお方だ」
ユリシーズ様の言葉にはとげとげしさがあった。
エルドレッド殿下はその言葉にあてられていた。
「公開処刑のように婚約破棄をするなど、恐怖政治でしかありません。次見せ物になるのは誰かと疑心暗鬼を生みます」
教室でチャイムが鳴る。
先生もやってきているけれど、授業は始まらない。
王家と公爵家の争いで教室は凍りついていた。
私は勇気を出してユリシーズ様の袖を引く。
「……ユリシーズ様、どうかご容赦を。授業が始まります」
「シンシア様はお優しい。ではここまでにしましょう、殿下」
ユリシーズ様はクラスメイトに語りかけるような声で告げる。
私は二人をはらはらと交互に見るしかできない。
エルドレッド殿下は音が鳴りそうなほど歯を食いしばっている。
「貴方はもうシンシア様とは関係がない。どうかそれをお忘れなきよう」
ユリシーズ様はそれだけ言ってすとんと席に座った。
教室の空気など素知らぬ顔で私ににこりと笑いかけてくる。
エルドレッド殿下は肩を怒らせて教室を出て行った。
私は動けないでいる先生に申し訳なく思った。
先生は何とか気を取り直したようだ。
深くは追及せずに、授業を開始した。
「私はやはり、ユリシーズ様にとって迷惑ではないでしょうか……」
「……まずはシンシア様に自身の素晴らしさを思い出していただかないといけないようですね」
ガゼボで昼食を共にしながらユリシーズ様は唸るようにつぶやいた。
エルドレッド殿下にはそんなこと一度も言われたことがなかった。
そういえば誰かと食事をするなんて久しぶりだった。
今までずっとエルドレッド殿下をお待ちしていた。
一度もお迎えには来てくださらなかったけれど、待たなければ叱られた。
貞淑な女ならば男を待つのだと言われた。
噂によれば、エルドレッド殿下は昼休みに女生徒と密会しているらしかった。
「そうだ、魔法科学省の研究棟へ見学に行きましょう」
私の内心など露知らず、ユリシーズ様は嬉しそうに私の手を取った。
嬉しそうに溶けた瞳が私をまっすぐ見ていた。
「な、なぜそんな唐突に?」
「シンシア様には研究職に向いていると思っていたからです。放課後早速向かいませんか?」
ユリシーズ様は私に選択を迫った。
いつもエルドレッド殿下に叱られてばかりだった。
自分の意思を持つことは何となく懐かしい気持ちになった。
――それなら、たまには。
「……はい、結婚後のこともあります、ものね」
そうだ、契約結婚なのだ。
離婚した後のことも考えなければならない。
公爵令嬢とはいえすぐに結婚相手が見つかるものでもない。
万全に家庭教師をするためにも、勉強しておくのもいいと思う。
「……苦労はさせませんよ」
ユリシーズ様はどこかぎこちなく微笑んだ。
何故そんな苦々しい表情をするのだろう。
気を取り直すようにあごに手を当てる。
「シンシア様には出来ることが沢山あると自覚していただかなければ」
ユリシーズ様の宣言通り、私は二日間あちこち連れていっていただいた。
魔法科学省の研究棟で最新の研究を見せてもらった。
海辺で貝殻を探したり、領地で星空を眺めたりした。
卒業パーティーも終わったから、授業は午前中しか残っていなかった。
だから長い放課後を、ユリシーズ様と二人で過ごした。
その間も日に何度もエルドレッド殿下から諸々口出しをされた。
でも、いつもユリシーズ様が私と共にいてくださった。
「もうシンシア様は関係ないでしょう」
「お前に用事はない。私はシンシアに話があるのだ」
大抵の場合、ユリシーズ様が追い払ってくださった。
私はそれに甘んじていた。
良くないと、わかっていたのに。
事件は、二日後に起こった。
△▼△▼△▼△▼△
「シンシア、今日こそ話をしてもらうぞ」
エルドレッド殿下はいつも以上にイライラしていた。
ユリシーズ様は数名の生徒に呼び出されてしまっていた。
もしかしたらそれすらも殿下の罠かもしれなかった。
とにかく、私は殿下に進路をふさがれ、身体がすくんで動けなかった。
「私に、もう用はないでしょう……?」
「いいや、お前のせいだ。お前のせいで私は政務から外された」
話が少しも見えない。
政務のことは知らない。王家の話だ。
私にも私の家にも、政務に圧をかけられる者はいない。
「あの卒業パーティーの日から全てがおかしい。お前が仕組んだんだろう!」
「わ、私は何もしていません……!」
全身がすくみそうになる。
震えをぐっとこらえてエルドレッド殿下を、出来るだけ見据える。
殿下の表情には、怒りと焦りが透けて見えた。
「父上には婚約破棄を何だと思っている、政務ではなく勉強をしろと怒られた! カーラはあの日以来何を思いあがったのかしつこく付きまとってくる! すべてお前だ! お前が婚約破棄を受理したせいだ!」
私は頭が真っ白になった。
この人は、何を言っているのだろう。
怒りがふつふつと湧いて出てくる。
今まで、抑え込んでいたものがあふれ出してくる。
「私はあの卒業パーティーの時、すごく悲しかったです」
涙と共に言葉がこぼれる。
今までどんなに辛いことを言われても我慢してきた。
「殿下にとってあの日は、何だったのでしょうか」
俯いていた視線をあげれば、殿下はぎょっとしていた。
私が泣く姿なんて初めて見たと言わんばかりだ。
幼い頃はあんなに一緒にいてくれていたのに、もう心の距離は離れてしまった。
殿下は弁明するように私に話しかける。
「い、いやお前があの時引き下がるなんて……」
つまり殿下は私が折れると思って公開処刑の真似事をしたのだ。
私が非を認めると、ひいては私が悪いと思っていたのか。
やってもいないことを認めると思っていたのだ。
心の熱が急に冷めていく。
「もう、結構です」
私の心は限界を迎えていた。
ショックのあまり涙も止まっていた。
「私は既に別の方と婚約しております。これ以上は迷惑です」
「な、なんだその言い方は!」
もう何を言われても心に響かない。
殿下は私に何を求めているのだろうか。
「さようなら、先に手を離したのはエルドレッド殿下です」
「そんなこと許すものか!」
エルドレッド殿下は無理やり抱きついてきた。
全身に怖気と警戒心が走り硬直して動けなくなる。
「お前は私のものだ、何故それが分からん!」
「シンシア様は殿下のものではありませんよ」
殿下の背後に、ユリシーズ様がいた。
エルドレッド殿下は振り向いて固まっている。
いつもの柔和な微笑みは消えていた。
笑みは消え、冷酷な目がまっすぐエルドレッド殿下を見つめていた。
「ユ、ユリシーズ様……!」
「シンシア様、遅くなって申し訳ありません」
ユリシーズはにこりと微笑んで、殿下と私を引きはがした。
殿下はよろめいてそのまま尻もちをついた。
私もふらついたが、ユリシーズ様に支えられていて倒れることはなかった。
「殿下の所業は国王陛下の耳にも届いたようですね」
いつから話を聞いていたのだろうか。
ユリシーズ様は私を守るように抱きよせて殿下を見下ろしている。
私は殿下に歯向かったせいか、今更心臓が早鐘のようにうっていた。
「お前が父上に伝えたのか!」
「誰が伝えたにせよ、政務から外されたのは事実でしょう?」
ユリシーズ様は氷より冷たく言い放った。
殿下はその言葉とユリシーズ様の表情のせいで立ちあがれないでいるようだ。
蛇に睨まれた蛙のように身をすくめている。
「ただ、私は殿下に感謝していますよ」
ふと、怒りに満ちた雰囲気が急に柔らかくなる。
肩にあった手が私の頭に触れ、抱き寄せられる。
「彼女を譲ってくれてありがとうございます。おかげでとても素敵な愛する人と添い遂げられます」
私の顔が真っ赤になっていくのが分かる。
ユリシーズ様の言葉は砂糖菓子より甘い。
殿下の胸元で思わず固まってしまう。
でも、さっき殿下に抱きつかれたような不快感はない。
「……お前はどうなのだ、シンシア!」
エルドレッド殿下は私を指さして怒鳴ってくる。
いつもこの声に怯えて、失望されたくないとしがみついていた。
でも気持ちはもう凪いでいた。
だからはっきり言うことにした。
気づけば観衆もいる。エルドレッド殿下は歯牙にもかけていないけれど。
成り行きを見守る彼らの前で宣言する。
習った通りのカーテシーをして。
「婚約破棄のおかげで、私には出来ることが沢山あると分かりました。もう、殿下の元には戻りません」
エルドレッド殿下は座ったまま呆然としている。
私が言うことを聞くと思っていたのだろう。
でも、私はもう昔の私ではない。
「シンシア様、それはあまりに殿下に対して無礼ですよ!」
「カーラ様……」
ショックで動けないでいるエルドレッド殿下の元に、カーラ様が駆け寄る。
カーラ様は殿下を気遣っているようで己の立場を求めているのがありありと分かった。
もしこれが愛情であったなら、私は応援できたのに。
寄り添うカーラ様をエルドレッド殿下はぐいと押しのけた。
「エ、エルドレッド殿下……?」
「誰もお前の助けなど求めていない! お前が欲しいのは私の権力だろう!」
カーラ様は殿下の言葉に固まってしまった。
エルドレッド殿下はカーラ様を無視して立ちあがった。
ユリシーズ様は少しため息をついた。
「邪険にするものではありません。この三日間も彼女は被害に遭っていましたか?」
カーラ様ははっとして目をそらした。
ユリシーズ様はカーラ様の仕草を見逃さなかった。
「あ、遭っていません。当然です、彼女は婚約破棄をされたんですから」
「婚約破棄をされたから止まるなら、まるで婚約破棄が目的だったようですね」
エルドレッド殿下はカーラ様をおぞましいもののように見ていた。
カーラ様はうつむいて動かない。
ユリシーズ様は冷徹な声で話を進めていく。
「シンシア様はこの件に関与していません。シンシア様を婚約者の座から引きずり降ろし、空いた婚約者の座に座ろうとしたものがいる、ということですね?」
「私は悪くない! 全部、全部お父様が仕組んだの!」
カーラ様は叫びながらその場を走り去った。
あとに残されたのは、エルドレッド殿下だけ。
殿下は、信じていたものに裏切られたと呆然としている。
「では、殿下。我々はこの後も予定がありますので」
私はユリシーズ様に連れられてその場を後にした。
エルドレッド殿下はがっくりとうなだれて、少しも動かない。
少し可哀そうだと思ったけれど、声をかけるのもはばかられた。
――またどうか、信頼できる人を作れますように。
私たちは少し落ち着こうと、あの日と同じガゼボで休憩することになった。
パーティーの日は暗くてよく見えなかったけれど、薔薇園に近くていい香りがする。
ガゼボにも蔓薔薇が咲いていて見た目にも華やかだ。
私の表情がすぐれないのを察したのか、ユリシーズ様が話しかけてくれた。
「ご気分がすぐれませんか?」
「私は……エルドレッド殿下が心配です……」
素直に心情を吐露できた。
私の言葉にユリシーズ様は優しく微笑む。
「シンシア様がされたことでしょう、貴方は今、無事立ち直れています」
「ユリシーズ様がいらっしゃったからです」
私の言葉にユリシーズ様は嬉しそうにはにかんでいる。
……もしかしたら、今なら私の気持ちを話せるかもしれない。
「殿下のために酷い目には、遭いました。幼い頃からの婚約も解消してしまった」
私の言葉に、ユリシーズ様は真剣に耳を傾けてくださっている。
ぎゅっと手に力がこもる。
「でも、ユリシーズ様がいてくださったから」
私はユリシーズ様を見る。
愛おしいものを見るようなとろけた目だ。
きっと、この人とならいい関係を築けると確信できる。
「契約結婚ですが、改めてお願いします」
ユリシーズ様の手を取る。
ただ手が触れあっただけなのに心がときめく。
ユリシーズ様も私を抱きしめてくださる。
「いつかユリシーズ様にふさわしい私になってみせます。その時は……」
「どうかその先は、私から」
頬をユリシーズ様の手のひらがそえられる。
気づけば目の前にユリシーズ様の端正な笑顔があった。
目を閉じ、それを受け入れる。
口づけをかわしながら、私の心は歓喜に満ちていた。
――きっと幸せとは、こういうことを言うのだ。




