翡翠の婚約指輪は風化しない
わたくしの名はエレノア・ド・カーヴェル。
かつてこの王国の未来を担う王太子、アラン殿下の婚約者でございました。
──ええ、“かつて”ですのよ。
今日、王城の大広間で殿下は宣言なさいました。
「エレノア、お前との婚約を破棄する。私はミリアナ嬢を真実の愛と信じる」
……あら、真実とはずいぶんと都合のよろしい言葉ですわね。
泣き崩れる令嬢もおりますけれど、わたくしは違います。
静かに一礼し、微笑んで申し上げました。
「ごきげんよう、殿下。どうぞ、お幸せに」
その瞬間のざわめきといったら。
皆が“悪役令嬢の暴走”を期待していたのに、肩透かしを食らった顔。
まったく、劇を観るなら脚本くらいきちんと仕上げてほしいものですわ。
婚約破棄の翌朝、わたくしは王都を発ちました。
行き先は、母方の叔父が治める辺境のカーヴェル領。
風の強い土地で、かつては豊かな鉱山で栄えたそうです。
もっとも今は、すっかり寂れてしまったとか。
侍女のサラが不安げに尋ねました。
「本当に、殿下に弁明なさらなくてよろしいのですか?」
「必要ありませんわ。殿下は、耳よりも“聖女の涙”に心を奪われているご様子ですもの」
そう答えると、サラは言葉を失いました。
馬車の窓から見える王都は、春霞に包まれていました。
この空の下でどれほどの噂が飛び交おうとも、もう関係ありません。
わたくしは“悪役令嬢”という名札を返上し、ただの女として新しい地に向かうのです。
辺境の町カーヴェルは、想像以上に荒れておりました。
鉱山は閉鎖され、働き手も去り、残ったのは埃と静寂。
しかし、叔父の屋敷の中だけはまだ気品がありました。
迎えてくれたのは、一人の青年。
灰色の外套をまとい、鋭い眼差しをした鉱夫あがりの青年でした。
「エレノア様ですね。私はライオネル。この屋敷の管理を任されております」
粗野ながらも誠実な物腰。
彼は鉱山の復興を諦めておらず、叔父の遺志を継ごうとしているのだと知りました。
「王都の令嬢には似合わない土地でしょうが……」
「ええ。でも、退屈ではなさそうですわ」
そう答えると、ライオネルの口元にわずかな笑みが浮かびました。
その夜、わたくしは書斎でひとり紅茶を飲みながら思いました。
“破滅フラグ”の後にも、物語は続く。
ならば、せいぜい楽しく生きて差し上げましょう。
日々は驚くほど穏やかに過ぎていきました。
鉱山の調査を手伝い、帳簿を整理し、領民と話す。
社交界の噂より、ひび割れた石の方がずっと正直ですわ。
ある日、崩落した坑道で古びた箱が見つかりました。
中には翡翠の指輪がひとつ。
かつて鉱山の繁栄を象徴したものだとか。
「これは殿下から贈られた指輪より、ずっと美しいですわね」
わたくしがそう言うと、ライオネルは目を見張りました。
「その言葉、冗談でなく聞こえます」
「冗談ではありませんもの。石は裏切りませんから」
わたくしは指輪を手のひらにのせて微笑みました。
翡翠の輝きは、まるで“誇り”そのもののように静かで強い。
それから半年。
王都から一通の手紙が届きました。送り主は王太子。
内容は──「殿下が病に伏し、あなたの帰還を望んでいる」。
まぁ、都合のよろしいお話ですこと。
かつて追放した相手に救いを乞うとは。
けれど、舞台に再び呼ばれたなら、せっかくですもの。
観客を楽しませて差し上げましょう。
舞踏会の夜、殿下は蒼白な顔で言いました。
「エレノア、あのときは間違っていた。どうか戻ってほしい」
「殿下。わたくしの手は、もう土に慣れてしまいましたの。
あなたの手より、鉱石を掘る手の方がずっと信頼できますわ」
会場に沈黙が落ちました。
わたくしは会釈して踵を返しました。
もう“悪役”の役目は終わりですもの。
春の風が吹くカーヴェルの丘で、わたくしは翡翠の指輪を磨いていました。
鉱山は再び動き始め、町には人々の笑い声が戻っています。
ライオネルが言いました。
「あの指輪はもう、あなたのものですね」
「いいえ。カーヴェルのものですわ。……でも、少しはわたくしの誇りでもあります」
紅茶の湯気が風に溶け、遠くで鐘の音が響く。
“ざまぁ”のあとの人生は、思いのほか静かで美しい。
わたくしは今日も微笑みます。
「ごきげんよう──翡翠の輝きに、乾杯を」




