真ん丸橋をご存じですか?
石や煉瓦を積み上げて造られたアーチ橋。
日本では、中国から琉球王国経由で伝来し、江戸時代から明治時代にかけて、主に九州で数多く造られました。
長崎市や諫早市の眼鏡橋などが特に有名ですね。
もちろん、九州以外の全国各地に、今も残されていて、現役の橋として人々の役に立ち続けているものも少なくありません。
さて、そんなアーチ橋。
普通は弧状、ないし半円状に石等を積んで造られるのですが、中には下まで石を組んで完全な真ん丸――真円構造になっているものがあります。
世界的に見ても珍しいこの構造は、何故か京都に集中しており、今日でも目にすることができるものも残っています。
きっかけは、たまたまyoutubeで見かけた一本の動画でした。
テイクアウト姉妹様の動画「京都の謎 No.14 伏見区の直違橋(伏水街道第四橋)」
(ttps://www.youtube.com/watch?v=uc8LBR0_ygk)
こんな橋が存在していたなんて、もちろん全く知りませんでした。
びっくりですね。
動画にもあるように、現在見ることができる真円アーチ橋は、まず大谷本廟の円通橋。
京都観光の定番・清水寺への入り口である五条坂からほんの少し南に、大谷本廟さんの入り口があり、入ってすぐのところ、皓月池という池に架けられた橋が、円通橋です。
ご覧の通り、真円の二連アーチです。
水に映らなくても眼鏡橋!
造られたのは安政3年(1856年)。江戸時代末期です。
その時代にこんなものが、と思うと感嘆を禁じえませんね。
それにしても……。
せっかくの絶景なのに、木々の茂みに邪魔されてしまい、真正面から見るのは難しいんですよね。
昔は見ることができたようなのですが、安全上の理由なのでしょうか。
残念だし、正直もったいないなあと思ってしまいます。
大谷さんにお参りを済ませたら、次の目的地へ向かいます。
動画でもメインで取り上げられていた、伏水(伏見)街道第四橋。通称直違橋です。
京阪電鉄清水五条駅から電車に乗り込み、伏見稲荷を通り過ぎて、京阪藤森駅で下車。
駅の近くの喫茶店でカレーをいただきます。
お腹もいっぱいになったところで、歩いて目的地へ。
藤森駅の地下道をくぐり、線路の東側を南へ下っていきます。
この道は「本町通」、「直違橋通」、「伏見(伏水)街道」、「奈良街道」、「大和街道」など、いくつもの名称で呼ばれています。
その名の通り、京都から伏見稲荷を経て奈良へと至る、江戸時代には参勤交代の通り道にもなっていた主要街道でした。
今日でも、北向き一方通行とはなっていますが、交通量はそれなりに多いようです。
さて、歩きながら真円アーチ橋についての蘊蓄を語っていきましょう。
にわか勉強なのはいつもの通り(笑)。
先ほど訪れた円通橋が、おそらくは日本最初のものかと思われます。
完成は先述の通り安政3年(1856年)。
この橋の建設には、愛宕郡白川村(現在の京都市左京区北白川)の石工が関わっていました。
このあたりは白川石と呼ばれる花崗岩、およびそれが風化した白川砂の産地で、そのことから優れた石工を輩出していたようです。
真円アーチなどという変態(失礼)技術を実現するスキルも、そうした環境で培われたのでしょうか。
江戸時代が終わりを告げ、明治時代に入ると、伏見街道に架かっていたいくつかの橋を、近代的なものに架け替える工事が進められました。
それを主導したのは、槇村正直(1834~1896)という人物だったと言われています。
彼は元長州藩士で、桂小五郎こと木戸孝允(1833~1877)の腹心として活躍しました。
維新後は、公家出身の京都府初代知事長谷信篤の下、京都府の事実上の最高権力者として辣腕を揮い、1875年から1881年(明治8~14年)には第二代の京都府知事を勤めます。
京都の近代化や、東京への首都移転に伴う人口減対策などに尽力する一方、苛烈な廃仏毀釈を主導するなど、いささか陳腐な表現ながら、明治近代化の光と闇を体現したような人物だったようです。
廃仏毀釈というと、『るろうに剣心』の安慈和尚の悲しい過去を思い浮かべる方も多いかと思います。
元々、日本の民間信仰においては、神仏習合といって神道も仏教もないまぜになっていたのですが、明治政府は国家神道を仏教よりも上に置く方針を取り、これに、徳川幕府によって保護されいわば既得権益化していた仏教界に対する反発、さらには私的な欲望も相まって、様々な混乱が見られたのがこの時代です。
件の架橋事業にあたっても、廃仏毀釈によって破却されたお寺の石垣などが再利用されたとも言われています。
さて、話を戻しまして、伏見街道に架けられた橋のうち、第二橋も真円アーチだったという記録が残っていますが、現存はしていません。
今向かっているのが第四橋で、七瀬川という小さな川に架かっています。
はい、到着です。
伏見街道第四橋、通称「直違橋」。
名前の由来は、川に対して垂直ではなく斜めに架けられているから、なのだそうです。
ご覧の通り、何の変哲もない小さな橋。橋だということにすら気付かず通り過ぎてしまいそうなくらいです。
しかし、細い脇道に入って振り返ってみると……
はい。見事な真ん丸です。
え、これ土管を通してるんじゃないの、とお思いになるかもしれませんが、アップにしてみると……、
ちゃんと石組みで作られていることがわかります。
これが作られたのが明治6年(1873年)というのですから、本当にすごいですね。
えー、ついでながらどうでもいい豆知識。
「土管」とは、本来粘土を焼いて作ったもので、一般的なコンクリート製のものは、正しくは「ヒューム管」と呼ぶそうです。
あえて土管を使用するのは、強い酸性ないしアルカリ性の液体、あるいは排泄物を流したりするような、高い耐腐食性が求められる場所に限られるのだとか。
ドラえもんに登場する空き地に置かれているのも、少なくともアニメ版のは、色から見てヒューム管でしょう。
閑話休題。
この橋を作ったのは、円通橋を作ったのと同じ白川村の石工たち(だけではないですが)。
17年も空いているので、もちろん同一人物ではありませんが、技術は受け継がれてきたのでしょう。
それにしても、普通の弧状ないし半円状アーチですら十分すぎるほど面倒くさいものなのに、ましてや真円となると、かかる手間暇も難易度も、飛躍的に跳ね上がります。
弧状・半円状アーチの場合は、頑丈な土台に「迫受石」と呼ばれる石を固定し、アーチを構成する「輪石」(または「迫石」)にかかる荷重を受け止めます。
これだって十分緻密な計算が求められるのですが、ましてや真円構造となると、輪石自体がお互いの荷重を受け止めることになるわけで、ほんのわずかのズレも許されません。
これマジで19世紀に作ったの? 多分まだコンピューターとか無かったと思うんですけど?
テイクアウト姉妹様の動画概要欄でも紹介されている鴨東様のnote記事「京都における明治石造アーチの謎(中間とりまとめ)」によると、直違橋のアーチの直径は3m弱ほどとのこと。
(ttps://note.com/kamohigashi_6966/n/na0b0fe2f4128)
ちなみに、橋自体のサイズですが、私の歩幅計測によるおおよその数字ながら、長さ約5m、道幅約6mといったところです(ただし、道幅は後にコンクリート製のもので拡張されています)。
小さいな、と思われるでしょうが、これより大きくなるとその分難易度も跳ね上がりますからね。
しかし、実はこれよりもさらに大きな真円アーチ橋も作られていたのです。
それが、直違橋と同じ明治6年に、同じ石工たちの手で建てられた堀川第一橋、通称中立売橋。京都御苑の少し西にあるのですが、これが何と、直径6m弱(先述の鴨東様note記事参照)!
動画で紹介されていた参考文献『明治の橋:近代橋梁の黎明』によると、直違橋の竣工、つまり完成が明治6年3月、同年6月7日に中立売橋の渡初式が行われているということで、直違橋の方が少し早く完成しています。
しかし、その差はわずか3ヶ月弱。
直違橋は中立売橋の練習台だったのか、単純にそうとは言えないのか、判断が難しいところです。
その中立売橋ってやつも見てみたい、と思われた方、残念です。
中立売橋は後の河川改修により、下半分が埋められてしまって、上の半円部分しか見ることができなくなっていますorz。
このきわめて高度な技術により作られた真円アーチ橋。
上からの荷重には強くても地震などにより想定外の方向から力がかかると脆い通常のアーチ橋に比べ、あらゆる方向からの力に対して強さを発揮する、とも言われています。
しかし、要求される技術水準、費やされる労力、時間、費用から考えると、正直割に合わない、ということだったのでしょう。
これ以降、真円アーチ橋が作られることはなくなり、やがて鉄筋コンクリートという新技術も出現して(日本最古の鉄筋コンクリート橋は明治36年(1903年)竣工とされています)、人々から完全に忘れ去られていきます。
そもそも、石積みアーチ橋自体が前時代の遺物となってしまいましたからね。
先ごろ解散した某農業アイドルが無人島で作っていたような気もしますが。
実際、あれのおかげで、「アーチ橋の作り方? 知ってるよ」という方も少なくないのではないでしょうか。
「支保工」とか「要石」とかいう言葉も、あれで覚えました。
と、そんなわけで、真ん丸アーチ橋を堪能し、近くの藤森神社に詣でて帰宅しました。
京都近辺にお住いの方以外には少々訪問のハードルは高いかもしれませんが、興味を持たれた方がいらっしゃいましたら、伏見稲荷神社参拝のついでにでも、一度見に行ってみてくださいノシ
†††††
さて、日を改めまして、もう一度京都に行ってきました。
今回はまず、車で京都府亀岡市に向かいます。
最初のお目当ては、鴨東様のnote記事で紹介されていた王子橋。建造は明治17年です。
場所は国道9号線で亀岡市と京都市の境の老ノ坂トンネルのちょっと手前。
正直、幾度となく通ったことのある道なのですが、まったく存在を知りませんでした。
色の違う石を組み合わせて出来た模様が美しい橋です。
上はこんな感じ。もちろん現在は使われていません。
しかし、ここ駐車する場所もなかなか無いわ交通量は多いわで、苦労しました。
見に行ってくださいとお薦めはしにくいかな……。
せっかくの建築遺産、もうちょっとどうにかならないものでしょうか。
9号線を少し戻って、JR馬堀駅へ。
嵯峨野トロッコ列車の終点トロッコ亀岡駅にほど近いJR線駅です。
ここから、JR山陰本線(嵯峨野線)で二条駅へ。
そこから歩いて、烏丸御池近くの、テイクアウト姉妹様の動画(直違橋のとはまた別のです)で紹介されていたサンドイッチ屋さんに向かいます。
お昼ご飯を調達したら、京都御所の西側を北へ上り、中立売通りを左折して、堀川第一橋、通称中立売橋を目指します。
着きました。
ご覧の通り、せっかくの真円アーチが半分埋められてしまっていて残念至極なのですが、堀川沿いの親水公園はなかなかいい感じです。
ちょうど夏休みなので、お子さんたちが水遊びをしていてほっこりします。
ちなみに上はこんな感じ。
では、小川のせせらぎと真円(半分)橋を鑑賞しつつ、木陰でサンドイッチをいただきます。
左のはカツカレーライスサンド。
置く向きを間違えてしまってわかりづらいかもですが、カツの奥に見える白いものはご飯。ご飯をパンに挟むという発想が掟破りです(笑)。
そしてフルーツてんこ盛りサンド。
ごちそうさまでした。
でもってお次。
ある意味今回のメイン目的地ともいうべき場所が、京都市立中央図書館。
何の用かというと、直違橋の動画で紹介されていた参考文献『明治の橋:近代橋梁の黎明』の閲覧です。
と、その前に、せっかくなので、もう少し北へ上って、かの安倍晴明を祀る晴明神社にお参りしていきます。
で、西へ向かって千本通りに出て、南に下って丸太町通りをちょっと西へ行ったら、お目当ての京都市立中央図書館です。
無事、参考文献の必要箇所のコピーが取れました。
さて、想定していたよりもだいぶ早くスケジュールが完了してしまいました。
本来は円町駅からJRに乗って帰る予定だったのですが、せっかくだからもう1ヶ所くらいどこか見ていくか、と思い、地図で調べたら、妙心寺がすぐ近くじゃないですか。
臨済宗妙心寺派の大本山である妙心寺は、私が好きな京都の寺社の一つです。
何度か行ったことあるんだけど、たいてい車だったからなぁ。
そうか、こんな所だったか。
妙心寺の最大の見所は、なんといっても、法堂の天井を飾る雲龍図。
臨済宗のお寺ではよく見られるもので、京都や鎌倉にいくつもあるのですが、実は江戸時代以前に描かれたものが現存しているのはあまり多くありません。
ここ妙心寺の雲龍図は、狩野探幽(1602~1674)の筆によるもの。
歴史的にも非常に価値がありますし、迫力も文句なしです。
以前は、法堂の見学にプラスして、明智風呂だったり大庫裏だったりの見学も付いていたのですが、現在は法堂のみとなっているようです。残念。
ちなみに明智風呂とは、本能寺の変で織田信長(1534~1582)を討った明智光秀(1516?or1528?~1582)の叔父が、彼の菩提を弔うために建てたと言われています。
風呂といっても蒸し風呂で、罪を洗い流すという意味がこめられているそうです。
妙心寺の塔頭・退蔵院も、見所が満載です。
有名な瓢鮎図――「鮎」はあゆではなくなまずのことで、どうすればひょうたんでなまずを捕らえることができるか、という禅問答を描いた絵が残されているのもここです(現物は京都国立博物館蔵。退蔵院には模写図が掛けられています)。
そして何と言っても、お薦めは元信の庭。
普通、お寺の庭の作庭師といえばお坊さんのことが多く、あるいは武士だったりもするのですが、ここは絵師の狩野元信(1476?~1559)が手掛けたとされるもので、大胆かつ緻密に組まれた石組みが魅力的な枯山水庭園です。
妙心寺を満喫したら、花園駅から電車に乗り、馬堀駅へ。
駅近くの喫茶店でケーキセットをいただき、帰宅しました。
以上、ディープすぎる京都町歩きでした。
現地取材と参考文献を元に執筆した小説『月は真ん丸、橋も真ん丸』もよろしくお願いしますm(_ _)m