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気まぐれな神が寵愛する箱庭

どっちの乙女でしょう?

作者: すずきあい

連載の息抜き的な短編です。


不穏なことはございません。ただほのぼのと、ちょっとだけ笑ってもらえたら嬉しいです。


6/9 誤字と、分かりにくい表現があったので一部修正しました。基本的に内容は変わっていません。


永く人々を苦しめた魔王が、遂に倒された。


自ら精鋭の仲間を率いて、ただ国の礎になるも辞さないとの決意で旅立った第一王子が、死闘の末に魔王にとどめを刺した。


ようやくもたらされた平和に国民は熱狂し、第一王子は満場一致で王太子に選ばれたのだった。


そして共に戦い、励まし合って来た仲間達も活躍に相応しい褒美が与えられた。


そのうちの一人、騎士ライサンダーは故郷の村を含む領地と伯爵位を賜ることになった。元は貧しい農場出身の五男だった彼からすると、夢に見るのも烏滸がましいような大出世に戸惑うばかりだった。その上これから貴族として社交をこなし、多くの領民の為に領地を運営して行かなければならないのだ。平民だった彼には身に余り過ぎて、いっそ領民を全員隣の領地に引き取ってもらって、領内は全て牛だけにしてしまおうかと本気で思った程だった。


そんなライサンダーの出自も承知の上で、王家は彼に叙爵と同時に社交にも領地経営にも長けた貴族の妻を娶らせることも約束した。その女性は筆頭公爵ブルーサファイア家の次女で、家名の元になった澄んだ青い瞳から至宝の青薔薇姫と呼ばれる美貌の持ち主だった。そして多くの学者を育てて来た教育者すらも唸らせる頭脳を持った才媛でもあった。

それを聞いて、自ら囮となって凶暴な魔獣に周囲を囲まれた時も豪快に笑って殲滅させたとされる剛胆な彼が、目を回してその場で昏倒したと噂になった。

とは言え、まさか国の英雄の側で共に戦った勇ましい騎士がそんなことになる筈がないと、人々は大仰な笑い話として語り継いだのだった。



------------------------------------------------------------------------------------



「ど、どうすればいいんだ…」


ライサンダーは困窮していた。


彼はその決定を聞いた直後から、毎日のように頭を抱えていた。枯草色の癖のある髪を日々グシャグシャと掻き回していたので、すっかり鳥の巣のようになってしまった。そうすると普段隠している額の傷が見えてしまうのでそれを誤摩化す為にバンダナを巻いていた。が、気を引き締める為なのか必要以上にキツく結んでしまい、平生でも強面なライサンダーの顔は出会った子供の九割が泣くという状態に仕上がっていた。


因みにこの傷は、魔王討伐で付いたものではない。

幼い頃、騎士ごっこをして馬に見立てた牛に跨がって転がり落ちて、彼の髪が美味しそうに見えたのか頭を牛に齧られたことが原因だ。額どころか頭にも傷がありその部分はハゲているのだが、ふんわりとした髪質のせいでそれは目立たずに済んでいた。



ライサンダーは、子供の頃から悲しい程にモテなかった。


ただでさえ恐ろしげな顔立ちなのに、体は鍛えれば鍛える程に結果が出たおかげで見上げるような大男になった。そして生来の口下手な性格とも相まって、無骨で何を考えているか分からない最強…というよりも最凶な騎士になってしまったのだ。

今は魔王討伐に尽力した騎士として人々の尊敬は集めているが、どちらかと言うと畏怖されて遠巻きにされている方だった。


だからライサンダーは、生まれてこの方女性と付き合ったことがない。それどころか身内以外の女性とは、記憶にあるだけで五分以上話した覚えがない程だ。


それが気が付けば王命で至宝と呼ばれる最高峰の令嬢を娶るように告げられ、断ろうにもその選択肢すら与えられずにあっという間に外堀を埋められた。困った彼は、書類上で婚姻だけして自分は森の木こり小屋にでも住んで、完全別居の白い婚姻にすることを思い付いた。が、それを思い付いた数分後には、きちんと後継者を作ることと念を押され、そちらも王命として契約書まで交わされてしまった。


その時の彼の絶望は如何ばかりだったかは、言葉に出来ない。いや、正確には、こんな恐ろしげな平民出身の男との酷い縁談に絶望しているであろう令嬢が気の毒で可哀想で、うっかりそれを想像して泣きそうになっていた。自分だって、こんな条件の悪い自分と初対面で結婚しろと言われたら嫌だと思うのだ。生まれた時から高貴な姫君からすれば、死刑宣告と同様だろうと考えると同情心が止まらなかった。

それを必死に堪えていたので、ライサンダーの顔はいつも以上に恐ろしい形相になっていたのだが、当人はそこまで気が回っていなかった。



そうやって拒否出来なくなったライサンダーは、せめて妻となる令嬢を宝物のように、姫君のように丁重に大切に扱おうと覚悟を決めた。

だが如何せん、そもそも全くモテない彼が女性を扱いなど分かる筈もないのだ。それでも分からないなりに人に知識を求めようと、目前に迫った結婚に向けてライサンダーは奔走した。


まずは近しい身内に聞こうと故郷に戻り、跡を継いでいた一番上の兄に相談した。三人の子供がいる兄は、少しだけ考えた後「牛の種付けでも見て行け」と言ったので、ライサンダーはすぐに帰った。

今度は商家に婿入りした二番目の兄に聞きに行けば、四人の子供がいる兄はいい笑顔で「馬の種付けを見て行け」と言ったので、ライサンダーは無言で踵を返した。

三番目の兄も、四番目の兄も似たようなものだったので、ライサンダーは諦めて王都に戻り、恥を忍んで専門家の話を聞こうと決意したのだった。


結果としてそうやって忙しく過ごしていた為に、未来の妻とはほぼ交流をしないままであったことに気付いたのは、結婚式が翌日に迫っていた夜のことであった。



------------------------------------------------------------------------------------



至宝の青薔薇姫ことアナスタシアは、結婚式を終えてから侍女達に磨かれて、絶対に冬場に着ることのないかなり薄手のナイトドレスを纏って夫婦の寝室でひとり過ごしていた。


この屋敷は実家の公爵家が所有していたタウンハウスの一つで、結婚祝いに贈られたものだ。そして屋敷の使用人達も公爵家から派遣された者達ばかりだった。アナスタシアが嫁ぐ筈なのに、まるで婿を迎えたような待遇だ、と少しだけ苦笑してしまったくらいだ。


部屋の中は甘いながらも爽やかな香りのする白い薔薇が生けられていて、少し落とされた明かりの中でもその美しさははっきりと見えた。調度品は派手さはなくともよく磨かれて重厚感のあるもので揃えられて、寝具はどれも厳選されて手触りは最高のものだとすぐに分かる。

寝室の中は、どれ一つとってもアナスタシアの好みに合わせたもので整えられている。きっと幼い頃から仕えてくれている使用人達が手配してくれたのだろう。


(わたくしには居心地の良い部屋にしてもらっているけれど、あの方はどうなのかしら)


皺一つないシーツをそっと撫でて、アナスタシアは物思いに耽る。



この縁談は、国の英雄を引き留める為に調えられた政略結婚だった。

アナスタシアは公爵令嬢として貴族の在り方は承知しているので、そのことに関しては何ら不服はない。高位貴族として国や家の役に立つことが何よりの望みなのだから、むしろこの重要な政略の相手に選ばれたことは誇らしいとすら思っていた。


けれど初めて顔を合わせた騎士ライサンダーは、一瞬たりとも表情を緩めることはなかった。それどころか最初に挨拶と名乗りをしただけで、それ以降は相槌だけでまともに口を利かなかったし、アナスタシアの方を一瞥すらしなかった。それは先程挙げた結婚式でも同じだったのだ。

アナスタシアは、貴族と平民は婚姻の感覚が根本的に違うのは理解していた。だから平民出身のライサンダーからすれば、この政略の意味合いの強い婚姻はなかなか許容出来るものではないのかもしれない。


(お気の毒に…こんなことがなければ好きな方と添い遂げられたでしょうに)


忙しい合間を縫ってライサンダーが屋敷に花や菓子などの贈り物を届けに来たことは何度かあったが、執事に渡してアナスタシアと会う前にすぐに帰ってしまっていた。アナスタシアが慌てて出迎えに向かったが、嗅ぎ慣れない女物の香水の残り香だけを置いて去ってしまった後だったのだ。

きっとライサンダーには想う女性がいたのだろう。もしかしたら魔王討伐に行く前からの知り合いだったのかもしれない。そう思うと、アナスタシアの胸は申し訳なさで一杯になった。


王太子の話や公爵家の調べでは、ライサンダーに将来を約束したような特定の相手はいないと聞いていた。けれど恋人同士のような深い関係ではなかったとしても、密かに想っていた相手くらいいた筈だ。だからこそ、そんなささやかな幸せすら望めない立場になってしまったライサンダーに、アナスタシアは距離を置かれても仕方がないと半ば諦めに似た感情を抱いていたのだった。



魔王を倒したのは今の王太子となっているが、本当は魔王を屠ったのはライサンダーだった。


勿論王太子も奮戦したのだが、彼の剣は一歩魔王に及ばなかった。そこで死を覚悟したそうなのだが、その時に駆け付けたのがライサンダーだった。

彼は仲間の為に、死も厭わず自らが囮となって他の魔獣を引き付けていたのだ。辛うじてその魔獣を殲滅し、そこで重傷を負いながらも王太子の危機に駆け付け、火事場の馬鹿力を発揮させたのか紙一重で魔王の首を落としたのだ。


けれど王都に凱旋した彼らは、どう伝わったのか王太子が魔王を倒した英雄となっていたことを知ったのだった。


国民には、次期国王が魔王を倒して平和を取り戻したという感動の逸話が既に広まっていた。それを知った王太子は真実を話すべきだと思うものの、為政者としてはライサンダーよりも自分が倒したと言った方がこれから復興していく国には都合が良いことも理解していた。そしてライサンダーもそのことに諸手を上げて賛成したため、王太子は英雄の役目を引き受けることにしたのだった。


このことは、ごく一部の者にしか伝えられていない。しかし今は賛同しているライサンダーだが、やがて手柄を横取りされたことを腹立たしく思い、いつか国を見捨てる可能性もあるのではないかと周囲は危惧した。そこで分不相応なほどの待遇を用意して、この国に繋ぎ止める環境を整えたのだった。その首輪の一つとして選ばれたのがアナスタシアだ。


国を救った真の英雄に対する褒美と見せかけて、彼の枷になるような妻を押し付けられた。きっと彼が態度を軟化させないままだったのは、さすがにそれに気付いているからだろうとアナスタシアはそっと溜息を吐いた。


(今日はもう来ないかもしれないわ…いえ、もしかしたらこの先も…)


日付の変わる深夜近くになっても、ライサンダーは夫婦の寝室に現れなかった。王命として後継者を作ることも定められてはいたが、その誓約書にサインをするときのライサンダーは、これまでで最も拒否感を露にしていたのだ。本当は断りたい、という態度がありありと見てとれたが、それでも仕方なく契約書にサインをしていた。そんな状態だったので、まだ気持ちの整理がついていないのだろう。

アナスタシアはそれでライサンダーが責められでもしたらどうしようかと思うものの、心のどこかで無理強いはしたくないとも思っていた。



そろそろ諦めて寝ようと思っていた時、不意にライサンダーの部屋に続く扉が開かれた。


「お…遅くなってすまな、い」


バスローブ姿のライサンダーがノソリと入って来た。その顔は結婚式のとき以上に強張り、アナスタシアの方に顔も向けずに足元に視線を落としたまま近寄って来た。いつもバンダナで隠している額の傷もそのまま晒していて、彼の枯草色の柔らかな髪がフワフワと揺れていた。


「いえ…その、な、何か、飲まれますか?」


アナスタシアも覚悟はしていたとは言っても生粋の箱入り令嬢だ。こんな深夜に密室で異性と二人きりになるのは初めてのことなのだ。そして閨教育は受けているがあくまでも座学で教わっただけなので、どうしても緊張が先に立ってしまう。それにあまり顔合わせをしていなかったので、やはり間近で見るライサンダーの巨体に少しばかりたじろいでしまった。


「こ、これを」


ライサンダーも彼女の戸惑いを察したのか、少し手前で足を止めておもむろに跪いた。そして手にしていた封書をアナスタシアに向かって差し出す。目一杯伸ばされた腕は長く、少しでも距離を取ろうとしているかのようだ。


「これは…?」

「目を、通してくださいますか」

「え、ええ…」


アナスタシアはそれを受け取って、言われるままに中身を取り出して書面を開いた。まさか結婚初日で離縁状はないと思いたいが、それでもアナスタシアの指先は緊張で冷たくなっていた。

まだインクが乾き切っていないうちに折り畳まれたのか、裏側にも文字が転写されていたが読めない程ではない。アナスタシアはその書面に目を通すと、大きな青い目が零れ落ちそうな程見開かれた。


その書面は、今日の日付が入った医師の診断書だった。しかもただの診断書ではなく、診察したのは公爵家で雇っている医師で、診察内容は貴族間の婚姻で前もって家同士で取り交わされる感染症の有無の診断書だった。もう既にその診断は終えている筈だったし、結婚式当日に再び診断書を出してもらうなどアナスタシアは聞いたことがなかった。そしてその診断書は、前回同様清々しい程にまっさらだった。


「さ、先程、診察を受けて、参りました。その、じ、じ、じじ…純潔、は、伴侶に捧げるもの、と思っておりますが、言葉だけでは不安に、させると思いまして」


書面から顔を上げて、自分の視線よりも下になったライサンダーに目を向けると、何か手の中に小さな紙片が見えた。そしてその紙片を握っている方とは反対の手に、小さなピンク色の瓶が握り締められていた。アナスタシアはその見覚えのある瓶を食い入るように見つめてしまう。

ライサンダーは下を向いていたので、アナスタシアから紙片が丸見えになっていることに気付きもしていなかった。ただ次の行動に移すべく、紙片に小さく書き留められた文字を読み上げ始める。


「俺…も、もとい、『私には必要にない、もの、ですが…貴女に必要なものでしょうから、お使いください。で、ですが、生涯、大切にすると、誓いますので』…」


必死になっているのは伝わるものの、読み上げている部分はそれはもう見事な棒読みだった。けれどライサンダーはそれどころではないので全く自覚はない。


その瓶からやっと目を離したアナスタシアは、ようやくライサンダー自身を見つめた。彼は俯いたままで表情はよく見えなかったが、その耳が真っ赤になっているのに気付いた。けれどライサンダーはそのまま下を向いて紙片に書かれた文字を棒読みで続けた。


『ど、どうか、私に、貴女に触れる許可をいただけますでしょうか…』


アナスタシアは、部屋に用意された香りの慎ましい花や手触りの良い寝具、そして彼の手の中にある小瓶のことに心当たりがあって、思わず目が潤みそうになっていた。


ライサンダーの手の中で、小さな瓶が小刻みに震えていた。アナスタシアはその手ごとそっと包み込むようにして彼に近付く。そこからフワリと漂って来た石鹸の香りも、アナスタシアが好ましいと思う香りのものだ。そして触れた瞬間、まだ紙片に書かれた内容を続けようとしていたライサンダーがビクリと肩を跳ねさせて固まってしまった。


(ああ…なんてお可愛らしい…)


決して可愛いとは言えない外見のライサンダーではあるが、アナスタシアの目にはまるでプルプルと震える水に濡れた子犬のようにすら思えてしまった。心の片隅でどうかしていると冷静な自分が呟いていたが、すぐに胸の奥から溢れて来る温かい感情に呑まれて沈黙した。


(…確か、続きは…)


アナスタシアはゆっくりと自身の頭の中にある紙を捲った。


抜群の記憶力を誇る彼女は、大抵のものは一度読めば頭に入ってしまう。そしてまさに目当ての一文を見付けて、ごく自然に微笑んでいた。


『これはわたくしにも必要ありませんわ』


彼女の言葉に、ライサンダーは顔を上げて目を丸くしていた。まさか()()()()()返してくれるとは思っていなかったという顔だ。アナスタシアは少しだけ悪戯が成功したかのような楽しい気分になった。


『こうして貴方に触れれば、同じことですもの』

「え、あの、その」


顔を上げてしまった為に手元の文字を見失ったのか、ライサンダーはたちまちオロオロとして目の前に紙片を掲げてしまった。既に隠すことにすら気が回っていない。


(この後は「幾久しく慈しんでくださいませ」だったかしら。でもこの言い回しは実際言葉にすると古くさいわね)


この先の言葉はすぐに思い出せたが、ここまで他人の言葉を借りるのは相応しくないような気がして、アナスタシアは思案して少し小首を傾げる。


「どうぞ末永くよろしくお願いしますね、旦那様」

「は…はいっ!!」


自分の言葉で気持ちを伝えたアナスタシアに、ライサンダーは茹でたカニよりも真っ赤な顔で、声が裏返りながらも力一杯返事をしたのだった。



------------------------------------------------------------------------------------



少し時は戻って、ライサンダーと婚姻をするひと月前。


アナスタシアは古い友人とお茶を楽しんでいた。


「シア、これからは新作をどこに届けたらいいかな?さすがに新婚家庭に送りつけるのはアレだろ?」

「実家のメイド長宛てに送ってくださいな。一番先に読むのは彼女に譲ることになりますが、全く読めなくなるのは嫌ですもの」


アナスタシアの向かいに座っているのは、黒髪を無造作に束ねただけのメガネを掛けた女性だ。彼女はアナスタシアが通っていた学園の平民特待生で、変わり者であったがとても優秀だった。その頃から気が合って、身分を越えた親友として今も関係が続いている。

彼女にはアナスタシアを「シア」という愛称で呼ぶことも、口調も楽にして畏まらないでいいとも昔から許している。どうしても育ちのせいでアナスタシアの方が丁寧な口調になってしまうが、気を許していない訳ではなくもう習慣なのだと彼女も理解してくれている。


彼女は今、作家として王都の若い女性を中心に絶大な人気を誇っている著名人だ。彼女の作品は新作が出るとあっという間に重版が決定する程の人気ぶりなのだ。


その内容は、これまでになかった作風で、発禁にならない程度ではあるが少々刺激的な場面を描写した恋愛ものが中心だった。発売した当初は年配の者達から激しい非難が巻き起こったが、却ってそれが若者達の興味を惹いた。基本的には甘い恋愛にスパイス的に思わせぶりなラブシーンの描写が入るくらいなので、読者は若い女性が多い。けれどやはりあまり大っぴらに愛読者というには多少抵抗のある者もいるのか、それを収納する為に隠し棚のある本棚が密かに売れているそうだ。

アナスタシアもそんな愛読者の一人であった。


「結婚したからって、そんなに頻繁に実家に帰っていいものなのかい?」

「社交シーズンにはこちらに戻りますから、その時に一気読みするつもりですわ」

「ならいいけどさ。いっそ旦那に打ち明けちまえばいいじゃないか。そうしたら領地に送るよ?」

「そ、それは…はしたないと思われないように少し様子を見てから…」


恥ずかしそうに頬を染めてモジモジしているアナスタシアに、彼女は王命を出された政略と聞いていたが、満更でもない様子に安堵していた。


「まあ上手くやんなよ。でもその前にさ、シアに貴族の結婚についてちょっと教えてもらいたくて」

「それは貴女も知っているのではなくて?」

「一般的なことはね。でもさ、もっと具体的に。ほら、初夜の準備とかさ」

「それもごく一般的なことだと思いますけど」

「いやあ、もうちょっと踏み込んだヤツをさ。ほら、貴族の婚姻では初夜に特別な薬を使う習慣があるとか」

「ああ…でも貴女が期待するようなものではありませんわよ?」

「やっぱり知ってるんだ!聞かせて!」


いつの間にか彼女は手にペンとメモ帳を持って、前のめりになっていた。アナスタシアは少しだけどう説明をしたものか逡巡してから話し出した。


「別に違法なものではありませんのよ。そうですわね…ちょっとした体温の上昇と、リラックス効果のあるものですわ」

「媚薬系ってこと?」

「多少は材料には含まれていますけれど、あまり効能はありませんわ。ええと…相手を何となく好意的に思えるような薬…かしら」

「惚れ薬!?まさか実在してたとは」

「そういうものでもありませんわ。そうですわね…吊り橋効果ってご存知でしょう?」

「ああ、吊り橋でのスリルと恋愛的な動悸を混同するヤツ」

「それに近いものだとわたくしは思いますの」


貴族の婚姻は大半が政略に因るものだ。そして大抵の者は、縁談が調えられて婚約後に互いの関係を深め、夫婦となる頃には互いを良い伴侶として認識していることが多い。しかし中には様々な事情で婚約期間を設けずにすぐに婚姻に至る者もいる。その場合は、当人達があまり顔を合わせないままに夫婦になることが殆どだ。

そのことにどんなに思うことがあっても、まともな貴族ならばその縁談を受け入れる。だが、やはりこの先も共に過ごすのだから、互いに良い関係は築いておいた方が良い。


その為に使用されるのがこの薬であった。ピンク色の可愛らしい瓶に入っているこの薬は、特に人体に害はなく、ごく弱い媚薬成分とほんの少しだけ体温を上げて動機を早く感じさせる程度だ。その感覚を相手への好意と錯覚させて、結婚生活の滑り出しをスムーズにするための手伝いをしてもらうのだ。


「それを用意することで、相手との良い関係を築きたいという誠意を示すとも言われていますの」

「へえ。あたしからすれば、薬の力に頼らなければ惚れられないっていう宣言みたいにも取れるけど」

「政略である以上、どんな相手であろうとも絶対に拒否は出来ませんのよ。その重圧を自力で乗り越えるにはかなりの負荷が掛かります。だったらどんな手段を使ったとしても、少しでも好ましく思えた方がよろしいかと」


頭では分かっていても、心を押し殺した婚姻は決して良い結果になり得ない。表沙汰にはならないが、そうして最初で躓いた夫婦は非常に予後が悪い。その後関係を再構築して良い方に転がることは絶望的だ、とすら言われている。むしろその薬が世に出回るようになってから、政略によって心を壊す者が随分減ったという結果が出ているくらいだ。


「じゃあさ、他には何か準備がある?貴族的に用意するもの、して欲しいものとか教えてくれるかな。ほら、ナイトドレスはどっちの趣味とかさ」

「ちょ、ちょっと!何でそんなに前のめりですの?」

「いやあ、ちょっとアドバイスを求められてさ。こちとら一応売れっ子の作家って態だから、少しばかり良いとこ見せたいって言うか」

「貴族の政略結婚についてですの?」

「ズバリ、貴族の夜の生活について」


誰もいないとは言え、あまりにも明け透けに言われてさすがにアナスタシアも思わず半目で彼女を見つめてしまった。


「実はさ、いつもネタを提供してくれる馴染みの娼館の姐さん達に頼まれたんだ。閨事に関しちゃその道のベテランだけど、貴族様の作法は分からないからって」

「頼まれごとですの?何かありましたの?」

「何でも最近、急に結婚の決まった坊やが閨教育をまともに受けて来なかったからって、学びに通ってるらしいんだ」

「ああ…」


アナスタシアは箱入り娘でも高位貴族の夫人達と交流があるので、それなりに耳年増だ。結婚を目前にした令息が、独身最後の遊びだと娼館通いをするのはよくあると耳にしている。しかもその言い訳が、妻を悦ばせる為に閨教育を学び直しているなどは完全な常套句だ。


「いやいや、そいつは違うらしくて、ただ学ぶだけで指一本触れないそうだよ。手を繋ぐのもエスコートの練習以外はしないって」

「そんな方がいらっしゃいますの?物語の中だけではなくて?」

「らしいよ。何でも初っ端から『純潔は伴侶に捧げたいのです!』とか聞いてもいないのに宣言したとか。ま、普通ならドン引きされて終わりだけどさ、どうも姐さん達にはキュンと来たみたいで。妙なスイッチ入ったらしくて、全力で手練手管を叩き込んでるってさ」


(それは却って経験豊富な遊び人と、お相手の女性に誤解されるのではないかしら?)


アナスタシアはそんなことを思ったが、それはその令息がどうにかすることなので黙っておくことにした。



その後は彼女に求められて、色々と知っている限りの準備について教えた。とは言ってもアナスタシアも初めてのことなのでどれが正解は分からない。ただ色々と聞きかじった夫人達の経験談やアドバイスなどを参考にしたことも付け加える。その上で、自分ならどうしたいかも問われて、何とはなしに好みの花や石鹸の香り、気に入っている寝具などもつい語ってしまった。


「ああ、これは大伯母様にこっそり教えてもらったのですけど」

「何、何?是非聞かせて!」

「大伯母様は異国のお生まれだから、こちらの国に来て結婚式を挙げるまで、大伯父様とは一度も顔を合わせないままでしたの。そしてその日の夜、用意された自分の分の薬を大伯父様がいきなり窓から投げ捨てたそうですの」

「ほほう」

「それで、『私にはもうこれは必要にない。貴女を生涯大切にすると誓う』と宣言されたとか」

「おおっ!それってもう自分は惚れ薬に頼る必要はないと!」

「一目惚れだったと聞き及んでおりますわ」

「良いねぇ〜。シアもそういうの憧れるクチ?」

「……ええ、まあ」


アナスタシアの夫になるライサンダーは平民出身なので、もしかしたらその薬を用意することも知らない可能性は高い。アナスタシア側で用意しておいてもいいのだが、先程何の気なしに彼女が述べた「薬の力に頼らなければ惚れられないという宣言」に取られかねないことに気付いて迷いが生じた。その生まれの文化の差を埋めて相互理解を深めるには、もう機会も時間もない。


「あ、でもこの話は出来れば内密にしていただかないと」

「分かってるって。シアの大伯父様って先王陛下じゃないか。そのまんま書くなんてしないって」

「書くのは止めないのね…」

「これはあくまでも個人的な依頼だからね。出版社に見つからなければ本にもならないし」


カラカラと彼女は笑ったが、以前訪ねた彼女のアパートメントの床一杯に散らばった原稿用紙を拾い集めていた担当編集者の姿を思い出して、見つかる可能性が高そうだと諦めて軽く溜息を吐いた。



それから結婚式まで一週間前に迫った日に、彼女から分厚い封筒が送られて来た。

アナスタシアが中を見ると、それは出版前の原稿だった。その内容は、政略結婚をすることになった男女が、結婚式までの間にすれ違いや誤解から心の距離が開きかけるものの、初夜でその誤解が解けて両思いだったことが判明するという物語となっていた。そしてその初夜で交わされる初々しい夫婦の会話は、多少変更されていたものの、アナスタシアがこっそり教えた大伯父と大伯母の話が下敷きになっているのは明らかだった。


アナスタシアは、その原稿を夢中で読み耽り、前半のお互いのことを大事に思いながらも伝わらないすれ違いにやきもきし、初夜の会話でその誤解が解けて行くことに感情移入して安堵の溜息を吐いた。そしてお約束のその後の展開はいつもよりも濃厚で、その描写に気が付けば赤面しつつ食い入るように一気に読了していた。


(ああ…良い話だったわ…やっぱり天才ね)


原稿を胸に抱きかかえるようにして、しばらくアナスタシアは甘い読後感に浸っていた。


(ここまでではなくても、わたくし達も…)


物語に出て来た令息は、妻に迎える令嬢よりも一つ年下で童顔なことを悩んでいた。それに令息側の身分が低く、貴賎結婚だった。それでもその令息が精一杯相手を大切にしようと奔走している姿はアナスタシアの胸を打ち、そしてそこまで思われている架空の令嬢を少しだけ羨ましく思ったのだった。



------------------------------------------------------------------------------------



疲れ切って深い眠りについているアナスタシアの青みがかった髪に軽く触れ、ライサンダーはその滑らかな手触りにだらしなく頬が緩むのを自覚していた。


通常よりも遅い時間となった初夜は、ライサンダーがベテランの専門家達に教わった通りに大切に丁寧に進めた為に、恙無く全てが済んだのは空が白み始める頃だった。つい加減が分からずアナスタシアには無理をさせてしまったと反省をしているが、妻となった彼女の美しさと愛らしさに酒も呑んでいないのに酩酊した心地になって我を忘れる瞬間が幾度もあった。そのせいで体力差を考える余裕もなく随分時間を掛けてしまったのだが、嫌がられてはいなかったと思っている。いや、信じたい。


気を失うように眠り込んでしまった彼女の身を、幾度も娼館で練習させられた桃を傷付けずに汚れのみを拭き取る作業を思い出しながら清めた。そしてそれをやり遂げた後、このままでは彼女が寒そうだということに気付いた。


脱がせたナイトドレスを拾い上げてみたが、そういったものとは無縁だったライサンダーには、一体どこが袖なのかも分からなかった。それに生地自体が薄過ぎて、防寒の目的を果たせるとは思えなかった。

どうしようかと寝室を見渡したところ、自分が脱ぎ捨てたバスローブが目に入った。あれならば十分な厚みもあるし、湯上がりにそこまで長く着込んでいた訳ではないので臭くはなっていない筈だ。


彼女を起こさないようにそっとバスローブで包み込むと、ただでさえ華奢な彼女がより一層小さく見えた。その愛らしい寝顔をより近くで見ようと、ライサンダーはその隣に寄り添うように寝そべった。そしてしばらくは宝物を愛でるようにそっと彼女の髪や頬に触れていたが、彼女の眠りが浅い波になったのか、微かに身じろぎをした。


そこでライサンダーは、はたと我に返った。


自分のバスローブを着せてしまったので、彼は今完全な全裸であった。寝具で身を隠そうにも、彼女をその上に横たえてしまったので引っ張って引っこ抜くわけにはいかない。せめて下着を、と思って周囲を見回すも、どこにも見当たらない。ライサンダーは気付いていなかったが、バスローブに絡んでいたので今はアナスタシアの体の下に入り込んでしまっている。


「ん…」


アナスタシアが小さな声を上げる。このままでは目を覚ましてしまうかもしれないと思うと、ライサンダーは更に慌てた。


何せ今のライサンダーは全裸な上に、つい初夜のことを思い返していたのですっかり体が臨戦態勢になっていた。目を覚ましたら、すぐ隣で全裸の臨戦状態になった男と対面するなど、彼女からしたら悪夢かもしれない。下手をしたら変態に思われるかもしれない。いや、確実に変態だ。これでは彼女に嫌われてしまうと、ライサンダーは焦り出す。


もう名実共に夫婦となったのだから変態も何もなさそうなのだが、ライサンダーからすれば至極真面目な緊急事態だ。


本当は隣の自分の自室に予備のバスローブくらい置いてあるのだが、それを取りに行ったタイミングで彼女が目を覚ましてしまうのはマズいと思うと動くことが出来ない。何せ頼りになる師匠達が口を揃えて「初夜の後に目を覚ましたら、隣に夫の姿がないのは最悪のトラウマだ」と言われたのだ。それだけは絶対に避けなければならない。

しかしこのままでは変態認定されてしまう。最低夫と変態夫の板挟みで、ライサンダーは頭を抱えそうになる。


(そうだ!あのカーテンを巻き付ければ!)


もはや大混乱に陥っていたライサンダーに、冷静という思考は存在しなかった。大急ぎでベッドから離れて、閉じているカーテンを外そうと思い切り引いた。


「ん…もう、朝…?」


思ったよりもカーテンの金具があっさりと外れ、大きな南向きの窓からサッと朝日が差し込んだ。その明るさでアナスタシアの意識は急速に浮上し、気怠そうに寝返りを打ってゆっくりと目を開いた。



そのアナスタシアの視線の先には、外れたカーテンを片手に握り締めたまま、朝の光に余すところなく全身を照らし出されたライサンダーが、一糸纏わぬ姿で固まっていた。



「キャーーーーーーーッ!!!」



厳かな結婚式を挙げて正式な夫婦となった新婚生活第一日目の朝、屋敷全体を揺るがすような大きな悲鳴が響き渡ったのだった。



------------------------------------------------------------------------------------



すわ大事件かと寝室の前に駆け付けた使用人達に、扉の向こうから「大きな虫が出ただけですの!もう旦那様が退治してくれましたから!」と慌てたような声のアナスタシアの返答があったので、彼らは首を傾げつつもその場は解散した。


だが各自持ち場に戻る際に「それにしても、随分と濁った野太い悲鳴だったな…」と思ったのだが、そのことは誰も口に出さずにいたのであった。



多分この日はもう一回悲鳴が上がってる筈。


アナスタシア(何か背中に丸まった布が当たってる…?)


手探りで取り出して広げる。


ライサンダー「キャーーーーーーッ!!!!」


<了>

みたいな感じで(笑)


お読みいただきありがとうございます!


現在連載中の作品のエピソードの一つとして考えていたものですが、そこに到達するまでにどのくらい掛かるか全く見えなかったので、ちょっと設定を変えて単独の短編にしました。

何となくノリでゆるくお楽しみいただければ幸いです。

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