魔人ネクロ ~The Targeted Lady~
人族、エルフ族、魔族、巨人族など数多の種族が存在するファンタジー世界。
時には戦争、搾取、辱めが起こる残酷な一面を持つ。だが、それらもまた魔法や才能といった力が引き起こす衝動によるものである。
神が与えし『魔法』という力は、人智を超えてその者の体格、種族問わずに大きく見せる。その一方で、力があると勘違いする者は多く、自ら過ちを犯してしまうのが世の常。
『勇者伝記』の中で魔王が討伐された伝説が残っており、魔法の有用性と尊厳が広まった。おかげでそういった風習は撲滅するどころか、そこら中にありふれた悲しい出来事として生じてしまうのである。
この世は弱肉強食――弱い者は嘆き、強い者が笑う。それは力に限らず、権力も同じことだ。貴族と平民の間には大きな溝がある。時に貴族は人を道具として扱い、自らの欲求を満たす。道具が壊れてもお構いなしに、権力と財力を以て我を突き通そうとするのだ――。
◇◇◇
馬車に乗る少女がいた。十人が十人、百人が百人認める秀麗な美少女である。
歳は十四。されど既に凹凸がはっきりした容姿は大人の色香を放っている。
車輪が石を踏めば馬車はがたつき、尻が痛くなるものだ。しかし、彼女はまるでなにも起きていないかのように泰然としていた。
慣れもあるだろうけれど、淑女たる姿勢を崩さない決意の表れである――と彼女と共に馬車に揺られる侍従は思った。
流れる金髪に透き通るような蒼い瞳。指の先から頭の上まで貴族然として振舞う彼女は、イブノヴァフランデル・ヘルローサ・レッケンバルド――ここら一帯を統治するラトゥーリエ王国、その公爵のご令嬢である。
対して、どこにでもいるだろう平凡な容姿の侍従。黒く遊びのない恰好は皴一つさえ気遣うように整えられている。公爵の顔に泥を塗ってはいけないという気遣いによるものだが、四人乗りの豪奢な荷台の中にはこの二人しかいない。
「イブ様、此度の謁見という名目のお遊びはいかがでしたでしょうか」
愛称がイブである少女は、無表情な女性侍従の問いに対し、窓の外を眺めながら物憂げに返答する。
「あまり……」
「さようですか。王国へ戻ればまた教育が再開されます。本当にこんなお早めのご帰宅でよろしかったのでしょうか」
「……ええ。どこへいたって、変わりませんもの――」
(どこにいたって、わたくしの人生からは逃げられない。逃げても無駄だということも知ってる。いくら時間を潰したところで、わたくし――イブノヴァフランデルが行く道のりに華が咲くことはないのだから)
林道を北上する馬車の後ろを護衛の兵隊たちが付いてきていた。
炎天下の中、鉄の甲冑を見に纏うも嫌な顔一つしない彼らは、公爵令嬢直属の近衛兵である。
公爵令嬢を守護するために編成された彼らは王国内でも上位の力を保持している。王国兵がゆえ、修練を怠らず、冒険者よりも才覚と知能が勝るだろう。
しかし――数でいえば三十。いくら精鋭部隊といえども、奇襲と数が合わさった状況下では限度を超える。
出し抜けに馬車が止まった。
護衛をしている隊の隊長が馬脚を止めさせたようだ。
「止まれィ!!」
馬車が交錯する場合や、道が悪い場合には馬車の脚を緩める場合や止める場合があるが、それは御者の判断であることが多い。今回は隊長の命令で馬車が止められ、中にいる令嬢や侍従にも緊張が走った。
「どうかしたのでしょうか?」
「……」
林道は脇道が木々に囲まれており、奥を見ようとすればするほど暗く判別がつきにくい。これだけ晴れ渡る空の下では、異様な不気味さがあった。イブは窓から外を見ようとするが、静かな木立があるのみだ。
護衛の兵はすぐに守備体勢となり、銀の甲冑を着る者達が馬車を背に囲む。続いて臨戦態勢へと移る。剣を構えながら五感を研ぎ澄ませ、警戒した。
静かな林の中で、ぞろぞろと足音が聞こえている。その数を察し、護衛隊長ははっとした。
次の瞬間、隊は襲撃を受けた。
窓からでも敵が来たことが判る。相手は黒い甲冑を着た賊で、明らかに山賊などではなく、どこか後ろ盾のある兵隊たちであった。
一瞬味方かと思ったのも束の間、相手は抜剣しており、凄惨にも隊の数人をけさ斬りした。
外から悲鳴と罵倒、金属と金属のぶつかり合う音、人間の体が吹き飛ばされる鈍い音など騒然とし始める。
「押し込め! コロセェ!! 外の騎士に用はない、直ぐに終わらせろ!!」
「馬車に近づけさせるなッ!! 非常時だ、全てたたっきれ!!」
「貴族共め、我等の剣を食らえ!」
「舐めるなァ!!」
「ぎゃあああああ!!」
赤い血が窓につき、ぞおっと悪寒が全身を支配する。
「く……曲者のようです。イブ様、至急お逃げしましょう!」
「……どこへ?」
「っ……」
イブの状況把握能力は瞬時に馬車が片側だけでなく、反対側も囲まれていることを悟っていた。
敵が見える範囲に出てきた時には既に逃げる機を逸していた――。
数刻後――あたりはすっかり静まり返る夜と化していた。
公爵令嬢の護衛であった精鋭部隊は予想以上に固く、数時間の乱戦の後、令嬢は黒甲冑の者たちに捕獲されてしまう。
相手に手練れという手練れはいなかったものの、次々と予備軍が入り、総勢三百規模の隊に押し込まれた。
黒い隊は林の中の開けた場所で野営地を作り、公爵令嬢――イブと、その侍従を縄で縛った。
特にイブは地面に刺した一本の柱に磔にされ、胸元の衣服を切られていた。手首を縛られたまま、柱に固定されているが、裸足となった脚には枷も縄もない。
少女だから、と甘く見られているようだが、衣服を切られていた時点でこの者たちの目的は察しがついていた。
イブは表情を曇らせ、瞼を閉ざした。
鼻の下に髭のある厳格そうな面相の益荒男が、イブの胸元にしまわれていた首飾りを千切り獲る。
「……公爵の紋章――すなわち、レッケンバルド家の紋章だ。つまりこの女は正真正銘、公爵令嬢イブノヴァフランデル・ヘルローサ・レッケンバルドに間違いない。
即刻、あの方へ向けて馬を走らせろ。予定より早く公爵の娘を捕縛したと」
「はっ!」
彼の後ろに控えていた男が緊張し、すぐさま走り去る。その行動を見るからに、この益荒男が隊を率いる隊長であると容易に察することができた。
「あなたたちはどこの傭兵でしょうか。見るからに貴族の息が掛かった隊とお見受けしますが」
公爵令嬢は昂然と訊ねた。
すると、隊長はむっとして脅すように答える。
「あなたに、もはや未来はありませぬ。それは公爵も同じ事。爵位を奪われ、やがては我等のように苦渋を舐めることとなるでしょう。しかし、あなたはそれを見ることすら叶いません」
「……そうですか」
イブは疲れ切ったように俯いた。
隊長の背後で馬が走り出すのが見えた。あの馬が帰ってくれば、殺されることになるのだろう、と虚無的な思考が脳裏を過る。
馬が林の闇に消え、瞼を閉ざそうという瞬間、馬に乗っていた男の悲鳴が林の中に木霊した。
「ぎゃあああああああ!!!」
その悲鳴にすぐに反応した隊長は警戒するよう命じる。
「敵襲だ! 全員周囲を警戒しながら近場で小隊を作れ!! 誰も本陣に近づけさせるな!!!」
隊は一応の統率は取れているが、公爵令嬢の護衛に削られ、負傷者及び死者も出ている。抜けた穴を塞いでいる時間はなく、作られた小隊には不満を持つ者が多かった。
不満は不安へと移行く。
悲鳴の後、林の中は不気味なほど静まり返っていた。無風に始まり、人の声どころか獣の立てる音すらもない。
隊のほとんどが始めに思ったのは魔物だ。この林の中に隠れる未発見の魔物が徘徊しているのではないかと思惟したが、この無音にその考えも霞んでいく。
「いち小隊、状況を確認しに行け!」
隊長の命令に馬が走った道を近くの五人の小隊が偵察しに向かう。
木立が近づくにつれ、駆り立てられる悪寒が募り、手足が震えだす。怯えながらも男五人が警戒しつつ暗闇に足を踏み入れた。
今宵は満月だった。この開けた場所も月明かりのおかげで、灯篭があっても関係なく視界に苦労はしない。
ただ雲があるようで、少しばかり月が陰る。
その影が悠然とイブの前にいる警戒した隊長の下に差し掛かった。
刹那――
「――It's Over」
闇に紛れた黒目に赤い双眸を宿す漆黒の少年が、いつの間にか隊長の後ろに忍び寄っていた。
少年は一瞬で、ゾオッと鳥肌を立てた隊長の首を左手に持つ剣で跳ね、音もなく隊の長を葬った。
静寂の中で、隊長の体が倒れる「ばさっ」という音は衝撃的だった。
周辺にいた百近い兵隊が一斉にして振り返る。
見えたのは月光を浴びる鉄の剣と、その先端に掛かる真っ赤な血。そして――それを帯剣した十代半ばのまだ幼い少年の姿であった。
中肉中背で中性的な面立ちであるが、立ち姿だけで毅然たる武人に思えた。それは誰しもが思う感想であり、近くにいた小隊長も同様。
「な、何者だ!!」
狼狽えながらも威嚇してくる。
少年は鼻で笑い、血よりも赤い瞳で睨みつける。
小隊長はその鋭い目つきに気圧され、地面に尻をついた。怯えて後退る様は滑稽に映る。
「知らねえなら教えてやるよ外道共。オレはクロ――この世に残存する微かな魔人の一人だよ!!」
『クロ』を名乗る少年は、人とは思えない凄まじい強さだった。
瞬く間に始まった戦闘――それは”虐殺”とも呼べるほどに凄惨な光景を生み出す。
血が空で舞い踊る中、少年は楽しげに黒甲冑の者たちを退ける。脚を折り、剣で背中を刺し、みぞおちに的確に肘を入れる。
敵はクロを捕らえようとするが、触れたと思った時には反撃を食らっていた。
二人で押し込もうとしても、軽く躱され、互いの顔面を打ち付けられて地に伏せる。
せめて公爵令嬢だけでも連れ去ろう、と考える者は多く、イブに近づこうとするが、その十歩手前で必ず迎撃を受けた。
クロは強いだけでなく速かった。敵はクロを少しでも留めようと掴み掛かるが、まるでそれを読んでいるかのように巧に懐に入って弾き飛ばす。
隊が無力であったのは、魔法兵や弓兵がいなかったことが大きいだろう。ゆえに、遠距離攻撃が無くやりやすい。
クロも魔法は使わず、踊るように敵を屠った。
後ろから来る予備軍に突き飛ばされ、戦わずに倒れる兵もいた。地から見上げるもそこにクロの姿はなく、ただ空に鋭利な血しぶきが舞い、狂ったような笑い声が響いた。
「キャハハハハハハ!!!」
(な、なにが起きているんだ……。なぜこれほどの兵力差があって、誰もあの笑い声を止めることができないのだ……!??)
不安そうに見ていると、いつの間にか意識が遠のき、死が訪れたと確信して気を絶っていく。
ものの数分で敵は誰一人残っておらず、イブは縄を斬られていたことさえ気づいていなかった。
「おい、大丈夫か?」
仏頂面で訊ねる少年が、いつの間にか目の前に立っていた。
黒装束を真っ赤な血で染める少年は息も上がっていない。
月影を背に彼の瞳は黒と赤に塗れ、まるで闇の中に生じる血溜まり――この戦場のような目をしていた。
イブは、怯える少女として目下の光景を目の当たりにし、「嗚呼……漸く来た」と思った。
何かを嘲笑うような笑みを浮かべると、気絶して倒れ、クロは眉間に皺を寄せる。
「……Wat's with this girl?」
彼は、魔人語で「なんだ、こいつ?」と言い顔が怪訝に歪んだ。
◇◇◇
王都の貴族街の一角に豪華な屋敷があった。甘美な華が咲き乱れ、まるで森の中の別荘という異質な雰囲気を醸し出している。
そこへ、一人の壮年そうな男が足早にやってきた。中肉中背で厳かな印象の男は、眉を顰めながら怒りを堪えているように思える。黒と青で彩られた制服姿は毅然としており、彼が高貴な身の上であることを象徴していた。
執事服を来た高齢な白髪の男が、茶色い屋敷の扉を開けて出迎えた。
見るに、出迎えられた相手は白髪男の主人で、彼はそれに仕える者だろう。しかし、白髪の男は眉尻を下げて顔色が悪い。
「フラン!」
「ハウル様……」
「イブが帰路の途中で襲われたというのは真か!?」
恫喝するように訊ね、フランと呼ばれた白髪男は重々しく「はい」と答えた。
ハウルと呼ばれる主人は、入ってすぐの階段前を素通りし、奥へと進んでいく。彼は早口と早足で自然と威圧的になっていた。
「イブが私、公爵の娘と知ってのことだろうな……!!」
「それが……相手は貴族の息がかかっている可能性が高いとのことです。黒い甲冑を身に纏い、少なくとも百はくだらぬ隊を率いていたと」
「貴族……大公勢力のしわざだろう!
とにかく今はイブだ! 直ぐに我がレッケンバルド家の総力を持って腕の立つ者を集めろ! 直ぐに助けに行く!!」
「その必要はありませんわ、お父様」
出し抜けに、階段から降りてきた金髪青眼の美少女が窘めるように言う。すると、ハウルはたたらを踏んで驚いた。
「い、イブ!!?」
名を呼ばれたので、彼女は「はい」と無感情に答える。彼女にとって、父との再会は特筆するほど喜べるものではなかった。むしろ、家に帰って来てしまった、という感覚を増長させてしまう顔の一つとして心の中で溜息をつく。
「な……お前、野盗に捕まったのではないのか……?」
「捕まりました」
「では何故ここに!!?」
その言葉を待っていたかのようにイブの表情は次第に柔らかくなっていく。
「直ぐに救ってくれた方がいたのです。
あれこそわたくしにとっての白馬の騎士。とても勇敢で凛々しく、闇を纏う姿はまさしくわたくしの思い描いた理想の殿方でした!」
夢うつつに恍惚な表情となる娘に、父であるハウルは困惑する。
しかし、そこは公爵だ。直ぐに切り替えて安堵の笑みを浮かべた。
「そ、そうか……無事であるのであれば、これ以上のことは無い。なにか酷い目に合わされなかったか?」
「はい。それよりもわたくしは出逢ってしまいました。生涯のお相手と」
「は、はあ……?」
我が娘は、頭を打ったのではないだろうか――そんな考えが浮かんでしまうほどイブの様子はおかしく見えた。ゆえに、父は娘相手に訝しんでしまっていた。
「彼の瞳からすれば、なに者も恐怖の対象になりえない。我々が怯え震える時、彼はふてぶてしい笑みを浮かべ、わたくしの手を取りこう言うのです。心配するな――と」
「おおお、ならん! 私は断じて認めんぞ!! そんな、どこぞの馬の骨など!!」
娘があらぬ方法に進もうとしていると思い、ハウルは叱咤する。しかし、イブは自分の想い人を父が『馬の骨』と呼称したことでむっとした。
「お父様、彼は馬の骨ではありません! わたくしの騎士となるお方。いずれは正式に騎士の席を与え、わたくしと結ばれるのです!!」
ハウルは呆気にとられる。イブがこのように我侭を言うのは稀――ここ数年は機械のように反論や拒絶は一切なかったため、まるで別人のように思えた。
つい先日まで一体何に、とは思ったが、失望したように暗い調子だった娘が、何者かに襲われた。かと思えば、年相応な小娘のように恋情にうつつを抜かして目の前にいる。
経緯から察すれば、魔法に準ずる何かがイブを取り巻いていることも考えておかねばならない。彼女が言う『騎士』が、催淫魔法の類で操り、こちらの情報を得ようとしている可能性もある。
過度な指摘で状況把握に支障をきたし、ましてや行動を読まれることは避けなければならない。
ハウルは冷静に思惟し、落ち着いて調子を合わせながら話し始める。
「お前がそこまで言うなら、まずはその者を見ておかねばな。お前を救ったという御仁は、どこにおるのだ?」
(一体どこの誰だ……? 貴族お抱えの兵士か、よもや冒険者か。百を超える敵の中から娘を救ったとなれば、既に名の通っている者のはずだ。化けの皮を剥いでやるぞ!)
「分かりませんわ」
さも当然であるように即答するイブに、ハウルは「なに?」と怪訝に聞き返す。
「気付いた時には、わたくしはもう屋敷にいましたもの。一緒に捕まっていたわたくしの侍従は顔すら見ていないようです。唯一の情報と言えば、このわたくしの目に焼き付かれた月明かりを背に佇む勇姿のみです!」
そんな都合よく、と思ったハウルは、「では、どのような奴なのだ。歳は?」と前のめりに質問する。本来ならば、彼女の言が真実かどうか確かめたいところだが、自分が信頼されていないと娘に思われるのは嫌だったため、相手の方を深堀するしかなかった。
「おそらく見た目以上に若いかと。わたくしと同い年か、そう大差ないでしょう。正直、男か女かもわかりませんでしたけれど、わたくしはどちらでも構いません。どちらだったとしても、わたくしが受けで彼が攻めであることは天地がひっくり返っても変わることはない真実」
「イブと同い年だと……?」
(イブはまだ14だ。つまり、イブの言うことが正しいのであるならば、成人しているかどうかも怪しいということ。子供……だと?
私の兵の中にも若年層はいる。一昨年入隊した公爵直轄の近衛兵隊長の倅が確か19だったはず。日頃から隊長が鍛えており、なかなかの腕ということで我が近衛隊への入隊を許可した。それでも、百を相手できるほどの腕は持ち合わせていない。たとえ相手が盗賊のようなチンケな相手であろうと数で押されれば不可能だろう。
もしイブのこの態度が嘘偽りなく、また魔法を掛けられていないとするなら、その者が実在していると断定するのは難しすぎる。思うに、姿を偽っていた――なんのために?)
「お父様、お話はそれだけではありません」
考えに耽るハウルを前に、いつの間にかイブは神妙となっていた。
彼女のおくゆかしくも勇ましい態度は14歳とは思えないほどに毅然としている。しかし、先程までのどこか夢見心地な彼女よりかはいつもの調子であった。
ゆえに、ハウルも「おほん」と一度咳払いして「なんだ?」と改める。
「此度の件、おそらくどこかの貴族の仕業でしょう。敵の隊長と思われし者は、この紋章を調べ、わたくしがレッケンバルド家の者であることを確認していました。野盗であれば、そんな知恵を持ち合わせてはおらず、またあのように全員が甲冑を着ているというのはありませんから」
「ああ、それは先程フランからも聞いた」
「わたくしは初め、大公の派閥が動き出したのではないかと思いました。脅して公爵――お父様を王派閥から離反させ、勢力を衰えさせることが可能だったでしょう。
ですが、それでは少し気掛かりに思います。わたくしを捕らえているうちはお父様を操ることができるかもしれませんが、逆にわたくしさえ戻ってしまえば、もしくは死んでしまえば、大公派閥の弱点になりかねません。わたくしなら、いいえ――大公様であれば、そんなリスクは背負わないと思います。やるならばわたくしではなく、お父様を一刀両断にした方が速く、証拠隠滅も楽ですのに」
「……お前は……自分が死んでしまえばとか、私が一刀両断とか……まだ子供の娘が考えることではないぞ」
ハウルは呆れるように言うが、彼女の話には納得してしまうのである。
現時点で大公が大きく動くのはかなり性急。
この国の王は二年前に亡くなり、現在はまだ若い第一王子と上流階級の貴族が精力的に政を行っている。そこには、大公の姿もある。
王位に就く権利としては、第一王子だけでなく、大公も同様に存る。大公は第一王子を退きながらも自らが王位に就こうと画策している。あれはそういう男だ。
次の王位が決められるにはまだ先は長い。派閥が二分し、勢力的にはやや大公が勝るものの、王派閥は決して一枚岩ではない。たとえ大公であれ、第一王子であれ、あと数年は欲しいところだ。差し迫って王位継承に大きく傾く行事などがあるというわけではなく、ここで王派閥の公爵を封じたとしても、王派閥が止まる訳ではなく、時間があれば解決するのも難しくはない。それに、大公自身もまだ固唾を呑んでいる、というのがここ最近の印象だ。
(もしやこれは大公派閥の手に寄る計画ではない?)
ハウルが考えの先に行き着いたことを悟ったイブは、独自の意見の続きを述べる。
「ですが、警戒することに越したことはございません。至急、黒い甲冑の者たちがどこの手の者か、お父様の情報網に調査させて欲しいのです」
「勿論だ。言われずとも、そうする」
「それは申し訳ございません。無粋なことを申しました」
「なにを言うか。お前のそういう――理知的なところも魅力の一つ。我が子の成長が見られるのは素直に嬉しい」
(しかし、もう少し先であった方が父としては嬉しかった。娘の愛らしい振る舞いを見たいというのが、私に限らず、父としての願いの一つなのだから)
「それと――ついで構いませんので、わたくしが見初めたお方も探し出して頂けると幸いです。
もう目ぼしはついていますので、見つけ出すのはそう難しくはないかと」
「お前を救った御仁のことか、どういうことだ?」
ハウルは眉間に皴を寄せ、関心を寄せたようだった。するとイブはしめしめとでも言うように、得意気に話し始める。
「――いいですか?」
◇◇◇
窓のカーテンを締切ったとある一室。左右に書物を不自然に間を空けて飾る棚が並び、床には材質の良さそうな赤く主張するカーペットが敷かれていた。窓際中央には趣のある机と椅子が一組置かれ、そこに一人の男がふてぶてしく座っている。
豪奢な赤い正装を身に纏っており、貴族であると予想がつく。魔女鼻の先が赤く、頬骨の出た顔は不気味で、ウェーブがかった髪は乱れている。それが象徴するように、彼の腹は煮えていた。
机に拳が振り下ろされ、軋む音が響く。
「どういうことだ!? あれだけの数を渡しておいて、失敗したとは道理が通らないではないか!! それも、気づいた時にはイブノヴァフランデルは屋敷に戻っていて、貴様からの報告より先に事実を知ることとなっている! 大失態も甚だしい!!」
存在感の無い男が、机の前で跪いており、魔女鼻の男から叱責を受けていた。
頭から足の先まで黒装束に包まれた謎の男は、深々と頭を下げながら発作のように抑揚の激しい声で応対している。
「落チ着いテくださいよォ。報告ニよれば、ゴえいは全テ無力カしたとのこトぉ。事実、かノじょの護衛兵ハ数人未だ療養中デすぅ。つまりハぁ、今回のさくせンを失敗ニ追いやっタ人物はべツにいるというコとですぅ」
「それが大問題なのではないか! その者を早急に突き止められなければ、次の手の打ちようがない!! そうでなくとも既に公爵家は警戒を強めた。次に失敗しようものなら、足がつくことも考えられるのだぞッ!」
「えエ。ですから公爵ふクめ、令嬢近辺ノ調査を進めておりまスゥ。暫くおマちください。なアに、いると分かっテしまえばァこちらのものですぅ。前回ト同等の数で取リ押さえてみせましょう」
「それはいつだ。これ以上私に我慢を強要し、それで上手くいくとして、いったいどれほど私は待てば良いというのだ!?」
「早ケれば一週間以内。遅クとも二、三週間というトころでしょうかァ」
「それで私の願いが叶えられると? イブノヴァフランデルの、あの熟れた肢体を我が物にできるというか!!?」
「勿論でスぅ。しかし暫クの間、わたくシめはこちらに伺エません。多少ちょうサに力を入れなけれバならないため、御身との関係ヲ知られないよウにするためでございマすぅ」
「……フン、信用しておるぞ。でなければ、貴様は、私の手によってバラバラな死体となってしまうのだからな!!」
「心得テおりますともォ……」
黒づくめの男は、静かにニヤリと笑った。
◇◇◇
商業の国、ラトゥーリエ王国の南西にはこじんまりとした教会が佇んでいる。築100年近い建物は至る所に亀裂が入り、付近の者たちからオンボロ教会と揶揄されるセオムティラ教会。されど、教会というだけあって正面から見るとまだまだ威厳ある神聖な場所だというのが判る。
セオムティラ教会では、シスターと称される女性――アンナ・フィンネルが一人で切り盛りしている。彼女は、シスターでありながらも怠惰な性格で、食い扶持に困った時や非常時、一応仕事で出るが、それ以外あまり外に出ない。裏にある母屋で寝息を立ててうたた寝をしているのが常である。
ゆえに、あまり足を運ぶ者は多くないが、教会は代役が掃除や参拝者の相手をする。その代役というのが、この教会の裏の顔である孤児院の孤児たちだ。十代未満からそれ以上まで年齢に然程バラツキはあるものの、皆協力している。
しかし彼らは孤児であり、子供だ。いくら手伝いをするとはいっても、好奇心や無邪気な衝動に抗うことはできない。
この日、教会はシスターに内緒でお休みということになり、扉にも本日休業日と子供の字で立て札があった。
当の子供たちは、教会に近い河川へと遊びに出ている。
川の流れの音がひしめく河川では、同じく子供たちの声が漂っている。
上着を脱ぎ、白いパンツ一枚のみを履く男子たちがいた。
大きな岩を見つけると、肝試しでもするように、男子たちはこぞって岩の上から川に飛び込んだ。
「おぉーれが一番だーい!」
トーマ:15歳。
リーダーシップがあり、何事も先陣を切る仕切りたがりでもある。
「あ、待てトーマ!!」
ボーラス・オズワルド:12歳。
よくよく問題を起こす問題児。時に優しい面もあり、幾人かの者には慕われている。
先を行く両腕に包帯を巻く少年が、楽しそうに息巻いて岩の上から身を投げる。すると先を行かれ、対抗心を燃やしたオレンジ髪の矮躯な少年が後を追って飛び込んだ。
『トーマ』と呼ばれる包帯少年は、綺麗に縦に伸ばした手先から川に着水し、そのまま水の中を10数メートル泳いで水の中から顔を出した。
その頃には、尻から水に入ったオレンジ髪の少年――ボーラスが、鼻に水を入れたようで、「ゴホッゴホッ……」と咳き込んでいる。
それを見たトーマは吹き出して笑った。
「あっひゃひゃひゃひゃ! 何やってんだよボーラス。あひゃひゃひゃひゃ!」
「うるせえ……ゴホッゴホッ!」
岩の上には他に五人の子供たちがおり、鼻水を垂らしたボーラスの顔をけたけたと笑った。
「おら、お前らも来いよ! スタイン、お前もそろそろやってみてもいいんじゃないか?」
トーマが挑発するように手招きする。
するとむっとした前髪が長く小柄な少年が、岩の上で仁王立ちになった。パンツ一枚の恰好では、首につけた黒いチョーカーが目立つ。
スタイン:7歳。
普段はマイペースでゆったりとしているが、負けず嫌いで、冗談でも真に受けてしまう。子供たちの中ではいじられキャラだ。
「やめた方がいいでやんすよ。スタインはまだ”小さい”でやんすし」
寝癖のはねる痩躯で前歯が口から飛び出している少年が、茶化して言う。
ヤマル:13歳。
ボーラスの取り巻きの一人。ボーラスと一緒になって問題行動を起こすが、責められれば他人のせいにする心の弱さがある。親を知らず、その穴を埋めるためか絶えずボーラスとつるんでいる。
「スターだってできるもん!」
きっ、とヤマルを睨み付けると、スタインは下の川を覗き込んだ。
いきなり眼前に飛び込んでくる高低差に面食らい、足が震え、顔を逸らした。
「やっぱりやめておいた方がいいでやんすよ。スタインにはまだ無理無理」
すると、長身で坊主な青年が「大丈夫だ」と優しく声を掛けた。
センカイ:17歳。
既に成人しており、教会とは別に職にもついている一人。無口だが、子供たちが困っているとさっと助け船を出す心優しい男。
彼の言葉に心が和んだスタインは、再び岩の上から下を見下ろした。
下では、トーマとボーラスが落ちて来る場所を空け、期待の眼差しを向けてくる。
漸く「う、うん……」と小さく返事をすると、スタインは一歩足を前に進めてゆっくりと身を投げた。
「緩やかな風よ吹け――ディヴィブロウ」
どこからか女性が魔法詠唱を呟く声が聞こえたかと思うと、スタインの体を緩やかな風が包み込み、ゆっくりと川に落とした。
「もう……なにやってんのよあなたたち……」
そこへ、薄いグレーの布一枚をツギハギした貧しさ表れる衣服を着る少女が呆れ顔でやってくる。
セシル・レーゼリア:12歳。
金髪ボブの少女――セシルが、川の畔で「はあ……」とため息を漏らし、やれやれと首を振る。それを見たトーマが眉間に皺を寄せて「なんだよ、その反応は」と食ってかかった。
特段、トーマひとりに対して呆れている素振りは無い。しかし、無邪気に遊ぶ男子に対して、同年代の女子が、しかも良く知る仲のセシルがそういった態度をとれば、考えていることは予想がついた。
ただし、今回は少々違う。彼女はわざと見せつけるように振る舞い、注意を引いたのだ。
「あなたたちの恰好が時代遅れなのよ。もう少し遊び心を持って欲しいわね」
「何言ってんだ? 遊び心ならあるだろうがよ……」
「そういうことじゃないのよ!」
得意気にそう言うと、セシルの後ろから中性的な面相をした少年が恥ずかしそうに出てくる。
ネロ・ディア・ロスティル:14歳。
体に張り付くような水を弾く生地のトップスと、だぼっとした半ズボンを着ている。セシルの衣服は勿論、パンツ一枚だけの皆と比較すれば素材や色が彩やかだ。
トーマたちは目を丸めて驚いた。
「な、なんだよその服……どこで買ったんだ!?」
孤児院に住まい、その日暮らしもいいところの子供にとって、彼のような衣服は物珍しいと同時に出処に疑いを持ってしまう。トーマ以外にも子供たちは胡乱な眼差しを向けていた。
するとセシルは胸を張り、得意気に説明する。
「わたしとネロで作ったの。どう? かっこいいでしょう!」
「セシルとネロが作ったって? この服をか!?」
「素材はわたしの魔法を使って草から作ったわ。あとはわたしの案に合わせて、ネロが全部やってくれたのよ」
「あはは……」
ネロは困ったように笑った。皆の関心を惹く対象となることに慣れていないのだ。
確かに作ったのはネロだが、素材やアイディアは全てセシルによるものだ。自分は手を動かしただけなのに、とネロは思うものの、セシルがこれ見よがしに自慢するので否定するのも気が引け、笑って誤魔化している。
ズボンの素材はアルバイトで溜めたお金で商会を通して購入しているが、トップスは見たこともない素材で稀有に映る。セシルは魔法で作ったと言っているが、それにしても魚人族の腹のような見た目には物珍しさがあった。
「ネロだけじゃないわよ」
セシルの声に合わせるように、今度はあどけない銀髪の少女が出てくる。ひらひらのレースがあしらわれた水色の水着だ。腰回りはスカートとなっており、可愛らしい印象が強く表れている。
シロ・ロシナンテ:10歳。
シロは手でブイサインをしながらネロの手を握った。
「おお!」という感嘆の声があがり、シロも相好を崩す。
(うん、やっぱり可愛いよね!)
孤児院で出逢った義理の妹――シロを日頃から手厚く世話しているネロも、「可愛いよ」と囁きながら彼女の頭を優しく撫でる。
するとシロは口が波打ち、にまにまとした。
「わたしの自信作はこっち!」
セシルはシロ(というより、ネロが主に力を入れて作った水着)への称賛に嫉妬して、唇を尖らせながら最後の華を登場させる。
それは河川に舞い降りた天使のようで、元々顔のパーツが整って引き締まった容姿をした少女を、その水着はより輝かせる。青と白のストライプ柄のビキニで、それは貴族ほどでなければ滅多に着ることのできないほど精巧な造りが施されていた。
赤みがかった茶髪をポニーテールにした美少女は、年若くありながらビキニの映える谷間があり艶やかだ。
レヴェナ・グランフォール:15歳。
女子で一番年長の彼女は、お姉さん的な立ち位置にいながらも、天然で面倒を見られることも少なくない。しかし、貴族令嬢顔負けの顔立ちとプロポーションは一目惚れされやすく、一時期は貴族とトラブルになるといったことも経験している。
唖然する皆の視線を一心に背負う彼女は、羞恥心に顔を染めながら胸を隠すように腕を組んでいる。
「な、なに……」
皆、顔を赤らめながら固まってしまう。
セシルはフフンと満足気で、ネロとハイタッチした。
ネロも皆の驚く顔が見れて満足気であった。
日頃から主に料理で子供たちを唸らせているが、それ以外の方法で楽しんでもらえる機会を作りたくなっていた。なので、衣服という発想は意外性もあり、子供相手に伝わるか不安でもあったが、こうして圧巻する表情を見られたのにはご満悦である。
「へ、へえ……? まあ? 馬子にも衣裳ってやつなんじゃねえか。ガキにしては、やるじゃねえかお前ら」
トーマが見栄を張りながら素直じゃない誉め言葉を贈るが、レヴェナは顔を顰めた。
「どういう意味……! もっとマシな言葉がないわけ!?」
そう言いながらレヴェナは川の水を蹴ってトーマに水を掛ける。
「うわっぷ、なにすんだ! 褒めてやってんだろ!」
「それのどこが……!!」
「へーん! 俺はもっとこう――ボンキュッボンな年上の姉ちゃんが好みだからな。そんなお粗末なもんじゃ靡かねえよーだ!」
トーマはゼスチャーで凹凸を表現しながら捲し立てる。すると彼の理解者である金色の髪をしたそばかす少年がにやにやと笑った。
「トーマの好みはシスターみたいな大人の女性だもんなー!」
ハフィン:13歳。
冗談や楽しいことが好きで、いつも皆を笑わせてくれる。ただ、空気が読める方ではないので、偶にイラつかせることもあるのが玉に瑕だ。
「ば、ばあか言ってんじゃねえよ。俺はもっと若い方がいいに決まってんだろ! お前と一緒にすんじゃねえ!」
「体は好みってことだろ?」
「ま、まあな……!」
「「…………へっ!!」」
それぞれで盛り上がるのを他所に、レヴェナは徐々に仏頂面となっていく。期待したほど褒め言葉がなくてガッカリしていた。
「――綺麗」
ふとネロから零れる言葉にレヴェナは反射的に反応する。ぱあっと顔を綻ばせながら振り返った。
しかし、ネロが見ていたのはレヴェナが蹴った水の後にできた虹であり、身を屈ませながらシロと共に「綺麗だね」と言いながら牧歌的に和んでいた。
レヴェナは残念そうにしたかと思うと、顔を強張らせてネロににじり寄る。
「……ネぇ~ロぉ……!」
「え……どうしたのレヴェナ? え、え?」
ネロは立ち上がりながら後退る。レヴェナの気迫に押し出させるようにして足を引くと、川に足を踏み入れ、尻もちをついた。
小さく「あう……」と声をあげると、男子たちは面白そうに笑った。
「あっははははは! 何やってんだネロのやつ!」
ボーラスたちが高笑いする中、レヴェナは肩を落として手を貸そうとする。
自分のせいで笑いものにされた罪悪感が先行した。しかし、ネロの困った顔を見ると、つい欲張ってしまう。
「ほら、なにやってんの?」
「あはは……ごめんごめん……」
ネロは応じて手を伸ばした。すると――レヴェナは悪戯な笑みを浮かべながらネロ目掛けてダイブする。
ネロは堪らずレヴェナを抱き抱えながら背中を水辺に打ち付けた。
背中の痛みがひしひしと伝う中、体を起こして眉尻を下げる。楽しそうに笑い声をあげているレヴェナに「もう……」と嘆息した。
ネロは一泊の間を置き、レヴェナの胸元を見て唖然とすることになる。
レヴェナの胸元を覆っていたブラジャー型のトップスが無くなっていたのである。
トップスは、いつの間にか川に流されていた。
彼女もネロの固まった反応を見て漸く気が付き、ネロに抱きつくことでこれを隠す。
「きゃあああああ!!! せ、セシル、助けて!!」
「もう何やってるのよこの子は……」
「セシル早く!」
「はいはい」
急かされるセシルは、呆れながらも川伝いに水着を追っていった。
温かい感触に触れるも、ネロは涙目を浮かべるレヴェナを慰めるように頭を撫でる。
(レヴェナはたまにこういうことあるよね……)
「よしよし。泣かないで」
「ぐすっ……」
その時、河川を囲う森林の中から男の声が聞こえてきた。
「お前たち、そこで何をやっている!!」
恫喝するような声におどけて振り返れば、甲冑を着た男たち三人が茂みの中から出てきていた。
川の近くには山付近に繋がる道が幾つかあり、そこから声に誘われて森林の中を横断して来たと思われる。
まず、誰だ、というありきたりな反応が浮かび、その後見知らぬ人が来たことで皆警戒した。
レヴェナは上裸ということもあり、ネロの胸の中に隠れるように位置取りながら、二人して屈む。
羞恥心もそうだが、ネロ以外の人に自身のあられもない姿を見せたくない、というレヴェナの中での決め事によるところが大きい。
近々戦争が起こるといった情報は得ておらず、武装の練度を見て、この者たちが貴族か、それにかかずらう者たちであると直感する。
珍しくはあるが、ここも一応王都の一部。貴族や兵隊が目につくのはおかしくはない。ただ、教会の裏の森の中から出てきた、というのは気になる。というのも、遊び声が聞こえていたとして、森の通路から脱線するというのは、好奇心以外思いつかないからだ。
まさか、貴族もしくは兵隊の道楽で子供を貶めようとしているのではないか、と皆が警戒しても仕方がない。
子供たちの中で、リーダーシップの高いトーマが彼らに歩み寄り、愛想笑いを振りまいて説明する。
「俺……私たちは孤児です。今はこの川で遊んでおりました。この川は使用してはいけない場所なのでしょうか?」
(こいつらは十中八九貴族だ。ネロの顔を見られるのは避けないといけない)
トーマの考えに同意であるネロは、レヴェナを隠すと同時に自分も顔を隠した。
「……いや、そういうわけではない」
四十前後に思える灰色の髪をした下顎に傷のある男が、威圧的な目で見てきた。彼はやはり、ネロとレヴェナが気になったようで指を指す。
「おい、そこの二人、いったいなにをしている。顔を見せよ!」
二人はギクリと身体を震わせた。
「えっと……水着が流されて、この娘に隠させて貰ってるんです」
理由は正直な方がいい。そう思ったレヴェナが一応の牽制をしながら言う。
『この娘』と呼んだのは、ネロを女の子だと勘違いさせる意図が孕んでいた。
「……そうか。お前たちは街の孤児か。保護者はいないのか」
「この近くにあるセオムティラ教会に住まわせてもらっています。シスターは現在不在で、私たちだけで遊んでおりました」
どこで習ったのかトーマは孤児でありながらへりくだるのが上手かった。
下手に刺激したくないと思惟した他の子供たちは存在感を消すように黙りこみ、全てをトーマに任せる。ただ、ボーラスだけは偉そうに訊ねられる態度が嫌だった。
他人から下に見られることを嫌い、貴族自体に偏見を持つボーラスの性によるものである。
「なんか悪いんすか。ここは俺たちの遊び場だ! おっさんには関係ないだろ!!」
(――ボーラス!!?)
全員の心の中で科白が一致した。
「なんだと? 貴様、無礼だぞ!!」
目鼻立ちの整った金髪の青年が、顔を顰めて抜剣しようとする。
トーマは水辺から飛び出し、ボーラスの口を押さえつけた。
「も、申し訳ありません! この者は孤児にして教育というものを一切受けておりません。ゆえに無礼な口の利き方しか知らないのです……。どうかお許しください……!」
「な、なに謝ってん……むー、む――!」
ボーラスは事の重大さを理解していない。子供たち全員がまだ理解しきれていないが、彼よりはマシに構えている。
「やめろ。貴族が民を傷つけたとあれば、主人の顔に泥を塗る」
「ちっ……」
諌められた青年は、舌打ちをして剣の柄から手を離した。
そうしているうちに、水着を取ってきたセシルがレヴェナの恰好を整える。更には持っていたゴムを使い、ネロの髪をツインテールに縛り、女の子に装いさせた。
ネロは傍から見れば男から女か分からない顔と容姿だ。蟹股でもなければ白い肌をしており、髪だけ繕えば事足りると思い、それは当たっていた。
女子が一ヵ所に集まっていたのも助けたのだろう。騎士たちはネロを含めた彼女らを女の子だと認識し、金髪の青年一人を除いて威嚇をやめた。
騎士たちのいる林の奥から更に誰か来ているのか、足音が複数聞こえてくる。
「隊長様、何かありましたか?」
柔和な口調の女性の声が聞こえ、男子たちは期待に胸を膨らませる。
子供たちは元々世俗に疎かったが、貴族の、ともなれば情報は乏しく物語や偶に聞こえてくる噂程度しか知らない。ゆえに、貴族とは可憐で華やかな者ばかりと思い込んでおり、騎士たちのいる中で女性の声が聞こえてくれば、さぞや麗しい女子が出てくると期待した。
そして――子供たちの期待は、期待以上のものとなって現れる。
金髪青目の容姿端麗な美少女が、おくゆかしく歩いてきた。
青いドレス姿は意外と軽く感じるのは、肩回りがシースルーとなっているおかげだろう。腰には大きめのリボンがあしらわれ、歩いてきたにしては型崩れなく、流れるような髪もきっちり整っている。
彼女は白い傘をさして日差しを避け、上品な雰囲気を纏っていた。
子供たち――特にトーマとハフィンの目を惹いた要因は、美形な面相だけでなく、彼女の胸部が主立っていた。
歳は近いように思えるが、レヴェナとは比べ物にならないほどの豊かな放物線が描かれており、二人共目をハートにする。
それを他所に、ネロは目を見開いた。
先程のボーラスの不躾な言動、続けていれば無情に一刀両断されていた危険性があった。
一介の貴族、もしくは兵士が他者と口論になり、相手を殺害した場合、王国の法によって罰せられる。しかし、その貴族や兵士が、自身より上位の主人の護衛中であれば話が変わる。法は被害者を害した者、加害者は正当な行動をした者として情状酌量がみなされるためだ。
(あ、危なかった……。あの人がもっと荒い性格の持ち主だったら、ボーラスが殺されてたかもしれない)
隊長が彼女が赴かれたことを短慮と思い顔を歪めたが、それが言える状況でないと改めて畏まる。
「お嬢様……。いえ、子供たちが川で遊んでいただけでございます。ここは虫もおりますゆえ、戻りましょう」
「お待ちになってください。少しはお話をしても構いませんでしょう?」
「……ですが、この者たちは――」
「わたくしと歳の近い子たちではありませんか。大人ばかりと話していてはわたくしも疲れてしまいます。少しだけお時間を頂きたく思うのですが」
兵士たちの主人は、正しくは彼女ではない。彼女の親に命じられて娘を護衛しているに過ぎない。ゆえに、彼女の言には絶対的な権限はない。
状況的にも断るに足ると断定しているが、その親にある程度自由にさせるように、と言われている手前憚られた。
「――要らぬ配慮、失礼いたしました。どうぞ、ごゆるりと。しかし、私はお嬢様の御身体が心配です。是非、傍に仕えさせて頂きたい」
「構いませんよ」
にっこりと微笑む少女は、騎士たちを置いて川に近づいていく。
逆側の畔は傾斜が酷く、隊長は補助をしようと前に出るが、少女はそれよりも速く川へと進んでいく。
「お嬢様!」
出し抜けに少女は足が縺れて川に倒れ込みそうになる。傘を手放し、呆気にとられながら水の中に入るのを固唾を呑んで待っていた。
刹那、途中で彼女の体が支えられる。
片足を川の中に入れはしたが、少女の体はしっかりと彼――ネロによって支えられ、窮地を脱した。
「――大丈夫ですか?」
「……失礼しました」
少女が晴れやかな笑みを浮かべたのをネロは訝しんだ。
普通なら安堵するか驚くようなものだが、彼女は、やっぱり、とでも言いたげに落ち着いていたのだ。
(ずいぶんと普通だ。この人たちが支えてくれると信じていたのだろうか。でも、ボクじゃなきゃ間に合わなそうだったけど……。
あれ? この子、どこかで見覚えがある気がする。貴族と言えば、最近なにかあったような……?)
「邂逅早々にありがとうございます。わたくしはイブノヴァフランデル・ヘルローサ・レッケンバルドと申します。いつもイブと呼ばれています。ですので、あなた様もイブと呼んでください」
「あなた様だなんて呼ばれる身分じゃありませんよ。い、イブさん……」
ネロは再び緊張する。「あなたも名乗りなさい」という言外での問いかけが、期待の眼差しを通して聞こえた。
(名前……ネロやクロ、本名はいけない気がする。なんて名前にしよう……女の子っぽいのがいいんだよね……)
「ぼ……あたしは――……ローネです……」
ネロはぎこちない口調でなんとか名前を絞り出した。つまり気味に言ったので、怪しまれると思ったが、意外にもイブは素直に受け入れたようで安堵する。
「ローネさん、可愛らしいお名前ですね」
「あはは……そうでしょうか」
(ふぅ……よかった。まあでも、貴族の子は世間知らずが大半だし、平民が貴族のお嬢様相手に委縮したと考えれば普通だよね。とりあえず、誤魔化すことには成功だ)
「ローネ殿、此度は我々がお護りしなければいけないところ、かたじけない」
「い、いえ……」
隊長が渋い顔で感謝する。そんな彼を後目に、先程ボーラスと口論になろうとしていた青年は悔し気にこちらを窺っていた。
ネロは少し出過ぎた真似をしたかもと悔やんだが、イブのドレスが酷く汚れなかったことを思えば後悔するのはおかしいと思い直す。
「ローネさんは冒険者をやられている方なのでしょうか? 先程の足運び、水に入っているというのにとても素早いように思えましたが」
イブの好奇心溢れる指摘に、ぎくりと鼓動が再び高鳴った。
咄嗟のことで出てしまったが、今の動きを子供が真似ようと思ったらかなり厳しい。
ネロは血相を変えて言い訳を探そうとしたが、寸前でおかしいことに気が付いた。
(この子――ボクの動きを見てた? あんな咄嗟で危険かもしれない時に。普通なら手をつく場所を探して、下を見てしまいそうなものなのに……)
「ローネさん?」
固まってしまうネロにイブは小首を傾げた。
すると、ネロの後ろから表情が晴れ晴れとしたトーマが彼の肩を掴んで話を変える。
「こいつ野生児でして、こういう自然の中だとすいすいっとどこまでも走って行けちゃうんですよ! いやあ、ローネの身体能力にはね、皆が舌を巻いてしまうほどでして、日頃から私も羨ましいったらないってくらいで!
それより、畔で皆と話しませんか。私たちも機会を頂けるなら、この僥倖に甘んじてイブ様のお話を聞きたいです!」
「……ええ。……勿論です」
一見おべっかに振舞っているようだが、トーマも彼女の違和感を察しているようで、早々にネロとの会話を切り上げさせた。とはいえ、彼の腹のうちに彼女とお近づきになりたい、という思惑が孕んでいるのには誰もが気付いていた。だが、同じ想いのハフィンたちは反論もなく、光に群がる虫のように集まっていく。
真に彼女を警戒していたのは、セシルであった。冷静に相手を疑う慧眼を持つ彼女にとって、イブの行動は不可解に映り、近くにいたレヴェナにも小声で警戒するよう促す。
「彼女、気を付けた方がいいわよ。本当の狙いがなんなのかは分からないけれど、わたしたちを観察するような言動は子供とは思えないわ。ネロや教会への探りだったとしてもおかしくはない」
「え……そ、そうなの? 貴族の子って皆あんな感じなんじゃ……す、少し胸があるくらいで……」
「ちょっと、真面目に聞きなさい! あなたとネロはボロが出やすいし、彼女から質問されても真に受けないようにしてよ。ネロにも警戒するようにわたしから言っておくから」
「う、うん……」
(あとボロが出そうなのと言えば、あの問題児だけど……ちゃんと抑えててよねリーダー!)
セシルが目で訴えかけるも、トーマは顔を赤らめながら「こっちでーす!」と教会側の畔にイブを移動させていた。
憂鬱にため息が出てしまうのは、なにも今に始まったことではない。トーマのこういう所がセシルが彼を嫌う要因となっているのを、彼自身はまるで気がついていなかった。
イブはおしとやかな第一印象とは違い、諧謔を弄して鮮やかに子供たちの心を奪った。
彼女が微笑めば、男子たちは胸を打たれてはしゃぐ。年相応な子供の反応と言えるだろう。
彼らを他所にセシルとレヴェナは警戒するように距離を置き、ネロもまた必ず手前にトーマを置いて話を聞くようにした。ネロは先に気を許してくれた彼女に対し、表立って警戒することができない。彼の良心がそれを許さなかった。
主にトーマたちが自分たちの暮らしを話していたが、切りのいい所でイブが首を傾け、子供たちの隙間からネロの顔を覗き込んだ。
「ローネさんは、いつもどのように生活しているのでしょうか」
来た、と思ったセシルがネロの背中をつついた。ネロも理解しており、困ったように笑いながら答える。
「皆と同じですよ。畑を耕したり、料理を作ったり……」
「料理をお作りになられるんですか?」
「……はい……ここじゃあ働かざる者食うべからずって言って、皆の食べ物もそれぞれが作っています」
「ネロの料理は本当に最高――なんだ――ぜ……」
「ネロ、さん?」
はしゃぎすぎたハフィンが、思わず本名を零してしまったことに気付き、顔を青ざめる。
「ち、違うの! ネロなんていなくて! その……そう! キスって何度も言うと好きってなるじゃない。だからネロを何度も言うとローネになるよねって、そういうことなの!」
咄嗟にレヴェナが誤魔化そうとするが、その説明も危ういものでセシルが頭を抱えた。
(ちょっと……なにやってるの!?)
「そ、そうなんですよ! ローネの! ローネの作る飯は本当に美味くて! いやあ、なにやってもできてしまうから皆嫉妬しているんですよ!!」
トーマはごり押ししようとした。
イブは一瞬したり顔をしたかと思うと、それが幻だったかのように真に受けたように受け答えする。
「それは是非食べてみたいです。今度わたくしにも食べさせてはもらえないでしょうか――ローネさん」
「……はい、勿論です」
違和感が募る中、ネロは彼女をどこで見たのか思い出していた。
(そうだ……この子、3日前にクロが助けた。貴族、しかも公爵令嬢で護衛の人たちは皆やられてた。相手は黒い甲冑を着た人たちで、どこの手の者か分からなかった。
あんな目に遭ったのに、よく外を出歩けるな……。それを許す家族もそうだけど、肝が据わってるよ)
◇◇◇
五日後――。
お昼を跨いだお腹の空く時間帯。
ネロは四つ下の妹――シロとアルバイトをしていた。
ラトゥーリエ王国南西地区、教会からもそう遠くない場所にあるハブアニアベーカリーというパン屋だ。
シロと共に帳場に立ち、お客を待っていた。いつも昼前に混んでくるというのに、この日は客が疎らであった。
(今日はなにかあるのかな……。全然お客さんが来ない。まったくというわけじゃないけど、いつもならもっとこの辺りは混むのに……。いつも来る耳の遠いおばちゃんも来ないし、心配だなあ)
そう思惟していた頃に事は起きた。
遠くから接近してくる荒々しい馬の足音と車輪の音が徐々に騒然としていくのを感じた。すると遅れて「ヒヒーン」と甲高い馬の泣き声が響き渡る。
ネロは帳場から身を乗り出して様子を窺おうとすると、すぐに二匹の馬を先頭に馬車が通り過ぎる。
去り際に御者の男が悪びれた人相なのを確認した。目の下にクマがあり、口周りに髭を生やしている。あんな御者を見たことがなかった。
「え、兄さん!?」
困惑するシロを他所に、ネロはすぐさま通りへと躍り出て、遠くなっていく馬車の背を睨み付けた。
「――〈第1段階〉」
右の白目が黒く染まり、瞳が赤く色づいた。
すると――ネロの右目には馬車の荷台の中が感覚的に読み取れていた。
ほぼ密閉空間となっている荷台の中は物がなく、一人の少女が倒れ、監視をする男が二人いる。
一人は荷台の側面に設けられた小窓から外の様子を窺っている。
おそらく邪魔が入らないか警戒しているのだろうが、あれほど速い馬車を捉えるのは難しいだろう。魔法という手もあるが、それでは人質の安否が保証されない。
相手は三人だが、御者をしている男まで相手をする必要は無いだろう。
顔を曇らせたネロは、すぐにエプロンを脱ぎ捨て、走り出した。
「ごめんシロ! ボク、ちょっと行ってくる!!」
「っ……兄さん!!」
シロは顔に憂色を浮かべた。
それを見たネロは、「大丈夫」というように笑いかけ、直ぐに馬車へと向き直る。
昏い荷台の端に腕を縛られたイブが大人しく座っており、それを睨み付ける二人の男たちがいた。
道端の石を弾いて車輪ががたつきながらも、勢いよく走る不穏な馬車に近づこうとする者が一人――。
普通に走ったら追いつかないだろう馬車のスピードに楽々ついて行く少年――ネロ。
(あ……一応これつけておこうか)
ネロは懐から取り出したおどろおどろしい骸骨のお面を顔につけた。
(ボクは貴族社会では存在してはいけない存在。人攫いが動いているということは、多分貴族が関わっている。顔を見られないに越したことはない。今回はクロじゃないしね)
右目の赤い瞳が煌く時、ネロの脚が更に素早くなる。徐々に馬車との距離を詰めた。
外からでも中の様子を右目で把握できるネロは、馬車に追いつくと左側に張り付き、木でできた外装を突き破って中に腕を入れた。
続いて、中の男ひとりを掴んだ腕を引っ張り出そとする。
引いた時、逆に腕を掴まれながら一瞬だけ我慢され、更に力を入れて漸く出てきた。ネロは、男を通り過ぎるゴミ集積所に放り投げる。
(……一人目)
ネロは突き破った穴を拡げて荷台の中へと入る。
もうひとりの人攫いは、困惑した様子でたたらを踏んでいた。奇襲もそうだが、ネロのつけている面に慄いている様子だ。
頭に鉢巻をした小太りの男。しかし惰性につけた脂肪も鍛えられているのか、半袖の先に覗ける上腕はしっかりとした筋肉に洗練されている。
身なりは山賊と変わらない質素なものだが、それにしては口周りの髭が綺麗に整えられていた。
(……また貴族間抗争のごたごたかな。この人、ただの賊じゃない。戦い慣れもしてなさそうだ。
でも、良かった……ボクでもなんとかなりそうだ)
「うわぁあああ!!!」
何故か叫びながら掴みかかろうとしてくる。
ネロは半身になりながら掴みかかろうとした腕を払いのけ、足を掛けて宙返りさせた。男はそのままネロが入ってきた穴から飛び出していく。
「ふう……なんとかなった」
(もう一人、馬を操作している人がいるみたいだけど、そんなの相手してやれないよ)
囚われていた少女を見ると、ネロはうっ、と僅かながらの抵抗を覚える。
羨望の眼差しで見上げてくる彼女は、つい先日川で不穏な言動をしていたイブノヴァフランデルだった。
(またキミか……最近よく攫われるね。もしかしてわざと?)
「……あなたはもしや白馬の……いいえ、【黒衣の騎士】!」
(黒衣の騎士……? ボク別に騎士じゃないけど……。まあいいや)
「来い……」
骸骨の面の少年がローネであることは知られたくなかったため、丁寧な口調はやめて命令した。
ネロは瞬時に尖らせた爪で縄を切ると、イブをお姫様抱っこし、荷台から脱出する。
◇◇◇
貧困街の路地裏に忍び込んだネロは、周囲に気配がないことを判ってイブを下ろした。
昼間なだけあってまだ明るい。ただ、この辺りは日が傾き始めると直ぐに暗くなる。治安も良いとは言えない。それでも身を隠すのには最適だ。
イブが妙に落ち着いていることに違和感を感じるが、それは今に始まったことではないと忘れ去る。
「家はどこだ、送ってやる」
口調はクロよりでやり過ごすことにした。この前助けたクロと同一人物ではない、という設定だ。ただ、万が一バレそうになればクロということにする。あくまで自分と今の自分が同一人物ではないと思ってくれれば十分だった。
イブは可笑しくて笑った。
ネロは首を傾げる。
「なんだ?」
「口調を変えても分かりますわよ。ローネ様……いいえ――ネロ・ディア・ロスティル様、ですわよね」
そう言って、イブは素早くネロの仮面を奪い取る。
ネロは仰天して反応できない。その間にイブを眉をしかめながら外した面を観察する。
「随分と恐ろしいな面ですね。どこで買ったものでしょうか……検討がつきませんね」
「え、えっと…………」
(な、なんでバレた――!!?
ボクがネロってだけじゃない。フルネームを知っているということは、ボクが元男爵家の嫡男だったこともたぶん分かってるんだ……)
ヘアゴムもしておらず、今更ローネと誤魔化すこともできない。そもそも意味がない。
脂汗が滲み出てくるが、それを面白がるように笑われる。
「うふふ、可愛らしいお顔ですね。でも、やっぱり男の子だったのですね。この前、ネロという名前を聞いて調べてみたのですが、まさか消えた貴族の嫡男だったとは……いい意味で裏切られました」
「あ、あの……この事は……」
「勿論内緒にしていますよ。恩人を裏切るほど落ちぶれていません」
ネロは「よかった……」とホッと胸を撫で下ろした。
(でも……本当によかった、でいいのかな?)
「それで黒衣の騎士様?」
「え!? えっと……ボクは……ネロでいいですよ」
「この前、黒い甲冑で武装した者たちから救ってくれたのもあなたでしょう?」
(あ、そっか。そっちはまだバレていないんだよね。まあほとんど別人だし、そりゃあそうか)
「……なん、なんのことですか?」
「……ふーん? 秘密を持っている相手を誤魔化そうというんですね」
なにもかも見通すかのような、不敵な顔にはドキマギさせられる。
「え!? そ、ソンナコトナイデスヨ……」
イブはネロの周りを歩きながら「ふーん?」と調子のいい声を漏らす。
(もしかして、もう気づいてる……?)
「……家まで送ってくださいますよね?」
自ら話を逸らしてくれるのには大助かりで、ネロは二つ返事で了承する。
「も、もちろんです……!」
「ふふっ。そんなに警戒しないでください。わたくしはあなたを尊敬こそすれ、貶めたりしませんから」
「あ、あはは……」
「今回のことに限っては、感謝するにすきれないですけど」
「え? どういうこと?」
「やらせ、ですよ、先程の誘拐は。敵をおびき寄せるための撒き餌です。第三者がわたくしを攫おうとすれば、以前の黒甲冑の関係者が現れざるを得ないというわけです」
(本当に”わざと”だったんだ――!!?)
「じゃあ、ボクは邪魔してしまいましたね……。えっと、ごめんなさい……」
「いいえ。もしかしたらこの方が良かったのかもしれません。今の一連の騒動を相手が嗅ぎつければ、こちらにあなたという存在がいると、抑止力になると思いますので」
「……でも、よくそんな危ないこと……。怖くないんですか?」
「怖いとかは……あまり感じなくなってしまいました。それよりも、動きにくくなっている現状を変えたいと思ったんです。
今回の件は父にも話さずに動きました。きちんと弁明しないといけませんね」
(なんて精神力……。この歳頃で、しかも貴族の令嬢だというのに)
貴族の令嬢と言えば、ほとんど自分の領地から外に出ないのが一般的。おそらく数ヶ月に一度や二度、旅行に出る時くらいだ。元貴族のネロでさえ、1年間に一度あったかどうかだ。家族や家の召使い以外の人と話す機会なんて数えられる程度。
10歳前後にある社交界以降は機会はできるものの、基本的には家や領地内で勉学や魔法の修練をするものだ。15歳を超えれば、どこかの学院に通うようになるものだ。けれど、イブはまだ学院には通っていないらしい。
しかも彼女は公爵令嬢。貴族間のごたごたを警戒する周りの人だっているはずだ。
黒甲冑に襲われた時は隣国の友人と遊んだ帰りだったらしい。だが、他国との友好というだけで、これだけ大人ぶれるはずがない。ほとんど鳥籠の中にいるイブはどうやってこうなったんだろうか――。
そんな疑問が生じながらも、安心感からか思考が元に戻る。
「……あ! 少し寄り道してもいいですか? ボク、仕事ほっぽり出して来てしまったんです!」
「……はい、構いませんけど……。仕事よりもわたくしのことを優先してくださったんですね」
「……」
イブさんの笑い方は無邪気とはかけ離れた、ぎこちない危うい笑みだった。まるでなにか支えがなければ崩れてしまいそうに思えてしまうほど悲しげに見えた。
◇◇◇
ネロは残りの仕事を終わらせようと店の調理場に戻り、その間イブは裏の一室で休むこととなった。
店の裏は生活スペースになっており、座敷にちゃぶ台と棚があるだけの質素なものだった。隣の部屋は台所になっており、間を色褪せた戸が部屋を分けている。日常生活に使うには狭いが、パン屋の調理場を含めれば大きい方だろう。襖からは布団の一部だろう端が漏れだしている。屋根には灯りをつける魔道具が設置されているが、横に長くあまり見ない形だ。
狭い部屋は物珍しいのか、異国文化が入り交じる部屋をイブは呆気にとられながら眺めていた。
暫くして、そこへ小さな少女がやってくる。
ひと仕事を終えた後、ネロに彼女の相手をお願いされたシロが、人見知りしながらも奥の調理場から出てきた。
シロは座敷に上がると、イブと目が合ったまま暫く固まった。
ネロから聞いてはいたが、以前川で会った時もシロとイブは会話していない。特定の人以外心許せないシロが、男たちに混じって貴族の令嬢と話すという機会に面食らったまま時間が過ぎていた。それが今度は自分しかいない。なにを話せばいいか分からず、しかしネロに頼まれたため引き返すこともできない。
お互いピタリと銅像のように佇んだかと思えば、先にシロが口を開いた。
「……珍しい?」
「そう……ですね。もしかしたら初めて見たかもしれません。何処でもこのような家は無かったと思います」
「狭い?」
「確かに少し狭いかもしれませんが、用具入れと同じくらいですから、少々感じるところがあるだけです」
(用具入れ……この人、凄いお嬢様……。
――なのに……)
彼女の考え方に関心するシロ。
ネロから先程の事件について聞いており、その関心とは裏腹の行動をした彼女に対し、シロは胡乱な顔となる。
「どうして囮してたの?」
「えっと……ネロ様に聞いたのですか?」
「うん」
突然意表を突くような問いかけを受けて戸惑ったものの、純粋な好奇心であることを悟り逡巡してから口を開く。
「……わたくしはずっと――小鳥だったんです。家から動かなくても向こうから食も知識も、なにもかも、欲しいと言わなくてもやって来ます。それが当たり前になった頃、ふと思ったんです。自身の努力の範囲が狭まって一見楽ですが、本当にそこを楽していいのかって」
「あ――」
シロは矢庭に空恐ろしくなった。
「そう思ったら、動かずにはいられませんでした。わたくしの行動を脅かす敵がいるのなら、それを排除するのがすべき事――」
「…………怖くないの?」
「あまり。それよりも成すべきことに向かい合う方が最優先です」
「どうしてそんな……まだ子供なのに」
「子供? それを言うなら、彼も同じじゃありませんか。あなた、彼と普段から一緒にいるみたいですけれど、彼は一体何者なんですか?」
自分の兄――ネロがそう言われることは嬉しかった。ただ、羨ましくも思うと同時に見習うことができる気付く。
「……兄さん……。兄さんは、兄さん」
シロは納得したように微笑んだ。
◇◇◇
シロとイブはすっかり仲良くなり、一緒にパン作りの体験もした。そうした後、ネロとシロは早めに仕事を終え、イブを貴族街まで送る。
貴族街の街並みは貧困層の多い南西地区とは比肩できないほど豪華な街並みである。
地面は茶色のコンクリートで埋め尽くされてカジュアル。建物は高層で大きなガラス越しにお店が覗き見える。街行く者たちは夕方だというのに人垣も多く見え、イブのような正装を身に纏う者たちが、大人子供関係なく道を交錯していく。しんと静まり返っていたラーディストリートとはまったく別の世界だった。
シロは面食らい、ネロの腕にしがみついていた。
(あはは……ボクも何度か来たことがあるけど、確かにこの街並みは疲れるよね)
「わたくしの別邸はこの先です」
イブは当たり前のように案内する。
騒然とした街を抜け、大きな通りをひたすらに進んでいくと、真っ白な外装の家があった。
「ここです。王都に来る時はこの別邸で暮らしています。いつもいるわけではありませんが」
淡々とするイブを他所にシロは目を見開いて絶句した。
かと思えば、ネロの袖を引っ張り耳打ちする。
「兄さんも前はこんな場所に住んでたの?」
「ううん。こういうのは階級が凄く高いお家だけだよ。ボクの父さんは男爵家だったんだけど、王都近くに別邸はなかったよ」
「へえ……」
「中に入っていってください。先程はわたくしがおもてなしを受けましたので、今度はこちらがおもてなしをする番です」
「いえ、日も落ちかけていますので、また別の機会にさせてもらいます」
「……そうですか、残念です。もっとお話を聞きたかったのですが」
「それは、また今度にしましょう」
「分かりました。では、また日を決めて会いましょう。わたくし、ネロ様のことが気になってなりませんので!」
「あ、あはは……では、ボクたちはこれで」
遠慮がちに笑みを浮かべて別れを告げると、背中を見せた。
イブはシロに手を振り、シロも手を振り返す。
ネロとシロは手を繋ぎながら踵を返した。
帰りも貴族街は賑やかだ。通りにある机を囲んで酒に酔いしれる者たちが騒いでいる。
でも、これらは下級から中級貴族。イブのような上級貴族はまず出歩かない。治安も貧困街よりはかなりいい方だろうが、邪な考えを持つ者たちが入り込んでいてもおかしくはないのだから。
貴族と言えど人。丁寧さや品位はあれど、やっていることは道楽なおじさんたちと何ら変わりない。
シロには見習わないで欲しい、そんな考えを持ちながら静かに貴族街を後にする。
姦しい声が遠のいていく頃、シロはおもむろに足を止めた。
「どうした?」
ネロが訊ねるも、シロは思い悩むように俯いている。
暫くそうしていたが、シロは決心するように頷いてネロに嘆願した。
「――シロも戦えるようになりたい!」
「え?」
「いつも、シロは置いてきぼり。トーマだって、レヴェナだって魔物が襲撃してきた時戦いに出てた」
「それは……シロはまだ――」
「子供扱いしないで!」
いつも大人しいシロが、久しくネロに反抗した瞬間だった。ネロは驚くと同時に逡巡する。
「シロだって皆と同じだもん……。シロだってもっと役に立ちたいって思うよ!」
「……危険なんだ」
「それだって皆同じ。皆だけ危ないなんておかしいよ! シロだってラーディストリートイレギュラーズのメンバーだよ!!」
昂然と捲し立てる様は出逢った頃のような、我侭なシロにも戻っていた。
「シロは、皆より子供じゃないか! その証拠にもっと小さいスタインだって戦闘要員じゃない。皆も極力戦闘には参加しないって線引きしてる!」
シロが声を荒らげるのに合わせ、ネロも次第に声量が上がった。
「だったらせめてシロにもっと近くにいさせてよ。シロはネロの近くで皆と一緒に支えたいの!!」
咽び泣くシロ。ネロはいつの間にかシロを泣かせていることに気がついた。
溢れる涙を拭うシロに慌てて膝立ちになり、頭を下げて謝罪した。
「ご、ごめん……。でも、やっぱりシロは絶対に守らなきゃいけない存在だから。間違っても怪我とかして欲しくないんだよ」
「シロは嫌だよ。何もしないで守られるだけなんて……」
ネロは苦しそうに悩むシロを見かね、セシルに相談することにした――。
「――いいんじゃない?」
夕食を終え、皆が片付けや寝床の準備に入った頃、二人きりになる頃合いを見て、ネロはシロの件でセシルに相談した。
セシルの答えは意外にもさばさばしていた。
ネロがセシルを選んだのは、シロを自分以上に愛らしく思っているからだった。ゆえに、彼女も反対してくれるという確信があったが、それがあっさりと打ち砕かれたのである。
「ど、どうして……?」
「シロちゃんだって自分で自分を守れるようになるべきだと思うけど。それに危険だからってなにもかもさせないっていうのは何か違うじゃない」
「……」
ネロはどこか納得できなかった。
しかし、その後に顔を顰めたセシルに諭されてはっとする。
「なに、あなた――シロのしたいことを止めさせたいの?」
「っ――……!?」
「珍しいわね。あなたがシロの邪魔するなんて」
「ち、違うよ! 邪魔したいわけじゃなくて、本当に危険だって判って欲しくて……」
「あなた、シロちゃんだけは貴族の時の癖が残っているんじゃない? 言っておくけれど、シロちゃんも皆も孤児で、時には残酷な現実を見ないといけないわ。その時、あなたが守れるって言いきれる?」
「も、勿論……」
「やめなさい」
「え?」
「一人でなんでもしようと思わないことね。あなたがいくら強くたって、限界があると思い知りなさい。あなたができないところを支えるのがわたしたちの仕事。それがこの子供たちの輪の意義なんじゃないの?
彼女を守りたいなら、まず守る環境を作るのが最善手よ。その一つに彼女の力を付け加えるのは悪くないとわたしは思うわ」
「……セシルは反対すると思ってた」
「わたしもいつかはこういう日が来るって思っていたのよ。シロちゃん、本当は強い子だから。……同じ女性じゃないと分からないかもしれないわね」
「……うん、わかった。ありがとう。やっぱりセシルに相談してよかったよ」
シロはまだ幼い子供だと思って、何もできないとどこかで思い込んでいたのかもしれない。きっとずっと考えていたんだろう。
「どうするつもり?」
「ボクもシロが戦える環境を作ることにするよ」
(中途半端なことはしない。ボクのできる限りのことをして、シロを危険から守らないと!)
顔色が変わったネロを見て、セシルは満足気に微笑んだ。
◇◇◇
真夜中――。
教会の寝床の一つ。男子たちが同じ場所で眠っている静かな五畳一間。
寝息を搔く子供たちの中、おもむろにネロは起き上がった。
窓から月明かりが射す。彼の瞳は次第に紅い光りを帯び始めた。
手製に見える半袖半ズボンの灰色の寝巻姿で母屋から出る。
ズボンのポケットに両手を入れながら森へ向かって歩き始めた。
立居振舞に一切の無駄がない。しかし隙だらけではあった。
瞳は虚ろで、まるで意志の介在しない躯のようである。
この異様な雰囲気を醸し出す彼はネロではない。月影を背に赤い双眸を宿す彼は――クロだ。
ネロのもう一つの人格であり、戦闘能力の秀でた子供たちの英雄的存在だ。
夜だというのに、森の中は名状しがたい騒がしさがあった。それを感じたクロは不敵な笑みを浮かべていた――。
(やっぱり何かいやがる……。
なんとなく相手は想像できるがな。おそらくあのイブとか言う女を攫おうとしていた奴らの関係者だろう。たく、ネロの奴が考え無しに出やがったから、今日の一件で少なくとも邪魔な一人として認識されちまった。躍起になって探したところで見つからない自信があったが――いつもこいつの尻を拭くのはオレの役目だ。
――まあ、どう来たところでやることは決まっている)
後方に一人。逃げ場は無いと証明するため、敢えて足音を気付かせるようにしてる。
前方にもいる。茂みに隠れてはいる――クロが動くか、あと数秒の後に出て来るだろう。前と後ろを塞いで逃げ道を消している。
定石通りだが、この場合右と左、せめてどちらかに味方がいないと成立しない。
(ふっ、そういうことか――こいつは中々やるな。この距離に来るまでオレでも存在を掴めなかった。右方にもう一人、距離は100ってところか。右に動けば逃げ道を絶たれ、左に動けば背中を取られる。半端な奴らにしては悪くねえ……)
クロの思った通りに前方に人影が出てきた。黒装束で頭まで隠した怪しい人物だった。
ある程度衣服がぶかぶかしているから体型も分からない。身長は中背だが、それだけで相手を絞るのはいくら貴族の力を使ったところで不可能だろう。
そう勘考したところで、漸くクロは足を止めた。
「まさか公爵令嬢を守護した人物が、まだ年端もいかない子供だとはな」
前方の相手よりしわがれた声が漏れる。クロは微動だにせず、言葉を発しなかった。
「ガキのくせに落ち着いてやがるな」
「チビって動けないんじゃないか? どうせ子供だ。大したことはできない」
足音を立てていた背後の男がにじり寄ってきた。前方の男と同じ恰好だ。小馬鹿にするその者はクロを軽んじて警戒心が薄く隙が大きかった。
(これじゃあ後ろから抜けられるぜ――?)
しかし、クロは呆れながらもそうしなかった。
「さっさとやっちまおう。どうせこんな奴から情報は得られないだろうさ」
「いいのか?」
「指示はコロセだ」
「了解」
背後から男が近づいてくる。
(ちぇ、こんな奴相手に死んだフリしてやんなきゃなんねーのかよ……。嫌だけど、そうしないとどうせつけ狙ってくるもんなあ。いいからさっさとやれよもう……)
心の中で愚痴を漏らしながら肩を落とすクロ。
「兄さ――ん!!」
そこへ、後方から出現する女の子の呼び掛けに寒気を帯びる。
その瞬間、右方に位置取る敵の標的がその女の子に向くのに気が付いた。
(――シロ!!)
微動だにしなかったクロが瞬時に動く。
周囲を囲んでいた黒装束の二人も反応して懐から短剣を取り出したのも虚しく、クロの素早い動きに全くついて行くことができない。
「なっ――!!?」
気付いた時には、後方の男の奥で逼迫しながら一歩踏み出そうとしていた。
影のせいか、その左足が黝ずんでいるのに誰も気づかない。
次の瞬間、クロは二人を置き去りにして消える。
彼らを他所に右方の男が弓矢を射る。クロが睨み付けるのは、その光り輝く矢だった。
月が陰る闇より速く広いスプリントで更に加速していく。
「――〈第2段階〉」
漆黒の衝撃が生じたかと思うと、クロはシロの躰を捕らえていた。
光りの矢は紙一重で通り過ぎた。
敵は、おぞましいものでも見ているかのように絶句する。
脚と腕の一部が黒く染め上がり、手の爪が尖っている。犬歯が口から零れて、狐目が鋭利に睨み付ける様は気迫が凄まじく、最奥の一人は腰を抜かした。
「ひぃ……魔人だ……魔人だァあ゛あ゛!!!」
「ば、バカを言うな! 魔人がこんな所に居るわけがない。魔人は魔界に封じられて、そもそも存在事態が伝説上の――」
後ろの男の悲鳴に反論し振り向けば、そこにあるのは首の無い亡骸だった。
「っ――!!?」
「うるせェよ……。ガキ共が起きるだろうが、近所迷惑クソ虫共! シロに手を出そうとしたてめェらは、一人残らず生きて返さねェけどなッ!!!」
クロの怒号が飛ぶ。
その声にはシロも震え上がった。
怯えている間にシロの視界が一変した。
一瞬見えたのはたたらを踏みながら構える全身真っ黒な人の形。
目に見えるものがクロの胸元へと変わったかと思えば、月明かりで足下に赤い血が見えた。
それはクロの怒りを示すかのように真っ赤だった。
「く……クロ……?」
シロの戸惑いにも気付かず、クロは葛藤していた。
(――気配が消えた。あっちを先にやった方が良かったか。さっきの影の薄さ――並みの相手じゃないだろうが――逃がさねェって言っただろ!!
気配が消えようが、セカンドまで堕ちた目で見れば関係ねェ!)
「シロ、ちょっと目を瞑って耳塞いでそこにいろ。直ぐに終わる」
クロの冷たい命令口調に息が止まる。
シロは直ぐに瞼を閉じ、手で両耳を覆った。
反対にクロは目を見開き、数百メートル先にいる相手を捉えていた。
「――第一の術、〈異界の断剣〉!!!」
赤黒い影のような魔力を帯びた左腕を胸の前で水平に振り払った。
すると――クロの目下の空間に亀裂が生じ、バッと開かれる。中は赤い闇が拡がっており、いつまでも続いているようだ。
次の瞬間、出し抜けに飛び出した黒い何かが疾駆する。
木々に突進していくが、物音一つ立てずに透き通るように消えていった。
数秒の後、遠くから男の悲鳴が上がった。
「ギャァァアアア!!!」
亀裂は瞬く間に消え失せ、クロの手足は元の人間肌に戻っていく。
クロは静かになる森を見届け、シロの肩を叩いた。
目をパチクリするシロは何が起こったのか分からないように首を傾げる。
クロは失笑しながら背後にある屍を見せまいとシロの肩を振り向かせた。
「もう大丈夫だ」
シロはクロの顔を見ると、悄然と手を握った。
静かになった帰路に就くと、シロは小さく謝罪する。
「ごめんなさい……」
「なにがだよ。お前が謝ることなんか何一つないだろ」
「クロの邪魔したから……」
「あんなもん邪魔の一つに入らねーよ! オレにかかれば、あの程度のヤツはちょちょいのちょいって感じで――……」
なんとか元気を取り戻して欲しいと思い、楽観的に振る舞うが、シロは依然と俯いたままだった。
シロはこれでまた足手纏いの烙印を自分自身に押すだろう。
今回のことはクロにとっても予想外で、こういう結果になるとは思ってもみなかった。敵も少数だったため、敵もコロさずに事を済ませらえたはずだった。それを壊したシロを、本来なら叱りつけるべきなのだろうが、それは自分の仕事ではない、と首を振る。
ポジティブな話がないかと考えると、一番にこれが出てきた。
「…………そ、そういや、ネロに自分も戦わせて欲しいって言ったみたいだな!」
「うん……だけど、やっぱりシロはまだ小さいからダメだって。シロが足手まといになることは分かってるけど、何もしないで待ってるだけなんて嫌なんだもん」
「そっか! オレは賛成だぜ、シロにな! ネロは頭硬いからなー……。まあでも、そのうちきっとネロも認めてくれると思うぜ?」
「……シロが強かったら、ネロも反対しなかったのかな……」
「……シロは弱いわけじゃねーよ。普通のガキなら、オレを見ただけでチビって逃げてるところだ。なのにシロはオレと手を繋いで一緒に歩いてる。お前は十分強いよ、ネロが思ってるよりずっとな。
少しの間だけ待ってろ。朗報が入るのはそう遠くないはずだからよ」
「……うん」
そう言ったきりシロは黙り込んだ。
クロは後ろを確認し、血が飛び散った赤い惨劇の始末を憂いていた。
(……トーマとセシル、センカイを無理やり起こすかあ……。怒られんだろうなあ……よし、ネロに押し付けるか!)
◇◇◇
次の日、ハブアニアベーカリーが休業日のため、ネロはシロを連れて貴族街の外れにある比較的築年数の経っていそうな家屋を訪れていた。
鬱蒼とした裏路地にひっそりと佇む家屋の外装は、貴族街には似つかわしくないほど庭の雑草が生い茂り、蔦が壁に張り付いている。
左右が高い建物に囲まれているからか日差しも当たらず、不気味な雰囲気が立ち込めている。
この場所を訪れたネロとシロの二人は、植物に食われそうな建物を見て「相変わらずだ」と思った。
「おっかえりー!!」
静かに玄関から中に入って直ぐにシロが家主に襲われた。
タンクトップ姿のブロンド美女。目元にクマがあり、後ろで括った髪には枝毛があるが、それを差し置いても見目麗しい女性であるのは一目瞭然である。
タンクトップということもあり、引き締まった体とふくよかな胸が強調される。
彼女はシロの上から覆いかぶさり、顔を自身の胸のに押し込んだ。
苦しそうにもがきながら、シロは「んーんー!」となにかを叫びながら腕をじたばたさせる。
「ネロくん、随分久しぶりじゃないかー! いつも他の子ばかりで寂しかったんだよー?」
彼女は抱きついている相手をネロだと勘違いしているらしい。
ネロは、愛想笑いしながら助け舟を出した。
「あ、あの……ハツネさん、シロが苦しそうです」
「あれ? ネロくん!? じゃあこっちの子はネロくん第二号かい!?」
「いえ、だからシロです……」
ネロの指摘で漸く気が付くと、『ハツネ』はゆっくりと解放した。
「あ、あはっ……これはうっかり! てっきりネロくんが二人になったのかと思ったよ!!」
「そんなわけないじゃないですか……」
ネロにハツネと呼ばれる二十代後半に思える女性は、威張るように腕組みしながら仁王立ちとなった。
シロは急いでネロの背中に隠れる。
「さて、ネロくん! あたし……じゃなかった。吾輩は怒っているのだよネロくん!」
「え、どうしたんですか!?」
「いつもいつも、寄越すのは美少女ばかり! レヴェナちゃんも、セシルちゃんも、そしてシロちゃんも……可愛すぎて自分を卑下してしまうじゃあないか!」
「えっと…………?」
疑問符が生じる。ハツネの言う意味が分からなかった。
ハツネは研究者で、偶に意味の分からないことを口走る。それは専門用語なのだろうと割り切ってなにも言わずにいるが、今回もそうなのだろうと無視した。
「なにより、ショタコンのあたしにこれ以上の属性付加は野暮というものだと思うが、違うのかい!?」
何故か問いかけが来てしまい、「……え……?」と訊き返す。意味が分からないがゆえに、どう応答すればよいか逡巡して出た訊き返しだった。
「スタイル抜群の美ボディ兼爆弾ボディ! お淑やかで清楚な貴族! 魔法師でありながら、魔法や魔道具の研究に暇がない研究者! しかしてその正体は――可愛くて無垢な少年が大好物の――ぐへっ!?」
屋敷の中から投げられた本が、雀躍していた彼女の後頭部に直撃する。
「なあにが美ボディ兼爆発ボディだ、爆発しちまえこのクソ研究者!!」
「うう……酷い。ようやく推しに会えた好機を踏みにじるなんて……リリコのバカー!」
「今度は弱々しいのを見せつけるってか。ぶりっ子が!! 研究者なら研究者らしく泥水啜って禿げちまえよ!」
奥から出てきたのは赤髪ボブの、ハツネと同年代に見える女性。キリッとした目とハキハキとした物言いは鋭く迫力がある。
白衣を身に纏う彼女はリリコと呼ばれ、ハツネとは腐れ縁のような仲だ。最近は共に研究するようになったらしく、ネロたちとも面識がある一人だ。
「リリコさんお久しぶりです。お元気でしたか?」
「見ての通りだよ。ほら、ネロもシロちゃんも入んな。なんかお菓子だしてやるからさ」
ハツネに対する態度とは打って変わって穏やかな表情をするリリコ。彼女に案内され、ネロとシロは中へと入っていく。
「ちょっと! せめてネロくんはあたしの心配してよ!」
ハツネは屋敷の前でへたり込み、涙目を浮かべて叫ぶも、扉を閉められてしまった。
◇
◇
◇
二人がいつも作業している研究室へと通された。女二人が毎日作業しているはずが、片付けがあまりされていないようだ。無造作に転々とある椅子におそらく洗濯されていないだろう白衣が積み上げられている。幾つか棚があるものの、その棚は凄然としており、部屋の端から端まである長いテーブルの上にゴミのように置いてある機材が元々あったのだろうと推測できる。構造的には広い部屋のはずが、機材や机、怠惰に塗れたスペースが狭く感じさせていた。
(相変わらず凄いな……。前片付けて行ったのにもうこんなに……)
慣れているのか、特別気にしない二人にネロは苦笑いする。
ネロは事情を話し、シロの戦闘の手助けとなれる魔道具はないかと訊ねた。するとハツネは意気揚々と舌舐りする。
「ほうほう……それで、見返りはなにかにゃ〜?」
リリコがハツネの頭を叩き、「痛い!」と声が漏れた。
「いつもなにも取らないくせにネロにはこれか!?」
「だって〜ネロくんはあたし好みのオトコの娘なんだよお!」
「お前がオトコノコとか言うと淫猥にしか聞こえねーわ……やめろ! ネロを汚すな!!」
「そんなこと、リリコに言われたくないよ。その年のくせしてまだ貰い手がないんじゃね〜?」
「な、なにバカなこと言ってんだ! ウチには想い人がいるだけだっつーの!」
リリコは顔を赤らめながら吐き捨てる。するとハツネはニンマリとした表情で追求する。
「ほほう? それは一体誰かなー? そんなこと言ってぶってるだけじゃないの〜?」
「は、はあ? 居ますけど、別に隠してるわけじゃないし言えますけど! ウチの想い人はな、お前好みの小さいのじゃなくて、大人びていて凛々しい【闇夜の魔人】様だ!」
ネロ、シロ、ハツネの三人はポカーンと立ち尽くした。
一拍の間を置いて、ハツネが穏やかに微笑む。
(――なんだ、同士だったんじゃない!)
「その顔はなんだー!!? 別にいいだろ、誰に憧れを抱いたって。想い人に種族なんざ関係ねーよ!」
ネロとハツネは親を通じた小さい頃からの仲で、自分の体について相談していた。そのため、彼女はリリコとは違ってクロの存在も把握しており、国中で話題に挙がる【闇夜の魔人】がネロのもう一つの人格であるクロであることも熟知していた。
ネロは女々しい面相も相まって実際の歳よりは若く見える。14歳なのだが、10歳前後と思う者も少なくない。しかしクロはというと――夜に目撃されることが多く、口調や佇まいが大人びているため、人族で言えば二十歳前後の風貌という噂が流れている。魔人族であればその限りではないため、あまり論争にならない話題だ。
闇夜の魔人は、国を守護しながらも子供に優しい一面を持つとされ、夜中街で見かけた時、通りすがりの飲んだくれを助けていたのを見て、ときめいたようだ。
リリコは、闇夜の魔人を同年代の男性と思い込んで密かに憧れを抱いていた。
「リリコもあたしのコレクション見る?」
「なんでだよ!?」
「あの、それで……」
「あ、ごめんごめん。シロちゃんの戦闘を補助する何かだよね……。シロちゃんも戦うの? まさか魔法に目覚めたとか?」
「いえ、魔法はたぶん使えるとは思うんですけど……。あくまでこれからを見据えてというか」
「シロも皆の役に立ちたいの!」
「そっか……」
「やっぱりシロちゃんはいい子だ。若いのにしっかりしてる。誰かさんに見習わせたいね」
リリコの友人関係まで把握しているハツネにとって、「え、誰?」と思わず零してしまうほど疑わしい言葉だった。
リリコの友人と言えば、行動範囲がかなりかぶるハツネの知人のみ。研究者がほとんどのはずだが、年若い研究者は彼女たち二人以外には想像がつかない。となると、ハゲちらかした臭そうなおじさんくらいなものだが、あれらを若いとはどうしても思えなかった。
うーん、と暫く考えるハツネにリリコは怒り混じりに「お前だよサボり魔!」と叱咤する。
「……んなことより、なんかないの。ウチは武器は専門外だが、シロちゃんのためなら一肌脱げるし協力するぞ」
「いや、別にリリコの裸は見たくないんですけど……」
「そういう意味じゃねえ!!」
「まあ冗談はさておき、シロちゃんの補助具ならこれから作ってもいいけど、まずはどうやって戦うかが肝じゃない? それによってどこをサポートするかが決まるし。魔道具含め武器や装備は使用者を支援するものだから」
「そうですね……シロの感じだと防御や攻めというのもあまりしっくりこないというか」
「シロは戦いたい!」
「じゃあ、どっちかといえば攻めだね!」
「シロが持てるような武器ってありますか? 軽くて扱いやすい方がいいと思います」
「……そういえば数年前にそっち系に精が出た時期があったんだよねー。もしかしたら奥の部屋にいい物があるかもしれない! 見てみよっか!」
そう言って、奥にある扉の方を向くも「はっ!」と何かに気付いて立ち止まる。
彼女は振り返ると、わざと服をはだけさせ、熟女並みの誘惑を敢行した。
「ネロくーん、奥の部屋、来る?」
「ええい……いちいちツッコませるな!!」
「えへ!」
ネロとシロは揃って首を傾げた。
◇
◇
◇
ハツネに連れられて向かった先は屋敷の奥の角にある部屋だった。家中に手入れが回っていないのは先の部屋でも分かっていたが、この部屋はより一層禍々しく埃が佇んでいた。
埃を被るのを前提としているのか、大きな機材には白い布が被せてある。その奥にひとり分の机があった。埃を被ってしまっているが、その上にある両手で持てるサイズのケースの中身が気になってしまう。
「ああ、あれだあれだ」
そう言いながらハツネはネロが気になったケースに息を吹いて埃を吹き飛ばす。少し手で叩いた後、「ジャジャジャーン!」と胸を張る。
「これが天才魔導研究者のあたしが発明した魔道具なのだー!」
「なにが天才魔導研究者だよ。ただのいきおくれ研究者だろ」
「むー! いきおくれてないよ。そのうち可愛い子を婿に貰うから!」
「それは犯罪だからやめろ」
ハツネとリリコが見ていられない言い合いをしている間にシロとネロはケースの中を目を輝かせながら見始める。
大きさからするにかなり小型の物が入っていると思われたが、予想以上に小さかった。
複数のアクセサリー型の魔道具が入っていた。指輪、チョーカー、レッグバンドなど小物ばかりである。
(うん、このくらいならシロが身に着けても可愛いし、かさばらなさそうだ)
「これ、魔道具なんですか?」
「そうよ。ちょっと待っててね……」
ハツネはケースを開くと銀の指輪を自身の左手薬指に嵌めた。
「どう? 結婚しました!」
「真面目にやれ!」
どこからともなくリリコが持ってきたハリセンでハツネの後頭部が叩かれる。
「それ、どこにあったんですか……?」
「そこに置いてあった」
天然なのか、普通に答えているがおかげで埃が舞っており、ネロも「へ、へえ……」と顔を歪める。
(だからゴミが……)
「はっ! ネロくんも着けて! 結婚しよ!」
「え……」
「やめい!!」
パアンと景気良い音が再びハツネの頭から鳴った。
ネロも愛想笑いしたが、ふと気づいたことに関心を奪われる。
「あはは……あれ? 指輪、結構大きめだと思ったんですけど、全然ぶかぶかじゃないですね」
「お前太ったんじゃね? 最近こそこそなんか食べてるよなー?」
「な、ば、バカなこと言わないでよ! これはね、伸縮自在で嵌めれば自動的に手に馴染んでくれるのよ!」
迫力のある胸を張り、ふふんと意気込んだハツネ。
「じゃあシロでもつけられるってことですか?」
「まあ、そういうことだね……。しゅん、ネロくんは嵌めてくれないの……?」
「年増のおねだりなんて強制力高いことやるんじゃねーよ!」
「えー、いいじゃん……」
「で、それはどんな魔道具なんだよ。まさか伸縮自在ってだけなのか? まあ、それだけでも使い道はありそうだけどな」
「伸縮自在なのは触れている間だけ。伸縮の限度はあるけど、有用かもね。でもそれだけじゃないのよねー!
見てみて、ここに可愛い動物ちゃんがいるでしょ?」
指輪にはクマのような動物の顔をした飾りがあしらわれてあった。
「魔道具をアクセサリーに見せる為の取ってつけたようなやつか? クマに見えるが」
「実はこのクマちゃんの頭からは糸が出るのよ! ほら!」
指輪を壁端に立てかけてある簀子に向けると、瞬く間に射出した銀の糸が簀子に巻きついた。かと思えば、糸は直ぐに巻き戻り、簀子を引っ張ってくる。
すると――ハツネの顔面に簀子が直撃し、もろくなっていた簀子は埃を撒き散らして粉砕した。
「ぎゃっ!!?」
「ハツネさん!?」
「なにやってんだよお前は……」
「いや〜この頃魔力なんて使ってないから制御間違っちゃったよ。あははははは!」
「だ、大丈夫ですか……?」
「心配してくれるんだねネロくん! ちょっとおでこが痛いかな……さすってくれるかい?」
「ウチがヤスリでさすってやるよ!!」
「ちょ、近づかないで!」
「どうやって使うの?」
シロはもう一つの指輪を右手人差し指に嵌め、じろじろと観察していた。
「まあ言っちゃえば魔法使うのと大差ないんだけど、シロちゃんは魔法使ったことないよね。ネロ――」一度ネロに教示してくれるよう頼もうとして、彼も使えないのに気付く。「――くんも、魔法は使えないか……」
「はい……ボクは適正が無いので……」
「よしわかった! あたしに任せなさい!
いい? こう胸の内にあるギョーっていうのがあると思うんだけど、それをシュルシュルシュルーッて腕の方に持って来て、ふっふっふっと指輪に流していくのよ!」
「いや、誰が判んだよ!!?」
「できた」
いつの間にかシロの指輪からは悠然とした銀の糸が伸びていた。
「なんでだよ!!?」
「すごいな~シロは! 本当にすごい!」
シロが瞬く間に成功したので、ネロは興奮して褒め称える。
ハツネの適当な説明でできると思っていなかったリリコは、呆れながら臆面とする。
「いつもながら、なんなんだこいつら……」
「他のも見せて貰えますか? この調子なら、シロならなんでも使えそうな気がしますよね!」
「お、おう……ネロ、相変わらずだがシロを褒めたくてしょうがないって感じだな……」
「これなんてどうですか、チョーカー? なにに使うんですか?」
「あ、ああ……えっと……それは……」
ハツネの顔色が曇った。
訊いてはいけないことだったのか、と思ったネロは顔を歪ませる。するとハツネは「や、えっと!」と言い難いながらも説明しようと、とりあえずの言葉を並べた。
一息ついて決心した後、ハツネは苦笑しながら説く。
「これはね、姿惑わしの魔術が組み込まれててね……。小皴を目立たなくしたり、鼻を高く見せたり、肌をもっと白く見せたり……化粧要らずになるんだよね。えっと、だから……それは戦闘向きじゃない、かなあ」
羞恥に悶えながら、声が小さくなっていくので、ネロは首を傾げる。何故ハツネが恥ずかしがっているのか理解できなかった。
リリコは彼女の説明を聴き、驚きの声をあげる。
「あ、あんた、その歳でもう皴があんのか!?」
「ち、違うよ! 将来のため、あくまでも将来おばあちゃんになった時の為だから! 本当、全然使ってないって! だからここに置いてあるんじゃん!」
「でもパーティとかじゃ持ってくんだろ。それ着けてるの、見たことあるし。あれ、でもあの時使ってたのって色が赤じゃなかったっけ?」
「うぅ……あれは、ずっと前に盗まれて……。それ以来着けて無いもん。実験みたいなものだったし……」
ハツネが涙目になっているし、なんとなく追及してはいけない話題のように思え、ネロは無言を呈した。
ハツネはその後もリリコの追及に遭い、「ネロくんの前で酷いよお」と小さく苦言を漏らしていた。
◇◇◇
やや雲が掛かるも、月明かりが下界を照らす真夜中。
ラトゥーリエ王国の南方に王国を囲う壁が聳え立っている。ここには南門があり、三メートル越えの大きな門は夜間固く閉ざされている。
外壁には軽装備の見張り役がいる。
王国の見張り役は何人かで回し、夜も外敵が来ないかを見張る。先日ゴブリンの大群が攻めてきたことから、警戒を強めていたが、それも数カ月何も起こらなければ怠惰になってしまう。
見張り役の男はこっそり酒を飲んでおり、朧げな視界で壁の外を見張っていた。
外に拡がるのは束の間の野原で、その奥に森がある。昼間は行商人や旅人が入国、出国する際に通ることがある森。
常時静かで、この夜も同じ――はずだった。
酔いのせいで睡魔にまどろむ見張り役が気付いた時には、奴らは森から出て南門に迫っていた。
「あん……? なな、なんだ?」
丁度他の見張り役が警笛を鳴らしたところだった。鼻白みながら壁の上にある鐘をうるさいほどに鳴らし、国中に危機を報せようとした。
「敵襲だ――――ッ!!!」
酒に酔いしれていた男はハッとして、立ち上がる。
森から出てきたのはゴブリンやオーク、コボルト、スケルトンといった下級の魔物達。しかし、その数は優に万を超える。
その光景に慄いた男は絶句して立ち尽くした。
「以前の魔物騒動以来……いいや、あの時以上の軍だ。こんな、魔物が種族問わず連合軍のような形を取るなんて……」
次の瞬間、男の顔が跳ぶ。
遠方から射られた矢によって吹き飛んだ。
矢を射たのは魔物ではない。魔物という軍勢の影に隠れ、森の終わり目にある木の枝に立つ人間がいた。全身黒装束で身を包み、顔下半分も布で覆った怪しい人物。
彼は次々と見張り役の男達を弓矢で屠った。
「矢だ、遠くから矢が狙ってきているぞ!! しかも百発百中だ、顔を出すな!!」
「何!? こんな暗いのに、どうやって!?」
やがて矢があることを悟った者達は壁から顔を出すのを止めた。
黒装束の男はやや不満げに肩を落として、弓を肩に背負った。
「ちっ、もう少しあの何が起こったのか分からないって顔が空に舞うのを見たかったのだが――」
その場に立ち直すように左、右と足踏みしてから、不気味な笑い声をあげながら言う。
「ひっひっひっ、まあいい。
さあて、面白くしてやるぞ。出て来るだろう? そんな所で身を潜めている間に、国が滅ぶのを傍観する奴じゃあない。
いや、種族的にはそうあるべきなのだろうが、貴様は違う。先の魔物騒動の際、貴様は最前線に立ちゴブリンキングを撃ち滅ぼした。【闇夜の魔人】と貴様は同一人物――そしてどちらも噂の通り、魔人。まさか本当に実在するとは思ってもみなかったなあ……ひっひっひっ!」
この時、クロは既に手を打っていた。
タイミング的にはやや遅れる形となり、南門の守りは門が破られる寸前まで行きかけた。
だが、門が打ち破られることはなかった。
南門近くの兵を搔き集めても数百がいいところで、数で攻めてきた魔物に対抗することは不可能と思われたが、どこから聞きつけたのか多くの冒険者が救援にやってきた。
そこにはラトゥーリエ王国ギルドの上位パーティが並び、そうそうたるメンバーだった。
晴嵐の軌跡、翡翠省、三足鷹の尾羽と冒険者パーティの上位1位から3位までが増援としてやってきたおかげで、早期に状況を好転させることができた。
彼らは口々に言う。
指名手配を受けている【闇夜の魔人】を追っていたら、南門が騒がしいので来た――と。
魔物が決起した所、早々に攻め込まれるのに気付いたクロは冒険者ギルド近くをうろつき、冒険者パーティを呼び寄せながら南門近くを徘徊していた。おかげで数的不利を打開する戦力を当てることができたのである。
「晴嵐の軌跡だ! 冒険者パーティの晴嵐の軌跡が来てくれたぞ!!」
「これは……かなりの規模の祭のようだぜバロル!」
「ああ……。野郎共、さっさと得物を持って戦え!!」
金メッキの鎧を装うライオンの鬣のような茶髪を靡かせた大男が、仲間を鼓舞するように拳を掲げた。すると、我先にと外壁の上から跳び下り、魔物との戦いを始めた。
「晴嵐の軌跡だけじゃない。ミヤランマ……三足鷹の尾羽もいるぞ!」
「こっちは翡翠省だ! 翡翠省の……あのお方は……」
門番の兵は外壁の上に立ち現れた女性に目を奪われたかのように言葉を濁す。
見目麗しい女性は、泰然と外壁の端に立ち、さざめく門前の様相を眺め溜息を吐く。
「はあ……これはまた面倒なこと」
晴嵐の軌跡のリーダー――バオルヴルム・セイガイが、周囲集まる魔物達を斧を振るって吹き飛ばした後、高台で立ち尽くす女性に声を掛ける。
「おおい、シティー・ミミリット・リットリンデ! そんな所で見下ろしてないで手伝え! この数はちと面倒なのだ!」
「私の名前を気やすく呼ぶな晴嵐の軌跡、バオルヴルム!!」
シティーと呼ばれる女性は眉間に皴を寄せて恫喝する。
「おいおい、こんな時に口喧嘩か? やめとけやめとけ、命が惜しくなければなァ」
三足鷹の尾羽のリーダー――ミヤランマ・ゲッテーホルンが、ふてぶてしく言う。
バオルヴルムは「俺は別に口喧嘩しようと思ったわけじゃあ……」と苦言を呈す。
魔物が激しく掃討される様をクロは遠く外壁の外から見守っていた。
後軍は既に退却を始めているみたいだな。前軍を殿とし、中盤からぶったぎって残りを下がらせたか。ということは、この軍はまだ捨て駒じゃないってことだ。
目の端に黒装束の男が見えた。奴らの狙いはオレに切り替わっているはずだが、まさか魔物の軍を率いて来るとは思わなかった。よほどの魔道具を携えているだろうが、何か別の思惑がありそうだ。オレ一人を狙うのにこれは規模の性質が違う。
今回は嫌な予感もあったから、ラーディストリートイレギュラーズの力は借りなかったが、明日にはぼやいているだろうな。面倒なのはネロに任せるとしよう。
クロは魔物の軍が後退するのを尻目に、憂鬱に踵を返した。
◇◇◇
次の日――。
ネロはシスターの荷物持ちとして鞄を持ち、シロも両手で掌サイズの赤い木の実を持っている。一仕事を終え、シスターと共に教会に帰ってきたところだった。
教会が近づいてきた頃、中が騒がしいことに気付く。
「誰か騒いでいるみたいですね……。掃除中に遊んで、レヴェナに叱られてるのかな?」
「まったくあの子たちは……。あたしがいない時にやっぱ遊んでんのかあ?」
シスターも昼間から寝てばかりの時あるから、人の事言えないんだけど……それは言わないでおこう。
教会から慌てて出て来る青年がいた。騎士の恰好をしており、腰には帯剣もしている。
彼には見覚えがある。以前川で遊んでいた時、イブの護衛をしていた目付きの悪い青年だ。今は精彩を欠いており、脂汗を滲ませて具合が悪そうだ。
青年は教会前の階段に足をつっかえ、シスターの胸に顔を埋める。
シスターは顔を顰めると、青年の襟を掴んで頬を殴った。
「なにすんだい、この変態騎士貴族クソ野郎!!」
「ぶふっ!!?」
青年が地面に倒れると、ネロは気遣うように寄り添った。
「だ、大丈夫ですか!? もう……シスター、驚くのは判りますが誰彼構わず殴らないでください!」
「フン、女なら誰でも同じことをしている。あたしはシスターだから、かなり弱めにしてやったんだ。ありがたく思いな、うんこ野郎!」
「くっ……なんて乱暴なシスターだ。たかだか胸に触れた程度で」
「なんだって? 貴様、このあたしを知らないのはまだ許してやる。しかし、その言葉はこの世界にいる女全員を敵に回すぞ。無論、このあたしでさえ容認できない問題だ。歯を食いしばれ下衆野郎!!」
「ま、待ってくださいシスター! 抑えて抑えて……」
シスターは鼻息を荒げて今にも青年を殴ろうとしている。青年もおののいて体を震わせるが、ネロが間に割って入って宥めたおかげで安堵する。
すると、青年は思い出したかのように立ち上がり、ネロの肩を掴んで性急に問いただす。
「おい貴様! 以前川にいた女の一人だな!?」
「あ、えっと……はい……」
痛い。というか、この人まだボクが女の子だって思ってるんだ……髪縛ってないけど。
「お嬢様を……イブノヴァフランデル様を知らないか!? 朝から公爵家総出で探しているのだが、どこにも姿が見えぬのだ!」
「――え?」
ネロの頭に昨夜の出来事が浮き上がる。
「い、いつからですか!?」
「わからん。朝、世話役としてお嬢様の自室に入ったメイドがものけの殻なのを確認し、屋敷中を探しても見つからなかった。おそらく暗いうちに攫われたのではないかということになっている……。
貴様は以前、お嬢様の策を台無しにしたと聞いた。その時にここにも来たのではないかと思ったのだが、当てが外れたらしい」
顔色を曇らせたかと思うと、どんどん声が小さくなっていく。汗が酷く、息も荒い。靴もかなり汚れており、そこら中を奔走していたのが見てとれた。
「シスター、この人を介抱してあげましょう。すごい辛そうですし、このままだと直ぐに倒れてしまいます」
「あのなあネロ、うちは慈善事業団体じゃねーんだぞ。こんな誰とも知らない変態うんこクソ野郎の面倒を見てやる道理はねーよ」
「ですが!」
「要らん! そんなことを頼みに来たのではない。知らぬのならもういい。今訊いたことは忘れ、誰にも言うなよ……」
そう言って、青年はネロを押しのけ、やや俯きながら歩き始める。
「待ってください!」
「俺は今、公爵令嬢の護衛騎士だ!」
ネロは呼び止めようとしたが、声を荒げて叫んだ折、足が止まる。
「昨夜は屋敷の門前で寝ずの番をしていた。最近、お嬢様は狙われる身をなっていた為、屋敷中で強い警戒を敷いていた。なのにだ、それでもお嬢様が連れ去られたことさえ気づかなかったのだぞ! この汚点、自らの命を持って消さねば腹の虫がおさまらない!!!」
「……分かりました。でしたら、これ以上止めません。余計な事を言いました」
「…………いや、俺も言い過ぎた。腹が立っていたのだ、許せ」
寂しげにそう言い残し、青年は足早に去っていった。
またどこかを訪ねて、令嬢がいないか探すんだろう。寝ずの番をしていたと言っていたから、彼の体力はもうそれほど残っていない。イライラも溜まっていた、長引けば本当に倒れてしまう。
この事態、この前の偽りの事件とは一線を画している。おそらくもう偽装じゃない、本当に連れ去られてしまったんだ。
昨夜、魔物騒動が大事にならなかったのはボクたちが介入して凄腕の冒険者パーティを集めたから。以前の魔物騒動と同じ局面を作れば、ボクが魔人として出て来るというのが敵の狙いだと思ってた。
でも、違ったんだ。本当は、ボクが魔物に気を取られてイブさんの助けに来られないようにするための囮。
完全に裏を取られた……。
「兄さん?」
ネロが追い詰められたように顔色を悪くしたのを心配そうにシロが近づく。
「おーい、いつまでも惚けてないで中入るぞー。塩まいて、教会を清めないとなー」
シスターの他愛無い声に気を取られていたところ、ネロは彼女の頭に手を乗せた。
「シロ、皆に伝えて貰えるかな。手を貸して欲しいって。勿論、シロにもね」
シロは嬉しそうに笑みを浮かべ、「うん」と快く受け入れた。
早く見つけないと……。待っててイブさん、必ず助けるから!
◇◇◇
ラトゥーリエ王国王都ディ・アークトゥルスから離れた南方に古城があった。
崖に城が埋まっている形を成している。ところどころ罅が入っていたりするが、石造の城は今でもその貫禄を残している。中央に佇むのはかつての王が鎮座したであろう第一塔があり、それに習うように左右に第二、第三塔が佇み、これら三つが一階で繋がっている。しかし、それは表から見ただけの景観に過ぎず、中は崖の中を抉って造られた部屋が幾つも並んであった。
現在この古城は魔物の巣窟――ダンジョン化している。周辺一帯を含め、城内にもゴブリンやスケルトン、コボルトといった魔物達が徘徊する。オークは大きさ故に城外のみとなるが、おかげで迫力はあるだろう。
古城の中には話せる魔物もいた。知性があり、並みの魔物とは比べることのできない者で、そういう魔物はある種亜人と呼ぶ。
人間の体が腐敗し、ところどころ欠け落ちている姿の屍食鬼。全身に皴が多く、白く長い眉毛は地面についてしまっている鬼のオールドゴブリン。隆起した筋肉と鋭い爪を持つ二足歩行の狼、狼男。それらが第一塔にある王の間に集合し、揃って頭を垂れ跪いた。
王の間はところどころ皴ができ、千切れた箇所も多いレッドカーペットが敷かれ、その最奥に王の椅子がある。ただし、椅子は王の無き今、横に倒され威厳は皆無であった。
彼らが頭を垂れるは過去の王ではなく、彼らに知性を与えたと同時に進化を促した存在である。
日差しが入り込む巨大な一間を一巡するように眺める白装束の存在。全身白ずくめで背中にはマント、顔にはのっぺらとした仮面がある。その者は手を挙げ、顔を上げるように指示する。しかし、まだ、三体の亜人は顔を上げない。白ずくめが再度手を挙げて漸く、体を起こす。
「報告を聞こうか」
くぐもってはいるが、声からして男。白ずくめが厳かにそう言うと、亜人達が再び跪き、しわがれた声でグールが話す。
「作戦は概ね成功した……ました。三分の一の魔物を失いはしたが――ですが……」
グールがたどたどいい敬語を使おうとするのを、白ずくめは「巻け」と言うように指でゼスチャーする。するとグールは申し訳なさそうに深々とお辞儀をして続けた。
「本来の目的である人間の少女を捕虜とした。現在は奴らが見張っている」
「ふうん? まあ、中々やるじゃない。キミらもまあ、そうだけどさ。この作戦の肝はあっちだし、揺動だけ手伝ってあげたようなものだけど」
「王国第三席次の公爵が令嬢――イブノヴァフランデル・ヘルローサ・レッケンバルドという少女一人の為に我々に力を与えてくださった御身の手腕によるところ大きく、この度の結果は当然といえましょう」
オールドゴブリンが流暢な口調で話すので、白ずくめは関心するように頷いた。
「へえ……キミ、王国の世情に詳しいんだ? まあ、魔物と思って知性や知識に期待なんてしていなかったけど、思ったよりも魔物にも面白いのがいるじゃない。見直したよ」
「それはそれはありがたきお言葉、老体に染み入りますじゃ」
「それで? 今後その捕虜とした公爵令嬢含め、どう動くつもりなのかな――あちらさんは。まあ、やることなんて予測ついてるけどさ」
「クライアントに報告義務がある。今夜王都へと戻り、報告した後、明朝クライアントを連れて来る予定」
「貴族とはなんとも汚らわしい心の持つ者ですなあ。少女を手に入れるだけでは飽き足らず、同国の貴族を敵に回す勇気もないとは……」
「まあ、キミたちだって飢えれば人を襲うだろう。だけど襲った仕返しはされたくない。だから罠を張って備える。まあ、それとさほど変わりないさ。何かをする毎に自分は関わっていないという証明をしようとしているんだ。まあ、いずれバレるだろうし、憤慨した相手には意味が無いからキミの言うことに賛成はするけどね」
「今のご教授、しかと頭に入れ精進いたしまする」
「いいよ、いいよ。まあ、キミたちはこのまま彼らの手伝いをしようね。一応言っておくけど、契約は公爵令嬢がそのクライアントの下へ護送されるまでだから。その後はまあ、好きにしていいよ。王都を攻めるもよし、旅に出て新たな世界を見るもよし。進化したキミたちなら、色々な選択肢があるだろうしね」
「なんとお礼を言ったらよいか……」
グール含め、終始無言を貫いたワーウルフも深々と感謝のお辞儀をした。
第一塔の最上階にある比較的小さな一室。窓が完全に開け放たれており、日差しが直接入る石で造られたこの部屋は、まるで牢屋のように静かで湿気がある。
獣用に造られた檻の中に手足を縄で縛られたイブがいた。
就寝中に攫われたのだろう薄紅色の寝巻で、長丈のスカートや脚は土で汚れていた。なにより全てに絶望したような虚無的な表情は光りを失っている。
(やっぱりこうなった……。屋敷で聞いた遠くからの爆発音。あれで注意が向いたことで、わたくしを攫いやすくしたのね。遂には、黒騎士様もわたくしの所には現れなかった。
何も食べてない。なのに空腹にはならない。それより、耐えがたい嘔吐感が込み上げてくる。なんとか淑女然とすべきという日頃の教えがあって我慢しているけれど、それが決壊した時がわたくしの最期でしょうね)
◇◇◇
ラーディストリートイレギュラーズとは、教会近くにある貧困層が住まう地区の通りにある黒い箱から始まった万事屋である。
箱には、偶に困りごと(依頼)が書き込まれた紙が入れられ、彼らはそれに対処すべく行動する。見返りは食べ物か、情報か、ガラクタなんて時もある。
時に迷子探し、薬草探し、掃除の手伝い、動物の世話など様々な依頼がある。しかし偶に、ラーディストリートイレギュラーズを勘違いした者が、他人に害を成すような依頼を出してくることがあるのだが、それはまた別の話。
ラーディストリートイレギュラーズは、教会の孤児たちによって構成されているため、実のところはそれほど有用性はなく綻びが多い。褒められる所と言えば、腰の軽さと猫の手になれる、というところだ。
しかしこのところ、とあるメンバーの加入でラーディストリートイレギュラーズは大きく変わってきている。中でも大きい影響力を持つ二人挙げる。
一人は、セシル・レーゼリア。初めは寡黙で無表情が故、何を考えているか分からないといった不思議な少女だった。だが、最近は他の子達とも打ち解け、我を出し始めている。特に突発的な発想やどこから得たのか分からない知識は全体を助ける素因となり、また日常生活を彩る起点となっている。
二人目は、巷で【闇夜の魔人】として慄かれている張本人――ネロ・ディア・ロスティル。普段は温厚で誠実な彼には、もう一つの人格がある。子供たちはそれをクロと呼称し、イレギュラーズの一員として一目置いていた。
イレギュラーズが変わった大きな要因として、彼は外せない。子供でありながら、卓越した技と運動能力、力を併せ持つある種の奇才。
他を踏みにじる社会の悪から弱者を救い出すことができるようになったのは、彼が来てからだ。その力が故、彼の発言は子供たちを動かす動力源となる。
日が陰ってきた頃、王都の一角――ラーディストリートに子供たちは集まった。
鬱蒼とした何もない通りで、陽もあたらず明かりもないせいでここは既に夜のように暗かった。
遅れてセシルとハフィンが肩で息をしながら駆けつける。だが、一人だけいない人物がいた。しかし、一番情報に精通しているハフィンが戻ってきたことで、直ぐに問題に差し掛かる。
「どうだった?」
イレギュラーズのリーダーはトーマだ。両腕に包帯を巻く彼は、神妙な面持ちで訊ねる。
すると、ハフィンが顔を綻ばせて親指を立てた。
「ハァ……ハァ……手に入れたよ、目撃証言!」
「ハフィン、よくやった!」
気持ちが焦ったトーマは、乱雑にハフィンの頭を撫でまわす。
「やめ……」
「それで、どこ?」
トーマの手を振り払うレヴェナが訊ねると、「うん」と呟いて話し始める。
「昨夜、酒を飲んだ帰宅途中のヨイメンさんが見たんだけど、三人組の奴らが屋根伝いを走っていたらしい。内二人が大きめの荷物を運んでいたから、てっきり運送屋だと思ったみたいだったんだけど、三人共闇に紛れるような黒い服を着ていたからおかしいと思ったんだって」
「いいのか、そんなの信じて。酔ってたんだろ、そいつ」
ボーラスが怪訝に言う。しかし、レヴェナは反対の意見だった。
「間違いない。いいえ、間違っていたとしてもそれに懸けるしかないわ!」
「ああ、そうだな……。方角は分かるか?」
「貴族街の方からこっち側に走って来たって言ってたから、南……。昨日、魔物騒動があった方角だよ」
「ネロが言ってた通り、やっぱり昨夜の魔物騒動と拉致事件は関係してたんでやんすね……」
「まだ決まったわけじゃないけどな……。無いって断言する方が危険だろうぜ。
セシルの方はどうだったんだ? 貴族の方で探りを入れていたんだろ」
「ええ。たぶん今頃、主犯は彼女が捕まっている場所に向かっているでしょうね」
「なに!? それなら、早い所向かわねえと……。って、あいつ、ネロはどこだ!? いや、そろそろクロの奴と入れ替わってんのかあ?」
トーマは頭を抱えながら通りの先を見るが、他に人影は見当たらない。
ネロが遅れることはよくあることだが、今回は事が事だ。いくら寄り道好きであっても、とっくにこの場にいるのが通常。クロならなおさらである。
そんな不安を振り払うようにセシルが一蹴した。
「問題ないわ。ネロならとっくにその場所に向かっているから。
さっきハフィンくんから話を聞いて、わたしの情報と合わせて伝えたら、先に行くって飛んで行ったみたいよ」
「はあ!? おいおい……あいつはいつになったら俺になにか言ってから走り出すんだ?」
「今回の作戦――来てもいいとは言われているけれど、条件が付けられてる。スタインくん、レヴェナさん、ボーラスくん、ヤマルくん、エータクくんはお留守番よ」
「なんだと〰〰!?」
ボーラスが、顔を顰めて驚いた。
戦闘要員である自分が、今回の作戦で外されたことに驚きと共に怒りを覚える。咄嗟にエータクとヤマルがボーラスの腕を掴んで暴れるのを止めさせるが、鼻息荒くセシルを睨み付けている。
それを横目に、トーマは間違いを訂正するように「おい、シロのことを忘れてるぞ」と言う。
いつもなら、今並べられた名簿の中にもう一人が増えているところ、セシルが名を出していないためだ。しかし、それが間違いではなく、目を見開く。
「シロちゃんも連れて行くわ。だから、わたしも行くの」
「セシルちゃん……それならあたしも連れて行って欲しいなあ、なんて……」
「今回の事件には貴族が関わってる。この前貴族とひと悶着あったあなたが介入して、顔を見られれば、またつけ狙われる可能性だってある。戦力的には嬉しいけれど、今後のあなたやわたしたちの身の安全を考えれば、ここに残るのが賢明よ。ネロも同じ気持ちだから、安心して」
「……」
「本当にシロを連れて行くのか? ていうか、本当にネロがシロを連れて行くのを了承したのか?」
「ええ。でも、わたしからもお願いはしたけど、二つ返事で了承を得られたわよ」
「マジで意外だな……あのネロが、シロを連れて行くだなんてな。クロならまだしも。
おいシロ、お前大丈夫なのか? 無理しなくていいんだぞ。今回は俺たちもあまり前に出ないようにするし、皆と残っててもいいんだ」
「ううん、兄さんのお手伝いがしたい。その気持ちは誰にも負けてないつもりだから!」
シロはクマのぬいぐるみを抱きかかえながら決意の籠った眼差しで応える。
トーマは一瞬、本当に大丈夫なのか心配になったが、隣からセンカイが「安心しろ」とでも言いたげの表情で肩を叩くので渋々承諾した。
ネロ(クロ)を除けば、ラーディストリートイレギュラーズの一番の力量を持つのは、最年長で普段から鍛え筋肉も大人並みにあるこのセンカイだ。こういう時、センカイは何かと皆をフォローするような立ち位置を取るが、今回もシロのサポートに回るということを示唆していた。
(ネロが了承しているってのもあるしな……。正直、シロのことは予想外でまったく気にしていなかったから、センカイに付いて貰えるというなら、それに越したことはない、か……)
◇◇◇
ラトゥーリエ王国南方にある古城跡地――。
魔物が巣食うこの場所で、一つの事が起きていた。
人間――人族の捕縛である。
まだ幼い子供で、森で気絶していたところを周囲を警戒していた魔物の一体に見つかり、古城まで連れてこられた。
その身柄を魔物の進化体であり、亜人である三体――オールドゴブリン、グール、ワーウルフが預かった。
三体は月明かり照らす王の間の一角に子供を寝かせ、処遇を決めかねて唸っていた。
「何故この近くに人族の、しかもこれほど幼い女の子がおったのかのう?」
「聞いたことがある。人族は利己的に同族を襲い、下僕とすることがある。この人間は、それから逃げてきたのではないだろうか」
グールの意見に、ワーウルフは無言を呈す。彼が鼻息を零すので、珍しく何か話すのか、と思ったオールドゴブリンが少し間を空け、しかし口すら開かない為に肩を落としつつ自分の意見を述べる。
「……うむ……確かに、見た目からするにあの人間と比べると身なりが悪い。このボロボロの外套を脱がせてしまえば、儂らゴブリンと大差ないじゃろう。下僕というなら、このくらいの恰好なのやもしれん」
「どうする」
「……ワーウルフ殿はどう思うか?」
オールドゴブリンの問いにワーウルフは難しい顔をするだけで一言も話さなかった。
何故彼がこの場に、自身の意見を述べて答えを導く会議に参加しているのか判らなくなる、とオールドゴブリンは思惟するが、グールにはそういった思考は見られず、許容するしかないと溜息を漏らす。
「…………御方であれば、こやつも例の牢に入れるはずじゃろう。もしかすれば、御方への報酬が上がるやもしれん。
儂らにとって利益はないが、特段空腹というわけでもなく、発情期というわけでもない。御方に恩を売ることができるのであれば、それに越したことはないじゃろう」
「オールドゴブリン殿がそう言うのであれば、反論はない。御方への忠義を示すことこそ、我らにとって優先すべき事案だ」
「ワーウルフ殿もそれでよいかな?」
ワーウルフはおもむろに頷いた。
もはや「はい」か「いいえ」の二択をゼスチャーすることしかないのだろう、と思いつつ、三体の意見が一致したことで処遇が決まった。
子供の体は、月影の下でまんじりともしないイブのいる牢屋へと移送されることとなったのである。
古城中央に佇む第一塔の最上階。
石を積み上げて造られたような凄然とした一室に、檻だけが取り残されている。その檻の中にうつ伏せに倒れ込む少女が一人――イブだ。
部屋の外に一人、黒装束の男が守衛をしていた。
三体の亜人は門番に事情を話し、気絶した子供も檻の中に入れることとなる。新しい子供の処遇はクライアントに任せる、ということになった。守衛の男に、子供が絹のように白い肌と整った容姿をしており、きっと喜ばれるだろう、という確信があったからだ。
建付けの悪い部屋の扉を開け放つ。
イブは起きていた。いつか誰かが来た時、奇襲に出てただでは死なないと腹を括っていた。しかし――
守衛の男の腕には子供がおり、逡巡する。
(……ダメ。子供がいる……攻勢に出れば、人質にされるかもしれないし、巻き込んで死傷させるかもしれない。これ以上ない好機だけれど…………もうダメですわ。わたくしには、この子を救うので精一杯……)
男は、イブが寝ているのを確認して子供を檻の中に放った。子供は床を少し転がり、背中を鉄格子にぶつける。
直ぐに檻の扉を閉じられ、足早に気配が消えていった。
扉が閉まる音でイブは男が出て行くのを悟り、扉を一瞥した後、体を起こす。
(どうしてまた子供が? わたくしを狙っていたのではなかったというのですか?)
すぐ隣には見覚えのある恰好をした子供が横たわっている。漆黒の髪は肩まで伸びており、初めは女性だと思ったが、そのシルエットでハッとする。
「ま、まさか……」
「――静かに」
思わず声量が上がりそうになったところ、倒れた子供からの小さい呟きに、イブは咄嗟に自分の口を手で塞いだ。
「そのまま聞いてください。まずはご無事なようでなによりです。どこかお怪我はしていませんか?」
「い、いいえ……大丈夫です。あの、もしかしなくても、ネロ様――ですわよね?」
ネロは静かに身体を起こすと、扉の先から反応がないのを確認し、胸を撫で下ろした。
そしてイブへと向き直ると、安心させるように微笑んだ。
「はい、助けに来ました。遅くなってしまい申し訳ございません」
イブの目から涙が零れ落ちる。静寂に包まれた部屋の中に、雫が滴る音が響いた。
ネロは胸ポケットからハンカチを取り出すと、イブに差し出す。
音もそうだが、これほど美しい女性に涙は似合わない、というネロの優しさもある。
「まだ泣くのは早いですよ」
「……どうしてあなたはいつもわたくしを助けてくれるのですか。わたくしが公爵令嬢だから、ですか……」
意地悪な質問だ。イブもそれを理解しているが、疲労感と感情が溢れているのもあって、理性が利かなくなっていた。
するとネロは、意味が分からないといった様子で首を傾げた。
「男の子が女の子を助けるのは当たり前ですよ?」
「え――……」
イブは唖然する。さも当然のように答える様は嘘偽りがない。人を見る目に自信のあったイブは、感覚的にそれが真実であると悟った。
わたくしは、この世界に落胆している。
夢と希望がもたらす魔法とまだ知らぬ知識に溢れ、わたくしも夢を見ていた。
けれど、現実は貴族界という息が詰まる環境、子供ながら他人の目を気にしなければいけないという言い知れぬ恐怖、才能という絶対的隔たり――。
わたくしは、ああしろこうしろ、こうあるべきという檻の中に閉じ込められていることが分かって、色を失った。
それまであった好奇心は、夢から現実に目を覚まさせられる粗悪品と化し、親を喜ばせたいという想いはいつしかわたくしを縛る鎖になった。
視界に映るのは色褪せた灰色の世界。確かに融通が利くところはあるし、わたくしの抱いているそれは我儘ではないかという惰弱もある。だから、わたくしは昂然と反発する、といった戦いをしようとはしなかった。わたくしはこの色褪せた世界を憂いる自分に慣れ、どうでもよくなっていった。
それを一夜にして照らしてくれたのがあの人――”わたくしの”【黒衣の騎士】。
魔法も使えない。家に縛られるだけの操り人形のような”公爵令嬢でしかない”わたくしを、誰より、わたくしが認められない。にも関わらず、かの存在はわたくしの存在意義を見出す希望の光――いいえ、闇として現れた。
黒い甲冑を身に付けた者に捕まったことで、死に行くか、利用されるか、汚されるか――なんにせよわたくしという存在が消え行く運命に入ったのを彼だけは救い出してくれた。
赤い血に塗れようが、悲鳴と混沌を背負い闇の中を突き抜ける唯一無二の存在。わたくしはそんな彼を何よりも欲した。
一目惚れだった。でも、ただの恋路でないことは明白。
――わたくしは、彼の物になりたい。
公爵令嬢という立場を利用されたい。女という性を利用されたい。鬱憤の掃き溜めにされたいし、とにかくなんでもいい――彼の道具になれるのなら、わたくしは公爵令嬢じゃなくなってもいい。
わたくしは”彼”が、この子――ネロ様であるという確信がある。
性格、態度、口調などあらゆる印象が異なる。けれど、ネロ・ディア・ロスティルの情報を調べる中で、とある噂が頭から離れなかった。
――ロスティル男爵家は、家に魔人を住まわせている。
ただの噂だけれど、その後、ロスティル家は一家全員行方不明となった。そして、ここにその嫡男がいる。
第三者が聞けば、噂という不確実性でしかないものに縋りついているだけだ、状況証拠に過ぎない、とののしるでしょう。
だけどそんなものは関係ない。わかっているもの。わたくしがわかっている。それが確信というもの。
間違いない……ネロ様がわたくしの、わたくしだけの――【黒衣の騎士】。何もないわたくしを救ってくれる唯一無二の騎士。だから、いつもわたくしを救おうとしてくれる。さも、当然のように。
嬉しすぎて綻んでしまいそう。わたくしの本性を曝け出せば、ネロ様は離れて行ってしまうかもしれない。けれど、知って欲しい。わたくしを好きになって欲しい。
嗚呼……なんて贅沢極まりない幸福感。こんな選択肢は初めて。こんなに……こんなに欲しいと思ったのは初めて。
――この人の子供が欲しい……。
イブは溢れる喜びに恍惚とし、円満愚息の顔を浮かべた。
「――第1段階」
ネロの右の白目が黒く移り変わり、瞳が炎のように赤く灯る。
右手に鋭い爪を出すと、瞬時に鉄格子を切断した。
音が鳴らないように切り離した鉄を置き、自分とイブを檻の中から脱出させる。
「できるだけ気付かれたくないので、音は最小限にしてください。でも、気付かれてもボクがなんとかしますので、安心してもらって大丈夫ですけど」
柔和な口調と、笑みを浮かべて安心させようとする。
しかし、不安を抱いているような憂いはなかった。イブはネロの右目を不思議そうに見つめている。
注意したので口には出さないが、落ちぶれた好奇心が再興したような感覚に陥り、わくわく顔になっていた。
ネロは瞳を隠すようにして髪を弄りながら窓から外の様子を窺った。
ここは城の最上階に位置する。逃げる為には下に降りなければならない。けれど、扉の外には見張りがいて脱出は難しい。下は魔物がひしめき合っていて、時間を掛ければ、さっきの亜人や下の魔物が次から次へと押し寄せて来る可能性もある。
(……ボクの力じゃ、突破するには力不足だ……)
ネロは、暫時自分の無力さに落胆した。だが直ぐに気持ちを切り替え、イブの様子を窺う。
(イブさんには知られたくなかったけれど、今はそんな事を言ってられる状況じゃない)
そう葛藤して後、神妙な面持ちで言う。
「イブさん、絶対に内緒にして欲しいんですけど」
自信無さげにそう始めるネロに、イブは喜びに顔が崩れそうになるのを「へ? ……なんでしょうか」と口元を覆いながら誤魔化した。
「これから見せるもの全て、見なかったことにしてください。お願いします……」
ネロは頭を下げて懇願した。
「何を言っているか分からないと思います。それでも、約束して欲しいんです」
すると、イブは即答する。
「勿論、当然のことですわ。わたくしを助けて下さる騎士様の願いを聞き届けないなどという恩に仇を返すような行い、このイブノヴァフランデル・ヘルローサ・レッケンバルドの名において許しません。それが例え自分自身だとしても!」
真剣な眼差しに信用できると確信したネロは、相好を崩し、すっと立ち上がって呟く。
「――〈第2段階〉……」
ネロの左目も黒く染まり、血のように真っ赤な月が光りを宿す。
外から吹く風を受けて闇より黒い髪が靡く。不敵な笑みを浮かべ、満月を背に窓際に佇む彼は――クロとなった。
それまであった心配と優しさに溢れた誠実な彼の面影は消え、全てを飲み込んでしまいそうな支配欲の孕んだ冷酷な印象を出現させた。
それは紛れもなく、以前森で助けられた彼女曰くの【黒衣の騎士】の姿だった――。
「はあ……」
思わず表情がとろけてしまうイブに、クロは眉尻を下げる。
「What's are you doing?」そう言って直ぐに、今の言葉が伝わらない事に気付き、訳した言葉を投げかける。「……何してんだてめェ」
「やはりあなたが黒衣の騎士様だったのですね!」
歓喜に打ちひしがれたイブは感情が溢れ、縋るような口調で訊ねた。
「あん?」
「いいえ、分かっていました! 分かっていたからこそ、ここまで我慢するのに必死で! ですが、それももう終わりということなのですね! 漸く、わたくしはあなた様に見初められたということなのでしょう!! 今日はなんて素晴らしい日――まるで運命と自分が認めた相手に処女を捧げられる光栄に甘んじて受けているみたいです!!」
クロはおっくうになりながら頭を搔き、訂正しようとした。
「……たく、変な奴の面倒任せやがってネロのやつ……。
勘違いするんじゃねェ、女。オレはクロだ。そのなんたら騎士ってのじゃねェよ」
「いいえ、あなた様はわたくしにとって黒衣の騎士。わたくしを救ってくださる唯一無二の存在です!」
(話聞かねェなこいつ……置いてってやろうか)
(それはダメだよクロ! その子を助けるために来たんじゃないか!)
「はあ……」
ネロの精神に絆され、クロは溜息混じりにイブの腹部を抱え込んだ。
「ああ……わたくしに触れてくださる。こんな荷物を持つかのように……なんて喜ばしいのでしょう。わたくしはこのままあなた様と共にどこか遠くへ行くのですね」
熱っぽくなる頬を押さえ、夢を見るように独白する彼女にクロは身を引いていた。
「何言ってんだてめェ。丸一日拉致監禁されて頭が狂ってんじゃねェのか?」
「そうかもしれません。いいえ、きっとそうなのです。そうということにして、今の状態のわたくしの発言は気にしないでください。ただただ、あなた様をこんなに近くでお目に掛かれる光栄に身もだえしているに過ぎないのですから」
「あー……よく分かんねェからほっとくぞ。後の事はネロに任す!」
「はい。わたくしはあなた様の思うがまま、成すがままに生涯ついて行きます」
「んじゃあ……」
「な、そこで何をしている!!?」
イブが昂って捲し立てていた声が外まで聞こえてしまっていたおり、守衛をしていた黒装束の男が中に入って来た。
クロは「おせえよ」と言いたげに鼻で笑うと、窓から外へ飛び出す。
「Let's go! HAHAHAHAHAHA!!!」
高層からの急激な落下にも、イブは自分の世界に入り気付いていない。
高笑いするクロは城の壁を走り、軽快に一つ目の屋根に着地する。
更にまた落下し、二つ目の屋根、そして地面に着地した。
突如として空から現れた二人の人間。魔物の注意は一気にクロへと集まった。
(ゴブリン、スケルトンにコボルト……それに奥にはオークもいる。数だけで言えば、魔物の狂乱だな)
「なんだ? そんなにオレが珍しいか――魔人の俺が」
「あら? ここは……流石はわたくしの騎士様。もう脱出してしまわれたのですね。ですが……いつの間に」
現実に引き戻されたイブが周囲を確認して呆ける。視界のほとんどが魔物で占められていても、怯える様子はなかった。
クロもイブの声で我に返り、現状相手をしていられる時間はない、と律する。
「ちっ、本来なら相手してやるところだァが――今回はお荷物がいやがるからな……。また後で一掃してやるから、大人しく待ってろよ!」
そう言い残すと、クロは人一人抱えているというのに軽い身のこなしで魔物の間を素早く縫って駆けていく。
跳躍し、魔物たちの頭を足場にしてものの数秒で城から離れようとしていた。
「人質が逃げたぞー!」
城の上から顔を出す守衛していた男が、大声で報せる。
(バーカ、人質なわけないだろ。この薄っぺら野郎が)
心の中で反論を呈しながらオークの脇腹を素通りし、魔物の大群からまんまと逃げおおせた。
「ちぃ……低級の魔物で布陣していたから、逃げられてしまった……!!」
古城からはもう百メートルほど離れているが、耳のいいクロには通常と変わらぬ程度には聞こえている。
「はっ、聞こえてんだよカス。低級どうのなんざ関係ねェ。例えてめェみたいなカスが千いようとも、オレは余裕で逃げられるぜ。本来、逃げるなんてのは性に合わないんだがな」
「流石ですネロ様! こんな動きをする騎士は見たことがありません!!」
「ああ? だからオレは…………もういいや。さっさとてめェの家に戻してやるから、大人しくしていろ」
「嫌です!」
「そうか…………はあ!? なんでだよ……」
反論も面倒で、早く仕事を終えようとするが、思ってもみない科白に動揺する。クロは呆れて肩を落とし訊ねた。
「わたくしはもっとネロ様と一緒にいたいのです! わたくしを拉致してください!」
「……何故……。っ――!!?」
出し抜けに現れる敵意を察知すれば、クロは紙一重で反応する。強烈な威力だったにもかかわらず、頭目掛けて射られた矢をしっかりと手掴みした。
(魔法で強化された矢――昨夜の魔物騒動の時に魔物を先導していた奴か!)
「貴様ァ!! 我が未来の妻に何をするか!!」
馬に乗った憤慨を露わにする男が、他に二人の黒装束の男を引き連れ現れた。
緑色の外套に白のパンツ、貴族らしい洋装をしている。魔女鼻とウェーブが掛かった髪が特徴的な男は、馬から降りると腰にさしていた剣に手を掛けた。
「その女子が、イブノヴァフランデル・ヘルローサ・レッケンバルドと知っての愚行か!」
彼の後ろで馬に乗ったままの黒ずくめは弓を引き、矢尻を見せつけ脅しに掛かっている。しかし、クロの目から見れば、それは弱者が威嚇しているのと同義だ。暗い中でも冷や汗が出ているのが分かる。
「はっ、こいつは笑えるぜ。てめェこそ分かってんのかよ! こいつは公爵令嬢。貴族のてめェがこの女を誘拐したとなれば、刑罰もんだぜ、リドリー・クジリュグ・ラクアスマイン!」
「な、なぜ私の名を……」
クロが彼の名を呼んだことで、魔女鼻の男はたたらを踏んだ。
「あんたがこの女の披露宴で一目惚れしたことも知ってるぜ。その後直ぐに結婚の申し出を出したこともな!」
「なっ……!」
「しかしあんたは断られた。そりゃあそうだ、名立たる他国の王子すら目を輝かせる当時10歳のガキが、30近くの、しかも敵対派閥にいる男を選ぶはずがねェ。まあそもそも、こいつは申し出があった全員に門前払いを突きつけたみたいだがな」
「わたくしの理想の男性がいませんでしたので」
「ちっ……何故それを知っている!?」
「ちょっと調べればこのくらい出て来るさ。なんせあんたの情報防御力は皆無に等しい。優秀な友人もいないみてェだから、うちの優秀な奴に頼んだらすぐ分かった。
にしても、こんな事をやらかしてあんた、自分の身を心配した方がいいんじゃねェか? オレがここであんたをあの世に送ってやってもいいが、それよりこのままオレがこの女を奪って成り行きを見守るのも面白そうだ」
「う、奪うだと!?」
「あぁ……わたくしはネロ様に奪われてしまうのですね。奪って欲しいです、身も心も!」
(うるせえ……話の腰を折るなよ)
切実に嘆願するイブを窘めたかったが、これ以上話を横に逸らしたくはなく聞かなかったことにする。
しかし、今のイブの言葉にリドリーは逆上した。
「……まさか貴様……イブノヴァフランデルを篭絡し、自分の物にしようとして私を陥れるつもりだな! 全ての罪を私に押し付けることによって!!」
「てめェはバカか……? 犯人がてめェなのは誰がどう見ても明らかだろうが!!」
「ええい、うるさい! 黙れ!! 私の夢を脅かす貴様を許せるわけがなかろうが! ミミッド、こいつをコロセ!!」
「そう簡単に心折られちゃくれねェか……。まっ、面白いのは後にとっとくとするか」
非武装の黒ずくめの男は合図出し、もう一人の男に矢を射らせる。
力強く放たれた矢は一直線にクロの上半身を捉えたかに思われたが、矢尻は掠りもしなかった。
クロはイブを持ちながら横に移動し、余裕綽々といった様子で躱していた。
クロはイブを両手で持ち、見せつけるようにお姫様抱っこをする。
「はぁ……騎士様……」
目が虚ろになるイブを他所に、リドリーは焦燥を煽られて味方の男に恫喝する。
「バカ者!! イブノヴァフランデルに当てるつもりか!!」
「無理言わないでくださいよ……」
「なにを腑抜けたことを……のろまな矢しか放れぬ愚か者が! 傷物にすれば貴様に明日は来ないと思え!!」
「怒声をまき散らして偉いつもりかよおっさん」
「なんだと!? 偉いつもりではなく、偉いのだ! 私はラトゥーリエ王国子爵位、リドリー・クジリュグ・ラクアスマインだぞ!! 本来、貴様のような平民が私と口を利くことすら叶わぬほど偉いのだ!!!」
「へえ? なら偉いおっさんに訊くが、何故あんたがオレに向かってこないんだ? その手に持っているのは剣だろう。何故、あんたがオレを殺りにこないんだ? 弓は武器として優秀だが、前衛で戦う者がいなければ恰好の的にしかならない。あんたは剣を持っているだろう? 丁度いいじゃないか」
「ふ、フン! 言われずとも分かっておるわ、下衆めが!!」
リドリーは剣を両手で持つと、ぎこちない構えを見せる。まるで持ち慣れていない様子だ。
しかしその姿勢はクロを満足させるものだった。
「そう来なくちゃなァ……。だが、いいのか? オレは今、てめェが愛しくてやまない女を抱えている。そのまま斬りに来れば、この女を斬ることになるかもしれないが」
「貴様がイブノヴァフランデルを人質にするというのか!?」
「あん、それでもいいです。あなたに利用されることこそ、わたくしの存在意義ですもの」
「……オレはこの女を連れて逃げるだけだ。あんたたちの相手なんかしない。しかしあんたはオレを斬りたい。だが、斬ろうすれば、当たる可能性だってある。傷物にしたくないあんたは本気でオレを斬ることができるのかって訊いてんだよ」
「な……」
リドリーが動揺するのを確認すると、ネロは身を屈ませて走り出す。
「――それじゃあな」
「行かせないぜ」
突如として現れる声に足を止める。
クロは舌打ちしながら状況の変化に舌を巻いた。
周辺の木立からこの場を取り囲むようにして現れる魔物の軍勢があった。先程塔の最上階にいた黒ずくめの男が魔物たちを動かし、この場に現れたのだった。
(時間を使いすぎたな。無力な女を担いで逃げるのに神経使いすぎたか……)
「よくやった、ナンバースリー」
「協力者から借りた亜人たちも呼んできた、逃げ場はないぞ――【闇夜の魔人】!!」
グール、オールドゴブリン、ワーウルフと三体の亜人が背後から迫って来る。各々、やる気満々というように肩を回してニヤケていた。
「もう少しで契約が終わるのじゃ。さっさと終わらせ、我々の自由をもたらせようぞ」
「こいつコロス。コロせばいい」
「……」
(亜人――か。たかだか三体ばかりで、オレの相手がつとまると本気で思ってんのかよ)
「やれ、お前たち!!!」
男が号令をかけ、血走った目をした亜人たちがいっせいに攻撃を仕掛けた。
「小さき石よ敵を撃て!」
グールは魔力で生成した金槌を持ち、オールドゴブリンは初級の土属性魔法にて、石つぶてを放る。ワーウルフは背中の大剣を持ち、先んじて距離を詰めた。
「じっとしてろよ、女」
「っ――はい!」
そうイブに囁くと、クロは微小な跳躍を二度行うことで魔法を躱した。
けたたましい声を挙げながら、ワーウルフに頭上から大剣を振り下ろされる。
クロは体を仰け反らしながら足を上げ、靴の踵部分で刃の側面を擦り、やや弧を描くようにして軌道を逸らしつつ地面へと持っていく。
体を元に戻すと同時に270度反転し、逆足で大剣を押さえつけながらワーウルフの顔面を右の踵で蹴り飛ばす。
大剣だけが残り、ワーウルフの体は樹木を粉砕しながら仰向けに倒れた。
ここまでまだ一秒と掛かっておらず、追撃しようとしていたグールは絶句して足が止まった。
ありえない、と言いたげに周囲はどよめき、一瞬の内に静かになった。
「どうした、来ないのか? まだ準備運動もできていないんだが」
「くっ……ええい、ミミッド! この無礼者をどうにかしろ! 貴様の力ならば、問題あるまい!!」
「サあ、どうデしょうかネぇ……」
ぐったりとした抑揚の激しい口調の男が前に出てくる。
すると、戦々恐々としながらもリドリーは、笑みを浮かべながら自身の左腕の袖を捲り、禍々しい刺青を見せつける。
「奴隷契約とは! 他者を主人にひれ伏させ、敵対行為を禁止することもできるが、それ以上に素晴らしいのは奴隷契約した者を操るという事項。私は、この者らの力を強制的に行使することができるのだ!!」
刺青が赤黒い光りを放ったかと思うと、ミミッドと呼ばれた男の背筋がピンと伸びる。
それに合わせ、他の二人――黒ずくめの男たちが虚ろな目となり、クロへ無機質に身体を向けた。
「魔人だかなんだか知らないが、貴様のどこが魔人なのだ! 伝説を語るには、貴様の形相は物足りなさすぎるわ!!」
「てめェは勘違いしているぜ。魔人ってのは――」
「うるさい! 黙れ! 貴様の話を聞いていると頭が痛くて敵わんわ。口を閉ざし、自分を魔人と豪語した己の惨めさを憂いてあの世へ逝け!!!」
「あ゛ん?」
クロは眉間に皴を寄せ、くわっと目を見開いた。
黒ずくめの男たち、内二人は腰の短剣を装備する。一人は馬から降り、矢をつがえてめいいっぱいに弓を引いた。
弓を引く腕は膨らみ、肩から先の衣服が破け、強靭な筋肉が露出する。弦が切れそうになるほど引っ張っていた。
その間、前に出る二人は互いに交差するように移動し、左右二方向から仕掛ける。
その二人が間合いに入るのを皮切りに、矢が射られた。
「おい女、目を瞑っていろ。そして耳を塞げ」
リドリーが勝利を確信してして前に出るのを他所に、クロはイブに要求する。
その瞬間、弓を持っていた黒ずくめの頭部が吹き飛んだ。
首から飛び散る血しぶきが、リドリーの後頭部に掛かる。
「へ――?」
ゆっくり振り返るや、首から先の無い体だけが倒れていた。
「っっっ!!??」
「下手を打ったな――リドリー。てめェはこのオレを怒らせちまった!!」
彼の放った矢は、クロに傷一つつけられなかった。瞬く間に避けられ、向かった黒ずくめの二人も、脚を折られて地面に這いつくばっている。
クロは背中に翼を生やし、頭におどろおどろしい角を携え、口から牙を零していた。
それを目の当たりにしたリドリーは絶句し、その場にへたり込んでしまった。
「〈第3段階〉……魔人・異系体――」
クロの後ろでは二体の亜人が既に倒れており、どちらも一様に首から上が無くなっていた。
クロの左手に、グールの頭が握られていた。
弓男の頭を吹き飛ばしたのも、オールドゴブリンの頭で、ワーウルフの頭も彼のすぐ傍に石のように転がっている。
「次は――てめェだ!!」
「ひっ……う、うわあ゛あ゛あ゛!!!」
リドリーはたたらを踏み、躓きながらも逃げた。
クロはグールの頭を投げようとする。
だが、投げる途中で頭を握りつぶしてしまった。
「……グールの頭は軟弱すぎだな。さっきぶんどった時が上手すぎたのか。あ、やべ……」
グールの頭部を握りつぶした時に霧散した皮膚が隣のイブに掛かったかもしれないと目をやる。するとイブは目を輝かせて顔を覗き込んでおり、クロはたじろいだ。
「うわっ! ……てめェ、目を瞑れって言っただろ!?」
「いつまでとは申されませんでしたので! それに、あなた様の勇姿を見届けられないなんて不幸が過ぎますわ。ですが、今の振る舞いで確信いたしました。やはりあなた様こそわたくしの希望! どうぞ、わたくしに子を孕ませてください!!」
「……あ?」
なに言ってんだこいつ。なんか、目が怖いんだが……。
「ネロ――! もしくはクロ――!!」
遠くから呼び掛けが掛かり振り返れば、前方からどんどん魔物をなぎ倒しながら進んでくる者たちがいた。
魔物たちは全て背中を見せて固まっている為、多少無理に押し進んでも問題無い状況だった。トーマはそれに気付いてセンカイと共に剣を振るい魔物をどかしながら近づいてくる。
(トーマたちか、意外と遅かったな。面倒そうだし、助けてやるか)
「シャドウスローンズ」
手を掲げると、足元の影が魔物たちの影の中へと入って拡大し、前方一帯の魔物たちを影の中に引きづり込んでいく。
ゴブリンやスケルトン、コボルトといった魔物たちがどんどん影の中に沈むことによって視界が開け、漸くトーマたちの顔を視認することができた。
「遅かったじゃねェか、てめェら」
「遅かったじゃねえか、じゃねえ! お前はいつになったら――」
「その辺にしときなさい。魔物に囲まれている中で説教なんて始めていないで、さっさと状況を収集するわよ」
「その辺っつっても、始まってもねーぞ!」
「クロ、魔物の中から出てきた男を倒しておいたわ」
センカイが気絶したリドリーを襟を掴んで運んで来た。
その後ろを、リドリーを監視するようにシロがむっとして睨み付けながら近づいてくる。
「お、助かる」
「このくらい当然よ」
「それをやったのは俺だ――!! なに自分の手柄みたいに言ってんだよ!」
「……別にいいじゃない……。っ……もしかして?」
セシルは、トーマににじり寄られて顔を背ける。すると、クロの隣に自然と立つ少女を見つけて訊ねた。
「ああ。こいつが――」
「ネロ様の婚約者です」
クロが説明しようとすると、イブはさも事実かのように宣言する。
クロは諦めるように頭を抱え、セシルは茫然とし、トーマは驚きのあまり叫んだ。
「婚約者――――!!!?」
「うふふふふ」
「じょ、冗談よね……?」
「あたりま――!?」
「いいえ。つい先程、好きと好きが混ざり合い、結ばれたのです。わたくしも最初は驚きましたが、男性が女性を助ければ起こり得るべき事。困惑も次第に運命と思うようになり、わたくしたちの未来は強固な愛情が育む道へと変化しました。皆わたくしが公爵の娘だからと思うでしょうが、それは二人にとっては些細な事。それが障害となるのであれば、着の身着のまま愛の逃避行も考えているところです」
イブはクロの口を塞ぐと、威圧するような笑みで虚偽を捲し立てた。
「その辺にしておけ。とにかく今はこいつをどうするのか――」
地面に仰向けになって気絶するリドリーに目を移せば、一人の黒ずくめの男がいなくなっていることに気付く。先程脚を折って動けなくしたはずだが、リドリーに『ミミッド』と呼ばれていた男の姿がない。更には、リドリーの左腕の刺青が再び色を帯びていた。
次の瞬間、懐深くへ侵入してきた者が下から抉るように掌を突きだしてきた。
脚は片足のみ。けんけんの要領で片足で走っていた。
「――《掌底》!!」
クロはこれに反応し、腕を払う。すると男はすぐに距離を取り、近くの木の枝の上に着地して仮の謝罪をする。
「申し訳ナいですうぅ。話が長かっタもので、ついつい手ガ出てしまいまシタぁ」
「あいつ……! クロじゃなけっりゃあ危なかったぜ」
「構わねェよ。どうせ完全に死角に入られたところで、てめェじゃオレまで届かねェからな」
そう言うと、クロは角や翼、牙をしまった。魔人の特徴が残るのは、黒目の赤い瞳だけとなる。
「私でハ力不足だト? 見た限りデはたイりょく切レのようには思えませンがぁ」
「どうやら魔物を掃討する必要もなさそうだからな。てめェの相手はオレじゃねェし」
「なんデすとぉ? っ、なンだぁ!!?」
出し抜けに、男の脚を何か細い物が掴んだ。
男はそれに引っ張られ、顔から地面に落下しようとする。
地面に着く直前、男は全身を糸でぐるぐる巻きにされて止まった。
シロが右手薬指に嵌めている指輪から銀の糸を出し、黒ずくめの男を捕縛したのだった。
「言っただろ、てめェじゃ役不足だってな。オレにはこれだけの味方がいるってのに、オレしか見ていないてめェじゃあせいぜいその没落貴族の下僕がお似合いだぜ」
「ぐ……んぐぐ……わ、わタ、ワたシはァ――!!」
ミミッドはもがき、這い出そうとするが、そうする度に銀の糸が強く締め付けた。
「こんなァ……コンナ奴のォ……こんな奴のゲボク、ンナド……!!」
シロの睨み付ける眼が、殺意を孕むものとなる。
骨の折れる音が響き渡り、セシルはシロの肩を叩いて正気に戻させた。
「シロちゃん、それ以上は!」
シロが少し絞めつけを緩めた瞬間、ミミッドは大声で叫ぶ。
「――ヤレ、コノバを血でソメアゲロ!!!」
魔物たちが動き出す。それまで静寂していた森が再びざわざわと唸りを上げた。
しかし――
「ウラ・ノワール・デ・ブエルタ」
クロがそう呟くと、彼の体から弾けるように黎い衝撃波が放たれる。
トーマたちにとって、それはなにが起こるのか分からない不安な波だった。体に痺れ沁み込むそれに恐怖を覚える。
ただ、魔物にとっては畏怖すべきものだった。衝撃波に触れる度に塵となって次々と消滅していく。
クロにとっては、実際に拳を振るう方が好みだ。だが、ここには守るべき者が大勢いる。綻びがあれば傷を作る者が出てもおかしくない。ゆえに、魔法を使用した。
魔法の詠唱は、誰も聞いたことがない、魔法と呼べるものかどうか怪しいものだったが、それを魔法と片付けなければ納得ができないのも確かだった。
ミミッドはぐったりとした。魔物が全て消え去り、どうしようもないと諦めたのである。
「……降参でスぅ」
クロは役目を終えたと見切りをつけ、意識をネロへと戻した。瞳も元に戻り、先程の魔人の容姿が嘘のように平凡と化す。
ネロはクロであった時の記憶も保持している。無論、シロの勇姿もその目に焼き付けていた。ゆえに、まっさきにシロの下へ移動する。
ネロは誇らしげな笑みを浮かべ、シロの頭を撫でた。
「よくやったねシロ」
「ううん……さっきの、兄さんじゃなきゃダメだった。だから兄さんのおかげ。ありがとう!」
シロはネロの頬にキスをし、屈託のない笑みを浮かべる。
ネロもたまさか相好を崩した。
(良かった。皆無事だ……ボクも、クロと同じくらい強くならないとね)
トーマとセシルは溜息をつく。クロが逃げた後では何も言えないが、今の魔法については追及したかった。
クロはネロと違って魔法が使用できる。しかし、これまでは今のような広範囲の殲滅魔法などはなく、初級魔法や中級魔法の中で、基本魔法を威力高めに放てるというくらいだった。いや、くらい、とおさめるには些か強すぎるが。
今のは、ラーディストリートイレギュラーズの存在そのものを大きくしてしまいかねない魔法であると二人は気付いていた。
クロ――彼の存在は、今だ子供たちの中でも謎であり、測り知れないというのが常である。
とはいえ、此度の事件が無事に収まったのには安心するしかない。トーマは早急に引き上げるよう指揮を執り始める。
こうして、公爵令嬢のとりまく事件は幕を閉じた――。
◇
ネロたちのいる古城近くから遠く離れた崖の上に白ずくめの男が佇み、様子を窺っていた。
月明かりに照らされ、彼の白装束は燦然と光りを反射した。
「確かに面白い子だ。ネロ・ディア・ロスティル……ラトゥーリエ王国男爵家の息子――そして、魔族帰りでもある。
私はとっくの昔に郷を離れ、キミのような習わしからも離れてる。だが、それを差し置いても興味深く、実験しがいがあると思った。いいよ、手伝ってあげよう。あくまで私の好奇心が望むまま――だけれどね」
逆に、月明かりを受けても尚、昏く居続ける者がその後ろにいた。
「構わない。ウチがあいつを――」
男とも女とも分からない声色を偽ったような声は、恨み混じりに吐き捨てる。
「コロス!!!」
「彼はどう思うだろうね……見ものだよ」
◇◇◇
イブは再び教会を訪れ、川遊びに参加した。
勿論イブを狙った主犯は捕まったが、護衛も付いて来ている。だが――今回の心配事は狙われることではなく、イブがネロを口説く行動にある。
「ネ~ロ~さ~ま! 公爵邸にいらっしゃってください。わたくしの許嫁になってくださいまし!」
ネロはたたらを踏みながらしずしずと断る。
「ご、ごめんなさい……」
「どうしてですか! わたくしは魔法の才は乏しいですが、頭脳明晰、プロポーションにも自信があります! ほら!」
イブは胸元を拡げてアピールした。すると、レヴェナとセシルが憤慨しながらしまわせる。
「「見せんな!!」」
ネロは何をしたのかわからないといった様子で小首を傾げ、困ったように笑う。
「なにやってんの!?」
「ちょっとどういうつもりあなた!?」
「なんでしょうかあなたたちは……邪魔しないでください。わたくしは今、殿方と愛の契約をしようとしているのですよ!」
「それのどこが……! ちょっとネロ! そこに直りなさい! この子あなたの子供を産む約束をしたって言ってるんだけど! どういうこと、お姉ちゃんに教えなさい!!」
「そうよ不健全よ!」
レヴェナとセシルが二人して顔を近づけ、叱責する。
しかし、ネロには覚えがなく、言葉につまった。
「……え、えっと……そもそも子供を産むってどうするの?」
「そ、それは……」
「そういえば、確かに。どうするんだろう……」
「あ、あなたたちね……」
ネロとレヴェナに疑問符が生じると、セシルは顔を赤らめ明後日の方を向く。
「ねえセシル。どうするの?」
「うっ……さ、さあ? わ、わたしも分からないわ」
「じゃあ後でシスターに聞いておかなきゃね!」
「そうだね!」
「や、やめときなさい!」
「そ・れ・よ・り! ネロ様、こんな孤児院で暮らすよりも貴族の御屋敷で暮らした方が幾分か生活がマシになります。まずはわたくしの騎士になるということで、公爵邸に暮らしましょう! 元々貴族なのですから、礼儀や作法も申し分ないはず。お父様もお喜びになりますわ!」
騎士というのは、一種の称号だ。
平民であってもこの称号を頂くことができ、騎士となった者は特定の主人に様々な形で奉仕する。主に近衛兵や守護団、従者のような役目を担うこともあり、それらは一様に主人を守る責務を全うしなければならない。
イブの騎士となれば、平民の暮らしから一変して公爵家で不自由ない生活を送ることができる。ゆくゆくは貴族位を与えられるようになるため、貴族相手との婚約も不可能ではなくなるという利点もあった。
しかしネロは本来、貴族とは深くかかずらうことを良しとしていない。元貴族で貴族界から追われ、狙われる身であるため、余計な干渉はしたくないという思いがあるためだ。
また、貴族の生活に戻れるという利点は、ネロにとっては利点ではなかった。
「ごめんなさいイブさん。ボクは……ボクたちは、今の暮らしを捨てるつもりはないんだ、これっぽっちもね。不自由が嫌だなんて思ったことはないし、昔の方がよかったなんてそれほど思わないよ。だってここには皆がいてくれるし、困ったことがあればそれを解決する。その過程を楽しんでいるんだ」
「…………そう、ですか……。無理にとは言いたくなかったので、ひとまずはこの辺で諦めます」
涙目になって縮こまっていくイブに、ネロは罪悪感を感じて再び謝罪した。
「う、うん……本当にごめんなさい」
「ネロが謝ることじゃないでしょ。あなたはそれでいいのよ、それがいいの」
「……ありがとう、レヴェナ」
「ですが……」
「?」
「また、遊びに来てもよろしいでしょうか」
「もちろん――」
「当たり前ですよイブノヴァさん! 俺たち皆で歓迎させてください!! いやあ、あなたのような麗しい女性がこんな王都の端にまで来て下さるなんて、皆涙腺が崩壊するほど嬉しいです!!」
ネロの言葉を遮り、トーマがイブの手を握る。ネロにフラれた形となったイブをにこやかに慰めようとした。
しかし、イブは瞬時にネロへと抱き着き、別れを惜しんだ。
「な……」
ネロはきょとんとするが、他の子供達は唖然として固まった。
「必ず、いつかあなたをわたくしの騎士に致します。ゆめゆめ忘れないでくださいね」
「が、頑張ってください……?」
どう返答すればよいのか思いつかず、ネロは労いの言葉を掛けた。
イブは歔欷しながら護衛の人達と共に踵を返していく。
護衛の中には、イブが誘拐された時、教会に探しに来た青年もいた。去る折、ぎこちなく微笑んで会釈してからイブの後を追う。
去り際の青年の様子を見て、ボーラスがまたへそ曲がりに「なんだ、また喧嘩売ってんのか?」と呟いた。
「違うわよ。あれはあれで感謝してるんじゃない? ネロくんがあの子を救ってくれたから」
「そうかもね」
「それで、あの後どうなったんだよあの貴族の主犯は」
イブに拒絶されて残念そうなトーマが憂鬱に訊ねる。
「クロの予想通り、本当に没落貴族となったようよ。あの事件以外にもあくどいことをしていた証拠が挙がったみたいで、情状酌量の余地なしとして、辺境送りになったって聞いたわ。まあ、これも全てあの子に聞いたことだから、世間には出回らない情報でしょうけど。
ネロも安心していいわ。わたしの魔法で、ネロが『闇夜の魔人』であることは忘れさせているから。あの人はただ”彼”に成敗されたと思い込んでいるはずよ」
「ありがとうセシル。いつも助かるよ」
「貴族はいいよな。結構ヤバい事件起こしても、死刑は免れるんだからな」
「今回は未遂に終わったっていうのもあるとは思うけど。公爵は憤っているみたい。それも大公派閥へと繋がる糸口がなにも出なかったからでしょうね。
――でも、今後も気を付けるべきね。貴族と関わると碌な事にならないから!」
そう言って、セシルはネロを睨み付けた。
「え、なに? ボク、なにかした?」
「別に……」
「ひとまずネロは出禁ね。大いに反省してもらわないと!」
「ついでに面会謝絶にしておこうかしら。そしたらあの子も来なくなるかもしれないし」
「え? え? え? な、なんで!?」
「まあ頑張れネロ。俺は知らん!」
「ちょ、トーマまで!? なんで、どうして――!?」
ネロが困惑しているのを他所に、シロは意気揚々と指輪の魔道具を使い、魚を釣り、満面の笑みを浮かべていた。