【三章】
冬が始まる少し前の出来事。
木々のざわめきが辺りに不気味さを演出し、太陽の光を遮断するかのように鬱蒼と生い茂っている。時折、肌寒い風が空気とともに通り抜けていくが、それも数えるほどにしかない。
枝の隙間から空を見上げてみれば、黒い影が幾重にも連なって暗闇を生み出していた。それはあたかも獲物を見つけた魔族が、狩る瞬間を躊躇わせているとも言い換えられそうだった。
その薄暗い森の中を、昂然と歩きゆく女性が一人。
真っ黒なローブに身を包み、大き目の肩掛け鞄を携えている。
魔族に襲われるかもしれないという危機的状況が続く中、血に近しい瞳の色を持つ女性は、腰まで伸ばした長い髪を揺らめかせながら歩く。それは恐れなど微塵も感じさせないかのような態度だった。
やがてその女性は、たった一度も魔族に襲われることなく、とうとう目的の場所へと辿り着いてしまった。我が身に降りかかるかもしれない危険をおしてでも、行かなければならなかった場所、それは高根の古城だ。
魔族の巣窟ということもあって、周囲には数え切れないほどの魔族の姿が確認できる。だがおかしなことに、その中の誰一人として、彼女に襲いかかるものはいない。
武器も持たない人間、それもか弱そうな女性が、此処に来るわけがないと認識していたのだ。
その光景は正に異様であった。
予期せぬ訪問者を前に騒ぎ始める魔族の群をよそに、女性は城壁をくぐりきってしまい、城門を目指して真っ直ぐに歩いていくではないか。
誰かが止めなければならないと思いつつも、結局は誰も行動に移すことができないでいた。
異様な空気が流れる中、遂にその瞬間が訪れてしまった。
「人間が、たった一人で吾の許を訪ねてくるのは久方ぶりじゃの。……汝、名をなんと申す」
城門の前に佇むのは古城の主――魔を統べる王リュウオ=リヴァースだった。
危険はないであろうと考えているのか、リュウオの後ろに立つトルエカは臨戦態勢には入っていない。
リュウオの問いかけに、その女性は返事をしない。
「……汝よ、吾が怖いのか。じゃから返事をせんのか」
それは違う、と首を振る。
女性は肩にかけていた鞄を下ろすと、中から草紙を取り出して破ってみせる。同時に、一本の筆を手にして、すらすらと筆先を動かしていく。
文字が綴られた紙には、次のようなことが書かれていた。
――わたしの名は、ノイン=ラヴィリンスと申します。
言葉を用いず、紙に文字を綴り名を名乗る。おかしなことをするものだと感じたが、ノインは気にもせず更に次の文字を書き綴っていく。
――魔族との契約を結ぶ、魔契約者にして占師です。
「……ほぅ、占師とな」
魔契約者といえば、人間ではなく魔族に近しい存在として知られている。十分の一ではあるが、契約を結んだ魔族の魔力を扱えるようになるため、もはや人間とは呼べないからだ。
「占師が、吾に何用じゃて」
用件を求めると、ノインはその問いかけに応じる。
――わたしは、とある女性の専属占師です。その女性の名は、ヘレナ=ロギスタニアといいます。この大陸に巣食うからには、魔族たる貴方もその名はご存知でしょう。
ヘレナ=ロギスタニアとは、此処ロギスタニア大陸を治めるロギスタニア城の王女の名だ。
王女の専属占師であるノインが、いったい如何なる用事を持ってリュウオの許を訪ねたのか。
――王女の前途を幸あるものとするため、わたしは幾度となく手にした魔力を行使してきました。そんな時、わたしはふと考えてしまったのです。自分自身の行く先とは、果たしてどうなっているのだろうかと。
占師として生きているのだから、その欲求は当然のものといえるだろう。占師としての魔力を持つノインを王女が頼るように、ノインもまた自身の魔力に頼ってみたくなったのだ。
――一度でも思考してしまえば、もう後戻りはできません。我慢できなくなってしまったわたしは、つい先日、自身の未来を視通したのです。
「ふむ、占師が自身を占うとな……。いや、実に興味深いの。えてして、汝はどのような結果が視えたのじゃ」
――貴方とわたしが、契りを交わすであろう未来が視えました。
恥ずかしげもなく、ノインはその科白を言葉にした。
一切の戸惑いや躊躇いも見せないその毅然とした態度に、さしものリュウオは眉根を寄せる。
「吾が……汝と、契りを交わすじゃと……?」
予想だにしない科白に、むしろ戸惑いを見せたのはリュウオの方であった。
「なにを馬鹿げたことを言うておる。吾は魔を統べる王リュウオ=リヴァース、人と交わろうなど考えもせぬわ」
思わぬところで真名を告げたリュウオだったが、ノインは気にも留めていない。言われなくとも初めから理解していると言いたげな様子だ。
――貴方が仰っていることは間違いではありません。しかしこれは、わたしが魔力を用いて行く末を占い、視た現実なのです。今はまだそのような考えをお持ちだとしても、いずれ貴方はわたしのことが好きになることでしょう。
これは予め決められていた未来であると宣言するかのように、それは自信の込められた力強い言葉だった。
自分のことを好きになると言われ、動揺しないはずがない。リュウオの頭は混乱していた。
「汝は現状をはっきりと理解しておるのか? 吾の機嫌を少しでも損ねれば、汝は瞬きする暇もなく首から上が無くなるのじゃぞ」
死に直面しうる状態にあることは、ノインも承知の上だった。
だが、たとえそうだとしても、ノインは自分が視た未来を信じてみたかった。
――魔族が、人と契りを交わしてはいけないのですか。
純粋な気持ちを文字にして伝える。その真っ直ぐな想いを向けられたリュウオは、脅しとなる言葉をそれ以上紡ぐ気にはなれなかった。
「……汝はおかしな奴じゃのう。人であるというのに、吾の許に足を運ぶとは物好きにも程があるぞ。魔族が怖いとは思わんのか」
――未来で視たわたしと貴方は、とても幸せそうでした。その幸せを感じることができるのであれば、わたしには何一つとして恐れるものはありません。
まるで告白をされているかのような錯覚に身を震わせる。
リュウオは、ノイン=ラヴィリンスという人間がますます理解できなくなっていく。
だが、それとは別に、別の感情が生まれつつあるのを微量ながら感じ取っていた。
――わたしは人間です。家族もいますし、王女の専属占師としての仕事もあります。ですから此処に長く留まることは不可能です。
「それを吾に伝え、汝はどうするつもりじゃ」
ある程度予想はしていたが、リュウオはあえてその先を促してみる。
ノインは薄っすらと微笑み、紙に文字を書いていく。
――わたしに、会いに来て下さい。
そこに綴られていたのは、一人の占師の単なるわがままだった。
「汝に会いにゆけと申すか」
その通りです、とノインは笑みを浮かべたまま頷いた。
――毎夜、わたしの許に姿を見せて下さい。そうすれば、わたしは三里も離れた古城へと足を運ぶ必要もありませんし、家族に怪しまれることもないでしょう。
自分勝手な要求でしかないというのに、ノインはそれが絶対に叶うものだと確信しているかのような表情をしていた。これもまた占いによって視通したとでもいうのだろうか。
「吾の都合はどうなるのじゃ、汝の意見に全て従えとでもいうつもりか」
魔を統べる王たる存在が人間に会いに行くためだけに、三里の距離を毎夜移動しなければならないというのは、自身が支配下に置く魔族らに示しがつかなくなるだろう。魔を統べる王としての名誉にも関わってくる問題だ。
――それを決めるのは、貴方自身ですよ。
恐らくはずっと前から決められていた未来が、今ここに来てようやく形となり姿を見せるようになったのだ。
ノインは自分の前途に幸せを視た。そしてリュウオの幸せも同じく。
信じがたい話だとしても、魔族との契約を結び占師となったノインが、行く末を見間違うはずもない。だとすれば、リュウオに選択権は無いに等しいといえよう。
「……く、くくっ、これもまた一興か」
我慢できずに苦笑する。
それもこれも全ての元凶は、目の前に佇む占師ノインによるものだ。
「よかろうて、吾は汝と契りを交わしたもうぞ」
遂に、リュウオは観念する。だがその表情はどことなく嬉しそうでもあった。
「王、人間を相手にそのような行為は――」
「阿呆が、よう見てみぃ……」
トルエカの心配をよそに、リュウオは喉を鳴らして解顔する。
「いったい何処に人がおると申すか。此処におるのは人じゃのうて、魔契約者たる存在、つまりは魔族というてもおかしゅうない人型しかおらぬぞ」
理屈ではない。無理に屁理屈をこねているのは明らかだ。
けれどもトルエカは、未だかつてリュウオがこれほどまでに満足気な笑みを浮かべているのは見たことがなかった。それを見てしまえば、あとはもう何も言っても無駄であると悟った。
「――さて、汝よ」
トルエカの制止を振り切り、リュウオはノインと向かい合う。
「吾は汝の願いを聞き届け、契りを交わすと約定するぞ」
その言葉を聞いたノインは、首を横に振ってみせる。
草紙を丁寧に破り、新たな文字を綴っていく。
――それはわたしの願いではありません。運命によって予め決められていることです。わたしの願いは別にあります。
「ほぅ、なんじゃそれは」
――人間と、魔族の共存です。
大真面目な表情で、ノインは心のうちを文字として書き出した。しかしそれはあまりにも壮大で実現しうるには想像を絶する労力が必要となるであろうものだ。
「汝よ……、たわ言も大概にせぬか。魔と人は相対するもの同士じゃて、共存は不可能じゃ」
諭すかのように、リュウオは返事をする。
確かにそれは不可能といっても過言ではない。ノイン自身、魔族が人間のことをどのように思っているのかは理解の範疇にはないが、逆は知りえている。
人間は、魔族を恐れるものだ。人々の生活を不安定にし、命を脅かす存在として位置づけている。互いに認め合い、共存するなど絶対的にありえないのだ。
――正論でもありますが、これは決して不可能な願いではありませんよ。国一つを治めるロギスタニア王家の王女の専属占師をするわたしと、魔を統べる王たる貴方が手を組めば、限りなく実現に近づくのではないでしょうか。
勿論、それは気の遠くなるような年月をかけることによって、ようやく達成できるかもしれない不確かなものだ。ほんの些細な綻びで崩壊してしまうであろう脆さと、常に隣り合わせだ。
「汝は待ち続けると申すか」
魔族にとっては、それほど長い年月ではないかもしれない。
だが人間は違う。魔族に比べて寿命が短いのだ。生きている間にできることは僅かだ。
――待ちます。願いが叶うのであれば、わたしはいつまでも待ち続けます。
それでも、ノインは待ち続けると文字に誓った。一人で此処にくるだけの決意がある人間に、もはや何を言っても無駄なのだ。
「……ふぅ、汝には敵わんの。言葉で言い負けたのはこれが初めてじゃて」
くくっ、と笑みを零すリュウオを見やり、ノインもまた嬉しそうに微笑んだ。
「して、その願いとやらを叶えるために、吾は何をすればよいのじゃ」
するべきことは山ほど存在する。その第一歩となるものをリュウオは訊ねた。
すると、ノインはここにきて初めて、リュウオの名を綴る。
――魔を統べる王リュウオ、わたしは貴方に命じます。これから先、一生において、貴方は人を殺めないことを誓って下さい。
共存を実現するため、手始めとして無駄な殺生を禁じることにした。
魔を統べる王が人を殺めなくなれば、その支配下に置く魔族の群にも少しずつ影響を及ぼしていくことだろう。
「なんじゃ、吾は汝の思惑に嵌ってしもうたようじゃの」
――そうですね、その通りだと思います。まさかわたしもこれほど上手く事が運ぶとは思っていませんでした。
悪びれた様子もなく、ノインは悪戯な笑みを浮かべてみせる。
その笑顔を向けられたリュウオは、一つ咳払いをして顔を背けた。
「まあ、吾を利用しようがしまいがよかろうて。それより汝よ、吾と契りは交わすとしても、契約は結ぶことは望まんのか」
魔契約者となっている者に魔族との契約をほのめかすのは、そのほとんどが無意味とされている。何故ならば、魔契約者は既に契約を結んでおり、その代償を一つ支払っているからだ。
一つ目の代償を支払うのには、勇気が必要となるだろう。自身を代償に魔力を手に入れるのだから当然ともいえる。
しかし中には勇気と言うよりも無謀と言い表した方が合っていると語る者も存在するが、正にその通りであろう。
そして二つ目の代償を支払い、前身の魔族との契約によって手に入れた魔力を失ってまで新たな魔力を必要とするのには、心を削る必要があるといえよう。もう一つの魔力を手に入れるわけではなく、引き換えにしなければならないのもまた躊躇いの原因となる。
――貴方と契約を結ぶつもりはありません。
しかしだ、ノインは心を一切揺らすことなく、リュウオの誘いを断った。
その理由は、至って単純なものだ。
――わたしはラヴィリンス家の人間です。ラヴィリンス家の人間は、代々ロギスタニア王家に仕える占師として生きていくことを義務付けられています。
「吾との契約は、汝の義務に劣ると申すか」
――義務を負い、占師にならなければ、わたしは貴方に出逢うこともありませんでした。それでもまだわたしと契約を結びたいというのであれば、貴方に従いますが。
従うつもりなど毛頭ないといった表情で、その文字を見せつける。従わなければならないのは、リュウオの方だった。
致し方ない、と大きな溜息を吐いた後、リュウオは晴れやかに、これでもかと言わんばかりの破顔を披露してみせる。
「くくっ……、ならば汝が契約を結びたいと自ら申し出るようになるまで口説き続けてみせようぞ。汝を手に入れるためならば、汝が思い描く些細な願いを叶えることなど造作もないことじゃろうて。……さあて、今此処で汝に誓うたもうぞ。吾はもう二度と人を殺めんとな」
魔を統べる王と占師が出逢ってから、一月が過ぎた。
毎夜の出迎えに行かなければならないことに、初めのうちは戸惑いを見せていたリュウオだが、それも三度繰り返せば慣れてしまった。今では、太陽が沈み夜が顔を覗かせるのを今か今かと待ちわびるほどだ。
そして今宵もまた、ラヴィリンス家に知られざる訪問者が姿を現す。
「――来るのが早すぎたかの」
声が聞こえた方に視線を向けると、窓枠に足をつき、羽を休めるフクロウがいる。いつでも入ってこられるように窓は開けっぱなしになっていたが、そこにいるのをいつまでたっても気づかれないフクロウは我慢できなくなったのだろう。嘴で窓を小突いてみせる。
――ごめんなさい、リュウオと会うために身だしなみを整えていたの。
部屋の主はベッドに腰をかけて、奇麗な黒髪にくしを入れている最中だった。
紙に書かれた文字に眼を通せば、出逢ったころの硬さが抜けているように思える。二人の距離が縮まっている証拠だ。
「まあよい、汝と会うための待ち時間も楽しみのうちの一つじゃからの」
身支度を済ませたノインは、すっくと立ち上がる。
窓の傍に近寄ると、フクロウは重力に逆らうかのように浮かび上がり、羽を広げることなくノインの腕にとまった。
――今宵は月が奇麗です。空の旅を満喫するには勿体無いぐらいですね。
夜空には十五夜の月が昇っている。
窓から身を乗り出して隣の部屋の窓を確認してみるが、灯りは消えている。妹は既に夢の中にいるらしい。気づかれることなく外出する準備が整ったようだ。
ノインの腕から離れて部屋の中心に移動すると、フクロウは魔力の流れを変化させる。
すると驚くことに、フクロウはみるみるうちに人型へと姿を変貌させていく。ノインはその様を嬉々として眺めつつ、恋人が支度を整えるのを待った。
「ノイン、手を取れ」
名を呼ばれ、ノインは差し伸べられた魔族の手を握る。
二人は手を繋ぎ合い、互いに見つめ合った。
「今宵は人型にて、空を舞うぞ」
――はい。時が経つのを忘れ、朝が訪れるまで語り合いましょう。
窓枠に足をかけ、窓の外に背を任せる。けれども重力に従って下へ落ちることはなく、宙に浮かんでみせた。
リュウオの手に導かれ、ノインは闇夜に姿を包ませる。
重力を自在に操ることの可能なリュウオと共にいるため、その影響はノインにも現れている。
――幾度も経験しましたが、これは不思議な感覚ですね。
声帯を失ったノインは、空の旅をするにも草紙と筆を持参する。そうしなければ、リュウオと会話することさえできない身にある。
しかしそれも些細な問題だ。今の二人には会話などなくとも、共に過ごす時間があるだけで幸せを感じられるのだ。
「今宵は何処に向かうかのぅ」
この瞬間を心行くまで堪能し、二人は空の旅に出かけるのだった。
雪が降る季節になった。
白い結晶がさらさらと降り注ぎ、深緑に覆われていた空間は徐々に白銀へと彩られていく。
昨夜も空の旅を満喫したノインは、今朝も普段通りに起きて朝食を取り、仕事場へと足を向ける。行く先はロギスタニア城の、とある一室だ。
城の兵士に言葉無き挨拶を交わし、城の中へと入っていく。豪奢な造りの中には人の通りが滅多にない場所も存在する。
ノインはその場所を目指して長い廊下を歩き続け、下へ下へと階段を下りていった。やがて、灯りの疎らな空間に、過去に忘れ去られたかのような扉を見つける。
薄汚れたドアノブに手を伸ばし、古びた鍵を差しこむ。錆びついているのか、鍵を開けるのも一苦労だった。
鍵の外れる音を合図に、ノインはドアノブを回して扉を開く。部屋の中には埃を被った本棚が壁一面を占領しているのが見えた。
この空間こそが、ノインが占師としての魔力を扱う仕事場であった。
此処に、人がいることすら知らない者がほとんどだ。しかしそれも仕方のないことであろう。
占師という職業柄、あまり表立って活躍することはできないのだ。
ラヴィリンス家の人間が占師の家系だということを知る人間は、ごく僅かしか存在せず、それもロギスタニア王家の血統に当たる人間に限られている。よその人間が、ノインが魔契約者であることを知る術はないのだ。
だが、それも今この瞬間を持ってお終いとなる。
王家の人間ではない訪問者がノインの前に姿を現したのだ。
「ノイン、遅かったわね。待ちくたびれちゃったわよ」
部屋の中にいたのは、ロギスタニア城の王女――へレナ=ロギスタニアだ。
窓から吹き込む寒々しい風に栗色の髪を靡かせ、蒼に染まった両目をノインに向ける。気品溢れるというよりは、少々お転婆なところがありそうな雰囲気を醸す女性だった。
――わたしは時間通りにこの場所へと通っているはずですが。
彼女はノインを専属の占師として雇っている。その占いには絶大なる信頼を寄せており、何をするにもまずノインの占いを頼るようにしていた。
「ふふっ、それもそうね。……それより今日はノインに紹介したい人がいるの」
そしてもう一人、ノインにとっては招かれざる訪問者がいた。
「……へえ、キミがヘレナの専属占師か」
ヘレナが言い終わると同時に、後ろから声がかかった。
振り向いてみると、青年が一人、扉に寄りかかっているではないか。
初めからこの部屋にいたのだろうか。存在すら感じることができなかった。
「彼の名前はデザイヤ=イスナーク、私の婚約者よ」
優雅な振る舞いで一礼する青年――デザイヤ=イスナークは、ヘレナの婚約者だった。
その名は、表舞台に出ないノインの耳にも届いていた。
――わたしの名前はノイン=ラヴィリンスといいます。
偽りの笑顔を張り付けて、ノインはその手を差し出した。
「……ああ、よろしく。専属占師さん」
一瞬、デザイヤは眼を細める。感づかれてしまったのだろうか。
だが、握手を止めることはできない。まんまと騙されたデザイヤは、ノインと握手を交わす。
その瞬間、ノインはデザイヤの未来を視た。
「本当はね、私とデザイヤが婚約してることはお父様たちから秘密にするように言われてるのよ。でもね、ノインにだけは教えておきたくて連れてきちゃったわ」
幸せそうに微笑むヘレナは、どうやら婚約者の本当の姿を知らないらしい。
自分は二人の間に口を挟み、その幸せを壊さなければならないだろう。それが少し辛かった。
「ノインも彼の武勇伝は聞いたことがあるでしょう? 誰もが恐れていたあの逆さまの王の首を獲った英雄なんですものね」
――ええ、その話は両親から伝え聞きました。まさかとは思いましたが、この方がその英雄様だったのですね。お会いできて光栄ですよ。
聞き間違いなどではない。
ヘレナは確かに、デザイヤが逆さまの王の首を獲った英雄であると告げた。しかしそれでは矛盾が生じる。ヘレナの口から出た言葉が嘘ではないとすれば、では毎夜のようにノインが逢瀬する、魔を統べる王とはいったい何者だというのか。どちらかが嘘をついているのは明らかであり、その答えは初めから分かりきっていた。
嘘をついているのはヘレナだ。
否、正確に言うならば、デザイヤが虚言を吐いて国中を巻き込んでいる。
デザイヤという青年は、酷くしたたかな人物だ。
人々から逆さまの王と呼ばれ恐れられている、魔を統べる王の首を獲ったなどという嘘をついてまで、地位や名声を欲するほどだ。いずれ嘘が明るみに出るとは思わないのだろうか。
そう、ノインも初めのうちはそのように考えていた。だがよくよく思い直せば、逆さまの王が自ら足を運び、人々を襲ったことは一度もない。黒き竜の姿を成していることは人々の噂によって皆が知るところにあったが、デザイヤを含め、その姿を自身の眼で捉えた者は誰一人としていない。
過去、幾度となく逆さまの王を討伐に向かう兵士や若者たちがいたが、今となっては彼らを勇敢と呼ぶ者は存在しない。何故ならば、揃いも揃ってこの世を去っているからである。
しかしだからこそ、デザイヤが吐いた嘘が生きてくる。
逆さまの王の首を獲ったという、その真偽を確かめる術を人間は持ち得ない。
偽りの王を作り上げ、手ごろな魔族の首を獲って持ち帰ればよいだけの話なのだ。
「ねえ、実はノインにお願いがあるんだけど、今日は彼のことも占ってほしいの」
椅子に腰掛けるノインを前に、ヘレナは身を乗り出してお願いをする。二人の行く末を視てほしいのだろう。するとデザイヤは、眉間に皺を寄せて都合が悪そうな表情をする。
「別にいいよ。俺は自分の未来なんて知らなくてもいいさ。ヘレナと二人で幸せに暮らしてることは分かりきったことなんだからな」
婚約者から二人の幸せを確信する言葉を受けて、ヘレナは満面に笑みを咲かせる。
だがそれも既に事を得ていた。
――もう、視ました。
デザイヤの思惑通りにはさせない。
ヘレナを助けることができるのは、専属占師たる自分しかいないのだ。
「……視た、だと? いつの間に……」
緊張を隠そうとするあまり、デザイヤの顔は引きつっていた。
ヘレナに嫌われてしまうかもしれない。けれどもヘレナが不幸になることの方がノインには耐えられない。だからこそノインは、デザイヤの未来を視通した次の瞬間には、全てを話してしまおうと決めた。
――デザイヤ=イスナークは、英雄などではありません。
まずは一文、紙に文字を書き綴り、それをヘレナに手渡した。
「え……」
英雄ではないとの文字に、ヘレナは眉根を寄せる。
ノインは質問する暇すら与えずに、もう一文を書き上げてみせた。
――逆さまの王は今も健在です。此の者に首を獲られてなどおりません。
真実を告げるために、ノインは逆さまの王が生きていることをヘレナに伝える。
――此の者の行く末を視通したとき、これから先起こりうるであろう悲劇を視てしまいました。ヘレナ=ロギスタニア王女、それは貴方が此の者の手によって命を落とす未来です。
「な、なにを……言ってるのよ。ノイン……、貴方正気なの?」
ノインを専属の占師として以来、今までに一度として間違ったことは言われなかった。生命を持つ者の行く末を占えるのだから当然といえよう。ヘレナはノインのことを心の底から信頼していたし、感情を隠さずに話し合える友達とも考えていた。
信じたくなくとも、ノインが視たものは真実だ。疑う余地はない。
「……う、嘘だ! こいつは嘘を吐いている! 俺が何故、ヘレナを殺さなければならないんだ。ヘレナは俺の婚約者なんだぞ? ヘレナを傷つけるのも大概にしろ!」
床にへたり込むヘレナに、デザイヤは肩を貸す。しかしながらヘレナは、デザイヤの助けを借りるのを拒否した。疑いの目はデザイヤへと向けられつつある。
「くっ……、目を覚ませヘレナ、占いなんて不確かなものを俺よりも信じるというのか?」
「でも、ノインの占いは間違ったことはないわ……」
「たとえこいつの占いが真実を視るとしても、こいつ自身が視たままの真実を告げるわけじゃない。つまりこいつは、嘘を吐こうと思えばいつでもそうすることができる立場にあるんだ」
占師にとって、人に嘘を吐くということは、万死に値する。
嘘を吐き、人から信用されなくなった占師など、いったい誰が頼りにするだろうか。
そのことに気づかないほどへレナは間抜けではない。そしてデザイヤ自身も同じだ。
焦りを見せ始めるデザイヤは、ヘレナを説得させながらも、危機を脱する手立てを考える。
そして、小さなほころびに気がついた。それはノインがリュウオと出逢ってしまったが故のほころびだった。
「ならば問う。お前は何故、逆さまの王が生きてることを知ってるんだ? 俺が首を獲った逆さまの王が偽物であると何故断言できるんだ? お前は逆さまの王の姿を知っているとでもいうつもりなのか? ……いや、ひょっとしてお前、魔族の手先なんじゃないのか? だからお前は魔族にとって不利益になりうる事実を偽るために、逆さまの王は生きてるなどと虚言を吐いてるんだろ?」
強引に、けれども偽りによってほころんでいた外堀を埋めるかのように、デザイヤはまくし立てる。デザイヤの意見に反論するため、ノインは紙に筆先を走らせるが、これ以上のことをヘレナに吹き込まれたりでもすれば、更なる混乱を招くことになるであろうことを予測したデザイヤは、ノインの手から紙を奪い取ってしまった。
「お前は罪人だ。俺とヘレナの幸せを奪おうとする悪魔……いや、魔族そのものだ!」
――ヘレナ、わたしを信じて。
紙を奪われてもなお、声として届けることのできないその想いを、壁に書き綴る。
「……う、うぅ」
ノインとデザイヤ、果たしてどちらが真実を伝えようとしているのか。
ヘレナは信じるべき相手を選択しなければならない。
専属占師として常にヘレナの幸せを願い、前途を視続けたノインか、それとも逆さまの王の首を獲り、英雄となった婚約者のデザイヤか、混乱するほどに思考を巡らせていく。そして、
「――ねえ、ノイン? ……貴方、疲れてるのよ」
ヘレナが選んだのは、デザイヤの方だった。
「いつも私のことを占ってくれてたものね、疲れが溜まっていてもおかしくないわ」
違う、そうではない。疲れてなどいない。自分は真実を伝えようとしているだけだ。
ノインは首を振り、ヘレナの許へ這い寄る死の恐怖を知らせようとした。
「そうね、今日はもう占う必要はないから、家に戻ってゆっくりと休みなさい」
きっと、他者の未来を視すぎて疲れてしまったのだろう。
そう思い込むことに決めたヘレナは、心配そうにノインの肩に手をかける。
「また明日ね、ノイン……」
それ以上、もはやノインには筆を走らせる気力は残されていなかった。
その夜、ノインは家に帰らずにロギスタニア城の仕事場にこもっていた。ヘレナを救う手立てはないものかと頭を悩ませていたのだ。
デザイヤは慎重な男だ。不利益になりうる存在は速やかに排除するだろう。
それはヘレナだけではなく、ノインも例外ではない。
ロギスタニア王家の存亡にも関わるであろう難問を前に、ノインは無力だった。人を占い、行く末を視通せる魔力を持っていたとしても、信じてもらわなければ意味がない。魔契約者としての魔力を発揮することもできないのだ。
どうすればいいのだろうか。悩みぬいた末、ノインは一つの考えを思いつく。それは今、ノインにできる唯一の手段だった。
そう、ノインは自分の未来を視ることにした。
リュウオと共に幸せになる前途を手に入れて以降、ノインは自身の行く末を視通すことを止めた。二人が幸せの絶頂にいることは疑う余地もなく、更に占う必要がなかったからだ。
元々、ラヴィリンス家の人間は、自身を占う行為を禁じてきた。長時間をかけてじっくりと占えば、これから先に用意されている全ての道筋を視ることが可能であり、同時に死期を知ってしまうことになる。それだけは視てはならないと、両親から何度も口を酸っぱくするほどに教えられてきた。
しかし悠長なことは言っていられない。ヘレナと近しい関係にあるノインは、自身の未来に何か手段が残されていないものかと考え、二度目の占いを行なうことに決めた。
心を閉ざし、内に秘めたる人間ならざる存在を解放する。
胸の鼓動が瞬時に高鳴り、右の手の平に魔力が集まり始めた。それを眼で捉えることは、人間には不可能だ。魔力の流れを視認し、捉えられるのは、同じく魔力を持つ存在だけだ。
胸の前で両手を組み、魔力を右から左へ流し込んでいく。
魔力の干渉を受けた左手は、身体の持ち主たる存在の前途を、時の流れに逆らわぬように逆流させていく。魔力によってそれを感じ取ったノインは、そこで初めて行く末を視通すことが可能となる。そして、知りたくもない未来を視てしまった。
「浮かぬ顔をしておるの」
月明かりの道しるべを辿り、フクロウが木窓の縁に影を落とした。
毎夜の逢瀬に姿を見せないノインを心配したフクロウが、仕事場へと足を運んだのだ。
「何故、このような暗きところに」
ノインは椅子に腰掛けたまま、不安を打ち消すかのように左腕を上げる。フクロウの存在をしっかりと感じたかった。心を落ち着かせてほしかった。
優しげに、子供をあやすかのようにフクロウの背中を撫でると、くすぐったそうに首を回す。
机の棚から草紙を取り出して、筆先を走らせてゆく。
――なんでもない、だから心配しないで。
それは嘘だ。なんでもないわけがない。
真実を語り、フクロウの手を借りさえすれば、全てを思うがままに解決することができる。
言葉にして伝える必要がある大きな歪みであることを知らせなければならない。
「ならばよい、それより今宵は空の旅を満喫はせんのか」
気づいてほしい。
わたしが視たものを知ってほしい。
けれどもフクロウには、それが嘘と見抜く術は持ち合わせてなどいなかった。
――具合がよくないから、今日は止めておくわ。
「ふむ、それならば仕方がないのぅ、……じゃがいつまでも此処におるわけにはいくまい。吾が家まで送りたもうぞ」
だが、それでも首を横に振る。拒否をしてみせる。
フクロウの助けを借りてしまえば、家族を死の危険に晒すことになる。
――大丈夫、わたしは一人でも帰れるから安心して。それにこの場所から家まで送ってもらうには人目が多すぎるわ。
「言われてみれば、確かにそうじゃのぅ……」
渋々といった様子で納得するフクロウは嘆息した。
ノインが視た真実、仮にそれが現実で起こりうるとするならば、過去に視た未来は変わってしまうことになる。下した決断を行動に移した場合、それは決して避けられない運命となるだろう。逃げ道は用意されていない。
――さようなら、逆さまの王。
だとすれば、今ここで伝えておきたい。
二人の行く末を視通したときから、ずっと言葉にできなかった科白を伝えたい。
――リュウオ、わたしは貴方のことが大好きよ……。
決して気づかれぬように、そっと唇を振るわせた。
ありったけの想いを込めたその言葉を文字にすることはなく、同時にその想いがフクロウの心に届くことはなかった。
フクロウが去ってから、一時が過ぎた。
松明の灯りが影を揺らし、ノインはそのときが訪れるのを待ち続けていた。
何を切っ掛けに、二人の未来は変わってしまったのだろうか。ふと、そんなことを考えてしまう。その答えは恐らく、一介が占師でしかない自分が薄っぺらな正義感を抱いてしまい、その魔力を行使してしまった瞬間に違いない。
親しい友であり、そして仕えるべき存在でもあるヘレナを助けることはおろか、挙句には自身の命まで失おうとしている。もはや苦笑するのも馬鹿げている。
「警護の兵士もつけずに暗がりに一人でいるとは、随分と無用心なんだなあ」
不意に、声が届いた。室内には自分以外に誰もいなかったはずなのに、その人物はいつの間にか壁に寄りかかっていた。
――デザイヤ=イスナーク……。
声帯を失われてなお、その名を口にする。
そう、ノインの前に姿を現したのは、デザイヤ=イスナークだった。
「……いや、待てよ。よくよく考えてみれば、ヘレナの専属占師たるキミの存在を知る者は、ごく僅かなんだっけかな? だとすれば兵士をつけて警護する意味もないわけか」
――やはり、貴方も魔契約者だったのですね。
唇を動かして、一つ目の真実を音のない言葉にする。
ノインが何を喋っているのか理解したのだろう。デザイヤは口角を上げる。
「キミは俺と握手を交わすとき、右手に魔力を集めていたな? 魔力を持たない人間にはそれを眼で捉えることはできないが……、残念なことに俺は魔契約者だ。つまり魔力を手に入れた存在ってわけだ」
握手を交わし、未来を視たとき、デザイヤは既に真実を暴かれるであろうことを予測し、対処する方法を考えていたのだ。
「あのとき、キミと握手を交わすのは当然の流れだった。キミが対象者に触れることで行く末を視通せることを、俺は知らないはずだからな。……だが、キミはヘレナの信頼を勝ち取ることができなかった。……くくっ、恋は盲目とはよく言ったものさ」
婚約者である存在を蔑む発言に、ノインはデザイヤの顔を睨みつけた。
「おお、怖いねえ。怖すぎて今にもこの場所から逃げ出してしまいたいぐらいだよ。まあそれも口封じを終えてからになるわけだがね……」
一歩、ノインに近づく。
距離を縮められたノインは、それでも睨むのを止めようとしない。怯えなど見せたりしない。
「しかしおかしな話だよなあ……、キミは占師なんだろ? 今宵、キミはここで俺に殺されることになるのを視ているはずなんだが……。なあ、死ぬ前に一つだけ教えてくれよ。どうしてキミは逃げないんだ?」
まるでなんでもないことのように、さらりと死を言葉にした。
「ああ、失敬。キミは言葉が喋れないんだったな? 魔族との契約で声帯を代償にするとは恐れ入るよ、まったく……。因みに俺が代償として支払ったものを教えてやろうか?」
聞かれてもいないことを、べらべらと喋り始める。もはやノインには現状を打破することはできないと悟っているのか、誰にも告げたことのない秘密を次々と話していく。
「俺が支払ったもの、それは他者を思いやる心さ。人を愛したり哀れんだりすることができなくなるように、俺が自ら頼み込んだ。そうすることで、俺は何者にも一切感情を振り回されることはなくなるからな。むしろ心を失って感謝してるぐらいだよ」
心を失ったデザイヤは、地位と名声を手に入れるためならなんでもした。
嘘を吐くことは、当然の成り行きといえよう。
「さて、冥土の土産にもう一つだけ教えてやる。キミはどうやって俺がこの部屋に姿を現したのか不思議に思っていたはずだ。いったい、どうやって入ってきたのかとね」
デザイヤは魔契約者だ。きっと何らかの魔力を用いて室内へと侵入したのだろう。
「答えは簡単さ。俺が契約を交わした魔族が持つ魔力が、空間転移に特化していたのさ」
そう言ってみせると、デザイヤは内に秘めた魔力を解放する。
すると驚くことに、先ほどまでそこにいたはずのデザイヤが姿を消してしまったではないか。
「くく、びっくりするだろ? これが俺の手に入れた魔力だ。有効範囲は俺が今現在この視界に捉えている場所に限られるが、好きなように空間を移動することができるのさ」
真後ろから声をかけられて、ノインは後ろを振り向こうとした。しかしそれを阻むかのように縄を首に巻きつけられ、きつく絞め上げていく。
「――ッ」
苦しい。息ができない。
けれどもこれは自身が視通した、行く末の結末でもあった。変えることの許されない現実だ。
「苦しいか? だがそれもじきに治まるさ。意識が遠のけば苦しみからも解放される。だから安心して死ぬがいい」
自分と同じ存在である魔契約者がもがき苦しむ様を、デザイヤは嘲笑うことで反応を示した。
それが悔しくて、そしてもう二度と愛する人の顔を見ることができないという事実に、ノインは涙が溢れ出るのを止められなかった。
「ヘレナの専属占師さん、キミは自殺するんだ。鍵の閉められた密室で、天井から吊るされた縄に首をかけて、その生涯を終えるのさ……」
意識が遠のいていく。だが不思議なことに、最後のときに思い浮かんだ人物は愛する人ではない。妹のシイナだった。
自分が死ぬことによって、シイナにはラヴィリンス家の呪縛を科すことになるだろう。
魔族と契約を結び、代償を支払い、占師となって生きてゆかなければならない。妹には自分と同じ苦しみを味わってほしくなかった。それだけが心残りだった。
やがて、ノインは抵抗することを止める。一つの生命が失われる瞬間だった。
※
「――あの晩、ノインは吾の許へ姿を見せんかった。ロギスタニア王家の占師をしておることは知っておったからの、ロギスタニア城に忍び込み、ノインの姿を捜してみると、狭い部屋の中で肩を落としておったわ。その翌日、その部屋で自殺してもうた……」
墓の前で両手をついたまま、リュウオは粛々と過去に何があったのかを語った。
語るのも辛いと言いたげな表情で、けれどもシイナには真実を知る権利がある。苦悶に満ちながらも一つずつ話していく。
「吾が知っておるのは、これが全てじゃ」
リュウオ自身にも知らないことは多々あった。ノインにはおかしな言動や行動が目立つときもあったが、それを見抜くだけの術をリュウオは持たなかった。だからこそシイナから真実を伝えられるまで、死因が自殺であることを疑いもしなかったのだ。
「シイナよ、吾が憎いか……?」
辛いのはリュウオだけではない。それはシイナ自身にも当て嵌まる。姉が殺されてしまったのだから当然といえよう。
「汝の許からノインを奪い、挙句には見殺しにした吾のことが憎うて仕方がないか?」
墓石に刻まれたノイン=ラヴィリンスの名に唇を噛み締め、リュウオの話が終わるのを待ち続けていたシイナの身体は、心なしか震えているようだった。
哀しいのだろう。シイナとリュウオが知りえていた真実を重ね合わせれば、また新たな真実が浮かび上がってきた。それをまた知ってしまうことにより、シイナは胸が苦しくなっていく。
そんなシイナの姿を見かねたのか、リュウオは墓の前で手を組むのを止めると、そっとシイナの手を握った。
「占師シイナ=ラヴィリンスよ……、その怒りを、苦しみを、そして哀しみを我慢しとうないと申すなら、吾はこの命を汝に捧げようぞ……」
殺したいのなら、殺せばいい。
悪魔のようでいて、天使であるかのような囁きに、シイナは肩を揺らした。
「吾の命を散らすことで、汝の哀しみに溺れるその心が少しでも和らぐのであれば、それも全て受け入れるだけの覚悟を持っておるからにの……」
もう片方の手が、シイナの手に触れる。だがその手には刃の反った鋼色に染まる短剣が携えられていた。それをシイナの手に握らせると、狙いどころを間違えないように、剣先を心の臓の前へと導いた。
ロギスタニア大陸の魔を統べる王が、一人の占師の手によって、その命を断とうとしている。
他者からしてみれば、それは異様な光景であるといえよう。しかしながら二人の姿をその眼に捉える者は誰一人として存在しない。此処に入室を許可された者はシイナが初めてなのだ。
「さあ……、吾を殺せ」
ノインの実妹の手にかかって死ぬことができれば、この胸の疼きもきっと治まるはずだ。
リュウオはそのように考えていた。――だが、
「――毎夜、姉はわたしに内緒で何処かへ出掛けていたわけですが……、その謎が、今ようやく解けました」
その手に掴んだ短剣を一突きするのではなく、あろうことかシイナは、剣先を引いてみせる。
驚きを隠せないのはリュウオだ。
「……吾を、殺さぬと申すか」
その言葉にシイナは首を振って否定する。
「わたしが視た貴方の死期は、今ではありません。わたしは故意に運命を変えるようなことは絶対にしません」
あえて、シイナは殺さない。此処でリュウオを殺してしまえば、自身の命も絶たれることになるだろう。そうなってしまえば、ノインの敵を討つことも果たせなくなる。それにリュウオの命を奪うようなことは、ノインが絶対に許してはくれないはずだ。
いずれ死期を迎えるであろうことは理解しているが、その日が来るまでは、同じ哀しみを胸のうちに隠した者同士として力を合わせていこう。シイナはそれこそが、ノインに対する罪滅ぼしであると考えた。
「……吾を赦すのか」
そしてなにより一番大切なのは、シイナ自身の気持ちだ。二人の関係を知り、互いの想いを知ってしまったことで、シイナにはどうしてもリュウオという存在が身近に感じられてしまい、殺さなければならないほどの人物であるとは考えられなくなっていた。
「姉は貴方と出逢うことができて、とても幸せだったに違いありません。……リュウオ、わたしの姉に幸せを与えてくれて、ありがとうございました。心より感謝を申し上げます」
気の迷いなどではない。それが自身の出した答えであるならば、最後までそれを貫き通してみよう。魔を統べる王を殺すことよりも、シイナは自身の感情を優先させることに決めた。
「汝は優しすぎる」
「優しいのではありません。わがままなだけですよ」
柔らかな笑みを浮かべてみせるシイナの姿は、リュウオの心を動かしていく。
ノインが何者かの手によって殺されたというのであれば、必ずその報いを受けさせてみせよう。それでもなお、シイナの感情が晴れることがなければ、そのときは自ら死を受け入れよう。
それがノインを見殺した自分に対する枷だ。
「シイナよ、汝が視た不確かな未来を、吾は叶えてみせることを誓うたもうぞ……」
この日、リュウオは生涯二度目の誓いを口にした。
一つ目の誓いは、ノインの願いを叶えるために。
そして二つ目の誓いは、シイナが視通した行く末を確かなものへとするために。
もう一度、墓石の前で手を合わせて眼を閉じる。ノインへの懺悔を終えた後、リュウオはシイナの手を取り、この場所を後にするのだった。