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逆さまの王  作者: ひじり
2/8

【一章】

 逆さまの王。

 それはロギスタニア大陸に蔓延る魔を統べる王の二つ名だ。

 あるときは人型を成し、民衆の生活に紛れ込む。またあるときはフクロウの姿を成し、宙を自在に羽ばたいてみせる。しかしながら、彼らが存知する逆さまの王の姿が、それらに当て嵌まることはなかった。

 魔力を持たざるただの人間が、姿形を変えた逆さまの王に畏怖の念を抱くはずもない。それは至極当然のことではあるのだが、因由は別に存在する。

「――やれやれ、随分と無用心なものじゃのう」

 高く聳え立つ城壁を悠々と飛び越え、フクロウは言葉を紡ぐと同時に嘆息した。

 城門の内側には堀が巡っている。跳ね上げ式の桟橋は上がっていたが、門衛を増強したわけではなさそうだ。それが些か滑稽に見えたのか、フクロウは羽を振るわせることで反応を示す。

「死人が一人消えておるというのに」

 一月ほど前、ロギスタニア城では奇怪な出来事が起こった。それは死人が姿を晦ますという、何とも理解しがたいものだ。

 ロギスタニア王家に代々仕えるラヴィリンス家の占師が、城内の空き部屋で、自分で自分の命を絶ってしまった。しかしながら不幸はそれだけに止まらず、異変という名の連鎖を生み出していく。王女より絶大なる信頼を寄せられていた占師の亡骸は丁重に扱われ、棺へと納められたのだが、何者かの手によってその亡骸が奪われてしまったのだ。目撃者が誰一人いないことから、空恐ろしいと薄気味悪がられた。

 一体誰が何の目的で、死人を攫ったのか。

「……所詮、その程度の存在でしかなかったということか」

 闇夜に浮かび上がる輪郭は、小柄な体躯からは想像もできないほどに壮大で、それは黒き龍の姿を象っているかのようだった。勿論それは比喩ではなく、決して目の錯覚などではない。

「ふむ、この部屋じゃな」

 フクロウが降り立ったのは、豪奢な造りによって施された寝室だ。十五夜の月に照らされた影が揺らめいているが、灯りは既に消えている。誰にも気づかれた様子はない。音もなく空から忍び寄ってきたのだから、それも当然といえよう。更に付け加えるならば、フクロウは人間ではない。人の目を欺くには打ってつけの姿を成していた。だが、それもすぐに別の変化を齎すことになる。

「人間を相手にするときは、こちらの方が都合も良かろうて」

 静まり返った空間に、身の毛の弥立つ戦慄とざわめきが、暗闇に花を添えていく。

 それは闇に惑いしフクロウが人型に姿を変える瞬間だった。

 魔力を解放することなく自らの姿を自在に成してゆく魔族は、一握りしか存在しない。つい先ほどまでフクロウの姿を成していた逆さまの王こそ、そのうちの一人として数えられる。

 人型を成した逆さまの王は、身体の具合を確かめるかの如く、大きく息を吸い込んだ。

 依然として、寝室には安穏とした空気が流れている。衛兵にも気づかれた様子はない。

 或いは、占師の亡骸が忽然として消えうせた出来事に酷似していたかもしれない。そしてそれは同時に、三度の異変を引き起こす切っ掛けにもなり得る。

「――忌まわしきめ、見付けたぞ」

 足音を立てずに一歩ずつ近づいていく。

 天蓋つきの寝台の手前で立ち止まると、織物を両手で捲って中の気配を感じ取る。

「ヘレナ=ロギスタニア王女よ……」

 闇夜に紛れ、衛兵らの目を掻い潜り、逆さまの王が訪れた場所、それはロギスタニア王家第一子、ヘレナ=ロギスタニア王女の寝室だった。

 暗がりに視界を奪われつつも、渦中の人物をこの眼にしっかりと認識し、脳裏に焼き付ける。

「汝がいなければ、吾は哀しむこともなかったろうに」

 失望が、大きな吐息を生み出す。

 柔らかな手触りの毛布を剥ぎ取り、安らかな寝息を立てる人物の身体を優しく抱きかかえた。

 よほど深い眠りについているのか、目を覚ます素振りすら見せない。

「殺しはせぬ。……じゃが、死を渇望したくなるほどの絶望を与えたもうぞ」

 形容しがたいであろう胸のうちを、表には一切出すことなく、上辺を飾ってみせる。この細い首を絞めるだけで、容易く死へと誘うことはできるだろう。しかしそれでは契約を反故にしてしまう。それならば、と逆さまの王は殺さずに苦しませることを決めた。

 窓の縁に足をかけ、何の躊躇いも持たずに身を乗り出した。

 傍から見れば、投身するかのように思われても仕方がないだろう。けれども不思議なことに、逆さまの王が地に落ちるようなことはなく、その身体は重力に逆らい宙に浮いていた。これこそが、ヘレナ王女の寝室へと忍び込む際に、逆さまの王が発動した妙技だ。

 過去には、逆さまの王を打ち倒すべく名乗りを挙げた者が数え切れぬほど存在したが、その全てが逆さまの王に触れることすら叶わず、地に全身を伏したまま返り討ちに遭った。解放された魔力の暴走を極限にまで押さえ込み、重力を自在に操ることから、いつしか逆さまの王と呼ばれるようになったのだ。

 人間が付けた呼び名とはいえ、逆さまの王の真名を知る者は少なく、ロギスタニア大陸では逆さまの王として、その名を広く知られることになっている。その呼ばれ方をいたく気に入ったのか、配下に置く魔族らにも逆さまの王と呼ばれるほどだ。

「次に目が覚めたとき、汝の隣におるのは死の象徴と不吉だけじゃ……」

 誰にも気づかれずに、逆さまの王は寝室を後にした。

 月明かりの道しるべに導かれ、人を抱えているとは思えないほどの身軽さで、颯爽と空気による風の抵抗を裂いていく。ロギスタニア城から南西に三里ほど離れた山脈に辿り着くと、重力の抵抗を少しずつ強めていき、密集した木立ちの中に降り立つ。辺りは薄暗く、一冬かけて降り積もった雪が白銀の世界を演出していた。そんな中、一筋の光耀がこちらへと向けられている。王の帰還を察した配下の手によるものだろう。

 逆さまの王が根城を構えるのは、尾根伝いに歩いた先に建てられた高根の古城だ。ここら一帯が魔族の巣窟となっており、足を踏み入れようとする間抜けな人間はいない。

 真っ白な地面に足跡を残しつつ、逆さまの王は古城へと向かっていく。途中、胸に抱いた王女がおもむろに瞳を開いた。そしてぽつりと一言、

「――ここまで来れば、大丈夫ですね」

 不可解な言動を取った。

 時間が止まったかのような瞬時に、風に吹かれてざわめかせる葉音が現実に呼び戻す。

「汝は」

 逆さまの王に抱きかかえられた王女は、現状を把握しているのか、衝撃を受けた様子はない。

 まさか、そんなはずはない。自分が胸に抱いた女性は、確かに王女の寝室にいたはずだ。それならば何故、全てを見透かされていたのか。

「汝は、何者じゃ……」

 胸に抱いた女性は、王女ではなかった。

 今に至るまで暗闇に惑わされていたが、ようやく攫った相手が別人であることに気づいたのだ。王女と間違われた女性は、逆さまの王に抱かれたまま、ゆっくりと顔を見上げた。透き通るように澄んだ両方の眼は赫に染まっており、何とも言えぬ独特な雰囲気を醸し出している。

「吾はロギスタニアの王女を直に見たことがあるが、汝ではのうたわ」

 逆さまの王の呟きに、女性は視線を合わせることなく呼吸を整える。

「貴方の指摘通り、わたしはヘレナ=ロギスタニア王女ではありません」

 王女を攫いに来た魔族が、よもや魔を統べる王であるとは思ってもいまいが、しかしそれが彼女に毅然たる態度を維持し、自らの意志を強く持ち続けるだけの勇気を与えていることは疑いようのない事実だ。……少なくとも、逆さまの王はそうであると確信していた。

「空寝しておったな、汝め」

 舌を打ち、忌々しげに苛立ちを露にする。

 今すぐにでも怒りをぶちまけたい衝動に駆られていたが、残念ながらその相手はここにはいない。予め危険を察知し、替え玉を用いていたのだ。

 しかし解せないのも確かだ。これほどに巧妙な手口で周到な用意をするだけの知略を巡らせるというのに、侵入者を捕らえようとは考えなかったのだろうか。

「何故、汝はロギスタニアの王女ではのうと言わなんだ」

 疑問を発する。不適切な返答をすれば命はないと睨みを利かせているが、それも彼女には意味のないものらしく、声を震わせるどころか、恐怖に慄くこともない。

「わたしが王女ではないと知れれば、貴方はその場でわたしを殺していたでしょう」

 今もなお、死と隣り合わせにいるのは理解しているはずだ。

 だが、彼女には彼女の目的があり、それを速やかに遂行するために、空寝をすることで死を迎える瞬間を長引かせたのだろう。

「……ふんっ、汝は自分の命惜しさに身分を偽ったというわけか」

 汚らわしいものでも見るかのように、侮蔑な言葉で吐き捨てる。それが気に障ったのか、平静を保っていた彼女が眉根を寄せた。

「それは違います。わたしは自分の命など惜しくありません」

 逆さまの王に抱かれたまま、彼女は凛とした声を上げる。

「死を恐れぬ生物などおらぬ。人間風情が強がるでない」

「強がりではありませんよ。仮にあのとき、わたしが王女ではないと知られてしまえば、貴方は本物の王女を捜し出し、攫うこともできたはずです」

 気丈に振る舞い言葉を紡ぐ彼女だったが、視線の先に映るのは逆さまの王ではなく、闇夜に浮かぶ十五夜の月だ。それも暗闇の雲に覆われてしまえば、あとは何も映し出さなくなる。

「……つまり汝は、王女のために身代わりにでもなったと申すか」

「そうなるべき未来が視えました」

 その言葉に、逆さまの王は少しだけ肩を揺らした。

 何かがおかしいとは思っていたが、偶然にしては出来過ぎている。逆さまの王と彼女が出逢う過程すら、初めから決められていたかのような不自然さだ。言うまでもなく、既にその理由に関してははっきりしていた。

「視えた……、と言うたな? それはどういう意味じゃ」

 確認の意味を込めて、逆さまの王は反問する。彼女はその質問をずっと待っていたのか、緊張を解すように小さく深呼吸して言葉を続けた。

「わたしは占師です」

「ふざけるでない、そのようなものが存在するものかっ」

 一喝し、微弱ながら指先に力を加える。すると彼女は苦しそうに身を捩り、顔を歪めた。

「……いいえ、確かに存在します。王女の代わりに、わたしが貴方に抱かれているのが何よりの証拠です」

 自らを証拠であると捉え、彼女は逆さまの王の顔がある方に視線を向ける。

「ならば問う、汝には吾の未来が視えると申すか? 視えるならば吾の質問にも答えることができようぞ。吾の死に様を占ってみせよ」

 死期を占ってみせろと言われ、けれども彼女は首を横に振って言葉を返す。

「死は、何者にも平等に訪れるもの……。わたしが王女の身代わりになったことで、貴方はいずれ死ぬことになるでしょう。そうなる未来がわたしには視えました」

「答えになっておらぬぞ。吾が知りたいのは、いつどこで死を迎えるかじゃ」

 苛立ちを隠そうともせず、逆さまの王は答えを急いた。

「わたしの口からは言えません。それを口にしてしまえば、貴方が死ぬ未来が変わってしまうことになります。それはわたしたち人間にとって不利益な事態に陥ります」

 言葉を濁し、巧みにかわしていく。

 魔族と相対してなお、確固たる意志を抱き続けることのできる彼女が相手なのだ。逆さまの王にとって、最も重要な答えを得ることはできそうになかった。

「くっ、占師を相手取るというのは何とも不愉快極まりないものじゃな」

「よく言われます……。人間から」

 逆さまの王は、彼女の言葉の端に一抹の重さを感じ取った。

 それは恐らく、占師という存在が人間側ではなく、魔族に近しい存在にあることに対する悲嘆なのだろう。魔族として生きゆく逆さまの王からしてみれば、大したことではないのかもしれない。勿論それは、あの女性にさえ出逢っていなければの話だが。

「……汝、名をなんと申す」

 古城へと歩を進めながら、逆さまの王は彼女との会話を続けていく。

「名前ですか?」

「そうじゃ、答えよ」

 自ら攫われてきたとはいえ、名を尋ねられることになるとは考えていなかったのだろう。

 彼女は瞬きを繰り返し、不可解なものでも見るかのような視線をぶつけてくる。だが、その視線も逆さまの王の顔を正確に捉えてはいなかった。

「わたしの名前など知っても意味がありませんよ。王女の代わりとして時間を稼ぐだけの存在ですから、人質にすらなりません」

「卑下にするでない。これは単に吾の好奇心が齎したものじゃ。戸惑うこともなかろうて」

「でも……」

「汝の名を、吾に紡げ」

 有無を言わさぬ口調で、彼女が自分の名前を口にするのを待っている。

 観念したのか、やがて彼女は渋々ながらも唇を動かしていく。

「シイナ……、シイナ=ラヴィリンスと言います」

 逆さまの王の胸に抱かれた占師――シイナ=ラヴィリンスは、その名を言い終わると同時に、顔を横に向けて下唇を緩く噛んだ。

「ラヴィリンスか……、」

 シイナの名を耳にして、逆さまの王の表情が強張る。

「くくっ、これは実に興味深いものじゃな……」

 だがそれも極めて短い時間で収まると、シニカルな笑みを浮かべてみせる。皮肉な巡り合わせとは、今まさにこの瞬間を言い表しているのかもしれない。そう考えてみると、笑わずにはいられなかった。

「占師、シイナ=ラヴィリンスよ」

 わざとらしくシイナの顔を覗き込み、魔を統べる王として堂々と言い放つ。

「吾の死に様を、その赫い瞳を持ってして見届けるがよかろうぞ。占師たる汝には、その権利もあるじゃろうからのぅ」

 前方からの灯りを道しるべに、雪化粧された地面に一人分の足跡を残しつつ、薄暗い木立ちの中を突き進んでいくと、木々に囲まれた古城が姿を現した。

「さあて、着いたぞ」

 抱きかかえていたシイナを気遣うように優しくその場に降ろすと、数歩離れて向かい合った。

「招かれざる客人、シイナ=ラヴィリンス。我が、リヴァース城へよくぞ来られた。……どうじゃ、なかなかよい城であろう? 客人は一月振りじゃからな、吾が直々に城内を案内してやろうぞ。さあ、吾の手を取れ」

 恭しい態度で頭を下げ、優雅な立ち振る舞いで右手を差し出してくる。それは魔族であると言われなければ気づかぬほどの人間味を感じさせるものだった。

 しかれども、シイナは返事をしない。

「どうした、今更怖くのうたか?」

「いいえ、そうではありません。ただ……」

 首を振り、シイナはぽつりと呟く。

 見当違いの方角を見上げるシイナの両目を、逆さまの王は覗き見る。そして一つの異変に気づいてしまった。

「……汝、まさか」

「お察しの通り、わたしは眼が見えません……」

 シイナの瞳は、逆さまの王の姿を捉えてはいなかった。

 隠し通せるとは思っていなかったのだろう。だがしかし、光の無い暗闇の世界に生きる圧倒的不利な立場に置かれていることを早い段階で見破られてしまい、シイナは肩を揺らす程度の溜息をついてみせる。それは諦めにも似た反応だ。

「成る程、アカズか……」

 ほんの些細な引っ掛かりではあるのだが、逆さまの王はシイナと言葉を交わしていくうちに、王女の替え玉として連れ去ることになった一人の人間が、不可思議なものを匂わせていると感じ取っていた。

 シイナが占師であるが故、ではない。逆さまの王がこれまでに出逢ってきた人間の中でも、特別な感情を抱かせる原因と成りうるものを持ち合わせていたのが訳合いとなる。

 それはまるで、シイナが彼女と同じような運命を辿るべく、何らかの決意を胸に逆さまの王と相対しているかのようにも思える。勿論、それを言葉にするほど逆さまの王は愚かではない。

「わたしの耳には貴方の声が届きますが、その代わり、わたしの瞳には貴方の姿を映し出すことができません。だからこそ、貴方がどれほど恐ろしい姿をしていようとも、それを見てわたしが怯えることもないのです」

 逆さまの王に恐れを抱かないのは、暗闇という名の恐怖がシイナの周囲を常に取り囲んでいるのが廉だった。そのような環境に身を置いているのであれば、恐怖に駆られる気持ちや感覚が麻痺してもおかしくはない。

「ふむ、案ずることはない。吾は汝のような存在と接するのには慣れておる故に」

 慣れている、という言葉を用いたことに逆さまの王は自嘲する。慣れていなかったからこそ、このような状況に陥ってしまったのを自覚しているからだ。

 だがそれも全ては終わりを迎えた。

 今現在、目の前に佇むのは彼女ではない。シイナ=ラヴィリンスなのだ。

「さぁて、これでどうじゃ」

 逆さまの王はシイナの手を取り、ゆっくりと口角を上げた。

「眼が見えぬというのなら、吾が汝の眼となろうぞ。汝にとって吾は人間と同じじゃ。吾の姿をその瞳に映し、恐れることもなかろうて。そして吾もまた汝を恐れたりはせぬ。他者の行く末を視通せる力を持っておるが故に人間から忌み嫌われようが、魔族たる存在には関係のないものじゃからのぅ」

 瞳に映し出すことはできないが、その視線の先には逆さまの王の手の温もりを感じ取っている。それは決して冷たくなどはなかった。

 未来を視通せる力を持つ占師を、人間は忌み嫌い、故意に接触を避けていた。それが極めて普通であり、魔族に近しい力を持つシイナにとって至極当然の行為であるのだと、理解もしていた。自分を必要としてくれる人間も中にはいたが、それもただ利用する為だけに近づいてくる人間がほとんどだ。

 そんな中に生きゆくシイナだからこそ、逆さまの王の手に触れた時、その心がとても温かいものだと気づいた。

「……あの、」

 そっと、唇を振るわせる。

 その微かな声が届いたのか、逆さまの王はシイナの瞳を覗いた。

 人間ではなく魔族を相手取り、それが意味のある行為であるか否か問われれば、疑問を抱かずにはいられないだろうが、しかしシイナは躊躇いながらもその科白を口にしようと決める。

「貴方の、名前を教えて下さい」

 逆さまの王は、王女の替え玉としての存在価値しか持たない人間に名を尋ねてきた。たとえそれが気まぐれによって齎されたものだとしても、名を告げたことに変わりはない。だとすれば、自分も逆さまの王の名を知るべきだ。

「吾の名を知りたいと申すか」

 先ほど、シイナが名を尋ねられた時と同じように、逆さまの王は不可解に眉を潜める。

「はい、そうです」

 少し早めの瞬きを繰り返し、シイナは逆さまの王が名を告げるのを待つ。

「畏怖の念を込め、人は吾を〝逆さまの王〟と呼んでおる。汝もそう呼べ」

「……逆さまの王とは貴方のことだったのですね」

 今に至るまで、シイナは自分と手を繋いだ魔族が逆さまの王だとは気がつかなかった。だがそれも仕方の無いことといえよう。人間は、逆さまの王が姿を変えられるとは夢にも思っていないのだ。

 あるときは人型を成し、またあるときはフクロウの姿を成す。けれどもそれが逆さまの王の仮の姿であることを知る人間はほんの一つまみしか存在しない。何故ならば、人間が畏怖の念を込め、口を揃え〝逆さまの王〟と呼び恐れる魔を統べる王の姿は、ロギスタニア城ほどもある大きな黒竜の姿を成しているはずだからだ。

「驚うたか」

 人型を成したまま、自分が逆さまの王であると告げるのは、実にこれで二度目だった。

 一度目は彼女に、そして二度目はアカズの占師に。もっとも、その占師シイナ=ラヴィリンスは、逆さまの王が人型を成す姿をその眼に捉えているわけではない。言葉を交わし、そして肌に触れることで実感しているのだ。

「驚きました……。でも、」

 こくり、と唾を飲み込み、シイナはその先に続く言葉を紡いだ。

「それは名前ではありません。わたしが知りたいのは貴方の真名です」

 そう、逆さまの王が告げたのは真の名前ではない。魔を統べる王の名を知らぬ人間が勝手に考えた通称にすぎない。それを名前と呼ぶには、些か無理があるだろう。

「わたしは、貴方の真名が知りたいのです」

「黙れ、吾の名を口にするのを許される人間は、もうこの世にはおらん」

「いいえ、黙りません。貴方はわたしの名前を知っているのに、わたしが貴方の名前を知らないのは不公平です。だからわたしには貴方の真名を知る権利があるはずです」

 その姿に、逆さまの王は溜息をつく。はぐらかそうとしてはみたものの、シイナにはそれが通じることはなさそうだ。やはり占師という存在は厄介だと感じたが、その感覚を常々待ち望んでいたのは隠しようもない事実なので諦めるしかない。

「……リュウオ=リヴァース、それが吾の名じゃ」

 やれやれと肩を竦め、逆さまの王は観念したかのように口を開いた。

 逆さまの王の名を知ったシイナは、手を繋いだままの状態で息を整える。

「リュウオ=リヴァース……、わたしは――」

 やがて小さく頷いてみせると、王女と勘違いして自分を連れ去った魔を統べる王に、声を震わせることなく宣言する。

「いつの日か必ず訪れるであろう貴方の死に様を、この眼を持って見届けることを、わたしは貴方に誓いましょう」

 その言葉に絶対の自信を持っているシイナの瞳には、揺らぎなど見当たらない。

 シイナには、それが変えてはならない運命であることを理解しているし、また変える必要のない運命であることも知っている。

「……くくっ、その眼で視れるのは不確かな未来だけじゃろうて。故に、汝が吾の死に様を見届けることは叶わんさ」



 今宵、一人の占師と魔を統べる王が出逢った。

 それは予め決められていた運命なのか、それとも――…


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