スノボ
売れない小説家とちょっぴりメンヘラな彼女のささやかな日常のお話。
一話完結、数分で読めるようにできるだけ短めに書いています。
読んでもらえたらとても嬉しいです。
一面の銀世界。スノーボードウェアに全身をすっぽりと包み、ボードを両腕で抱えたまま、目の前に広がる神秘的な白銀の世界に感動して立ち尽くしていると、坂道の上からたくさんの人がボードやストックを巧みに操って、ヒラヒラと舞う木の葉のように滑って降りてくるのが見えた。
「なんか、来てよかったかも……」
僕はいまスキー場にいる。輝夢がどうしてもスノボをやってみたいというので渋々ついてきたのだ。
渋々というのは、決して出かけるのが面倒だったとか、そういうことではない。実は僕は運動が苦手なのである。小学校の頃から体育の成績はいつもすこぶる悪かった。だからスノボなどやろうものなら大好きな彼女の前でかっこ悪い姿を晒すことになるのは火を見るよりも明らかだったので、あまり乗り気になれなかったのだ。
実際に、ここへ来て一時間ほどが経とうとしているのに、数メートル進んでは尻餅をついて止まるということを繰り返していた。正直に言うとまだスノボの面白みが感じられていなかった。
ただ、目の前に広がる眺望はすさまじく美麗で、この美しい雪景色を見れただけでも来た甲斐があったと思えた。あとは都心に比べて空気も美味しかった。
ところで輝夢はといえば、持ち前の運動神経でみるみる上達しており、先ほどから素晴らしい滑りを見せてくれていた。
とりあえず彼女が滑って降りてくるのを一人で待っていると、目の前にピンクのニット帽が落ちているのに気がついた。
帽子を拾い上げて雪を払うと、「すみません〜、それわたしのですぅ」と一人の女性に斜面の下の方から声をかけられた。どうやら滑っている途中で落としたらしい。持ち主の女性に返してあげるとすごく感謝された。
ふと、輝夢がこの光景を目にしたら変に誤解されるかもしれないと思ったので、条件反射的に周囲を警戒したが、幸い彼女の姿はなかった。
ほっとしていると、突然周囲から歓声が上がった。何事かと思って皆の視線の先を見ると、一人のスノーボーダーがものすごい勢いで風を切りながらこちらに向かって斜面を滑り降りてくるのが見えた。
輝夢だ。
僕は悟った。やっぱりさっきの一連の出来事を彼女は見ていたのだ。それで僕を一喝しに来たに違いない。
闘牛が赤いマントに突っ込んでいくように一直線に僕の元まで滑って降りてきた輝夢は、雪を跳ね上げて止まり、顔の半分を覆った大きなゴーグルを外した。
「りっちゃん、滑れてる?」
意外にも爽やかな笑顔を向けられて、怒られるとばかり思っていた僕は拍子抜けしてしまった。
「あれ? 見られて、ない……?」
そうつぶやくと輝夢はいつもと変わらない声色で「ちゃんと見てたよ。やるじゃんりっちゃん。カッコ良かった」と笑顔さえ浮かべていた。
「怒んないの?」
と恐る恐る聞くと、「どうして?」と不思議そうにたずねられた。
「いつも女子と話したら怒るじゃん」
そう言った僕に彼女は、
「それはりっちゃんが鼻の下のばすからでしょ〜?」
と言って笑った。
なにかおかしい。普段の輝夢なら『ゲレンデマジックとかあるんだから』とか言ってメラメラと嫉妬の炎を燃やすはずなのに、今日はまるでそれが感じられない。ゲレンデの開放感がそうさせているのだろうか。
それともまさか、飽きられてしまったのか?
生まれて初めてスキー場に来て小一時間、同じく初めてスノボを始めた輝夢はあんなに上手に滑れているのに、僕ときたら上達するどころか、転んで尻餅ばかりついて、まともに滑ることが出来ていない。
そんな彼氏に幻滅していてもおかしくはなかった。
情けない姿を見せることになるのはわかっていたのだから、やはり来るべきではなかったのではないか。
彼女が喜ぶ顔が見たくて、つい首を縦に振ってしまったけれど、わざわざ不得意な分野に飛び込んで醜態を晒すのはナンセンスだったのではないか! どんどんと思考が負のスパイラルに陥ってしまい、僕は頭を抱えて天を仰いだ。脳内で試合終了を告げる笛の音が鳴り響いた気がした。
少し休憩するため、僕たちはレストハウスにやってきた。手作りのおしるこが売ってあって、二人でそれを食べながら冷えきった身体を温めていた。しかし僕はさっきのことが気になって、おしるこの味がまったく感じられなかった。
「おいしい〜」
脳裏にチラつく終わりの時を危惧して焦燥感にかられる僕とは対照的に、能天気にお餅を頬張る彼女を注意深く観察するが、とりわけ普段と違うころは見受けられなかった。お椀を置くと輝夢と目が合った。何かに気づき、彼女はそっと僕の口元に触れた。「小豆ついてたよ?」と笑ったあと、それを自分で食べてしまった。僕はその瞬間、彼女の手をとって意を決して言った。
「輝夢ちゃん、僕のこと嫌いになった⁉︎」
呆気に取られて目を皿にする彼女の瞳の奥に潜む心情を読み取ろうとするがうまくいかなかった。
「ええっ? なになに急にどうしたの?」
「だってさ、変だよ。なんでさっき、嫉妬しなかったの? いつもと違うじゃんか。僕のスノボが下手すぎて嫌いになったんなら正直に言って欲しい」
まくし立てるように言うと、ポカンと口を開けていた彼女はしばらくして口元を隠しながら笑い出した。
「そんな理由で嫌いになるわけないじゃん。もう〜、お馬鹿さんだなぁりっちゃんは」
そう言って輝夢は僕の頭を優しく撫でた。
「え、じゃあ……」
「うーん。ほんとは嫉妬してないわけじゃなかったんだけど、輝夢、思ったことや感じたこと、すぐ態度とか口に出しちゃうから、それだとりっちゃんも疲れちゃうかなぁ、って思って、大人のお姉さんになろうと思って、今日は控えてみたの」
「そういうことっ⁉︎」
安心して全身から力が抜けていくのがわかった。
「輝夢がいつもと違うから心配してたの?」
「うん。マジでびっくりした。てか僕、輝夢ちゃんの嫉妬が安定剤だったってこと初めて知ったかも」
「りっちゃん……。輝夢、このままでいいのかな?」
「当たり前じゃん。我慢なんてしないでありのままでいてよ。その方が僕も安心するんだから」
そう伝えると「そっか」と言って、嬉しそうに両手で頬杖をつきながら満面の笑顔でいるので、念のために確認したくなって「そういえばさっきの子いい匂いしたな」とわざとつぶやいてみると、輝夢の表情が一変して、
「雪山に埋められたいの?」
といつもの調子に戻ったので僕は手を叩いて喜んだ。
おしるこを飲んだら今度は味がした。僕の味覚は輝夢で出来ているらしい。