アクロイド伯爵の密やかな記録。
ちょっと大人な恋の物語です。
フィクションです。
『はじめに』
2009年。
Nトラスト協会保有のイギリス・ダービシャー州南部にある旧アクロイド伯爵邸、別名「ポンディング・アビー」から一冊の手記が見つかった。
これはその記録である。
◆◆◆◆◆◆
これは僕の、僕自身の記録だ。
本来ならば僕の心の内にだけに留め置くものであるのだろうが、こうして文字に残したいという衝動が湧き上がり、とうとう誘惑に抗えなくなってしまいここに記すことにした。
内容はとても個人的で、他人に知られでもしたら家門を陥れるほどに恥ずべきものだ。
もちろん自覚している。
故に決して人の手に渡らぬように、この手記はこの館のとある場所に厳重に隠匿しておくことにした。
そこは僕しか認知していない場所である。
人目に触れることなどないと確信しているが、何らかの偶然と必然で白昼にさられることもあるかもしれない。
最初にこの手記の表紙を捲る人物が我が一族の血を継ぐ誰かしらであることを希望してやまない。
この帳面を手にした我が一族の末裔の貴方へ。
これから貴方が目にする物語は、第5代アクロイド伯爵フィッツウィリアム・ポンディングという貴方の先祖のごくごく私的なものである。
くれぐれも覚えておいてほしい。
そしてそっと貴方の胸の内に秘しておいて欲しい。
衆目になど晒さぬことを切に願う。
1803年8月
第5代アクロイド伯爵
フィッツウィリアム・ポンディングが記す。
◆◆◆◆◆◆
あの日のことは今でも鮮明に思い出す。
忘れたくても忘れられない。
僕の運命の人に出会った日のことは。
それは二年前。
王宮の晩餐会の夜のことだった。
初めてのアクロイド伯爵として迎えることとなったこの社交シーズンは、僕にとって特別なものだ。
前の年の冬に父を亡くし、名誉あるアクロイド伯爵位を継いだばかりの僕の将来を占う大事な年だ。
社交界を上手く渡れるか失敗するか……。
ひどく緊張しながら参加した晩餐会であったが、結果としてはとても上手く行った。
ありがたいことにアクロイド伯爵家の名は貴族の間では広く知られており、思っていた以上にすんなりと受け入れられたのだ。
それどころか社交界の重鎮に囲まれ、ずいぶん目をかけていただくこととなった。
どこかしらの居心地の悪さに落ち着かず、けれど自尊心をくすぐられ気持ちは最大限に昂るという、何とも言えない体験することができたのは奇跡だと言っていい。
それまでの人生で一度たりともなかったのだ。
僕はオックスフォードの一学生だったのだから。
そんなときに一人の女性から声をかけられた。
「これはアクロイド伯爵閣下ではありませんか」
チラリチラリと遠巻きに眺める淑女たちの中から、群を抜いて美しい女性が僕のそばに歩みよる。
それがあの方だった。
ベリー大公爵の長女メイベル・ハフィントン。
2年前に社交界にデビューし、隣国の王子と政略的な婚約をした淑女。
そしてこの国の社交界の華である。
「この度は大層な不幸でしたね」とメイベル様は何の偏見もないただただ深く慈しみのこもった笑みを僕に向けた。
何と美しく気高い微笑みだろう!
金色の波打つ髪に縁取られた顔の野薔薇のように繊細で意志の強そうな瞳に僕は一瞬にして魅せられた。
全てが完璧で理想的な美しい方は、他にはいないのではないか?
メイベル様のあまりに美しい姿に、僕は動揺した。
同時に体の芯が熱くなる。
「亡き父にご配慮いただきありがとうございます」
何とか喉の奥から声を出したが、その声は掠れ裏返っていた。
何てこった。
失敗してしまった。
こんな貴い方の前での失態。
恥ずかしさで肩を振るわせた。
だが、かえってそれが父親を突然亡くし、失意に沈む貴公子と捉えられたようだ。
メイベル様は心の底から同情したような眼差しで、
「とても残念なことでしたね。お父上様はまだお若かかったでしょうに」
「ベリー公女様。ええ。父は……まだ五十路には届かぬ年でした」
「まぁ。本当に本当にお若いこと。……閣下がお辛くなければご理由をお聞かせいただいても?」
「構いません。昨冬の流行りの熱病に罹りあっという間に……。危篤の報せを受けたときはオックスフォードにいたのですが、最期を看取ることなく身罷ってしまいました」
「そうでしたか……。今年はタチの悪い病が流行りましたものね。貴族も平民も多くの者が天に召されましたが、そのお一人に前伯爵様がいらっしゃっただなんて。お気の毒でした。あなた様もお気を強くお持ちくださいませ」
そこまで話したところで、メイベル様の侍女が何か主人に耳打ちをする。
メイベル様は申し訳なさそうに、少し頭を下げた。
「カール様が呼んでいらっしゃるの。失礼させていただいても?」
「もちろんです。メイベル様」
「お話できてうれしかったわ。フィッツウィリアム様。アクロイドの名は重いでしょうが、お頑張りになってね」
僕は丁寧に会釈をし、婚約者の元に向かうメイベル様の背中を見送った。
一部の隙も無いほどに美しい後ろ姿に、胸が熱くなる。
もしもメイベル様の笑顔をもっと眺めることができたのならば、僕はどうなっても構わない。
一目惚れなど愚か者がすることだと軽蔑していたのに……。
恋は突然おとずれ打たれるものだと思い知ることとなった。
メイベル様はベリー大公の御令嬢。
ベリー大公……は数代前の王弟殿下が立てられた王室に連なる由緒正しい家柄。
つまりはアクロイド伯爵とは比べものにならないほどの存在ということだ。
最初から僕の手には届かない高嶺の花。
「あぁそれでも、アクロイド、お前はメイベルに恋をしてしまったということだな?」
カールはカラカラと声を立てて笑った。
「何と美しい騎士道かな」
僕は苦虫を噛み潰したように顔を歪め、
「……あなたの婚約者が、あれほどまでに美しいとは知らなかったのです」
「愚かな。俺は何度も言っていただろう? 我が友よ。それでも信じなかったのはアクロイド、お前の落ち度だ」
「殿下のお言葉は虚が多いですからね。あなたの言葉のまま信じることなどできません」
「一国の王子に対して忌憚のない意見、感謝する」
カール・ニークヴィストは左手をあげ侍従を呼ぶと、赤ワインをグラスに注がせた。
僕の一目惚れの相手、メイベル様の婚約者のカール(尊称なし計り知れないほどの不敬だがここでは使わないでおく)は、オックスフォードでの友人だ。
現国王の末息子であり比較的自由な立場にある彼は、数年前から最高の教育機関である我が国の大学に留学(遊学かもしれない)してきていた。
入学初日、専修科目が被り、隣り合わせで座ってしまって以来の親友である。
いや、違う。
悪友だ。
僕とカールは学生時代にありとあらゆる悪徳を体験した。
浴びるほどに飲む酒も、東洋から輸入された麻薬も、そして女も。
オックスフォードの学生御用達の売春宿から貴族専用のフランス人高級娼婦まで渡り歩いた。
試さなかったのは母校伝統の男色だけだ。
「メイベルは美しいが、俺は愛を感じない。彼女にとっては不幸かもしれんが。致し方ない。イギリスの権威と財は我が国には喉から手が出るほど欲しいものだからな」
ヨーロッパでは未だ新興国扱いのカールの祖国にとって、我が国の王族との婚姻は何よりも優先されるものだ。
「いつか殿下もメイベル様に愛を抱かれることもございましょう」
「どうだかな。だとしても、お前ほどではなかろうがな」
カールは侍従たちに目配せをする。
「……アクロイド、お前に折り入って相談があるんだ」
主人の指示を心得た侍従が退出するのを見守り、カールは徐に口を開いた。
「お前と俺は親友だ。多くの秘密を共有している」
「えぇそうですね」
僕は胸騒ぎを覚えた。
カールからの相談など厄介なことでしかない。
だが、僕の爵位からは断れる立場でもないところが辛い。
カールは両手を顔の前で組み、僕の顔を真っ直ぐに見据えて言い放った。
「アクロイド、お前の願いを叶えてやる。メイベルを抱け」
「なんて事をおっしゃられるのですか?!」
僕は思わず声をあげる。
婚約者を他の男に任せるとか、正気の沙汰とは思えない。
「そのまんまだよ。アクロイド」
カールはゆっくりとワインを口に含む。
「病を得てしまってな。俺には抱くことができないんだ」
「どういうことですか?」
僕はカールの手からワイングラスを取り上げ、一気に飲み干した。
現実とは思えない提案に自分自身、素面ではいられなかったし、カールにもこれ以上飲ませたくもなかったからだ(この王子様は如何せん酒癖が悪すぎるのだ)。
カールは自嘲する。
「遊びが過ぎて病を得た。副作用で不能になってしまったんだよ」
王族が不能?
一大スキャンダルじゃないか。
「なんてこと……心当たりは?」
「お前ならわかっているだろう? あり過ぎて、何が原因なのかはわからない」
カールは週末ごとに娼館へ足繁く通っていた。
商売女は当然ながら不特定多数の客を相手にする。
貴族や富豪しか相手にしない高級娼婦であっても例外ではない。彼女たちは定まったパトロンを相手にすることも多いが、そのパトロンが清き生活をしているはずがないのだから。
つまりはなにかしらの病気を持っている、ということだ。
僕は頭を抱えた。
「だから、控えろと言ったのに。カール。お前というやつは……」
「自由を享受し過ぎてしまったな。気をつけるさ」
カールは自国では許されない自堕落な生活をこの国で送っていた。
我が国は他国に比べて物価も高く、庶民や貧乏貴族には暮らしにくい国である。
僕の家も歴史だけはあり、それに見合うように装ってはいるが、内情はかなり苦しい。オックスフォードの学費でさえも、やっと工面した次第だ。
対してカールは腐っても王族。
尊厳を守るために自国からの莫大な仕送りという原資がある。
異国の開放感に浸ったカールは遊びに使ってしまっていた。
僕もおこぼれに預かっていたので、その辺は強くは言えないのだが。
「まぁとにかく俺は子をなすことができないわけだ」
カールは棚から新たな酒とグラスを取り出した。
琥珀色の液体がグラスに注がれるのを、僕もカールも一言も喋らずじっと見つめる。
「……王族としては最悪でしかないな。カール。不能であることは確かなのか?」
「ロンドンの名医に診てもらった。性病もだが、まずは勃たねばどうしようもない、だと」
「メイベル様はご存知なのか?」
「知るわけがない。……このことはイギリス側に知られる訳にはいかないんだ」
王族の結婚はただ国益のためだけに行われるものだ。
特にカールの国は新興国で財政も国力もイギリスに大きく劣る。
国威向上のために、メイベルとの結婚は何としてでも成就なさればならない。
「だからメイベルが俺と交わったという証がいるんだ。子の不在は仕方ないとしても、俺が不能ゆえの離婚は避けねばならない。俺の国のメンツも潰すことになる。頼むよ、アクロイド。お前と俺は無二の親友だろう?」
「だからといって!」
カールとの差し替えでメイベル様と関係を持つ。
そんな不道徳な事を……。
「お前にはメイベルに対しての気持ちがある。なにも知らぬ者に託すよりもお前がいいんだ」
「いや、ダメだ。そんなことは……」
おかしい。
こんなことは間違っている。
国の為だとしても。
カールの代わりにメイベル様のお相手をするなんてありえない。
自堕落な生活のせいで不能になってしまったカールの自業自得ではないか。
カールは僕の心情を推し測ったのか、
「わかってる。全部、俺の責任だ。ハメを外し過ぎた俺が悪い。罰は後で受けるさ。だがな、もう時間がないんだ」
「時間がない? どういうことだ」
「俺はこの夏の終わりに国に帰ることになった。父に呼び戻されたんだ。メイベルも一緒にな。国に戻ってすぐに結婚する。それまでに初夜を終わらせておきたいんだ」
この夏の終わり?
僕はため息をついた。
「もうあと三ヶ月もないじゃないか。大学は?」
「退学する。それまでにお前に役目を果たして貰いたい。もちろん報酬も考えているぞ。しかも少なくない額をな」
金という言葉に一瞬揺らぐ。
体裁を整えるのに精一杯なこの生活から脱却できるかもしれない。
だが、ダメだ。
カールは自分の考えが間違っていないと思い込んでいるらしい。
そもそもスタート地点から誤ってはいないか?
「なぁカール。根本からおかしいんだが。お前が不能で僕が代役を務めること自体が理解できない。第一、メイベル様の同意なしで夜伽ができるはずがないだろう?」
「方法はいくらでもあるさ。俺もお前も見知っているだろう」
思い出すのは娼館での乱痴気騒ぎ。
ーーーーあぁありますとも。
「……何というか言葉が出ない。頭がおかしいぞ。カール」
「重々承知してるさ。即答しろとは言わないが、数日以内には返答を決めて欲しい」
「わかった」
僕は足を引きずるようにして部屋を出た。
何という身勝手な願いだろうか。
王族という最上位の階級の自由奔放な性格と、自らの要望であれば必ず受け入れられるであろうという高慢さに、呆れてしまう。
だが、情けないことだが。
結局のところ僕はその申し出を承諾した。
違う。
せざるを得なかった。
本当にどうしようもない事情が僕を責め立てていたからだ。
一つ目はアクロイド伯爵家の財政問題。
昨秋、領地の川が氾濫し、近隣の村々に多大な被害が出た。その復旧のために費用が必要であったのだ。
僕の大学費用ですら何とか工面している現状、災害復旧のイレギュラーな出費で、アクロイド伯爵家は体面すら保てないところにまで陥ってしまった。
母の実家と結婚時の持参金から援助してもらい、当面は凌ぐことができたが、それも応急処置に過ぎない。
つまりはアクロイド伯爵家の経済状態は青色吐息であり、立て直すためには資金が必要であったこと。
しかも早急に。
二つ目は僕の個人的な感情だ。
僕はメイベル様に惹かれていた。
一度しか会ったこともない一方的な感情であったけれど、それでも恋焦がれてしまっている。
あの美しい女性を自分の胸に抱くことができるのならば、どれだけ幸せだろう。
例え誰かの代役であったとしても、だ。
理性では否なのだ。
他人の婚約者、しかも王族の姫君様を自らの欲望を打ちつける相手にする。人として許されることではない。
そんなことはわかっている。
だが、体の奥深くの卑しい炎が、このチャンスを逃すなと声高に言う。
メイベル様の白い胸を、柔らかな唇を、自らの物にしたくはないのか。欲しくはないのかと。
僕はその誘惑に負けてしまった。
誰かの手によりメイベル様の清純が奪われるのならば(そして唯一の合法的な権利者であるカールには奪える武器がないのだ)、僕がひとときでもその役目を果たせるのならば……。
間男にでもなってやる、という愚かな思考に囚われてしまったのだ。
3日後。
僕はカールをケンジントンにある庭園に呼び出した。
約束の時間よりも前に到着した僕はベンチに腰掛け、ぼんやりと空を見上げていた。
午後の日差しはとても清々しく、この重く馬鹿げた思いを秘めた僕とは正反対だった。
今なら戻れる。
こんな馬鹿馬鹿しい申し出を断ることができる。
いや、領地の為に断ってはならない。
やむに止まれぬ事情で受け入れざるを得なかっただけだ。
こんな取り留めのない考えに浸り、陰鬱な気分に墜ち始めた頃、約束の時間きっかりにカールは颯爽と現れた。
カールの陽の光を反射し淡く輝く金の髪、6月の快晴のような瞳と整った容姿。
自堕落な、とても誉められない生活により少しやつれた様子が退廃的で、元々の美しさをより一層引き立てていた。
その姿を見た途端、僕の中で今の今まで巡回していた考えが全て胡散してしまった。
圧倒的な力を持つ強者には、この美しいものには逆らえない。逆らうことなどできやしないのだ。
もう、「はい」しか言えないじゃないか……。
僕は両手を顔の前に組みながら、静かに口を開いた。
「例の件、協力しますよ。その代わり絶対に援助をすることを約束してください」
「さすが親友。わかってくれると思っていた」
カールは天使をも魅了できるであろうほどの笑みを浮かべた。
僕はすぐに後悔した。
王族というものは自己憐憫と自尊心の塊なのだ。
僕の苦悩など我関せずという様子にいささか腹が立つ。
「少しは労ってもらいたいものです。僕がどれだけ苦悩したか、お分かりですか?」
「わからないな。お前は領地を立て直せるだけの金と……」
カールは僕に顔を寄せ、
「想いを寄せている女人を抱けるんだ。感謝してくれてもいいんじゃないか?」
「カール!」
流石にないんじゃないか。
神経を逆撫でする言葉に、僕はカールを睨みつけた。
カールは我関せずだ。
上機嫌なのか鼻歌すら聞こえる。
「カール殿下。王族というものは、神から与えられた才能であるとでも思っているのかどうか知らないが、なんて我慢ならない性格をしているんだ。下々の苦労など無いものと思っているのだろうな」
「冗談だよ。アクロイド。怒るな、怒るな。俺たちは共犯なんだ。死ぬまで途切れぬ絆で結ばれた間柄ということだ、親友。お前のことは信頼している。神に誓うぞ」
「こんなこと知られでもしたら……」
「俺の国は終わる。イギリスは許さないだろうなぁ。なぁアクロイド、歩きながら話そうか。向こうの景色はなかなかだった」
カールと僕は並んでそぞろ歩いた。
王妃の自らの助力で整えらえた庭園は全てが見事だった。
木々の一本、花の一株に至るまで、綿密に立てられた計算の上で植えられ、最も美しい姿で鑑賞できるように設られている。
自然…とは言えない。
人為的な世界だ。
まるで、これから行われるであろう悪魔の所業のように。
罪深い僕を神は許してくれるだろうか。
「イギリス側には、俺がメイベルに惚れてしまい気を病んでしまいそうだ。1日でも早く夫婦として共に過ごしたい……ということにしておいた。週末には花嫁が大公爵邸から移ってくる」
カールは池の端まで歩みを進め、風紋を刻む水面を見つめる。
「1週間、いや10日か。俺はメイベルを愛してしまって仕方がないという演技をする。使用人すら近づけず二人だけで過ごすのが当然だというところまでもって行くつもりだ」
「……殿下」
僕が口を開こうとすると、カールは右手で制し、
「メイベルの警戒心が緩んだ頃にお前を呼ぶ。……俺の親友が館に滞在し、未来の妻と親交を深めても何もおかしな事ではないさ。最後を締め括ってくれたらいい。アクロイド、お前ならば成し遂げれるさ」
もうやるしかない。
僕は血が滲むほどに拳を握りしめた。
2週間が過ぎ僕は予定通りにカールのロンドンの住まいに招待された。
これから行われるであろう不幸な出来事を思うと、体も心も重く沈み、足は進まなかった。
カールが望み、僕自身も決意したことではあるけれど、良心が痛んだ。
そう、僕はメイベル様を蹂躙するのだ。
婚約者であるカールの指示で。
あの美しく繊細なメイベル様を、僕は自らの下に組み敷くのだ。
カールのロンドンでの仮住まい(祖国の邸宅とは比べ物になら無いほどの規模のこじんまりとしたタウンハウスだ)に着くと、恭しく執事に迎えられ、サロンに通された。
出された茶を啜りながら待つこと数分。
現れたのは、仲睦まじい若いカップルだった。
男性は時に熱をこめた眼差しで女性を見つめ(人前であるにもかかわらず!)、女性も信頼し切ったように男性に身を寄せている。
「アクロイド、よく来てくれた。待ちかねたぞ」
カールは紳士然とした態度で、親友の到着を喜んだ。
あの笑顔の下に醜い謀を潜ませていることを僕は知っている。
どれだけ心で否定しようが、この道化に付き合わねばならない。僕は儀礼通りに礼をし、口上を述べた。
「ご招待いただきありがとうございます。カール殿下、そして……」
差し出されたメイベル様の腕を取り、甲に口をつける。
手袋の上からでもわかるほどの、メイベル様の柔らかで嫋やかな肌にドクリと胸が鳴り体が軋んだ。
「メイベル様。お変わりなくお美しい。……ですが、前回お会いした時よりもさらに美しくおなりのようです」
「あら、嬉しいことをおっしゃるのね。フィッツウィリアム殿。私が綺麗になったのであるのならば、殿下のお陰ですわ」
メイベル様は如何にも愛おしそうに婚約者を見上げる。
「とても大事にしてくださるの。国家の間で決められた婚姻であるというのに、これほどまでに愛しんでいただけるなど、思いもよりませんでした」
「こんなに美しい女人に夢中にならない男はいないよ。メイベル。その名の通りに麗しい私だけの女神様」
歯の浮くような台詞に背筋が凍る。
内情を知っている僕からすれば、白々しいばかりだが、企みはうまくいっている様だ。
「メイベル、アクロイドと二人だけで話したいんだ。愛しい君を一人にするのも気がひけるのだが」
「カール様、よろしいのです。ご親友と久しぶりにお会いになられたんですもの。夕食まで時間もありますし、ごゆっくりなさったら良いですわ。私、読みたい本があったのです」
「あぁ、ありがとうメイベル」
カールはメイベル様にキスをし、部屋の外までエスコートした。
恋人兼婚約者である二人の背中を見送りながら、僕は胃の痛みを感じていた。
僕はメイベル様に恋している。
あの笑顔も姿も、声も、全てが愛おしいと思う。
だが、メイベル様の気持ちが自分に向かうこともないということも確信してしまった。
メイベル様はカールに信頼と愛情を寄せている。
恋愛の駆け引きに長けたカールの偽りの愛と真実の愛の区別が、清純なメイベル様にできるはずもない。
その優しさは偽りだ!
騙されているのだと説得できたらどれだけ幸せだろう。
僕は悪魔と取引をしてしまった。
実ることのない思いを抱いたまま僕は罪を犯す。
これから、僕が行うであろう下劣な事柄をメイベル様は許してくださるだろうか。
誘惑に負け書き始めたこの記録ではあるが、ここから先は詳細を記すことはしないでおこうと思う。
この企みの犠牲者であるメイベル様の不名誉になることだけはしたくはないからだ。
僕とカールだけが知っていればいい。墓の下まで持っていく。
ただ一言。
計画は成された。
メイベル様を傷つけることなく(メイベル様は相手は未来の夫であり婚約者であるカールと信じている)、僕は役目を終えた。
そして僕の恋も終わったのだ。
こんな卑劣な行為をして、それでもメイベル様を愛することなど許されない。
手元に残った大量の貨幣と引き換えに、僕は心を失った。
これが1802年の僕の記録。
全て真実である。
◆◆◆◆◆◆
『おわりに』
この手記はNトラスト協会が管理する旧アクロイド伯爵邸の図書室に設られた隠し戸棚から発見された、凡そ200年前の一貴族の非常に私的な記録である。
内容が真実であるのか、作者の妄想であるのかは、今となっては確認する術もないが、登場する人物は実在したようだ。
まず、僕こと第5代アクロイド伯爵フィッツウィリアム・ポンディング。
アクロイド邸をトラストに寄贈した第8代アクロイド伯爵の先祖である。
フィッツウィリアムは結婚をせぬまま若くして亡くなり、彼の直系尊属は存在していない。
(記録によると手記が書かれた1803年の晩秋。狩猟中の事故で負った怪我により死亡した)
そしてカール・ニークヴィスト。
彼は某国の王子であり、後のロヴネル公爵カール3世であろうと考えられる。イギリスに留学し、イギリス王室ゆかりの女性メイベル・ベリーと結婚した。ただ若い頃からの放蕩趣味のせいで、40代の若さで死亡した。
「僕」が思いを寄せたベリー大公女メイベル・ハフィントン。
ロヴネル公の妃。婚約者時代から公爵に溺愛され、政略結婚でありながらも驚くほどに夫婦仲が良いと広く知られていたようだ。
公爵夫妻は3人の子を残した。
この手記にあるようにカールが不能であるのならば矛盾している。
何が真実であるのか。
今となっては藪の中、である。
読んでいただきありがとうございます!
吉井です。
個人的に19世紀初頭・摂政時代のイギリスが好きで、ちょっとそれっぽい雰囲気でダークなお話を書いてみたくなり書いたものです。
楽しんでいただけたらいいな!と思います。
では、またお会いしましょう。