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薄紅色に染まるふたり

作者: みなづき零



澄み切った青い空をふと仰いで、美紀(みのり)は深く息を吸った。その空気は予想していたよりもつめたく、まだ冬の気配を残していた。三月のはじめ、おだやかな日のことだった。


車窓から眺める景色は、見慣れたもので、特に何を思うわけでもなく、ただ流れていく。乗車した時にはそれなりに混雑していた車内も、次第に空いていき、今は数える程度の乗客しかいない。ワンマン列車のドアに寄りかかり、規則的な揺れに身を任せる。優先席に座った60代くらいの女性の2人組は、何やら楽しそうに話している。スマホをいじる若い男はかったるそうに足を組みかえる。

美紀は背中のリュックサックから、一冊の単行本を取りだした。ぱらぱらと頁をめくり、適当なところでひらく。何度も読み返した小説だ。どこを開いても、見覚えのある文章がただ連なっているだけだった。美紀はまたその文章を読み返した。新鮮さはないものの、飽きはしなかった。美紀はそうしてしばらくその文章を反芻した。美紀にとって人生とはその行為に似ていた。


「そこの学生さん、終点ですよ」

本から顔を上げると、車掌らしき男が目の前にたっていた。いつの間にか降りるはずの駅は通り過ぎ、終点に着いてしまっていたらしい。

「すみません、すぐ降ります」

本を閉じ、リュックサックにしまおうとファスナーに手をかける。

「僕も好きです、その小説」

彼は言った。制帽からのぞく顔立ちは、20代前半くらいに見えた。人懐こい笑顔をするんだな、と思った。「初めてです」と美紀は答えた。そして、「この小説を知っている人に会うのは」と続けた。それだけを告げ、彼に会釈をし、電車を降りた。無人の改札口をぬけ、駅舎を出る。太陽の眩しさに目を細める。なんだか落ち着かない気持ちのまま、家路についた。

あまり名の知れていない小説だから、知っている人などいないと思っていた。そして同時に、この小説を知る人がいたら、話してみたいとも思っていた。この場面のこの台詞が好きだとか、この描写が美しいだとか、そんなことを語らいたいと、夢見ていた。


通学のために駅に向かう度に、美紀は彼の姿を無意識に探すようになった。同じ駅で降りて、あたりを見回して、その姿を探してから誰もいない改札に向かうのが、いつしか美紀の習慣になっていた。その頃はもう、ブレザーの冬服を着るには暑い季節で、美紀は半袖のワイシャツに薄手の生地でできた、夏用のプリーツスカートを着用していた。そしてリュックサックの中にはあの小説があった。


「お久しぶりです」

いつも通り、下車してあたりを見回すと、彼はそこにいた。習慣化していたその行動に思考などなく、美紀はそこに佇む青年が彼だと認識するのに、少しだけ時間を要した。それは、彼が車掌の制服姿ではなく、ジーンズにTシャツという服装をしていたからでもあった。

「あなたを、」

探していたんです。ずっと。

美紀は言いかけて、その言葉を飲み込んだ。彼が私を覚えていても、再会を望んでいたのは自分だけかもしれないという不安が頭をよぎったからだった。

「僕もです」と彼は笑った。「探していたんです、貴女を」


彼の名前は高崎春斗といった。23歳で、東京の大学を卒業後、地元の鉄道会社に就職したばかりだと話した。あの日は、乗車予定の車掌が急病で帰宅し、代理としてたまたま都合が合った彼が乗車したとの事だった。なかなか都合が合わず、痺れを切らして彼女を探すことにした春斗は、同じ時間帯、同じ車両に乗り込んだところ、その日に会えてしまったのだった。



「春斗くん」

美紀は、隣を歩く、自分より少し背の高い彼を見上げる。

「私、今日で高校生じゃなくなるんですよ?」

美紀は訴えかけるように春斗に告げる。柔らかな三月の日差しが、ふたりに降りそそいでいる。風が美紀の肩までの黒髪を揺らす。

「そうだね。卒業おめでとう」

分かりきったことを改めて口にする美紀を、春斗は笑って受け流した。春斗は美紀が何が言いたいのかがわかっているかのようだった。美紀の頭を優しく撫で、微笑む。そんな春斗に美紀は「そうじゃなくて、」と噛み付く。

「………くらい、してくれたっていいじゃないですか」

「なんだって?きこえなかったな」と美紀を揶揄する春斗は、満足気な表情をしている。

「…だから、!」

春斗の態度に耐えかねて、美紀は春斗の前にまわりこむ。すると、強い力で美紀の身体が引き寄せられ、唇にやわらかいなにかが触れた。初めての感触だった。

「だから、なに?」

唇がはなれると、春斗はいたずらっぽく美紀に笑いかけた。そして美紀の腰にまわしていた腕を、背中に移動させて、そのまま抱き寄せる。呆気にとられていた美紀は、顔を春斗の首元に埋めた。

「…そうゆうとこ、きらいです」

俯いてそう言う彼女の耳は、あかく染まっている。


-それは、街が薄紅色の花に染まる季節、おだやかなある日のことだった。

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