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キキ

作者: 大橋 秀人

 僕達は暗闇に口を開ける獣道に足を踏み入れていた。暗闇の中の一筋の光を追うのに気をとられていると、間も無く方向感覚が失われていった。

「こんな話がある」

隣を歩く彼女が心配になり、探し当てた言葉がこれだった。僕が母さんから聞かせてもらった童話を彼女に話す時、必ず頭に置く言葉がこれだった。

「湖に生きた妖精の話さ」

僕の意思とは関係なく、言葉が口から零れ落ちた。

「森があった。その森は人間が近づけないほど深くてね。中央に大樹が聳え立つ湖があった。大樹はそうだな、僕と君が両手を繋いで精一杯大きな輪を作っても到底及ばないほど太い幹なんだ」

そう言って僕は腕を大きく横に振って見せた。

「湖には多くの動物や妖精が住んでいた。妖精は一様に小さかったんだけど、その中でも一際小さいキキという妖精がいてね。キキは妖精であるにも拘らず、翼がない所為で仲間からいじめられていたんだ。キキは湖面上を戯れながら踊る仲間に憧れていた。 

キキには妖精の仕事である病や傷を治す能力も無くてね。動物にまで役立たず呼ばわりされていたんだ。いじめられて悲しくなったキキは、湖を見守っている大樹の所を必ず訪れた。大樹は泣いているキキを決まって優しく慰めてくれたのさ。キキはそんな大樹が大好きだったし、湖にいる全ての生物もまた、大樹を愛していた」

僕は注意深く歩を進めながら続けた。

「ある日キキはいじめから逃れ、独りになれる所を求めて大樹の周りを歩いていた。そこで偶然、大樹の異変に気付いてしまう。大樹は病気に犯されていたんだ。キキには病気を見つける能力もなかったんだけど、大樹の病巣は誰が見ても一目で分かるくらいに腫れ上がっていたから発見できた。

 心配になって近づくキキに気付いた大樹は『見つかってしまったな』と力無く微笑んだ。キキは直ぐに治癒能力のある妖精達を呼んでくると言った。けど大樹はそれを止めた。大樹は自分の病が妖精の力では治せないと知っていたんだ」

森の濃密な空気を胸一杯に吸い込む。

「大樹は『病気は嫌でも程なく治る。しかしそれが治る時に出る毒が湖に流れ出てしまうかもしれない』と苦悶の表情を向けた。そうなれば湖の生物は毒の紛れた水を飲むことになる。それは湖の全ての生物を死なせてしまうことと同じなんだ。だから大樹は病気をわざと治さずにいた。・・・だけどそれももう限界だったのさ。キキはその晩にでも大樹から湖へ毒が流れ出てしまうことを知ったんだ。

大樹は太い幹を軋ませて泣いた。風も無いのに幾千にもなる葉を揺らしていた。それは本当に痛々しい声だったんだ」

「キキは…誰かにそのことを教えられなかったの?」

彼女が心配そうな声を上げた。僕は遣り切れない気持ちで首を振る。

「キキは言ったさ。湖中を駆け回って、水を飲んではダメだってね。けどキキを馬鹿にしている連中は逆に湖の水を飲んで見せた。本気になってはくれないのさ。何せ大樹は遠い昔から湖を見守っている存在だからね」

「…大樹の所に連れて行ってあげれば、信じてもらえるわよ」

僕は再び首を横に振る。

「動物も妖精もキキを信じていなかった。それにキキはとても小さいって言っただろ? 病巣がある根幹へ行くには、抜け道を通る必要があったんだ。そこを通れるのはキキ以外にいなかった。半信半疑で抜け道の入り口まできてくれた妖精も、付き合っていられないと去ってしまったのさ。

 湖を駆け回って疲れきったキキは、再び根幹に戻った。その時には病巣はパンパンに膨らみきっていた。大樹は毒を流すまいと必死で堪えたよ。…それでも間も無く、その時は来た。…遂に毒が幹から漏れ始めてしまったんだ。一旦漏れた毒は堰を切ったように幹から流れ出した。毒はキキが見る限り無色透明で、湖の水と見分けがつかなかった。

 …驚くほど呆気なく毒は流れ出てしまった。幸いそのとき湖には誰もいなかったんだけど、朝が訪れれば誰かが水を飲みに来るに違いなかった。

 キキはじっと湖を見つめ、何か考え込んで動かなかった。…そしてある時、徐にその小さな足を湖へと踏み入れたんだ。大樹が『何をする気だ』と訊いても何も答えない。ただ湖の中心に向かって進んでいくだけだ。何度も言うけどキキはとても小さな妖精だ。そして翼を持たない。直ぐに全身が湖面に吸い込まれていく」

「キキはどうなっちゃうの?」

彼女は泣きそうな顔で僕を見上げた。

「大樹は泣きながらキキを探す。『おお、キキや…返事をしておくれ』ってね。…でも、見つからない。見つからないんだ。ひどく悲しい時間が過ぎてゆく」

辺りの純粋さが物語の空気を連想させ、僕を戸惑わせる。

「暫く時が流れた。…切掛けなんて無かったんだ。ある時、満たされた月が信じられないような速度で湖を見出した。わかるかな? 月から湖までの果てしない距離が、一瞬にして繋がれたんだ。…その瞬間、湖の中央がぽっかりと照らされた。湖面は静かで、煌きすら起きない。それは奇跡的に円筒形を保っていて、今にも崩れそうになりながらもそこに留まっていた。

 …そして直ぐに、光がキキを導いたのさ。光に抱き上げられたキキは満たされた月を見つめ、両手を捧げた。そしてこう言ったのさ。『湖を救ってください』と」

僕は両手を一筋の光に翳した。

「言葉と同時に、キキの体は湖へと投げ出された。大樹は沈んでいくキキが見る間に溶け出していくのを見た。湖中にキキの光が沁み込んでゆく。キキはまもなく跡形も無くなった。そして留まっていた光もそれと同時に弾け散ったんだ。

 大樹が息を呑んでいる間に何も知らない動物が湖へやってきた。大樹は何も言えなかった。言っても信じてもらえないことを知っていたから。それで、…湖面に口付ける動物をじっと見つめていた。動物は水を飲んだよ。…けど恐ろしいことは何も起こらなかった。湖に流れ出た筈の毒は浄化されていたんだ。大樹はそれをキキのおかげだと確信した」

暗闇の中で彼女が頷く気配を感じる

「でも動物達は笑いながら、キキのことを嘘吐きだと言った。

…元に戻った湖は、以前と同じく動物や妖精が住んでいた。違うのは、そこにキキがいなくなったことだけさ。動物達は暫くキキを思い出すように話していた。それでも時が過ぎ、キキの名前は次第に忘れ去られていった。大樹はそんな動物達を悲しい目で見つめ、キキを想い、そして月に祈った。『キキはこの湖を救ってくれました。どうか湖の者達がキキのことを忘れる日が来ませんように』ってね。

 それを聞いていた神様が哀れに思って、月が満ちる夜に限ってキキを湖から開放し、その姿を与えると決めた。こうしてキキは月が満ちた夜、湖にいられるようになったんだ。喜んだキキは青白い月光と戯れながらいつまでも湖面の上で踊っていたんだってさ」

話し終えた僕は、息をいっぱい吸いながら、次に来る質問を待った。以前僕が母さんにした質問を彼女がするという確信があった。

「湖面の上を?」

僕はその問いにゆっくりと頷いてから用意してあった言葉を口にした。

「キキの背中には、翼が生えていたに違いないよ」

僕達は暗闇の中を歩いていたのに少しも不安を感じずに済んでいた。

この物語は、同作者の『贖いの坂道』の作中文を短編として取り出したものです。興味がある方は、本編もチェックしていただけたら有難いです。

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[良い点] 内容は最初はあまり気が進まない気もしましたが 読んで行くと味がわかってきます。なんか。笑 [気になる点] 読み手のことを考えて やっぱりもうすこし改行をして欲しいナとはおもいました。 …
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