『あなたの描く物語』
『図書館巡り日記』 328日目
この日記ももうすぐ1周年を迎えると思うと感慨深い。元はつまらない会社勤めやそこでの人間関係に疲れて始めたのだが、こんなに続くとは思っていなかったのが正直なところだ。当時の僕は上司や同僚に気に入られようと彼らに迎合していた。そんな自分が嫌いだった。ノイローゼ気味にもなっていたから、何か日々に刺激が必要だと考えたのがきっかけだった。今は日記を書く以前ほど程度はひどくないにしろ、人生に後ろ向きなどうしようもない性向に劇的な変化は認められない。とりあえず現実から逃げ出したいとは考えるが、実行に移せない僕みたいな人間にとって、小説というものはもってこいだと言える。誰にも邪魔されることなく自分だけの世界に入り込める、限りなく完璧に近い(完璧とは、自分が主人公の世界で何事も上手くいく世界のことだ)現実という悪夢からのシェルターだ。願わくば、この人生を早く終えて、石にでもなりたい。誰に見せるわけでもないのに何を語っているんだ僕は・・・。閑話休題。今日はとても奇妙な本に出会った。装丁は黒塗りでシンプル、厚さも2cm程しかなく、その他の装飾も一切ない。誰からも見つからないよう、隠れるように図書館の隅に他の古書と並ぶその本は、しかし同時に確かな存在感を放っていた。そして奇妙なのはここからで、この本、内容がないのである。当然、本文が浅薄だと言っているのではない。文字通り、内容はなく”白紙”なのである。これまで多くの書物に触れてきた僕でも当惑というほかなかった。しばらくその本を調べると、表紙に薄く『あなたの描く物語』とあるのを確認。ややあって、得心。なるほど、この手の書物か、と。この本は手にとった当人がこれから描く物語、つまり人生が、白紙、可能性は無限大であると暗示しているのだ。胸のつっかえが取れた満足そのままに、今日はこの本を借りてしまった。まあたまにはこういう日があってもいい。どちらにしろ数日限りの付き合いだから。普段味わえない刺激と引き換えたと思えば割にあった交換だろう。僕は悦に入りながら帰路についた。
ふう、と一息ついて静かにノートを閉じる。自宅に着き、一通りの活動を終え、日課であるこの日記を書き終えたというのが現在。時刻は0時を回ろうかというところ。いつものルーティンで言えばこれからその日借りた本を読むのだが、今日は例外である。手持ち無沙汰は明らかだが、深夜2時頃の就寝という悪習慣がこの体には染み付いている為、今すぐ床に就くことは出来ない。デスクに佇む件の本にふと視線を落とす。手に取り、それとなくページをめくると、そこには文字が並んでいた。僕はあれ・・・と漏らす。さっき見落としたのか・・・?いや、何度も確認したからそれはないはずだ。では、なぜだ?何かの仕掛けか?考えられるとしたらサーモクロミズム、いや、もっと単純な話か・・・。可能性の吟味は尽きないが、溢れる思考を一度堰き止めて、取り敢えずそこに書いてある事を読んでみる。
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この本は、これを手にとったあなたを”主人公”として展開する物語を作成します。全ての責任はあなたにあり、何をするのも自由です。あなたにしか作れない物語を作り上げてください。次のページをめくる事で物語は始まります。
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なんだこれは・・・。しばらくその文章とにらめっこしながら、深く思案していた。時刻は既に午前1時の10分前だった。長いこと集中していたようだ。その間あらゆる考えが浮かんでは消えていった。まず第一に初めて見た時にはなかったはずの文字が現れたこと。これはトリックがわからなかった。現にこの不思議な現象がこの不可解な現象に妙なリアリティを持たせている。これがなければ確実にこのような胡乱な文章を信じたりはしない。理性は正常に働く。冷静に物事を捉えられている。一方で、感情は激しく揺さぶられていた。常に非日常を求め、現実逃避を繰り返す自分にとってこれほど唆られる甘言はなかった。胸の奥で微かに生まれた高揚の小さな火種が、この状況を現実であると信じたい自分が大きくなるにつれて大きくなり始め、この胸を燃やすのがわかる。興奮している。この先に広がる、自分が主人公の物語。なんと甘美な響きだろうか。これまでの人生で自分が主人公だったことがあったろうか。周りに同調するだけの人生に嫌気がさしていたのではないのか。もう手は止める理由はないように思えた。頰は火照り、体は熱い。深く息を吸う。そして吐いた。高鳴る鼓動を意識しながらページをめくった。人生で初めて、自分自身の意思で前向きに歩を進めた瞬間であった。
「神様ーどうしてあの人間を殺しちゃったんですかー?」あっけらかんとした調子で尋ねるのは、神の使いの一人、いや一匹。稲荷の狐である。「やっと前向きになって、これから主人公としてやっていけるって時だったのにー。なんかかわいそうじゃないすかー?」「ん。主張はもっともだと思うね。狐くん。だけど僕は殺してなんかいないさ。彼の物語がたまたまそうだっただけでさ。まあ一つ言えるのはあの手の人間が僕は一番嫌いなのさ。自分が努力していない結果が現状に出ているだけなのに、僕は主人公にはなれないだのと聞いてられないよ。誰もみんなじぶんの人生の主役であるべきなんだ。それに努めるのは自分で、その事実を認められないのも自分だよ。終いには小説に逃げてじぶんの拠り所を作ろうとする。反吐が出るね。そんな時間があるなら現状改善に努めろってもんだ。・・・失敬少し熱くなった。」「どうしてあの本を彼に持たせたのですか?」狐とは対照的に冷静に尋ねるのは熊野の烏である。「単純に好奇心さ。これまでの人間は真に受ける者も少なかったが、主人公への強い憧れを持つ彼なら面白いものが見れるかもとね。死んじゃったのは残念だけどある意味幸いでもあるんじゃないかな。人が求めているのはいつだって悲劇さ。彼がこの後の人生を心機一転で頑張るサクセスストーリーを一体誰が求める?その意味ではほら、彼が主人公の物語が現に出来たじゃないか。」「どういう意味ですかー?」と狐。「また悪趣味な」と呟くのは烏だ。「聞こえてるぞー烏くん。さあて次は誰を悲劇の主役に据えようか。おっと失言だ。」次は誰がこの悪趣味な神の餌食になるのだろうか・・・
あなたにしか描くことのできない物語を描けていますか。自分の人生では自分が主人公でないと意味がない。これを読むあなたが少しでも楽しく人生を送れますように。