小児科の怪人
子供が2歳になった時、手足口病にかかりました。恐らく児童館で貰ってきてしまったのでしょう。
初めてのことで当時の私は何をすれば良いか分からず、熱があって泣き止まなかったので病院に連れていきました。
産まれた時からお世話になっている『ミツジマ医院』というところです。産婦人科と小児科が一緒になっているところで、私はここで出産し産後もお世話になっています。
病院は平日だというのに混雑していました。手足口病が流行っている時期でしたので、どこの家もうちと同じような感じだったんでしょうね。
この病院は1階に受付と小児科、2階に産婦人科と分娩室、入院用の個室と分かれています。
小児科の待合室は地獄絵図でした。泣き叫ぶ赤ちゃん。病気にも関わらずオモチャに夢中になって散らかす幼児たち。疲れきって蒼い顔をした母親たちはソファに座ってゾンビ状態…。
それはそれは酷いものでした。
私の息子も家では随分グズっていたのに、待合室のオモチャに飛び付いて遊んでいました。呼ばれるまで時間がかかりそうなので、こうやって遊んでいられるだけまだマシです。
息子の同行に注意しながら、私もソファに座って体を休めてました。
チラチラ息子の様子を伺っていると、同い年くらいの子たちと一緒にトミカとプラレールで遊んでいましたので、思ったほど容態は悪化してないのだと安心しました。
2歳そこらの子供って不思議なものですね。
「とーとーしゃ」「いーよいーよ、やややー」等の意味不明な言葉をお互いに交わしてても、それなりにコミュニケーションを取っているのですから。
どうやって意思の疎通をしているのか…いえ、言葉の理解などまだちゃんと出来ていないので、無意識のうちに“なんとなく”大人の真似事をしているに過ぎないのでしょう。
大きく溜め息をついて、ふと診察室の前に目を向けると、扉の前に置かれた長椅子に幼児が集まっていました。
みんな息子と同い年くらいの子たちです。
冷たい床に寝そべったり、しゃがみこんだりして、同じ場所へと視線を注いでいたのです。
なんだろう…オモチャや絵本を椅子の下に入れてしまい、取れなくなったのかな?とも思いましたが、椅子と床の隙間は10センチほどあります。幼児の手なら、簡単に入れることが出来るでしょう。
第一、仮に何かが取れなくなったのだとしても、自分の親に泣き付くか、その場で泣き喚くかするはずです。
しかし幼児たちは、椅子の下に手を伸ばすこともしなければ、騒ぎ立てることもなく、ただじぃ…っとご機嫌な顔をして細い隙間を眺めているのです。
そんな子供たちを観察していると、口々に何かを言っているようでした。
私のいた場所からでははっきり聞こえませんでしたが、何らかの言葉を発しているのは間違いありません。
これまでに見たこともない、異様な光景でした。
トミカで遊んでいた息子と他の子供たちが、その光景を見つけて駆け出しました。
息子は輪の中に入り、床に這って椅子の下を覗きこんで笑っていました。
「亮太、こっちにいらっしゃい」
声をかけても、振り向きもしません。いつもなら名前を呼ばれただけで振り向くのに…。
仕方なく私は立ち上がり、長椅子の方へと歩を進めました。
その時です…
「ぴーぽぴーぽぴーぽぽ、ぴーぽぽぴー」
長椅子の下を覗いていた子供たちが、同じ言葉を発していたのです。
さっきから何かを言っていると思っていたのは、これだったのでしょう。私の息子も同じでした。
まるで呪文のような…言葉と言って良いのか分からないものを、抑揚も無く口にしていたのです。
耳にした瞬間、何故か体がぞわりと粟立ちました…無邪気な子供の言葉遊びとは思えない、そんな気がしたのです。
「亮太。こっちで遊びなさい」
私の声など聞こえないと言わんばかりに、息子も子供たちも、隙間に釘付けになり微動だにせず同じ言葉を繰り返しています。
「ぴーぽぴーぽぴーぽぽ、ぴーぽぽぴー…ぴーぽぴーぽぴーぽぽ、ぴーぽぽぴー……」
その長椅子の下に…一体“何が” いるのだろう。
他の大人たちは、この光景を気にも留めてません。
私は冷たい床に膝をつき、長椅子の下を覗き込みました。
暗い隙間の中は、はっきりとは見えません。
目を凝らして見詰めた先にあるその光景に、私は息を飲みました…。
闇色の狭い狭い空間の中に、身体中ふやけたような深い皺を持つ赤ん坊が寝そべっていたのです…
白目の無い茶色の瞳、髪は無く、皮膚は赤と肌色のまだら模様……かろうじて見えた右手には、カエルのような水掻きがありました。
異形の赤ん坊は、覗き込んだ私の顔をじっと見詰め…唇を動かしました。
ーー……ぴーぽぴーぽぴーぽぽ、ぴーぽぽぴー…ぴーぽぴーぽぴーぽぽ、ぴーぽぽぴー……
“音”なのか“声”なのか、判別し難いものが耳にこびりつき、吐き気にも似た息苦しさを感じ立ち上がりました。
この赤ん坊は……この世のものではない。
ここにいてはいけない……!
「亮太!おいで!」
声を荒げると、息子の手を取りさっきまで遊んでいた場所まで連れていきました。
そこにあったアンパンマンのオモチャを差し出すと、息子は甲高い声で「あんぱんまん!あんぱんまん!」と叫び、その声につられるように長椅子に夢中になっていた子供たちもこちらへとやって来ました。
その後、息子が呼ばれるまで長椅子の下を覗く子供はいませんでした。
帰りにもう一度覗いてみましたが、異形の赤ん坊の姿は無く、綿ごみが少しあるだけの空間が広がっていました…。
息子が3歳になった時に予防接種を受けるため、ミツジマ医院に行きましたが、例の長椅子は撤去されていました。
長椅子があった場所には、床に固定するタイプの知育玩具が設置され、診察を待つ子供たちの遊び場と化していました。
しかし、そこのある一角でまたあの光景を見ました…。
箱の中を覗き込めるタイプの知育玩具に群がり、微動だにせず何かを唱えている子供たちの姿が……。
『ぴーぽぴーぽぴーぽぽ、ぴーぽぽぴー…ぴーぽぴーぽぴーぽぽ、ぴーぽぽぴー……』
あの不気味な赤ん坊は、今は知育玩具の中にいるのでしょう……