第十二章
「……しつこいのねぇ」
暗がりでうごめく影――マチルディアは厭わしげにつぶやくと、食べかけの腐肉を投げ捨てた。もし腹が空けば、また戻ってくればいい。どうせこんなものを有難がるのは自分たちだけだ。害虫を足で踏み潰し、そのまま地面を擦った。べとついた残骸が石造りの地面にこびりつく。
傾いた陽が眩しくて、目を細めた。あの男、大事なお嬢様のお迎えが終わって戻ってきたのだろう。警備隊も幾人か連れているようだ。雑踏にあって潜められた息と殺した足音を、しかしマチルディアは敏感に感じ取っていた。昼間の様子だともう構ってこないと思ったが、なかなか諦めの悪い男のようだ。
奥まった位置にある食堂の、さらに裏手。回収されるのを待つごみ箱を前に思案する。彼らはまだ自分を見つけてはいないようだ。唇を舐める。また少しからかってやろう。
「ふふふっ」
やつらの顔を想像して少女のように笑うと、懐に手を入れる。そこにあるモノの感触を確かめて、ローブを翻して走った。強い風にフードを押さえつける。
路地から路地へ、壁を越え、ごみを蹴散らし、浮浪者をすり抜けて。追いすがる足音をこっそり確認する。彼らが見失わないよう、惑わぬよう、悟られないよう、絶妙な距離を保つ。マチルディアを追い立てる声に耳を澄ませ、時にはわざと姿を見せたりして。
「う……っ」
通り過ぎた後ろで、派手な音が耳に届いた。肩越しに確認すれば、倒れた浮浪者が呻きながら痙攣している。マチルディアはその様子に満足気に口角を持ち上げると、視界のさらに向こう、追ってくる連中を捉える。
「そろそろかしらね」
道をそれると、突き当りにぶつかった。高い塀に囲まれて逃げ場はない。まんまと袋小路にはまった――警備隊とあのジースという青年はそう思ったに違いない。現に、唯一の逃げ道を塞ぐように立つ彼らの顔には勝者の余裕が浮かんでいた。
しかし、マチルディアは微笑む。風が彼らに向かって吹いた。ローブの裾が亡者の腕のようにはためく。一歩後じさる。それに合わせるように追手たちは一歩前へ――と、次の瞬間。彼らもまた先の浮浪者と同様に、糸が切れた人形のようにばたばたと倒れていった。自分に何が起こったのか、きっと誰も理解していないだろう。言葉にならない驚きが風に運ばれて溶けていく。
倒れたところで、ここでは誰も助けてはくれない。連中もそれを分かっていて――たとえマチルディアにどのようなことをしても、誰も見咎めず、気にも留めない――王都の掃き溜めに追い詰めた。つもりになっていた。誘導されたのは自分たちだとも知らず、のんきに、嬉々として。
「諦めが悪いのね」
近づいて、倒れ伏しているジースの前髪をぐいと掴む。無理やり上体を起こされたジースは呻き声を上げた。
「私はこう見えても、狩猟民族なのよ。狩りはお手の物というわけ」
動けぬ獲物を前に唇を舐める。真っ赤な舌を見せつけるように、ゆっくりと。
「あなたたちが吸い込んだのは、私たちが狩りで使うしびれ薬。これからの人生、風向きにも注意することね」
少しフードを上げて覗きこむと、宝石のような双眸に、醜い自分の素顔が映った。底なしの沼にも似た薄汚い顔。零れ揺れる黒い髪は、さしずめ沼に巣食う毒蛇といったところか。
美しい顔が様々な感情――恐怖、怒り、戸惑い――によって歪んだ。マチルディアは直感する。あぁ――こいつも信じてはいなかったのだろう。マチルディア自身も、ただの伝説であれば良かったと強く思う。
この忌まわしいリンガムの腐臭――自分たち一族のことを。
一族のことは有名ではあるが、それは幽霊は実在する・しないと人が言うのと同じ程度の信憑性である。リンガムから離れれば離れるほど、自分たちの存在について否と唱える者が増える。
そんなものは閉じた田舎の迷信だ、所詮は神話にすぎない、と。
ジースも同じ考えだったのだろう。誰もいない部屋で物が動いたら恐怖するのと同様に、この男もまた、神話の亡霊を目の当たりにして目を見開いていた。
否定されようが、それでもマチルディアは生きている。脈々と、無駄に受け継がれてきた血がこの体に微睡んでいる。呼吸をして、食事をして、排泄をして、睡眠をとって――吐き気がするほどにありふれた、命のひとつ。
奥歯を舌でなぞる。相も変わらずそこに挟まる「もの」の感触を確かめて、小さく息を吐いた。自分を厭っているくせに、憐れなほど生に執着して――自ら終わらせる勇気もなくて、ただ逃げて。惨めね、あぁ、本当に。
「ば、けも……」
ジースの青い唇から言葉が漏れる。
――化け物。
耳慣れた言葉だ。素顔を見た者は誰もがそう非難する。化け物、化け物、と狂ったように叫び、石を投げ、私刑という名の処刑場へと連行しようとするのだ。その度マチルディアは、するりするりと彼らの手を砂のようにすり抜けて、今日まで生き永らえてきた。
「ご期待に添えなくて悪いけど、私は人間よ」
しかし化け物以外の何に見えるというのだろう。それはマチルディアにも分からなかった。もし神がいるのなら問うてみたいと常々思っている。
額に手を当て、その感触がマチルディアの心にどす黒い感情を呼び起こす。くつくつ暗鬱に笑った。
「あなたはどんな味付けで喰われたい?」
びくりと肩が震えるのが伝わった。聞き取りづらい独特の声色も恐怖に拍車をかけたのだろう。顔面蒼白だ。前髪から手を放す。ジースの高い鼻が無抵抗に地面とぶつかった。
無論、喰らうつもりなどない。化け物呼ばわりの礼だ。うつ伏せの肩に足を滑りこませると、そのまま蹴りあげて仰向けに転がした。鼻血で汚れたジースの顔を見て、
「あら……美男子が台無しね」
つま先で頬をつつく。顔面をぶつけたときの衝撃にによって目尻に溜まっていた涙が、つぅと流れ落ちて血の中に道を作る。憎しみのこもった視線を向けられてマチルディアは口元だけで笑みを深めた。刃の届かない憎悪ほど無力なものはない。それは身に沁みていた。
「そんなに泣いちゃって、痛かったかしら?」
あまり獲物を嬲る趣味はないが、今は愚かでつまらない優越感に浸りたかった。恐怖と屈服で、あるかも分からない小さな自尊心を満たしたかった。珍しいことだ、このように感情的になるなど。高ぶりは思考を鈍らせる、忌避すべきものだというのに。
「私はもうすぐ王都を出るわ。それでも追ってくると言うのなら――」
マチルディアはフードを慎重にかぶり直す。
「お好きな調味料を持参してくることね」
動かぬ体でなお捕らえようと伸ばされるジースの手を無造作に払いのけて、何事もなかったかのように歩き去った。
ティアロは何度目かのため息をつくと、鉛筆を投げ出した。頭が鈍い。考えがまとまらない。原因は分かっていた。父から聞いた話のせいだ。半分とはいえ、ジースが血の繋がった兄。
少しでも気を落ち着かせたくて焚いた香が、停滞する部屋の空気を巡る。肺いっぱいにその香りを吸い込んでみて、思い切りよく噎せた。
「……はぁ~……びっくりした」
落ち着いた頃に目尻の涙をこする。唾が飛んでしまった教科書の表面を雑に拭くと、適当にページを繰った。丁度よく課題となっている場所が開く。お前の葛藤などどうでも良いから課題を進めろ、という神のお告げだろうか。なんだかおかしくなって、ゆるく苦笑する。
今日出た課題は――神話についてだ。
教科書は語る、遥か昔、まだ神々がこの地を支配していた頃を。
数多いる神は互いに争い、大地を奪い合う。流された血は雨の如く降り注ぎ、人々は天上の神の無事を祈ったという。絶えぬ諍いを憂えた一柱の神が、大陸を統治し、人の世界に干渉することを禁じた。
この神話自体は子どもでも知っている、ありふれたものだ。
――昔そんな神々に支配されていたせいで、きっと人間は争わずにはいられない存在になってしまったんだ。なんて迷惑なんだろう。
挿絵がある。勝った男神が、ぐったりしている相手の足を持ち、空から放り投げる。大地で折り重なる屍体が、苦悶に満ちた表情を浮かべ、天を仰いでいた。
ここは神々の墓場。唯一、誰の支配も受けない――神々の支配が当たり前だった時代において――見捨てられた大地。これはリンガム地方ではないかというのが通説である、と注釈が添えられている。
改めて挿絵を見る。黒く落ち窪んだ瞳の、苦悶の神。腐りかけた身体。色彩を持たぬ瞳は、ティアロを冷たく射抜く。心臓が居心地悪そうに身動ぎした。
ウィシュナの、親友の顔が重なり、嘆息が漏れた。
見捨てられたリンガム。それを裏付けるのが奥地に住む、とある――いや、そんな話今は読みたくない。明日提出しなければならない課題は真っ白だが、どうにでもなれという気になっていた。別に死にはしない。死にはしないのだ。
遺体は、どこにいってしまったのだろう。結局マチルディアに聞けずじまいだ。彼女が看取り、埋葬したのだろうか。それとも見つかる前に犯人が運んでしまったのだろうか。これだけ探しても見つからないのだから、もしかしたら王都より遠くの森にでも捨て置かれ、野獣に喰われてしまったのかもしれない。おぞましい光景を想像して、ティアロは背筋を這う悪寒にまかせて肩を震わせた。
引き出しの奥深くにしまっておいた、「手紙」の破片を取り出す。落ち着かない心臓と、言うことを聞かない手でゆっくりと机に並べる。マチルディアから受け取ったとき以来だった。あの冷たい視線に射抜かれ、責め立てられているような気になって、罪悪感と責任感がティアロの腕を手紙へと伸ばしたのだ。
自分が殺したようで、落ち着かないのだ。まるで呪詛だ。現にこの手紙はウィシュナの命を奪った。この文字の羅列は呪い以外の何だというのだろう。
夜の学生街。自分と会うために出かけて、殺された。夜の学生街は本当に人の気配がない。風に揺れる木の葉の音さえ恐ろしく感じるほどに静まり返っている。犯人にとってはこの上なく好都合な場所だっただろう。
そんな夜の学生街に、ウィシュナは行ったのだ。彼女を呼び出すための口実……手紙を凝視する。いくら見たところで虫食いの文章が完成するわけではないが、それでも。
「――あれ……」
この手紙の内容に、ふとした既視感を覚えた。あやふやで頼りない記憶の糸を必死にたぐり寄せる。喉元まで出かかっている。ウィシュナと話していた、どこで、学院だ、何を、確か約束をした――
「――あ」
ひとつ思い当たった。引き出しの中にしまい込んでいた、古いノートを取り出した。「ほんの僅かな」埃の積もったそれは、ティアロが昔つけていた日記だ。今は面倒くさくなってやめてしまったが、せっかく書いたものを捨てるのももったいなくて、こうして取っておいたのだ。この中に求めている答えがあるはずだ。
「あ、った……」
文字をなぞる手がじっとりとした汗にぬれる。
去年の話のようだ。ウィシュナと、いつか星を見に行こうと話していた。夜、みんなが寝静まった後こっそり抜けだして。学生街だったら誰もいないから見咎められる心配もないよね、と。そういった内容が綴られていた。約束と呼べるほどの確固たるものではなく、結局その場で盛り上がっただけで終わってしまった話だ。
しかしウィシュナは覚えていた。夜の学生街で会おう――失われた部分に星のことが書いてあったのかもしれないが――と手紙を貰っただけで想起できる程度には、記憶に留めていた。
この話を知っているのはティアロ、ウィシュナ――そして、この日記帳だけだ。
ティアロは歯噛みする。下腹部がキリキリと痛んだ。あんな話聞かなければ良かった。聞かなければ、ただ純粋な怒りに身を任せられたのに。
じわりと広がる暗い感情に肩を震わせた。




