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249話 超越

 我の名はフランツ・リスト──


 我は幼い頃より、愛する父親から徹底したピアノの英才教育を受け、人生の黎明からして厳格を究めし修練、研鑽に明け暮れた結果──

 いつしか神童、聴くものを天界へと誘う、神の手を持つ大天使ガブリエルの顕現とさえ称され、この生まれ持った容姿の美しさも手伝い(単に事実を述べたまで)、鍵盤の貴公子、名手、天才との喝采を浴びるようになった。


 そして今や、それらの異名で呼ばれるようになってから随分と久しい。


 だが、ハッキリ言って、それらが何だと云うのだ?

 確かに、街の悪臭漂う下水道近くに住まうルンペンどもとは違い、彼等のように日々のパンに困るような状態とはかけ離れ、我は悠々自適とさえ云える生活水準を保ててはいる。


 さりとて──我には我の、決して金貨などでは到底満たせ得ぬ、魂と心が赤茶けた羊皮紙に成り果て風化するが如き、耐え難き虚しさがあり、我独自の苦悩、懊悩おうのうがあるのだ。


 そう、かの地獄も辺獄リンボ煉獄プルガトリウムを含む第九圏からなり、種々様々な責め苦が存するのと同様、生あるひとそれぞれにも、各々に憂き責め苦があるというものなのだ。


 その我をさいなむ特殊なる苦痛、愁憂しゅうゆうとはなにか──


 それは、無学で音楽、芸術など少しも理解していない、程度の知れたカボチャのような客ども──

 その中でもとりわけ、黄色い声でかしましく騒ぐだけの、ろくな貞操観念も持ち合わせていない、軽薄極まりない下卑た女どもからもてはやされることである。


 そんな田夫野人のごとき低俗な輩どもから、いかな称賛を浴びたところで、もう我の心は路傍の冷えた石塊いしくれのごとくに冷めきり、少しの機微さえも感じられなくなっている。


 そう、つい昨夜も、とある貴族の宴に招かれて新曲を演奏してきたばかりだが、その豪奢な暮らしを誇る者らの中にも、やはり真に音楽を理解している者などおらず、我がちょっとした装飾的パッセージを弾いただけで、直ぐに、凄い──これぞ神だ──などと陳腐な称賛を浴びせてくるのだ。


 まったく、揃いも揃って貴様ら、一体どういう耳と感性をしているのだ!? 

 第一、なぜピアノを弾いただけで、我が神になるのだ? 神とはなにか分かって言っているのか?


 そうして奴等は皆例外なく、少し難解なパートを聴いただけで、一様に痴呆のような知性が失せた爬虫類のごとき顔となり、周りを見合って、遅れじとばかりに慌てて拍手を鳴らすのだった。


 くだらん──ハッキリ云うが、かつて我は過去の公開の演奏において、ただの一度たりとも我を忘れるほどに一心不乱になったり、白熱などはしておらず、只々わずかに難度の高い曲を息をするように披露してきただけである。


 そうして、例のごとく熱狂するのは聴衆ばかりで、その熱狂の度合いに比例して我は冷め、虚しさはただ増しゆくばかりなのだ。


 つまり、我はこれまで一度たりとも持てる力のすべてを解き放つことも、限界的に無我夢中になって技巧を披露することもしてはいない。


 なぜか──


 なぜなら、そんなことをしてもまったく無駄なのが知れているからだ。この全天下に我を正しく理解し、余すことなく評価出来る者など誰一人としておらぬのだから。

 

 ああ虚しい──ただすべてが虚しい。我はいつまで、この誰にも真価を理解されないという孤独と向き合い、虚無を抱え、独り生き続けなければならぬのか──


 この上は、自分で生涯を終え、何の気まぐれか、この孤高の才能を授け給うた神自身の御前で、渾身の演奏を披露するしかないのでは、と、最近では真剣にそう思う。


 だか当然、自死の罪を犯した者などに天界の扉は開かれぬ。ならばいっそ、地獄の深淵で悪魔王ルシファーにでも出合い、そこで上級悪魔等を相手に、我の人を超えた業深き魔演を興じ、捧奏ほうそうしてくれようか。


 ハッ、うーむ──また例のごとく、一時の現実逃避に、馬鹿げた空想に耽ってしまった、か。我ながら情けない限りだ。


 おや? 来客か? 玄関ドアの叩きドアノッカーが鳴っている。

 この独特に癇に障る、せわしなき叩き方──

さてはハンスのヤツか──


 ハンスとは、我の幼馴染にして声楽科教師であり、ある程度は我の才能を理解できる、数少ない親友、いや、単なる"腐れ縁"と呼んだ方が適切な人物である。

 それが、我の虚無と苦悩状態を不憫に思い、暇さえあれば気遣わしげにやってきては、ああして無作法に叩き金を打つのだった。


「やはり、ハンスか。今日はどうした? 確かお前、都で講演会があるので当分はここには来れないとかなんとか、」


「うん? あーそれなんだが、吾輩ワガハイ、帰りすがらトンでもないことを聞いてだな、真っ先に貴様に教えてやらねばならんと思いだなぁ、あーいや、まぁとりあえずここではなんだし、一先ず中へ入れてはくれまいか?」

 

 色白太っちょ、緋色のヒゲモジャのハンスは、息せき切って、またいつものごとく勝手知ったる我家のように、大きな包を抱えながら、ズカズカと侵入してきた。


 そして客間のテーブルに、これまたいつもながら、誰も頼んでもいないワイン、チーズ、ハム、パン、果物類をばら撒くように並べてから、熱帯毒蛇のように派手なマフラーを解きつつ、どっかりとソファーに座り込んだ。


「あー、よしよし。では我が親友リストよ、先ずは清浄なるグラスを授け給え。ウン? 貴様──またこの前より一層顔色が悪いぞ?

 気の毒に、今やほとんど死相に近いではないか。またぞろ虚無という病が進行して、いよいよ精神の深いとこまでもをむしばんでおるのだなぁ、おーおー気の毒に」


「ふむ、今日は言うに事欠いて、友の顔を見るなり、死相とまで評するか──うん、まぁ否定はせんさ。それよりハンス、その駆けつけなんとやらで潤ったなら、とっとと本題に入れ」


 いつも通り、我が家の極上のクリスタルに波々と赤ワインを注ぎ入れ、早くも三杯を飲み干したカバ、いやハンスに呆れた我は、彼の澄んだ緑の瞳を見据え、用件の催促を入れた。


 ま、大方その用件などは、やれ、凄腕の演奏家が近隣に演奏会に来るぞ、一緒に聴きに行かないか、やれ、新進気鋭の作曲家の著した新譜が余りに斬新、素晴らしいので、ひとつ分析のため楽譜スコアを見てくれだの、我の芸術への興味意欲を再燃させようと、様々な凡百の刺激物を提示してくると、そう大方予想がついてはいるのだが──


「あぁ、それなんだがな──」


 ハンスは手にしたハンカチで、口髭を染めるワインをおもむろに拭いながら、かつてなく神妙な面持ちで、まるで大鷲のように、ギラリとこちらを睨んできた。


「ああ、うん、」

 我も何か戦慄にも近い、たまさか張りつめた空気を感じ、思わず重々しい相槌を打ってしまう。


「──ときに貴様、"ニコロ・パガニーニ"なるヴァイオリン弾きを知っているか?」


「──は? 知らん。なーんだ、お前が妙な凄味で以て口火を切ったものだから、すわ一大事かと身構えたが、結局は単なるいつもの勧誘であったか。

 よせよせ、もうそんなのは聞き飽きたし、我とて第一線の演奏家だ。その辺の名手、手練れの水準など容易く予想がつくし、事実お前が過去紹介して実際に足を運んだ演奏会も、その全てが例外なく凡庸で退屈、予想の範疇を超えることなど一度たりともなかっではないか。

 いつもお前が付けるたいそうな箱書き──賭けてもいい、今度のだけは別格だ──掛け値なしの怪物誕生だ──その辺の巧者なんかとはおよそ桁が違う──今観に行かないと一生の後悔になるぞ──などはいい加減聞き飽きたのだよ。

 我はもう悟ったのだ、もはやこの世に凄いなどというものは存在しないと──

 まあそういう訳だからハンスよ、悪いが、今のそれを飲んだら、早々に帰ってはくれまいか」

 我は相変わらずのハンスにため息をつき、余計に幾倍も虚しくさせられたように、いやむしろ一瞬、全ての虚脱の元凶がこの男によるものとさえ感じ、露骨な目眩すら覚えた。


 そして今日ばかりは、この野暮なお節介男ハンスにうんざりし、ぶっきらぼうに玄関を指し、冷たく退去を命じた。


「うふふ、違う、違うんだ我が親友よ。今回近隣にやってくるというパガニーニだけは、それこそモノが違うんだ」


「あー、それだよハンス。毎度毎度そんな大仰な装飾を付けるお前に、我は心底、」


「あのなあリスト、よおく聞いてほしい。このパガニーニなるヴァイオリン弾きだが──

 一説によると彼は本物の悪魔と取り引きをして、自らの魂と引き換えに、人外の超絶技巧を得、ヴァイオリンの魔人と化したらしいのだ。

 更に、その風貌もそれらしく、悪魔的で凄まじく、また彼が使用するヴァイオリンの弦などは、彼の恋人のガット(腸繊維)を張ったもので、その音色たるや魔性としか云えぬ、他に比肩するものとてない、絶対的凄絶な響きを生み出すらしいのだ。

 どうだぁリスト? 貴様なぜ黙っている? うふふ、この吾輩の軽妙精彩なる触れ込みを聴き、いささか興味が湧いたようだな」


 まったく、何処で拾い集めたか、気味の悪い、どこまでも怪しい流言飛語を並べ立てたハンスは、したり顔で我の心底を覗き込むように凝視をしてきた。


「馬鹿な。まさかお前、そんな胡散臭い、眉唾の噂話などを鵜呑みにしているのではあるまいな? はっきり云って見損なったぞハンス」


「ふーん──そんなことを言って安易に茶化しおってからに。ふむ、さては貴様、本音では、かの魔人の超絶技巧を聴くのが恐ろしいのだな?

 そうかそうか、孤高の旋律魔術師フランツ・リスト様も、流石に魔人にゃ敵わんと降参、肝を冷やしての敵前逃亡を極め込むと、そういう訳か。いい加減、見損なったのはこちらの方だわい」


「くっ! 言わせておけばハンス! なぜに我がそんな妖しき怪人風情に恐れを抱かねばならんのだ! 余り侮辱が過ぎると、幾らお前とは云え、今後の付き合いも考えることになるぞ!!」

 ハンスの露骨な挑発に、つい感情的になってしまった我は、拳を握りしめてソファから立ち上がってしまった。


「ふふふ、最近の貴様らしくもなく感情を発露させ、激昂までしおったか。結構、結構。青ざめた死相にも、幾らか血の気が戻ってきたぞ。

 ムウ、しかし毒をもって毒を制すとはよく言ったもの。なぁ我が親友のリストよ、よおく聞いてくれ。貴様が罹患するその陰々滅々なるくらき虚無とやら、それを払う者こそ、崇高で穢れなき医者や、天上の善なる主などではなく、くだんの悪魔と契約したパガニーニなる魔性、化生の魔人こそが相応しいと、そう吾輩は思うのだが、どうか?」


 ハンスめ、こいつときたらいつもこうだ。何とも虫のいい、可笑しな論理で議論を煙に巻き、不沈艦のように悠然と持論を進航させるのだ。


以毒制毒いどくせいどく、ときたか──フン、いいだろうハンス。その変てこな名前のヴァイオリン弾きの演奏会、一緒に聴きに行ってやる。だがな、そいつが我の病を払うほどの毒でなかったとき、そのときは、お前にはそれ相応の覚悟してもらうぞ。

 そうだ、例のごとくつまらん演奏会だった場合は、金輪際お前との縁はキッパリと切らせてもらうからな」

 我はいよいよ世のすべてが無価値に思え、ほとんど捨鉢のようになってハンスの顔を指差し、確定的絶交を宣告した。


「ふーん、縁切りときたか──こいつはまた穏やかではないなぁ。

 だがよかろう。この吾輩としても、とある信頼できる音楽界隈スジから伝え聞いた、数多のパガニーニの評価を信じておるからして、件の魔人の手腕とは、まあ貴様を退屈にはさせぬであろうと値踏み、都観光など打ち捨て、ここ、こうして馳せ参じた訳だからな。

 ふむ、今から貴様がびっくり仰天する様が眼に浮かぶようで愉しみだわい。ぐふふの、ふ」


 そう言って、丸い身体を揺すって笑うハンスに嫌悪、いや、淡い殺意すら覚える我だった──



 それから特筆するほどの椿事ちんじもなく、いつも通りの砂を噛むような虚しき日々が流れ、遂にはピアノに触れることさえもなくなり、いつしか、ひと月と半が経ち、件のパガニーニの演奏会の日となった──


「おっ、ようやく来おったな。結構結構、おーいおい、こっちだこっちー」

 本日を以て終わりとなる、我が腐れの縁ハンスが、人混みの真ん中辺りから我の到着に気付き、白手袋の丸っちい手を振って手招きした。


 それを見て、ため息をついた我は、新調したばかりのハットをより目深にして、只々招かれるまま、今宵の演奏会の舞台である講堂入り口へと無感情に歩いた。


「ああ、約束通り来てやったぞ」


「ふふふ、根は物見高い貴様のこと、必ずや参上すると信じておったよ。

 ふむ、今日の貴様も、また一段と顔色が優れぬが、アレから持病の具合など、どうだ?」

 ハンスは何度も首肯しつつ、どこか勝ち誇ったように微笑し、一応の見舞いのようなことを言った。


「フン、今朝起きて、スリッパを履こうとしたら、そのスリッパの中に大きなゴキブリが三匹も隠れていて、見事それらを踏み潰したこと──

 それから、出かけて直ぐの路上で、不幸にも馬車に轢かれたか、凄惨に臓物をさらす黒猫の屍があり、それに群がるドブ鼠等の六匹に、燃えるような真っ赤な眼で一斉に睨まれたこと──

 そして、その直後、鷲のようなお化け鴉に、被ってきたハットを奪われたこと──

 で、仕方なく替えのハットを調達しようと向かった馴染みでない帽子屋、そこの店番の不愛想で不健康極まる、手元では仕切にタロットをいじくる魔女のように気味の悪い女から──

 貴方、これから何処に行くのか知らないけれど、悪いことは言わない、このまま踵を返し、即帰った方がイイわ、でないと最悪……ハァ、ごめんなさい、今のは聞かなかったことにして。あぁ、そのハットのお代は結構よ、はなむけ、餞別とでも思ってちょうだい──

 などと、十字を切りながら陰気に言われたこと以外は、まぁ至って問題ない」

 と陰鬱に言った我の眼の下には、墨で引いたようなクマが出来ていたに違いない。


「それよりハンス、この凄まじい行列はなんだ? まさか単なるヴァイオリン弾き一箇ごときの集客力で、ここまで賑わう訳はなかろうし──あぁ、そうか、分かったぞ。

 ふむう、件の怪人パガニーニとやら、純粋に音楽だけで勝負が出来ぬとして、人気のサーカス団か奇術師かなにかと協業したと、そういう訳だな。

 フン、ヴァイオリンの魔人とかなんとか標榜しながら、こんな安い人集め目的の興行をうつとはな。いいかハンス? こんなくだらんイベントこそ、我々真の音楽家に対する大変な侮辱というモノだぞ!」

 我はまたもや、このハンスにまんまと一杯食わされたと悟り、憤慨して、肘鉄でもって奴の横腹を小突いてやった。


「痛たたた、何を言うかリストよ。この集客こそは正真正銘、のニコロ=パガニーニの独力によるものだ。

 そう、云うなれば、彼の放つ孤高の魔的魅力が、この黒山を形成させたと、そういうことである。

 ふふふ、まぁ最近の貴様が集めるより遥かに多くの客が集まっているという、この現実を受け入れがたいのは分からんでもないがなぁ。

 ま、あれこれとここで論じるより、すべては演奏会が始まれば明明白白とならんこと、これうけあいゆえ、ただ刮目してご明察あれ、といったとこだ。

 ふぐう、だから痛いと言うておろうが」

 飽くまで勝算ありとして、堂々誇らしげな構えを崩さぬハンスであった。


 それにしても此奴コヤツ、なぜにここまでパガニーニとかの肩を持つのか? 我はいよいよ困惑し、苦い顔で腕を組まざるを得なかった。


「おっ! 見ろリスト、遂に列が動くぞ、いよいよ開演のようだ!」

 わめくように言ったハンスと共に、我も後方から激しく押され、ポッカリと口を広げた講堂の入り口へと、ほとんど押し込まれるようにして入場を果たしたのである。


「フム、まさかここまで、後ろの立ち見客でさえもひしめき合うほどとは、パガニーニの度を超えた魅力には心底驚いたなぁ。

 いやいや、前もって知人に頼り、貴重な前売り券を購入しておいた、この吾輩の有能なる周到ぶりに、貴様というヤツは、も少し恩義を感じて、人並みに機嫌をよくしてくれてもよいのだぞ?」

 茹でられたように、フゥフゥと熱気を上げ、滴る汗を拭くハンスは、しばらく恩着せがましい繰り言を重ねた。


 まぁなんとでも吐かせ、どうせこのハンスとの付き合いも今日これまでだと、ふんぞり返った我が、暗く高い天井を見上げたとき──

 突如、サァッと舞台の漆黒の幕が開き、物凄まじい、せ返るような香の煙が客席へと押し寄せたかと思うと、くだんの魔人とやらが姿を現した。


 その、もうもうとけぶる舞台には、準備を整えたビオラ、コントラバス、そしてピアノがおり、スポットにされた中央には、妖しい黒衣の男がうつむき気味で飄然ひょうぜんと立っていた。


 コイツか、この燕尾服、長髪の痩せぎすがパガニーニなのか? そう我が訝しんで顎に手をやったとき、ヤツは顔をあげた。


 さて、その風貌だが、まず顔面は屍蝋のごとく蒼白で、えぐられたように頬がこけているクセに、双眸そうぼうだけは妙に、いや、凄まじく鋭く、広い額の眉骨の下で陰火の如く、青く青く燃えていた。

 フン、鬼気迫るような、その目元だけは、秀麗な美男、と評せなくもないか──


 そう、あえて目元だけは、と態々(わざわざ)つけて限定した理由だが、それは奴の左顎にある。

 その顎は右に比べ上に向かって、ひしゃげるようにくぼみ、深く深く陥没していたからだ──


 これを認めた我は、この怪人物が、少なくとも凄まじい稽古の鬼であること、つまり、恐らくはかなりの幼少期より狂ったようにヴァイオリンを弾き続けた結果、あのような状態にまで至ったのだなと、そう理解した。


 フン、パガニーニか。なるほど、少し、僅かに少しだけ興味が湧いたぞ。


 我はこの独特で、ヤツの行き過ぎた醜形の度を眺めながら、我自身も凄まじいピアノの修練の過去において味わった、あの憎き"腱鞘炎"との永きに渡る苦闘を想起し、僅かに、このパガニーニに対して親しみにも似た淡い思いを抱いた、その時──


 不意にパガニーニが挙動し、いつ何処から取り出したか、ヤツのえぐれた左顎には、一目で年代物と判るヴァイオリンが差し込まれており、右手には弓が握られていた。


 そして、三百を優に超える聴衆が目を見張り、固唾をのんだその直後──

 唯一言の挨拶も前口上もなく、突然にヤツの演奏が始まったのである。


 そう、これが我が生涯忘れることのないであろう、あの衝撃の魔演、その開幕であった──

 

 そのヤツの演奏だが、驚愕、喫驚、唖然、仰天、どの言葉でも到底あらわしにくい、凄まじい演奏だった。


 先ずその技術である。

 当時、孤高の天賦の才を誇っていた我にして、一体何をどう演奏しているのか計り知れぬ、そんな凄まじい超絶難易度のフレーズが怒涛のごとく押し寄せ、不覚にも、一瞬何が起きているか理解が追いつかなかった。


 確かに、テクニックだけが音楽、またひいては芸術のすべてでないことは真実だ。

 だが逆もまた真なり。凄まじい超絶技巧でしか伝えられない、表現できない感動も、またどうしょうもなく存在する。


 そうして、真に無念極まりないが、今こうしてあの日より数年の時を経ても、いや、我の残された生涯すべてをピアノにのみ捧げたとて、果たしてあの水準に辿り着けるかどうか──そういった別次元の領域、つまりはハンスの言った通り、まさしく魔人、そう魔神のワザとしか云えないレベルのモノが解き放たれてはほとばしったのである。


 そして、気付くと我は号泣をしていた。


 その理由とは、断じてパガニーニが振りがざす圧倒的演奏技術のみによるものではない。


 そう、云うなれば、ヤツの織りなす楽曲の凄絶なる美しさ、音楽が本来導く、燦然と輝く天上の悦び、感動──それに我は真正面から打たれ、揺り動かされ、ほとんど嗚咽にも似た声を上げて激しく咽び泣くばかりであった。


 そうして数曲が奏でられるにつれ、我は、このパガニーニなる魔物、その美しい猛毒から、あるひとつの真理を受け取った。


 そう──コイツは、このパガニーニという魔人は、他人からの評価、理解など、それこそこれっぽっちも気にしていない、ということだった。


 コイツの中には、我をさいなむ、孤高の自らを余すことなく理解できる者がいないという、そういった虚しさ、孤独、懊悩など一切存在せず──

 誰がどう聴いているかなど知らぬ、存ぜぬ、ついてこれないならそれで大いに結構。

 俺は何者にも媚びず、遠慮せず、只々想う様に俺の理想とする音楽を無制限に放出するだけ、といった巍然ぎぜんとした山のように揺るぎない自負と志、傲岸不遜とまで云える、嵐のごとき放縦さしかないのだった。


 これに触れた我は思った。そうか! そうだ! そうなんだ!! コレでいいんだ!! ここまで徹底的にやってもよいのだ!! ここまで無茶苦茶に自分本位で、純粋に自らの魂が欲するまま、貪婪身勝手に自分の為に音楽を奏でてもよいのだ! 

 と、一瞬、天啓にも似た開眼に至った我は、全身に痛いほどの鳥肌が立つのを覚え、ただ天を仰ぎ、真の自由を得たような解放に充たされたのだった。


 そしてその後、5、6曲、いやひょっとしたら10曲ほどであったかもしれないが、我はとにかく魔人パガニーニの演奏を忘我の境地で浴び、恍惚となって陶酔し、しばし時すら忘れ、羽化登仙の極致に至った──


 それから、ふと気がつくと、とうに演奏は終わり、重々しい緞帳どんちょうの下りた、暗く、誰もいなくなった講堂の座席にて、ようやく我を取り戻したのである。

 たた隣には、じいっと黙したハンスがいるだけ。


「なあ、ハンス──」

 自分でも驚くほどに枯れ、かすれ果てた声が出た。


「うん?」


「我は、我はまたピアノを、音楽の求道を続けても、よ、よいのだろうか?」

 我は身勝手に放り出したピアノ、そして音楽に対し、無性に酷い罪悪感のような苛責を覚え、闇の中、痛いほどに歯を食いしばり、まさに血をこぼすようにうめいた。


「──何? 続けてもよいか、だとおっ? 今さら何を馬鹿な。

 いいか我が親友リストよ。貴様は貴様にしか成し得ぬ大いなるつとめがあるのを、まぁだ理解していないのか?

 貴様はだな、コレよりピアノのパガニーニとなり、今日得た無上の感動というものを全天下に余す所なく行き渡らせるという、定め、使命がある!

 そうだ、だから今すぐにでも自室に戻り、只々ピアノに向かい、己のすべて、魂も命なども、もろとも捧げ尽くし、天国の主がよろめいて地獄に落ちるほどに響かせ、轟かせ、聴くものすべてに生きる喜びを授けるため、そしてなにより、誰あろう、貴様の音楽を貴様の為に究極的に昇華させ、炸裂、爆発をさせるべきなのだ!!」


 我はハンスの言葉により再び感銘に打たれ、酷い吐き気にすら似た怒涛のような衝動を覚え、痛いほどに眼を見開いたのである。

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