240話 巨人の空似
"餓狼伝説"のアジトから、まるで放たれた矢のごとく飛び出した者がいた──ユリアだ。
挙げ句、凍った雪道で滑って、「あっひゃあっ!!」と叫びながら思い切り転倒し、鉛色の天空に向け、派手に"クマパン"を見せつけつつ地面に後頭部を強打させた。
だが、それでも尚即座に、ムックリと立ち上がり、強烈な使命感を帯びた瞳で前方を見据えるや、また懸命に駆け出した。
そして幾ばくか必死に駆けた先の空き地、その殆ど廃墟となったボロ工場の軒下にて、未だ具合悪そうにうずくまっていたアンとビスを見付けるや、まさに火急の用事が出来たので手を貸してほしいと声をかけた。
無論、その用件とは、ここカイリ近隣の魔物狩人部隊として名高い"餓狼伝説"が負った火傷の救急治療である。
だが正直、狼犬のライカンであるアンとビスとしては、あの餓狼伝説のアジトから、たっぷり十間は離れたこの空き地においてでさえ、女頭目シュリの中に流れては放たれる"銀狼の血"、その猛烈な優位性により圧倒されたままだった。
それをこともあろうか、自らそのアジトにまで分け入って、神聖魔法で五十余名に治療を施すなど、ちょっと考えただけでも気が遠くなりそうな難儀と云えた。
しかし──当然、伝説の光の勇者ユリアの要請とあらば話は別である。
この忠心なる従者の身の双子としては選択権などなく、己に鞭打っての絶対服従があるのみである。
なれば、揃って灰銀色カチューシャ上に、負け犬のごとく犬耳を垂れていた二人だったが、即座に六角棒を頼りに立ち上がるや、お互いの血の気の引いた顔を見つめ合ってから、一度だけ浅く頷き合い、ほとんど死地同然のアジトへと向かってみせた。
そうして見事神聖魔法を駆使し、ユリアとともに応急治療班としての役割を果たしたのである。
──然りとて、誠"魔法の炎"とは、斯様に都合よく便利なものであろうか──
あのドラクロワが融合して炸裂をさせた魔法爆炎だったが、それは標的たる人間の群れを確と、しらみ潰しに焼きながらもその反面、アジト内の調度品、また建物自体にはちょっとの焦げ目さえもつけないという、そんな超自然的不可思議さを見せつけていた。
「へぇ、伝説の光の勇者ドラクロワかぁ。あんな凄い炎を手玉にとるなんざ、流石に只事じゃないね。今度こそ、アタシゃいっぺんで気に入ったよ」
先の業火の洗礼を、ユリアが起動した魔法障壁内にちゃっかりと侵入し、巧く凌いだシュリだったが、今や魔王ドラクロワの真価に目を丸めて驚嘆し、露骨に尊敬の眼差しを向けている。
やはり、このシュリという女丈夫、シャンとの共通の故郷である、銀狼が隠れ里、そこの強者こそ"絶対正義"とする独特の気風の中で産まれ育ったが故か、如何に自らの部下を揃って焦がされようとも、ドラクロワへの畏敬と惚れ込みようにはなんら影響はなかった。
「フフフ……お前も漸く、このドラクロワを傑物大器と認めたか。だがなシュリ、この男の恐ろしさとはまだまだこんなモノではないぞ?」
シャンは何処か誇らしげに笑い、少し離れた先で、如何にも暇そうに雪景色を睨むドラクロワを見つめた。
「フン、そうかいそうかい、そりゃまたスゴイこった。
で、シャン。確か──アンタ達は、これからあの、愚にもつかない隠れ里に寄るんだって、そう云ってたね?」
独特に腰巻きが幅広い、大陸南部特有の民族衣裳のシュリが、勇者団を値踏みするように順に睨みつつ言った。
「うん、今回の案内、決して本意ではないが、一応はそのつもりだ──それがどうした?」
至近距離で対峙したシュリと、まるで姉妹のように美しい黒髪と顔立ちのシャンが、これまたシュリと酷似した極上トパーズのような瞳で見返した。
「あん? あぁ……まー、アタシもさ、たまにゃあ黴臭い里に帰って、可愛い弟達の顔を見るのも悪かぁないかも、ってとこさね」
どこまでも華奢な薄幸美少女にしか見えないシュリは、あえて背高のシャンから目線を外し、鉛色の空を仰いだ。
「──うん、まぁ、お前が何をどうしようと勝手だが、我々と行動を共にする限り、揉め事の類は最小限にしてくれ。
だが、生まれついての問題児のお前に、こんなことを言っても詮無きこと、か──」
シャンは、シュリの同行を認めるとも突っぱねるともなく、ただキュッと白雪を踏み、うらぶれた倉庫群の先へと歩み始めた。
「これ根暗狼よ! 無駄話はそれくらいにして、さっさと案内をせぬかぇ!」
相変わらず居丈高なカミラーがドラクロワ傍らからシャンへと迫り、キッと見上げては口やかましく催促した。
「へぇ、あの兜のお嬢ちゃん、餓鬼にしちゃいっぱしの口を利くじゃあないか? 全体どこで拾ってきたんだい?」
シュリは最前から光の勇者団の面々が揃って若いのが不思議で、酷く頼りないと思っていたが、それらにもまして一等小柄で異風なカミラーの存在に強烈な違和感を感じていたようだ。
当のカミラーだが、彼女はいつもながらの壮麗なドレス、その裾をわずかに引き上げつつ、トコトコとドラクロワのもとに戻る途中であったが、餓鬼&拾ってきた、という言葉に一瞬だけ、ピタリと静止した。
だが、それでも決してシュリに振り向きもせず、わずかに桃色兜を傾げた切り、また何事も聞かなかったように歩き始めた。
なるほど、今回の道程に限りだが、このカミラーとしても、一応それなりにトラブル回避のため激情を自重する気があるようだ。
ま、いつまで続くかは知れぬが──
「うん、まぁ聞くところによると、あの小さいのは元がたいそう高貴な家柄らしくてな。フフフ……浮世離れが激しいところなどはお前とどっこいといったところだ。
うん、単なるドラクロワ専用の小間使いだ、余り気にするな」
シャンは、今後の何とも避けようなさげな数多のトラブルを予見し、改めて隠れ里への先導役という自らの立場を悲観した。
「そうかいそうかい。斜陽没落のいいとこの娘が、今や、はねっ返りの小間使い、ね──
ま、そりゃあソレで憐れなもんだ」
シュリはさも憐憫するように言ったが、それ以上特に構う風もなく、ただカミラーの兜の庇から漏れ出る吐息、それの白がやけに薄いなと、幽かにそう思っただけだった。
──さて、それからの一行は、いよいよカイリの街を裏門から抜け、その先にそびえる、ゴツゴツとした岩峰に辿り着いた。
そこには天然自然が構築した、ただただ見上げるしかない巨大な城壁を思わせるような大岩山があり、見渡す限り東西の何処までも連なりつつ、全体として、おそろしく厳しい霊峰の様でそびえていた。
そして、その荘厳なる面は、白い雪と鼠色の岩、それと苔の鮮やかな緑とが入り混じった、げに風光明媚ながらも、息の詰まるような殺伐の色彩というものを織りなしていた。
「うん。我が隠れ里はこの山の先だ。ここから先は少ししんどいかも知れんが、まぁ特段急ぐ旅でもない、精々休み休みと行こうか」
シャンは、時折、凶暴で凍えるような冷風が嫌がらせのように吹く中、冷え切った岩肌に左手をつき、衝天の大岩山を見上げた。
「あえ? ちょっと待ってください。こ、こんなスッゴイ岩山を越えるって……あのぅ、シャンさんみたいなアサシンなら別ですけど、私なんかには到底無理な話ですよ?」
鹿革コートのユリアは、大きなルビーの穿たれた魔法杖を抱きしめるようにしながら、おそろしく斜角のきつい岩山を見上げ、今からこれを踏破するなど絶対に無理とした。
これに他の者達も声なき同意の面持ちでシャンを見た、が──
「フフフ、安心しろユリア。確かに里はこの険峻が囲む先にあるとは云ったが、誰もこれを踏破するとは云ってない。うん、こっちだ」
腕組みのシャンは諭すように述べ、サッと踵を返し、また東に歩んだ。
すると、その深紫のコートの背を急かすように、どこまでも無遠慮な大くしゃみが発せられた。
「──とぉー、アハッ! んま、このシャンに任せときゃ、タイガイはなんとかしてくれるって、ね?」
と女にしては広い肩をすくめ、添えるように鼻をすするマリーナがいた。
「ヘェ、まぁた随分と信頼されてるんだねシャン。しっかし、またこの汗臭そうな蛮族代表みたいな女戦士さんときたら、もう面っ白いくらいにアンタの好みに反してるねぇ。
その点、あそこでブルブル震えてる犬耳の二人ときたら、中々の上玉──」
シュリは目の覚めるような赤い紅をさした唇を歪めながら、シャンをからかうように意味不明なことを宣ったが、不意にその途中でプッツリと言葉を切った。
なぜか──
「うん。なにか、来るぞ」
シャンは一行の進行方向先を睨んで、後ろの皆に警戒するように手を伸ばした。
「ハッ! あ、あれは、きょ、巨人!?」
ユリアが眼を丸くして岩肌から現れた巨影を指差した。
無論、彼女に指摘されるまでもなく、その大きな生き物の気配に身構える光の勇者達。
見れば、確かに、彼等の三十メートル前方辺りにある巨大な洞窟らしきスペースから、モゾモゾ、ノッソリと現れたモノがあった。
それは異様なほど、見上げるように大きく、それでいて確かに人型を成していた。
その異常に青ざめたような灰色肌の巨躯の体高とは、ざっと見ても5メートルを優に超えており、全身を毛皮と黒い鎖帷子で武装していた。
そして頭髪は老人のように真白く、鼻下まで長くさみだれており、猛牛のごとき角兜を目深にかぶっているため、脂に塗れた、いかにも不潔そうな前髪とも相まって、その四人掛けテーブル程もある巨大な顔面の表情を隠していた。
「あれは、ま、まさか霜巨人!?」
まずは博識のユリアが喫驚した。
如何にも、このおそろしく勇猛そうな、巨大戦斧を引っ提げた大巨人こそ、大陸寒冷地に多く棲息するという"霜巨人"という巨人族だった。
その見た目通り、一般的に知能は低く、単独でいるケースが多いとされる。
「うん。あれこそ"霜ジイ"だ。聞くところによれば、私の祖父が小さな子供の頃から、すでにこの辺りに住んでいたらしい。
かく云う私も、隠れ里からカイリに出向く際には遠目で幾度か目撃したことがある。
まぁ確かに出鱈目な巨体だが、大方は臆病な熊と同じ。こっちからあえて刺激さえしなければ、そうそう恐れる程の相手ではない」
馴染みの既知存在として解説するシャンの声は、近所のろくに散歩にも連れて行ってもらえない、繋がれたままの大型老犬でも紹介するような響きであり、確かに少しも震えていなかった。
「そそそ、そうなんですかシャンさん!? ででで、でも、あ、あの巨人さんが手にしているスッゴい斧、ももも、もしアレを振るって襲いかかられでもしたら……」
ユリアは露骨に歯を鳴らしつつ、シャンの背後に移動する。
「まぁまぁユリア、落ち着きなって。シツコイようだけどさ、このシャンに任せときゃタイガイのことは大丈夫だってーの。
しっかもさ、この辺りはシャンにしてみりゃ庭みたいなモンだって、さっきそう聞いたばか、ンマアー!!」
斬馬刀のごとき大剣を担いだマリーナが、ユリアの警戒を過剰とした、その刹那──
なんと彼女は、謎の轟音と共に皆の視界から突如消え失せたのだった。
何事か、と皆が振り返ると、マリーナはかなり後方で、大剣を頭上で水平に掲げており、やや後ろに仰け反る形で屹立していた。
見れば、マリーナの両の踵後ろには異様な雪の集積が在り、それは、何かの凄まじい力によってマリーナが後方に無理やり滑らされたことを示していた。
と、皆がそれを確認したその直後だった──何か猛烈に回転する銀色の塊が、ゾッとするような風切音を放ちつつも天から降り、ザンッと音を立て、立ち尽くすマリーナのかなり後ろの岩肌を割って、深々と突き刺さった──
そう、それは先の霜巨人が確かに提げていた、無骨極まる特大級の戦斧であった。
「あん? いやいやシャン、ありゃ霜ジイとはまったくの別モンだよ。
だってさ、霜ジイはつい三月前に死んだんだからねぇ。
ンー、そうそう、間違いないよ。なんたってさ、自警団からの安い請負仕事で、あの化け物の死骸を片付けたのは、何を隠そうアタシら餓狼伝説なんだからねぇ」
シュリは両手先を伸ばして巨人の寸法を測りつつ、心からどうでもいい世間話でもをするように、隣のシャンに向かって言った。
「あ、ナール。ま、ベツジンサンってなりゃ、ソリャ話は違ってくるよねー。
でもさ、シャンの幼馴染サン、次からでいーんだけど、そーゆー大事なことは早めに言ってくんないかな?」
と、あくまで不敵な笑みを浮かべつつ、遠い霜巨人を睨んだマリーナだったが、その黒革眼帯と眉間あたりに漸く、ドロリとした血潮が溢れては垂れてきた。