232話 葡萄酒、甘美な響きかもしれないが、ジュースの上位互換と思わない方がいい
ドラクロワは、突然、先の鮮烈なる白の衝撃が嘘のように消えたような、固く閉じた目蓋越しにも、露骨な暗所にいるかのごとき、妙な転換の感覚を得た。
「…………なに?」
怪訝なドラクロワが眼を開くと、何処かのガランと広い室内らしき、ぼやけた景色が見えた。
またそれと同時に、自身の直ぐ近くには、正体不明の複数の気配が蠢いているのも感じられた。
流石は最強生物、魔王ドラクロワ。その眼の視力は瞬時に回復し、ある真紅の垂れ幕を潜り抜ける、あのマリーナに負けず劣らずな極小面積の上下を着けた、赤い表皮のドラコニアンの少女を明瞭に映した。
「あ、ども……。あー、光の勇者様達、お楽しみの所すんませんけど、今、なーんか変な音がせんかったですか?」
チラチラと秀麗のドラクロワを盗み見しながら訊いてくる。
これに、マリーナ、ユリア、そしてシャン等が揃って
「別にぃ」
とピタリ、ユニゾンにて返した。
「そ、そーですか。そんなら、ただのウチの空耳ってことでええんですけど……。
あ、あの、今これが町内組合から届いたんで、ちょうど皆さんにおあつらえ向きかなとか思うて持って来ましたー」
ドラコニアンのザエサは、ドラクロワの底知れぬ魔力により、代理格闘遊戯盤の読み取り制御水晶が破損したことなど露知らず、なんともしおらしく言って、ある一枚の三色刷りらしき紙切れをビスへと差し出した。
「あん? おあつらえ向きだって? なんだいなんだい?」
マリーナがそのビスの手先に首を伸ばした。
「あ、はい。マリーナ様、どうぞ」
ビスが何かのチラシらしきそれを一切の淀みなく手渡す。
「あえ? なんですかー? えーと、何々?『大陸南部一の美女を探せ!』?
はぇ? あのーコレって、いわゆる、あの''ミス・南部''の開催告知じゃないですか?」
それを横から読んだユリアが指摘した。
そう、この''ミス・南部''とは、読んで字のごとく、このキターク大陸南部の独身女性の美を競うという、古来権威のあるコンテストであり、その参加条件としては、まず候補者年齢が17歳から25歳までであること、かつ、人間族限定だという。
そして、なぜだか初代勇者のパーティと同じく、三人一チームでなければ登録が出来ず、それらの美しさの厳正なる審査というものが為され、見事、栄えある栄冠を勝ち取った優勝チームには、あの大陸王ガーロードより王家秘蔵の古代装飾品が贈られるという。
「っへえー。コイツがあの、大陸南部の一等美人を決めようっていうアレかい。
うんうん。なんとなーく聞いたことはあるよ。
ん? けどさ、それとアタシ達とが、どー関係あるってんだい?」
自己陶酔とは無縁の性格の女戦士が、心底不可解とばかりに、女にしては広い肩を竦めた。
「フフフ……なるほど、な。上手くすれば、当時の魔王をかなりの所まで追い詰めた、あの初代勇者達の貴重な装飾品が手に入るかも、だな。
うん。確か、なんでも、それらの優勝記念として授与される品々には、多くの場合、現代では再現どころか少しの真似すらも叶わぬ、強大無比なる古代の付与魔法が施されている、とか、なんとか聞くな……」
シャンが、あえてユリアを刺激するように解説した。
「あぇっ? ななな、なんですかソレー!!?
私、魔法の勉強ばかりで、そんなに詳細な情報は初めて聞きましたぁー!!
うんうん! 流石は南部出身のシャンさんですー!!
しかしっ!! そ、それが本当ならスッゴい! スッゴいことですよー!!
そ、その超稀少な、私達のご先祖様達の魔装具!! ななな、なんとしてでも手に入れたいですぅーっ!!」
無論、この情報提供にユリアは扇動されまくり、早くも興奮の独り坩堝と化していた。
「はぁ、そ、そーなんです。じゃけえ、今回のには、勇者様方が出られたらええんじゃないか、ゆうて思うたんです。
で、肝心の今回の賞品なんじゃけどー、えと、あぁ噂じゃー、確かー、初代の勇者様達の女魔法使い様が身に付けとったとか何とかゆう、あの魔王の返り血を浴びて燃えるように赤うなったとかゆう、魔血石のペンダントが貰えるゆうことらしーです。
うん。今回の開催地もここから普通に馬で行ける街ですし、まだまだ日程も余裕あったりしますけー、勇者様達で思い切っていってみちゃったらどーですか?」
飽きずに上目遣いでドラクロワを垣間見ては薦めてくるドラコニアン娘だった。
「フム。無駄乳よ、ちと寄越せ。フムフム……なーんじゃ、コリャお前達には無理じゃな」
と、カミラーがマリーナから告知を奪い、それに、サッと目を通して直ぐに返した。
「えっ? カミラーさん? ソレってどういうことですか?」
これにユリアが愛らしい顔を曇らせ、訊く。
「ん? そりゃ決まっておろうが。まずじゃな、この条件の''人間族限定''まではええわい。
じゃがの、その次の''三名一組''でお前達は引っ掛かろうが?」
世にも美しい女児のごときバンパイアが、ユリアのソバカス顔を真正面から見ながら言った。
これにシャンとマリーナが思わず顔を見合わせて、それから、フッと女魔法賢者を見下ろした。
「えっ!? ちょ、ちょっと意味が分からないんですけど?
当然、どんなに綺麗でもドラクロワさんは男性だから、これの参加は絶対無理ですよね……。
て、えっ? あのー、カミラーさんはダメですよ!? その尖ったお耳で直ぐにバンパイアだって──」
ユリアがカミラーの頭部を指して言った。
「んむ? たわけいっ! このわらわがこんな低俗なる品評会などに出ると思うてか!
うーん。逐一言うてやらねば分からんか……。
んー、あのじゃな……。まぁこの無駄乳じゃがの、それなりに、それなりーに、まぁ見れぬ顔でもないし、成熟した人間族の雌らしき肉付きであるわ。
また、そこの根暗狼娘も、例の銀の秘薬とやらで獣化を抑えさえすれば、まぁそれなりーに美しいという範疇には入っておるわい。
フム、此度の''醜い人間族''の南部一を決めるという程度の低い舞台であらば、まぁそこそこには闘えんこともないじゃろ。うんうん。
じゃがの、問題はおま、」
と、辛辣な評価を続けようとしたカミラーだったが、主のドラクロワが、カッと眼を見開いているのに気付き、思わず声を退いた、いや何かそら恐ろしいものにでも触れたように総毛立ち、彫像のごとく強ばってしまった、が正しいか──
「──ウム。カミラーよ、どうした? もっともっと現実を見ろと諭してやれ」
と、どこか錆び付いた、嗄れたような声でドラクロワの拍車がかかった。
「は、は、ぃ…………」
だが、カミラーは依然として、何かただならぬ違和感に打たれ震撼、茫然自失に囚われたままであった。
「ウム。是非もなし。この俺直々に言ってやるしかないか」
ドラクロワは、感覚が鋭敏すぎるカミラーの瘧ような震えを睨んでから、悠然と脚を組み替えた。
「え? 何ですかドラクロワさん? えと、現実を見ろって、あの、それってどういう意味でしょう?」
ユリアはカミラーの感じた世界の相の大転換など少しも感知せず、ただ素朴に聞き返した。
「ウム、さっきから黙って聞いておれば、やれミス南部だ、賞品だと、姦しくはしゃぎおって。
貴様らも光の勇者を標榜するのなら恥を知れ、恥を」
ドラクロワは美しい無表情のまま、らしくない教誡を溢し始めたのである。
「は、ハジ? あん? なんだいソリャ?」
マリーナは怪訝な顔で、どゆこと? と親友シャンに振り向いた。
「うん。何とはなしに、云わんとする事分からんでもない──
ないが、ここは続きを聴こう」
シャンが、ドラクロワにケチの詳細を語れと促した。
「ウム。お前達、あいや俺もか──の本分とはなんだ?
言わずもがな、飽くまでこの星を、彼の魔王から奪還するための聖なる闘い、それにこそ終始して在るべきだ。
つまり、断じて大陸南部、その地方競美会などに現を抜かしておる暇など、ちーとも、ほんのこれっぽっちもない筈だ。
ウム、どうだ? この俺が何処か間違っておるなら遠慮なく反駁するがよい」
ドラクロワが、ニコリともせず断言した。
「あえ? あ、あのドラクロワさん? きゅーに何をまともな事を?」
無論、競美会賞品に眼が眩んでいるユリアは、このおかしな成り行きに反感を覚えた。
「はっ! さ、流石はドラクロワ様!! よう仰いました!!」
やっと謎めいた緊縛からほどけたカミラーが感じ入ったように首肯しては、その小さな手で、けたたましい程の拍手を送った。
これにマリーナとシャンは顔を見合せ、この基本虚無主義にして、時折酔狂なだけの呑んだくれが、全体どういう風の吹き回しかと、ドラクロワを振り仰ぐのだが、無論、その、ただただ憮然とした美貌には毛ほどの乱れもなかった。
「うーん。まぁドラクロワさんの言うことももっともだとは思いますが……で、でもぉ」
ユリアは愛らしい神妙な顔で、心中の優等生と好奇心狂との狭間で揺れ動く。
「でもも糸瓜もないわっ!! この度しがたき、はた迷惑の酒乱めが!!
ウ、ウムゥ……こ、この俺としたことが少し取り乱したか」
ドラクロワは、つい恫喝するように吼えてしまったのを取り繕うように、無意味に座り直しては腕を組んだ。
「あら、」
「まぁ、」
滅多に見ぬドラクロワの情動の発露に、ついアンとビスが姿勢を正し眼を丸くした。
「はえ? ドシガタキ? え? そ、それってどういう意味ですか? しゅ、シュラン?」
ユリアはまったくの自覚のなさに、只動揺するしかなかった。
「まぁなんだ、しょーもない競美会などにかかずら合う暇があったなら、この大陸南部の果てにあるという、邪神配下の巣くう海底の穢れ神殿。
そこに眠るとされる、初代勇者達の最期の装備を探求する方が、まだまだなんぼかましであろうよ、ということだ」
ドラクロワが再度柄にもなく、この陸路の本来の目的地であるレジェンダリー装備について一同を想起させた。
※「12話 課金」参照
「ウンウン! さっすがはドラクロワだよ! 確かに、アタシ等にゃベッピン比べなんかより、もっともーっとダイジな事があったんだよね!?」
最前から、どこか競美会などにはむず痒さを覚えていたマリーナが、流石の生粋の戦士職らしく、神秘の武具に大いに奮起しては賛同する。
「フフフ……確かにな。この格式高い、栄えある競美の会などに、一癖も二癖もある我々が参加するともなれば──
そう、何かしらの波乱を呼び込まんとも限らんしな。
うん、私も競美会は素通り。伝説の武具獲得を優先させる、に、一票だ」
宇宙の真理に触れたとか云う狂、いや究極の涅槃到達者が、さも意味ありげに主張した。
「うーん。まぁお二人がそう言うのなら、私がこれ以上独り意地をはっても仕方がない話、ですよねー。
はーい、優勝賞品のことは、スッパリと諦めまぁす」
まさしく渋々といった具合で、未練がましく口をへの字にするユリアだった。
「のお!? こ、こりゃユリアよ! わらわの聞き間違いか!?
お前、今、優勝とかぬかさんかったかえ?」
わざとらしく椅子からずり落ちたカミラーが、唖然として座り直した。
「え? 言いましたけど、それがなんですか?」
ユリアの中では特段の他意はないようだ。
(ウム、あの奇怪な白い炸裂が起きてから、何がどうなったかは判然とせんが、なにやら、あの火炎嵐から突如昇華した攻撃魔法とやらが時間と空間とに強く作用して、次元の腹を"はっし"と弾いてトチ狂わせたようだな。
ま、詳細は、この先俺の魔法探究の課題として、暇があれば調べてみるとするか。
ウム、この退屈な旅の暇潰しには丁度よい、かッ!!?)
なぜ時間が巻き戻ったかのような不可思議な事象が起きたかを適当に推し測りつつ、好物の葡萄酒を取らんとしたドラクロワだった。
が、そのすぐ隣の未開封の二本目に手を伸ばさんとする三つ編みの女がいるのを認め、不覚にも思わず、ギョッとして眼を剥いた。
「ンコラァ! ユリアッ!! 貴様何をしようとしておるかッ!!
ええいっ!! き、貴様という女は、気は確かか!!」
ついいきり立ち、女魔法賢者から葡萄酒の瓶をかっさらう魔王であった。
「ひゃあっ!!」
余りのドラクロワの迫力に圧倒され、仰け反るユリアだった。
「おいユリア! 日頃からあれほど酒にだけは手を出すなと言っているのが分からんか!」
シャンも瞬時に事態を把握し、激しく叱責する。
「えー? だ、だってー、折角のミス南部を潔く諦めたんだから、その代わりと言っちゃあなんですけど、いつもいつもドラクロワさんが美味しそーに飲んでる葡萄酒、ちょーっとくらい分けてもらったってイイかなーって……」
ユリアは隣のビスにすがり付き、子供じみた文句を垂れるのだった。
「これ低知能娘よ! よりにもよってドラクロワ様の物をかすめようてか!
貴様という奴はどこまで──」
カミラーも恐ろしい剣幕で、メギメギと鉤爪を伸長させて小さな牙を剥くが、刹那、至近距離より凄まじい鬼気に打たれ、再度戦慄してしまう。
「おのれ……己のそういう短慮な性分というヤツが……」
見れば、腕組みのドラクロワが激しく歯軋りをしつつ、血に飢えた猛虎のごとき凄まじい眼光を放っているではないか。
「あっひゃあッ!! びびび、ビスさぁーん!! 助けてくださーい!!」
なぜドラクロワが、今だかつて見せたこともない憤怒の顔となり、凄絶な殺気を撒き散らしているのか見当も付かず、ビスの懐に退避するユリアだった。
それを他人事のように眺めつつ、ジョッキのエールをあおるマリーナは、ドタバタ喜劇でも観るように、女にしては広い肩を竦めた。
「ハーア。まーったく、これから邪神の巣にオジャマしようかーてのに、相も変わらず、みんなノーテンキなモンだよね、ホント。
よし! ケンカとあっちゃあ、このアタシも黙っちゃおれないよ。
イッチョまじってみっかね! アッハ!」
マリーナは幸せそうな笑みで姦しき仲間達を見つめていたが、ジョッキを下ろし、深紅のグローブの指を、バキボキと鳴らしては立ち上がった。
「コラーユリア! まーったく、アンタって娘は!」
「かー! ええぃ! その邪魔尻を退かさぬか無駄乳!!
これユリアよ! その趣味の悪い三つ編み! 今日という今日は根こそぎ引き抜いてくれる!」
「あっひゃあ!! アンさぁーん! 笑ってないで助けてくださーい!!」
「キャッ! ユリア様! いきなり抱き付いてこないで下さいな!
酷い、アブサンがこぼれたじゃないですか!」
「よーしよし! アンよそのまま放すでないぞよ!!」
姦しき女達の乱入に、すっかり毒気を抜かれたドラクロワは、急に馬鹿馬鹿しくなって、疲れたように背もたれに身を任せた。
(ウム。この何処までも、すちゃらかな冒険物語、まだまだしばらくは続きそうだな)
その見るものを凍りつかせるような、魔性の美貌の顏。
その口角が今、ほんの幽かに上がっていることには、当の本人も含め、誰の一人も気付くことはなかったという。