218話 なんか茶漉(ちゃこ)しみたいなのありますか?
再度、キターク大陸南部の最高軍事拠点である要塞都市ブルカノン。
その上級居住区にある料理店、"翡翠の蟋蟀亭"──
この店の給仕長リオック=コロギス52歳は、まるで魂の脱け殻のようになっていた。
「は、はぁ……本日は競美会の前夜祭でしてぇ、まだ営業はいたしておりますぅ……はぁー」
と、侘しい頭髪も散り散りに乱れ、今にもその場に膝崩れしそうな風采である。
「これ、ハゲチャビン! ドラクロワ様を給仕させていただく身として、その腑抜けた有り様はなんじゃ!」
どんな魔法を使ったかカミラー。その小さな身には、あの血染めのズタボロドレスではなく、華やかにして美々しい、絢爛なピンクを纏っていた。
「はぁ、ですから、しょの……ゴ、ゴルゴンのお三方はすでに宿に戻られておりまして、えーと、なんでも寝不足は美肌の大敵とか……にゃんとかー」
どんなに叱責されようとも給仕長には欠片ほどの覇気もなく、その不憫な色褪せ具合からは、あの傲慢なる名家の娘たちから手酷くやり込められた挙げ句、長年の働き口を潰されたことがうかがえた。
そこで、いつまでも暖簾に腕押しに絡んでも詮無きこと、光の勇者団とその従者らは、勝手知ったる者のごとく、初めに通された席に移動し、そこで深夜営業担当の若い女給仕を捕らえ、夜食と寝酒とを注文した。
「ふぁあぁ……もう、ホントにどうなることかと思いましたぁ……。
これからはもう、あんな無茶だけはしないでくださいね……はぁあぁ」
赤く目を腫らしたユリアは、ちんまりとした掌で涙目を拭っていた。
「これユリア! お前というヤツは、いい加減しつこいぞえ!!」
向かいのカミラーは、白磁のティーポットを軽く振って、その内部を醸しつつ牙を剥く。
「まぁまぁカミラー。そう言わずさ、ユリアの気持ちも分かってあげてよー。
アンタってばー、もう手足の先からカンペキ灰になっちまって、そよ風にのってハラハラーッだったんだよー?」
水のようにエールを飲むマリーナも、すっかりいつもの陽気と快活さを取り戻していた。
「フン! お前達なんぞに心配されんでも、端からこのわらわ、ドラクロワ様の剣となって闘いのなかで相果てるのなら、むしろ本望じゃわい!
その誉れの散り際を、ようも土足で踏み込んで継ぎ接ぎしてくれたの!」
潔く殉教しそこなった魔王の狂信者は、真底口惜しやと喚く。
「っだからぁー!! そんな軽々しく散るとか言わないでくださいよぉー!!」
無論異教徒のユリアには、気高き散華の気概などはまったく理解不能である。
「フフフ……生憎と我々は、お前の自己満足な抜け駆けを許すほどにお人好しではないからな」
青いグラスを傾けるシャンも、先の特攻による全身破壊がウソのようである。
「ぃやっかましいわい! だいたいがじゃ、このわらわをまだまだ重用の価値ありと拾ってくださるのなら、きっとドラクロワ様のこと、いかようにもその秘術・秘技をふるってお救いくださったはずじゃ!」
このへんはカミラーも流石に不確かなところがあるようで、つい後半で主君の白面をうかがい見る。
「あえっ? そ、それってホントですかドラクロワさん!?
首を刎ねられたバンパイアをさえ救う秘術なんて、そんなスッゴい技があるんですか!?
えー!? そんなのどこの魔導書にも、あのお師匠様からも、まったく聞いたこともありませんけどー!?
もしそんな禁断の秘術があるのなら、ぜぜぜ、是非とも教えてくださいッ!!」
泣いたり興奮したりと忙しいのがユリアである。
「ッヘエー! そらースゴイ! サッスガはココイチバンで頼れる男ドラクロワさんときたもんだ! アッハッ!」
ほどんどが砕け散った、左の真紅ガントレットに目を落としていたマリーナは、ガクガクとうなずいて感心する。
「無論じゃ、ドラクロワ様に出来ぬことなどなにも、ぬおっ!? ムダ乳よ!! おのれ、な、なにをする気じゃ!!」
カミラーは、マリーナが何気ない顔で、長い指の手を、レンガ壁に立て掛けた愛刀へと向かわせるのに、ギョッとして、自らの繊細な喉元を抑えた。
「ナニって……うん、だから、そのナニだよ」
「この弩阿呆者めいっ!!」
「ウフフフフ!! まぁまぁマリーナさん、冗談はそのくらいにしてー。
でー、ドラクロワさん?その秘術ってどんなものなんですかー?
えと、ヤッパリ禁断の大魔法とかー、奇跡の霊薬とか、そんなんだったりしますぅ!?」
と、なんとも姦しいなか、只静かに葡萄酒をあおっていたドラクロワだったが。
(フム、完全に斬首をされた血吸いを元通りに繋ぐ……それも乙女の血を注ぐ以外で、か……)
と、わずかに思索するような顔になったようだ、が。
「いや、そんなのは知らん」
と、相も変わらず血も涙もなく、無味乾燥に切って捨てただけだった。
「はえ? し、知らんて……えぇっ!?」
ユリアは唖然として、静かに向かいのカミラーを見た。
「ご、ございま、せんだか……」
カミラーはもう一度灰になりたい気分だった。
「アッハ!! んま、いんじゃなぁい!? 今回はアンとビスがいたから、ジッサイなんとかなったワケだしー? ネ!?
それにさー、ま、確かに今回は残念だったけどー、アンタをクビチョンパするような、あんなバケモノなんてそうそういないってー!!
ま、今回だけは残念だったけどー、ウンウン、ま、なんてゆーの? そ、次回にコーご期待って感じー!?
ッアギャーーーッ!!」
「フンッ。残念なのはおのれの頭脳じゃ」
カミラーはマリーナの喉元から手を離し、
アンとビスを睨め付けた。
「わらわがドラクロワ様のためになら、すべてを捧げるのが当然のように、おのれら従者らがわらわのためにすべてを差し出すのは必然。
で、あるからして、此度のお節介、無論礼など言わぬからな」
と、例によって居丈高に念を押したカミラー。
「はっ、妹共々、気遣いが足りませんでした」
「この度は僭越を働き、申し訳ありませんでした」
アンとビスは即座に恐縮し、並んで犬耳の頭を垂れる。
「ちょっ! ちょっとカミラーさん!!? あの時のことで、どれだけプライドを傷つけられたのか知りませんが、命の恩人のこのふたりにそんな言い種はあんまりじゃないですかー!?」
生真面目な魔法賢者は、いかにカミラーの平常運転といえど、流石に黙ってはいられなかった。
「フンッ、おのれのような餓鬼娘に、高潔なわらわの心持ちなど分かってたまるかえ!
これ犬娘らよ、香気が失せぬ前に、早うに喫さぬか」
カミラーは、まず裾分などしたことのない特別のお気に入り、しかもその出花を手ずからカップの二つに注ぎ、アンとビスへ授けた。
これに、ほぼ毎日同じ食卓を囲み、カミラーの性質を熟知しているがゆえに、昏倒しているマリーナとドラクロワを除く、皆の眼が大きく見開かれた。
「カ、カミラー様……」
「遠慮なく、頂戴いたします……」
アンとビスは再度頭を垂れ、恐ろしく優美な所作でカップを手繰り寄せ、その最高級ミントティーのふくよかな薫りを胸一杯に吸い込んだという。
と、皆が感じ入ったようにそれを見守るなか──
「ウム、カミラーよ、そこな杯を持てい」
つい今、新たな葡萄酒の瓶を取り、シポンッとばかりに、いつもの親指一本爪による栓抜きを極めたドラクロワが、唐突に言って顎をしゃくった。
これを受けたカミラーは、零れんばかりに眼を見開き、主君を振り返った。
「は、はいっ!」
「ウム、これの出花を受け取れ」
ドラクロワは葡萄香る瓶を差し出し、カミラーの手中のグラスへと傾けた。
「あ、ありがたき幸せ!!」
カミラーは真紅の瞳を濡らし、震える手でそれを包み込み、さも愛おしそうに燭台の灯火に透かし、押し寄せる万感の想いに浴した。
「ド、ドラクロワさん……」
あの天上天下唯我独尊を地で行くドラクロワが他者を労うなんて、とユリアが一番に声を震わせた。
「あ、いや。そう無理して飲まぬでもよい、が──」
「は、いえ!! なんと、なんと……もったいない一献にござりましょう、と──」
カミラーは、やはりこの主君についてきてよかった、と皆の眼も憚ることなく大粒の涙を落としたという。
これを眺める皆は、夢見るような想いに包まれ、なんとも素直になりきれない二人を眺めて心打たれ、いやましに連帯感を強くした。
だが────
(ウム、思いの外、栓が朽ちておったようだな)
魔王ドラクロワは、手馴れたはずの栓抜きに失敗をし、今、外に一杯注ぐことにより、要らぬコルクの屑が取り除かれた瓶の口を、冷厳と、ただ睨むように見ているだけだった。




