194話 蠱毒のグルメ
この星の最北端。そこの氷の大地に深々と根ざし、まさに巍然として、そびえ立つ圧巻荘厳なる巨城があった。
これぞ、生まれついての最強生命体にして、この星の不動の覇者、魔王ドラクロワの在るべき、伏魔殿とも、魔界の出張所とも恐れられる大魔王城である──
そこは、この物語の序盤にて、魔王不在という最悪のタイミングに乗ずるようにして、星の彼方より帰還した、超古代の邪神とその配下の軍勢により攻め落とされ、その深淵にある王座をも奪われた筈であった、が──
ドラクロワ、またシャンが、この冒険譚の随所にて、軽々しくも使った強力な魔法具らの影響で、この世界の相というものは、幾度も書き換えが為され、種々様々な因果がもつれ、そして乱れた。
その結果、かの邪神の帰還さえもが、その余波をうけて大きく遅れ、今現在は、ただ退屈をもて余した魔王が、ふらりと気儘な冒険に消えた、只、それだけに留まっていた。
今、その深遠なる心臓部にあたる、幽玄にして壮麗なる王の間、そこの威厳に満ちた王座には、不可解なる魔王の留守をあずかる副王の''アスタ''が座していた。
それこそ、なんの予告も前触れもなく、ただ賞賛に飢えたドラクロワが消えて以来の、この数ヶ月──
魔王軍の名うての魔道の使い手達が、いかなる探知魔法を駆使しようとも、その行方は杳として知れず、また魔王ドラクロワの目撃情報も皆無であった。
つと、その名代アスタの前の空間に、楕円の小型蜃気楼が立った、いや、それは見る間に、赤と漆黒が波打つ陽炎となって揺らぎ、渦巻き、蠢いては、何かの形をとろうとしていた。
そして、その奇っ怪な朧は数瞬で、ある一体の人型を形成しつつ凝固してゆき、い並ぶ魔王軍の武官らが何事か?と顔を向けたころには、それはしなやかな痩せた女となって顕在化を果たし、あくまで、婉麗しとやかに細腰を折って、王座の副王へと、へりくだったのである。
「……フム。トーネ、か──」
原野の王者、その獰猛極まりない若獅子を、無理矢理に人間らしい形に変換したような、そんな烈しく野趣あふれる風貌をした、魔王軍の元帥を務めるアスタは、その女の琥珀色の瞳、そして真紅と漆黒の入り交じった特徴的な長い髪を認めて、呟くようにその名を言った。
その端的に小柄といってもよい、やせ形の美しい魔族の女は、漆塗りを想わせる、黒く艶めく唇をひどく淫靡な形に歪め、ゆっくりと頭を上げた。
その白い顔こそ、ぞくりとするほどに美しいが、この女の全身からは、目を刺すような鮮烈なる赤と、滑るような純黒とが織り成す強烈なコントラストも相まってか、どことなく、剣呑極まりない毒々しい赤蠍、或いは、猛毒を秘めた殺人蛇を想わせるような、そんな情調が見えるようだった。
「ならん、ならんぞ」
副王アスタは居丈高な頬杖のままで、その女が何かを切り出す、その前へと封じるように言葉を投げた。
「蠱毒部隊のトーネよ、お前が何度嘆願しようとも、現状、ドラクロワ様が人間族の過度な虐殺を禁じておられる手前、ブルカノン襲撃の許可はやれぬと申したであろうが」
野生的過ぎる、ほとんど、たてがみを想わせる逆毛のアスタは、その声すらも、慄然とさせられるほどに重々しく、また圧倒するような威厳のあるものではあった。が、同時に、その声音には、どうしようなく辟易したような響きも多分に混じっていた。
「蠱毒部隊」とは──
このトーネを女頭目とする、少数精鋭で構成された、''超・戦闘特化型''の一党のことであり、人間族、ドワーフ、またエルフ等の亜人種間に、極々稀にだが、突発的・突然変異的に誕生しては、華々しくも活躍''し過ぎる''、強力無比なる''英雄的冒険者''の駆除──
また、神聖魔法を除く、ほぼすべての魔法を無効化するという、星の彼方の邪神のお留守番役である、その配下の軍団達への有効なる対抗手段として調えられており、ゆえに、主として''肉弾格闘''を究極に高めるべく、超絶的高純度に精錬、また練磨され、所謂、魔王軍の懐刀として配備されていた。
その闇のまた闇とも云うべき一党の歴代最高の使い手であるトーネは、赤と黒の交ざる、長い前髪の隙間から副王を見つめ、その優美なまつげを眼輪筋とともに震わせた。
「まぁ。また、すげないことですこと。ですが、ですが、アスタ様。その肝心の魔王様は今や所在不明、一部の者達の噂では、失脚なされたとも、」
「うぬ、言葉が過ぎるぞ、トーネ!!」
「は、これは失礼をばいたしました。ですが、ですが私たち超戦闘特化型の武門といたしましては、醜い人間族どもの浮かれた競美の宴ごと、かの難攻不落を誇る軍事拠点を陥落せしめてみたい、との妄念とも執念ともつかぬ、げに狂おしき願望を懐くものにございます。
そう、獲物が強者であればあるほどに燃える、云わば闘争の美食家なのでございます。
だから、だから何卒、今一度、ご再考をいただきたいのでございます。
そう、せめて、せめてブルカノンの司令官の首だけでも狩らせてください!」
「くどいっ!この度しがたき痴れ者めいっ!それでも一党をあずかる組頭かっ!?
ブルカノンの将の首など、もっての外だっ!
この星は、とうに平定され、完全にドラクロワ様が掌握されて久しく、一部の攻撃的な冒険者以外には刃を抜くな、との方針は変わらぬのだ。
それを今更、お前のような無駄に血の気の多い不心得者がかき乱し、それが元で、人間族、ドワーフ、エルフらが一斉蜂起した挙げ句、再び大戦を招いたなら、お前は一体どう責任をとるつもりだ!?」
アスタは鋭い爪の伸びた獅子のような手を振って、戦闘狂の女に炎々とした怒気を吹きかけた。
そこへ──
「アスタ様ッ!」
と、やにわに横槍。トーネの後方に林立する武官らの垣を割るようにして、魔王正規軍の黒甲冑を着込んだ、見るからに伝令らしきひとりの騎士が進み来た。
まさに猛る獅子のごとく憤然となって泡を飛ばしていたアスタだったが、フッと吐息を垂れた前髪へと吹いて熱を抜き、そうして幾らか落ち着きを取り戻してから、眼下の伝令の発言を許すと、大理石の床にかしづいていた黒甲冑が顔を上げた。
「はっ!畏れながら申し上げます!今現在、大陸南のブルカノン領の魔戦将軍の城に、複数の冒険者らが攻め入った様子であり、かなりの被害が報告されております!!
なにやら敵の中には、かなりの手練れがいる模様で、ブルカノン領からの魔鴉の伝によれば、それらのうちの幾人かは、あろうことか、かつての人間族の英雄、''大斧のブラキオ''に匹敵するほどに強力な個体が確認された、とのことでありますっ!!」
と、ほとんど血を吐くように知らせを放った黒甲冑を見下ろすトーネは、その魔王軍にとっての凶報を聞くや「我、朗報を得たり」と歓喜して、白き顔前で黒い爪の手を打ち合わせた。
「フフフ……なんという、なんという巡り合わせでしょうか」
興奮に瞳孔を開きつつ、囁くように言って、またもや神出鬼没の赤と黒の陽炎となって王の間の空気に溶け始めた。
その朧に霞みゆくトーネに、肘掛けに鉄槌を落としたアスタが怒鳴った。
「くっ!よりによってブルカノンだとぉ?ウウムムゥ……。
ええいっ!まったく!間が良いのか、悪いのかっ!
だがトーネよっ!重ねて言うが、冒険者以外を、徒に手にかけるのは、依然として重大な軍規違反であることを努努忘れるでないぞっ!!」
それに応えるように、ホロホロとたゆたっていた、赤と黒とが、ない交ぜとなった陽炎は、パウッと弾けて消失した。