141話 バリアーの大きさに限界などなかった
こうして虚無の乙女シャンは、皆の祝福と歓迎の輪の中へと堂々無事に帰還した。
その喝采に湧く賑やかな場にて、床に片膝をついて恭しくも、ドーベルマンのごとき犬耳の立った頭を垂れるのは、シャンの劣下等種の狼犬の双子姉妹であった。
彼女達は、蛍光黄緑の返り血の咲く女アサシンの汚れを拭う為、各々の斜め掛けの革鞄から、ほぼ同時に純白のタオルを取り出し、「シャン様!どうぞ!」と殆ど捧げるようにして差し出した。
シャンは、それらを両の手で有り難く受け取り
「アン、ビス、ありがとう。とても助かる」
と、何処かの誰かとは異なり、「ウム。苦しうない」とか、そういう独裁者風に居丈高に言って振る舞う事もなく、飾らない素直な口調で礼を述べた。
そのスタイリッシュなパープルのレザーアーマーの背中に遠く、ピクリとも動かなくなった、毛むくじゃらの首の根元が、まるで炸裂弾でも喰らったように、見るも無残に、惨たらしく爆ぜ割れた邪神兵士の骸らしきモノを注意深げに眺めていたマリーナは、サッと顔と右手とを上げた。
すると、そこへすかさずシャンが同じ具合に右手を上げ、すぐさま、パーンッ!とそれら二人の掌同士が打ち合わされ、所謂ハイタッチが実に小気味好く極り、そのまま凄絶なる死闘のトドメを労う熱い抱擁が交わされた。
そこへ、混ぜろ!混ぜろ!とばかりに、サフラン色のミニスカローブの魔法賢者も駆け寄り
「シャンさん!!お疲れ様ですー!!
今のスゴいのは何だったんですかー!?シャンさんが私の目の前からも、ううん、それどころか、記憶や思い出からもキレイサッパリと消えちゃってましたよー!?
スゴい!!スッゴいですー!!遂に本当に本物の"無"になれたんですねー!!?
この前の聖都ワイラー大神殿での怪人との戦いで、あの恐ろしい死の病毒を無効化させたのも充分スゴかったけど、今回は更に更に、トーンでもなくスゴかったですよー!!
んぎゃっ!!」
と、そのまま余勢を駆って、シャンのスレンダーな黒革パンツの細腰に飛び付こうとした。が
「ユリア様」
「そこはまだ汚れています」
と、電光の速度で立ち上がった、お澄まし顔のアンとビスとに、跳ねる三つ編みを握られ、忽ち急制動を掛けられた。
そのやり取りには一切目もくれず、横たわる痩せた熊にしか見えない古代妖魔を見据えるドラクロワは
「ウム。シャンの奴め、我等、真魔族の超感覚ですら捉えられぬ程に、完璧なる無になりおおせるとはな……。
いずれ来る、邪神との決戦において、少しは役に立つかと思い、僅かな成長には目を瞑っておいてやったが。
この女……。
思いの外、叩かれれば叩かれる程に無駄に逞しく、際限なく、その"伸び代"というヤツを見せてきおる。
ウム。このままこれを好き放題にのさばらせておっては、何かの手違いでコイツが翻った時の事を考えると、ちと手に余りそうだな。
と、なれば、先を見据え、まだまだ成長過程にある、今のうちに手打ちにしておくべきか……」
と、黒鉄色の剣の柄を撫で、誰にも届かぬ呟きを漏らした。
だがそれは、側近のカミラーだけには確りと届いていたようで
(魔王様。確かに、あの根暗の狼娘は並の魔族以上の術を使いまする。
ですが、誠に僭越ながら、私めの思いますところ、彼の星の彼方の邪神とは、決して魔王様には敵わぬまでも、あそこで不細工に伸びております、あの雑兵等はその比較にもならぬほどに強力なる存在かと存じまする。
なればこそ、魔王様の保有・行使なされる兵力と対抗手段とは、それなりに強力にあるべきかと思われまする。
確かに、己の存在を完全に消し去る、とは、それなりに恐ろしき戦術にはございます。
ですが、あの娘。実際に攻撃に移る時ばかりは、どうしようもなく自らを"有"とせねばならん様子。
となれば、まさかの有事の際にも、先ず私めを囮にされ、これを挟撃にて攻め立てられれば、あのような娘などは、至極容易に討ち取られると存じまする。
また、この場にて、この銀狼娘を両断されますれば、次いで無駄乳、低知能娘、犬の双子等も斬らねばなりませぬ。
そうなれば、一度に魔王様の手駒が尽きてしまわれることになりまする。
ん?しかし……手駒ということならば、よくよく考えてみれば、はなからこの私一人で事足りるので、それはそれで、なんら問題はない。か……。
そ、そうなれば、この極秘任務とは、その、ま、魔王様と私との"二人旅"という格好になりまする。
そ、そうなれば……そうなれば……これは是が非にでも、そうなるべきなのでは!?
ハッ!あ、いえいえ!これは大変失礼致しました!!
とういう訳で、その、ど、どちらにせよ、私はただ魔王様のご意向に忠実に従う所存にござりますゆえ、あの、その……)
と、多分に己の願望を織り混ぜた、例の魔族間のみに通じる思念波というヤツを返した。
だが、魔王はそれに黙殺を極め込み、そのしどろもどろの念波の後半などは、全く汲み取ることも受理することもせず、ただ前半に一度きり静かにうなずくと
「デ、アルカ」
とだけ無機質に唸り、漆黒魔剣"神殺し"の柄から白い手を降ろした。
そんな、あやうく殺処分となっていたのを、カミラーの弁により、なんとか免れ得たことなどは露知らず、光の勇者団の乙女等は、未だ姦しく騒いでいた。
そして、その輪から少し離れたバラキエルとリョウトウ、カゲロウ達は、其々(それぞれ)の顎を、ヒョイと上げて、恐る恐る古代妖魔の骸らしきモノを眺め、やはりそれが完全に息絶えているようなのを認め、今やっと安堵の息を漏らした。
だが、人間ならばとうに失血死しているべき古代妖魔は、突然、その漆黒の肢体を、ムクリと起こすや、何事もなかったように平然と屹立して見せたのである。
そのなんとも不思議な活性のある動きに、皆は揃って戦慄し、武器を持つ者達はそれを握って、(やはりな)と、心中にて漏らすや、即座に臨戦態勢へと移った。
だが、皆が睨み付けるその邪神の兵士は、どういう訳か、そこで立ち上がったまま、それっ切り微動だにせず、鮮やかな色の人外の鮮血に濡れそぼる小柄な身体を、まるで置物・剥製のように静物的に晒したままである。
そして、それが大いに不可思議であったというのが、あっさり戦線復帰したかのようなその妖魔には、なんと例の灰色の蛸に酷似した物体。
その歪んだ頭部が無かった。
それを身構えつつ見詰める皆が、その突然の頭部喪失に気付き、甚だ不審に思ったそのとき。
その黒い体は、正しく瞬時にして暗黒色の風船のごとくに膨れ上がり、その全面に行き渡る漆黒の剛毛の根元。
その地肌を夜鳴き蛙の頬のごとくに薄緑に透けさせたかと想うと、突如、ドバンッ!!という猛烈な破裂音を上げ、この小柄な身体によくもまぁ、といった程に、膨大な量の黄緑の体液と臓物とを辺り一帯に撒き散らしたのである。
その汚物の飛沫は激しい炸裂・爆裂エネルギーに乗り、この広い執務室の四方の壁まで届いて、それらを鮮やかな黄緑色に染めた。
無論、この執務室にいる全員はそれらを引っ被り、皆が等しく蛍光色に染まったのである。
いや、ドラクロワだけは、咄嗟に詠唱なしの半透明な紫の球体型障壁魔法を発動・展開させ、使徒カミラーをその傘下に含めて、その足元と背後の壁とを円型にマスキングしていた。
当然、この真魔族の二名以外は
「うえっへえっ!!なんだいこりゃ!!?」
「ぐくっ!!」
「キャーー!!イッヤーー!!」
「こ、これは!!?」
「うわっ!臭い!」
「うわっ!臭い!」
「うぅぅ……」
と口々に悲鳴・苦鳴を漏らし、頭髪、顔と言わず、その前面を滅茶苦茶に汚されたのである。
こうして、執務室は出入り口を中心に放射線状にぶち撒けられた邪神兵士の体液により、阿鼻叫喚の腐臭・死臭の渦巻く、おぞましき青汁地獄となっていた。
この古代妖魔の炸裂させた、最終自決行為に皆が顔を拭い、噎せ返るような酷い臭気に吐き気をさえ覚え、衣服・髪に飛び散って、それらに絡まった古代妖魔の内容物をお互いに払いのけ合う中、涼しい顔のドラクロワは
「ウム。奴め、最後に破裂して、ござかしく目眩ましなどして見せおったか……。
バラキエルとやら。そのまま動くな」
と、蛍光黄緑で折角の美貌が台無しになった中年へと命じた。
その徹底的に汚された、つい先程までの美麗絢爛たる面影をすっかり無くした金刺繍のローブ。
その左の肩に、"それ"は居た。
言わずと知れた、灰色の蛸頭である。
もはや身体を棄てた邪神兵士は、バラキエルの背面に、蛸頭の真ん中真下から伸びた、白蛇のような、先の尖った体液に濡れる背骨をくねらせ
「ぶじゅるるる……。よ、よくも、よーくもやってくれたなぁあーー!!?
だだだ、だがなぁ!おお、俺様は、脳と脊髄さえ健在ならば、か、身体なんぞはそのうち、ふ、復元するのだぁー!!どぉうだぁ!!?お、畏れ入ったかぁー!!?こここ、この下等生物共めぇえー!!
で、では、四肢の完全復活の半年先まで、ふ、再びここに潜ることと、し、してやるわーー!!
今度は、お、俺自身で、でさえ、おお、おいそれと外へと出るのが厄介な程に、ししし、深度をさいこー!サイコー最大にして、こ、この男とほぼ一体化してやるのだったぁー!!
ぶじゅるるる……!
だ、だだだ、だからぁ今度ばかりはぁ、貴様等の、し、神聖魔法も効かぬぞぉー!!ホントだぞぉーー!!
い、いいか!?は、半年待ってろぉ!!そ、そそ、そうすれば!更なる強化復元をしてー!!お前達など、しゅしゅしゅ、瞬殺だぁー!!
では!さらばだぁー!!ぶじゅるるるっ!!」
と言いたいことだけを口汚くも捲し立てると、そのまま百足を想わせる、小さな無数の骨の足を揃って万歳させ、シュルッと落下するようにして、ヌラヌラと黄緑に艶めく白い尾の先で、そこのローブを切り裂き、背骨の白い尾を引いて、バラキエルの背面に溶けるように消え去ったのである。
その白い残像を貫いたのは、ドラクロワの放った、紫に煌めく魔法矢と、真紅の刺突剣であった。
が、正しく紙一重の差で妖魔の身には届かなかった。
また、同じくバラキエルへと一気に駆け出していたマリーナ、そしてアンとビス等は、当然それには遥かに数歩届かなかった。
こうして結局、伝説の光の勇者団は邪神兵士を元の古巣へと逃してしまったのである。
マリーナは悔しさの余り、黄緑の絨毯へと地団駄を踏み鳴らし
「くっそー!!あの変態タコヤロー!!
シャンからあんだけ、グッチャグチャに刺されまくってたから、アタシャてっきり死んでたかと思って、つい油断しちまったよー!!」
だが、どんなに悔やんでも後の祭りであり、女勇者団には落胆の暗い影が降り始めた。
完全なる虚無という大技を繰り出したせいか、幾分憔悴したように顔色の優れないシャンは
「うん。流石は邪神の兵士といったところか。
今更言っても仕方がないが、まさか、頭蓋と背骨だけで、あそこまで自在に跳ね回れるとはな。
奴があんなにも生命力の強い化け物だとは思わなかった。
その上、奴の言う通りなら、今度は神聖魔法でいぶり出すことも出来ないようだし……。
かと言って、我々、光の勇者団が罪のない人間を奴諸とも両断する訳にもいかん。
もしや、これはもう、奴が完全なる復元を果し、復讐の為に這い出てくる半年後を待つ以外には、もはや何の手だてもないのか?」
体調の不全は精神までも削り、弱らせるのか、その顔は容易くも、観念・諦念の淵へと沈んで行った。
だが、その意気消沈の空気に一切囚われぬドラクロワは、平然とバラキエルの背面に歩み寄るや、彼の裂かれたローブを開いた。
すると、そこの背中には、最前の星の彼方を仰ぎ崇める、堂々不敵なる姿とは大きく異なり、掠れ気味の絵となって貼り付いいた、なるほど確かに頭部と背骨だけとなり、その下方にてとぐろを巻いた古代妖魔の刺青を認めた。
そうして、その絵を鋭い目付きで診断し、そのぼやけた点描画に流れる、微弱なる魔力を白い指先で探るようにして撫で回した。
そうして、諦めきれず、再度、神聖魔法の照射を試みようとするユリア、またアンとビスとに手を翳してそれらを下がらせると、直ぐさまカミラーへと、左の禍々しい装飾の暗黒色の手甲の手を伸ばし、分かりきった当然の事のように、あるモノを求め、そして受け取ったのである。
その、"あるモノ"とは……。




