忘れたり出来ない
私は覚えていた
雨の後の
包み込むような
濡れたアスファルトの匂いを
夕陽に照らされ
茹だるような
公園の楠の輝きを
知りもしない町の名前を
懐かしんで
涙して
聞きもしない黄昏の声に
母を思って
目を瞑る
私は忘れ物を探していた
今までそれすらも忘れていた
夕焼けを仰げば
短く飛行機雲が途切れて
その先には
一番星がぽつんとある
生ぬるい空気に
冷たい風が走り
はっとして
急いで駆け出す
今日と同じ様なあの日の情景
マジックペンで
でかでかと
この心に書かれているから
忘れたり出来ない
君の笑顔は、
私の笑顔は、
あの日の名前は、
忘れ物をした
時の流れは遡れない
それでも駆けた
今はもうない影と重なる
ベンチ脇の街灯が
弱々しくちらついた
夕陽が沈む
空は紫
星が瞬く
声が聞こえる
頭の中で
潤んだ声で
するりと流れる
ほほを撫でる風
少女が一人
少年を見つめる
忘れたり出来ない
君の涙は、
私の願いは、
この悲しみの訳は、
少年は走り去る
その背中を追う
少女が駆け出す
私が駆け出す
少女を抜き去る
振り向くと
立ち止まった
あの日の私
少年に追い付き
その手を握る
確かに掴んだ
少年が止まる
冷たい風が
指間を抜ける
ひゅるりと流れ
私を置いていく
少女は泣いた
涙が筋を
食い縛る歯を
塩味にする
微かな泣き声はいつの間にか
大きくなってトーンを落とし
私の耳に触れて
私の意識に捉えられる
私は泣いた
あの日の影と重なって
見上げたら涙が溜まって
海に溺れた視界になって
声をあげて泣いた
少年の姿はもうない
少女の姿はもうない
あの日の月はもうない
今はもうない
ここにはもうない
心にしかない
だから思った
忘れたり出来ない
君の笑顔は、
君の涙は、
君の姿は、
君の言葉は、
君の名前は、
マジックペンで
でかでかと
この心に
書かれているから
忘れたり出来ない