ソラうみ
その空には魚が泳いでいた。白い雲がぽっかりと浮かび、空は透きとおったように青い。その雲を横切るように、優雅に、魚が群れを為して泳いでいる。青い空に、夏の陽射しを反射する鱗が、ときおり、青く、白く輝く。
その空に、さざ波がたった。風が吹き出したのだ。魚の泳ぐ空は、急速に掠れ、そして見えなくなった。あとには、ただ、青い海だけが残っていた。
二階のその部屋には大きな窓が設えてある。その窓からは空が大きく見える。眩しいほどの真夏の陽射しが四角く切り取られて、部屋に差し込んでいる。
「やっほ、大地! 起きてる?」
太陽と同じくらい眩い声が、扉を開けて差し込んできた。
「なんだ、起きてるじゃん。だったら返事くらいしなよ」
「だって、風香ったら、返事する間もないじゃないか」
ベッドの上で、大地はそういって笑う。風香も笑いながら扉を閉めた。そうして、いつもどおりに丸椅子をベッドの脇に置いて座り込んだ。
「それで、風香。どうだった?」
「うん、とっても眠かった」
「いや、そういうんじゃなくって……」
「あはは、冗談よ、冗談」
風香は、手を振って軽やかに笑う。
「うん、とっても面白かったわよ。空を泳ぐ魚なんて、とっても妙だって思ってたけど、何か、とっても似合ってたわよ。空も海も、同じ青だからかしらね」
ふうん、と興味深そうに大地は頷く。今朝、風香は早起きをして、友達と二人で港に行ってきたのだ。その港で早朝に限って奇妙な光景を見ることができる、という噂を聞いていたのだ。
「でも、残念だったわ。綺麗だったのに、すぐに消えちゃったんだもん。せっかく早起きして見に行ったのに」
「それは、仕方ないね。風のない凪の時間は、早朝か夕暮れって決まっているからね。それも短い時間だし。風が吹いて波が出てきたら消えちゃうだろうし」
「うん。でも不思議よね。ホントに不思議な景色だった。一緒に見たみやも驚いてたもん。まるで、海の底にもう一つ空があるみたいだって。青い空が、青い海に沈んでいるみたい。なんか、海底王国の人たちが見てる空みたいだった。波がでると、揺らぐのよ。空がね。その中を魚たちが優雅に泳いでるの。群れになって、さぁーと、ね」
風香は、まるで今その光景を見ているように、恍惚と窓の空を見上げた。大地は、そんな風香を嬉しそうに眺めている。そうしてしばらくして、風香が思い出したように口を開いた。
「ところで、ねえ、大地。海の底に空が見えるなんて、どうしてなんだと思う?」
「さあ、どうしてだろうね。風香はどうしてだと思う?」
質問を、逆に質問の形で返された風香は、ちょっとだけ驚いて、そうして少しばかり考えてみる。
「う~ん、不思議だったのよね。ホントに海の底に空があるみたいな……。空が、そう。空が水に映っているのよ。ほら、水が鏡みたいに反射して、ね。あっ、でも水面に空が映っているんなら、魚とかは見えないハズよね」
自分で言って、一人で落胆している風香を見て、大地は少し考え込んでいた。
「そう、それじゃあ、こんな話はどうだろう?」
大地は左頬に当てていた手を離すと、風香は嬉しそうに微笑んだ。
「そう、風香の話もいいんだよ。そう、その空は鏡に映っているんだよ」
「鏡に? だけど、空は海の中にあるんだよ。海の中に鏡があるの? 水面じゃないんでしょ?」
「うん。その鏡は海の中にあるんだよ。水面に空が映っているっていうのも、間違いなんかじゃない。海の中に、もう一つ水面があるんだ」
「海の中に、水面? もう一つ?」
そう、と答えながら、大地は小棚においてあった小さな鏡を手に取った。
「鏡は光を反射して像を映す。水面も同じだね。これは、『反射』っていう物理現象の一つなんだ。二種類の性質の異なる媒質の境界で起きる現象なんだ。光は波の一種なんだけど、これは媒質の中で伝わり方が変わってくる。だから、その境界では屈折とか反射といった現象が起きる。こういった鏡の場合は、ガラスと後ろに貼ってある板の間で反射が起きていて、余分な屈折とかの現象は除いているからはっきりと鏡像を映し出すんだ。だから、ただ透明なだけのガラスじゃ、こんな風には見えない。水面の場合は空気と水の二つの媒質の境界でおきてるんだ」
ふうん、と風香はわかったような、わからないような返事をする。
「とにかく、二種類の物質の境目では、光りが反射することがあるんだ。だから、海の中の空が映っているところにも、そういった境界があるんだよ」
「境界、……境目ねぇ。でも海の中なんだよ。一体、どんなものがあるんだろう」
「うん、それは海の中にあるものなんだから、やっぱり水だろうね」
「水? でも水だったら海水と混ざっちゃうんじゃないの?」
「そうでもないよ。この場合、水っていうのは液体って意味だから。例えば、油は液体だけど水とは混ざらない。まあ、油は水よりも軽いから水面に浮いてるけどね。海水よりも重い水。港だったら潮の流れもないし、そういう液体が溜まっていても不思議じゃない」
「その液体が鏡の裏の部分の役割をしている、ってことね。それで、海の中に鏡があるって。その鏡に空が映って見えている……。そういえば、朝にしか見えないってのは何で?」
「一つは海の水面の問題だろうね。風が吹けば波が立つし、風が吹かない時間帯は朝と夕にだいたい決まっている。で、夕方に見えない理由は、港で船が動くとそこに溜まっていた液体が攪拌されてしまって、水面みたいに平らにならない。だから、朝だけしか見られないんだね」
なるほどねぇと風香は頷いて、一つ大きなあくびをした。
「それはそうと、もっと見に行きやすい時間だったらいいのに」
「はははっ。それじゃあぜんぜん、ありがたみが無いじゃない」
二〇××年十二月四日、S県警は××産業株式会社へ強制捜査に入った。産業廃棄物処理法に違反したものと発表された。××産業株式会社は同県G市に本社を置く、土木建築を中心に、製紙・材木加工、観光産業など、多分野に渡る経営を行っており、県内でも有数の会社であり、今後の動勢が注目されている。
以前より、隣接するH市山中に産業廃棄物が棄てられているという住民の苦情があり、××産業株式会社がこれに関与しているかどうかが、捜査の中心になると考えられている。H市山中の廃棄現場は、市内を流れるH川水系の上流部にあたり、水質汚濁が懸念されている。
その産業廃棄物にある種の重金属が含まれていたことは、また別の物語である。