すなナメクジ
二〇××年三月二十六日、S県H市内の国道で山積みになった砂山が車線の半分を埋めているのが発見された。これは二十五日深夜から翌早朝にかけて、付近を通行したドライバーからの通報で、国土交通省の職員が駆け付けて確認された。
翌朝、同省から派遣された作業員は、砂山を撤去するための重機を手配し現場に持ち込んだが、砂山は国道脇の私有地へと移動していた。通報のあった地点には僅かな砂が残されているだけであった。短時間の間に、どうやって砂山を移動させたのか、また、通報や国土交通省の職員に誤認があったのかは判明していない。
積まれていた砂は三十立方メートルを超えていると見積もられている。その砂が何処から何のために運ばれて来たのかといった状況は、現時点で全くの不明である。事件性の有無について、警察は捜査を開始する準備を進めている。
春一番は日本上空を駆け抜けて、窓の外の景色から冬の光景を吹き飛ばしていった。
梅の花の季節が終わり、そろそろ桜の花の季節が訪れる頃。ただ少しだけ憂鬱なのは、はっきりとしないモヤのかかった空模様が続いている。雲が出ているのではなく、春の風で遠くの大陸から飛ばされてきた砂が空を淡い黄色に染めているのだった。ただ、少しだけ嬉しいことは今朝方に短い雨が降り、空に淀んでいた砂を洗い流してくれたことだった。もう少し風が吹いて雲が晴れれば、心地よい春の陽射しがのぞくだろう。
憂鬱げなその空模様を吹き飛ばすような勢いで、階段を駆け上がる足音が聞こえる。扉が風をおこして内側へと開く。
「おはよ! 大地、起きてる?」
勢いよく扉を開けたのは、春の陽射しを一つの塊にしたような少女。扉のそばで舞った空気に、短く切りそろえた髪がなびく。扉から一番遠いところに置かれたベッドの上では、対照的に、気配の薄い男の子がベッドの上で背もたれている。
「おはよう、風香」
「うん、ちゃんと起きてるね」
「そりゃあね。風香が帰ってくる時には、玄関に着く二百メートルも前から分かるよ」
大地がそう小さく笑うと、そうだね、と頷いて風香も軽やかに笑む。
「それで、ねえ、風香。そんなに急いで帰ってくるって事は、何か面白いことがあったの? 例の砂山の話?」
「うん、そうなのよ」
そう言いながら、風香はいつもどおりスチール製の椅子をベッドの脇に引き寄せて座る。ポケットから大きな紙片を出すと、ベッドの上にそれを広げる。それは、風香達が住んでいる市内の地図だった。その一画に丸や矢印や数字が書き込まれている。
「一昨日の夜に突然現れた砂山は、今も移動を続けているのよ」
地図に書かれた図形には一貫性があった。いくつかの丸印は矢印で繋がっている。印の脇には日付と時刻が書き込まれ、それを見れば丸印が、いや砂山がどういう風に動いていったかが、一目瞭然に判る。
「テレビなんかじゃ、砂山は風で動いているんじゃないかって言っていたけど、これを見る限りそれは妙よね。風向きなんて、そんなにころころ変わるものじゃないし」
風香の言うとおり、砂山の動きはバラバラで、奇妙だった。最初に発見された国道の位置は、海岸線から少し離れた小高い山あいの道だった。そこから砂山は南東に移動して、木々の茂っている山間を抜ける。畑やまだ水の張っていない水田を蛇行しながら通り抜けて、丘を迂回するように西へ向かう。この時、線路を横断し、一時、JRの在来線が不通となる被害が起きている。その後も、南へ西へと戻るように迷走し、最初の場所に近づいたところで、再び急に北側に方向を変えている。
「この間、風向きはどうだったの?」
「うん、ここに調べてあるよ。昨日はずっと南からの風が吹いたみたい。今朝に寒冷前線が通過したから、そのときから風向きは北風に変わったのよ。だけど、記録を見たところ、風向きと砂山の動きは一致していないんだよね」
ふうん、と相づちを打ちながら、大地は風香がネットからダウンロードしたデータと地図とを見比べる。
「そもそも、風で砂山が動くっていうのがおかしいよね。そんなに簡単に動くんだったら、あっちこっちの工事現場とかにある砂山だって、動いちゃって仕方が無いじゃない。しかも、ほら、これを見てよ。今朝からの北風に対して、砂山は北に動きを変えているのよ。風に吹かれて動いているなら、南に動かなきゃならないじゃない」
風香は、お手上げといった風に口を尖らせた。大地は風香の話を聞きながら、黙って何かを考えていた。しばらくの間そうしてから、風香を見上げて言う。
「風香はこの砂山、見てきたんでしょう。どんな感じだった?」
「うん、そうねぇ……。確かに動いてたけど、なんか動いているって感じじゃないわね。崩れてるってのかな……」
「崩れている?」
「そう、崩れているのよ。砂山は三メートルぐらいの高さなんだけど、それはいつも崩れているのよ。おかしいでしょ? 山が崩れれば、いつか平らになっちゃうだけじゃない。だけど、砂山はいつもその高さを保っているの」
ふうん、と大地は口の中で呟く。ベッドの上に置かれた地図を眺めて、それでもう一度、ふうん、と呟く。
「ねえ、風香は迷子になったことがある?」
「えっ?」
その突然の妙な問いかけに、風香は口を丸く開けた。
「迷子だよ。道に迷って困ったことはない? 初めて行った街とかで、道が分からなくなって、今いる場所が分からなくなって。あちこちをあてもなく歩いてみたり、同じようなところをウロウロしたり」
「そういうことも、あったかもしれない、けど……」
風香の言葉を聞いていないように、大地は話を続ける。呟くように、抑揚のない声で。
「今いる場所が、今自分が立っている場所が、自分のいるべき場所じゃないと思い悩みつつ、明確に自分の場所じゃないと分かっていながら……。それでもここから離れることが出来ないんだ。知らない場所に行くことが不安で不安でたまらなくて……、それ以上に、今ここに自分がいることが不安で、心許なくて……不安で……」
「それは……」
風香は大地を見つめる。青白い顔、薄い線、乏しい表情。いつもの姿なのだが、それがよりいっそう、儚げに見える。そういう大地の姿を見たくなくて、風香は窓の外に視線を向ける。
「それは……、うん、何となく分かるよ。私もこっちに引っ越してばかりの時はそうだったもの。友達と別れたばっかで、さびしくって。だけど……」
空は雲が広がっている。憂鬱な雲。ただ、その一角の切れ間に青い空が見え隠れしている。そうして、風香は振り向いて大地を見る。互いの視線が緩やかに交錯する。
「だけど、私には大地がいてくれたからさ。すぐに元気に戻れたんだよ。知ってた?」
「……うん。そうだね」
大地は眩しいものを見るように、目を細めた。
「そうだね。僕も、風香がいてくれるから。ここにいられるんだよね」
大地が少しだけ微笑むと、風香もつられて笑う。
「そうだよ。ううん、そんなこと大地は考え無くったっていいんだよ。私は大地にはずっといてほしいんだから。それに……。それに、まだ、この砂山が何で動くのか分からないんだし。ねえ、大地? 大地はどう思うの?」
大地は、そうだね、と短い間だけ思考を巡らせて言葉をつなげる。
「そうだね。例えばこんな話はどうだろう」
大地はベッドの上に広げられた地図を指さし、それを風香は嬉しそうにのぞき込んだ。
「風香は言っていたよね。砂山の動きは迷走しているって」
「うん」
「そう、迷走しているんだ。あの砂山は迷っている。迷子なんだよ」
「??」
「迷うって事は、心があるって事だよ。心があるって事は、何らかの意志をもって動いているって事だよ」
「えっ? 心があるって? 砂山に? それじゃあ、まるで……」
「そう、あの砂山は生物なんだよ。少なくとも、生物としての意志を持っている」
はぁ、とため息のような声を風香は吐く。それに関わらず、大地は説明を続ける。
「心や意志っていうものは、全くと言っていいほど解明されていないんだ。現に僕にだって意志はある。人の思考という意味なら、脳の電気信号って事である程度研究は進められているみたいだけどね。脳内細胞の間を行き来する電気の流れが、人の思考を決定しているっていうんだ。でも、人の思考が電気信号っていう物理現象に縛られるなら、こんなに多様な世界を築き上げることなんて出来ないよ」
風香は相づちを打つことも出来ずに、大地の話を聞いていた。
「それはともかく、人の心が電気信号、つまり電気の流れに支配されているっていうのなら、それは別に、脳内細胞である必要は無いんだよ。最近はロボットに組み込まれている電子回路とか人工知能っていうものだってあるけど、それだけじゃない。電気を伝える粒子状のもの。そう、たとえば砂鉄なんてどうだろう」
「砂鉄?」
「そう、砂鉄。あの砂山が砂鉄で出来た山だったとしたら? 砂粒の一つ一つが一つの細胞。生物の根元を為す小さな小さな塊。それらが繋がって一つの意志を紡ぎ出す。砂粒の間を電子が通り抜け、生命としての意志を紡ぐ。人とは違う、全く別種の生命の形なんだよ」
「あの砂山が、生き物ねぇ。どうもピンとこないんだけど」
「だけど、それだったらあの砂山が迷走している、迷っている理由も説明できる。あの子はここじゃないところに行きたいんだ。自分が何処から来たか分からなくなって、もともといた場所に帰りたいんだ。帰るための道を、自分が居るべき場所をずっと探している」
ふうん、と風香は分かった風な、分からない風な返事を返す。それで、ある疑問が浮かび、大地に問いかける。
「それじゃあ、あの砂山は何処から来て、何処に帰りたいの?」
「それは簡単だよ」
そう大地は簡単に言い切る。
「風香があの子を追いかけていけばいいんだよ。たぶん、あの子は道を見つけた。もうすぐ、自分の望んでいた居場所に帰れるはずだよ」
迷走していた砂山は、その方向を僅かに左右しながらも、北へ北へと向かっていた。その先には砂浜が、そして海があった。海岸には決して少なくない数の人々が集まり、その様子を眺めていた。
風は今も北から吹き続けている。潮の香りを乗せた風の中で、風香は遠くから、大地が言っていた『あの子』を眺めていた。のろのろと、それでも確実に歩みを進めている。『あの子』が通った後には、僅かな砂が残されて、これまでの軌跡を描いている。それは本当に、何かの意志を持った生物に見えなくもなかった。そんな生き物を、風香は見たことがあった。
「まるでナメクジみたい……。そう、君は『すなナメクジ』なんだね。君の帰りたかった場所っていうのは、きっと……」
砂山は、やがて海へと入る。打ち寄せる波に洗われながら、少しずつ形を無くし。ゆっくりと海の中に沈んでいく。
その全てが沈むまで、そして沈んでからも、風香は青い海を眺めていた。
空には、久しぶりのさわやかな青空が広がっていた。
△△電気株式会社は、三月二十七日、M町に所有している火力発電所を緊急停止したと発表した。緊急停止した時刻は二十五日午前十時頃。原因は送電システムの電圧が急激に下がったためと発表された。このような現象が起こったのは同発電所で初めてのケースであり、原因は現在調査中である。
送電を中止した直後、同社は急遽県外の発電所より送電を開始し、停電などの被害は起きなかった。
原因不明の事故に市民は不安を募らせ、隣接するH市の自然保護団体は抗議文書の提出と火力発電所反対の集会を検討している。
その火力発電所の冷却装置の、海水を吸い上げるポンプの中に、ある種の魚の死骸が大量に詰まっていたことは、また別の物語である。