第25話『保健室』
「…う…」
薄く目を開くと、見慣れぬ天井が視界に入ってくる。
ここはどこだ…?
「拓哉くん!?」
訳がわからず、頭を巡らせていると、顔を覗き込んでくるようにして先輩が視界に入ってきた。
「先輩…?」
先輩は心配そうな表情をしている。
俺はゆっくりと身体を起こして、自分の状況を確認する。
どうやら、俺は保健室のベッドに寝かされているようだ。
先輩は今にも泣きそうな表情で俺を見つめている。
ああ…そうか。
そこで俺は、ようやく自分に起きた出来事を思い出してくる。
俺は胸が痛くなった俺は気絶したんだっけ。
「大丈夫…?」
「あ、ああ。大丈夫…だと思う」
まだ、頭が働いていないせいか、返事があやふやになってしまう。
痛みはすでに治まっていた。
あの痛みは一体何だったのだろう?
心当たりと言えば、先週から体調が悪かった事だ。
だけど、頭が痛むならともかく、胸が痛むとはおかしなものだ。
「良かった…」
「悪い。心配掛けちまったみたいだな」
「いいわよ。それより、本当に大丈夫なの?」
「ああ。平気だ」
今度は確実に答える。
今はもうどこも痛くない。
俺はベッドから下りて立ち上がる。
が、足に踏ん張りがきかず、バランスを崩してよろめいてしまう。
「うわっ!」
「きゃっ!」
運悪く、俺は先輩を巻き込むような形でベッドへ倒れ込んだ。
気が付くと、先輩が俺の腕の中にスッポリとおさまっていた。
押し倒してしまったのだ。
「……」
「……」
緊迫感から言葉を発する事が出来ない。
俺と先輩の視線が絡み合う。
目を逸らせない。
表情の変わらない先輩に対し、俺の額からは脂汗が止めどなく溢れてくる。
それはそうだろう、頭の中は完全にパニック状態に陥っているのだから…。
先輩は俺の恋人なんだから、こういう事もOKか?
いやいや、たとえそうだとしても、こんな風になし崩し的にはまずいだろう。
初めては、やっぱり海の見えるホテルかなんかで…。
しかし、高校生の身分で、そんな場所に二人で行くなんて如何なものか…。
パニックを起こした思考は完全に当初の目的を忘れ、どんどんとずれていく。
「拓哉くん…」
「は、はいっ!」
下にいる先輩に不意に名前を呼ばれて、俺はうわずった声で返事をする。
「重いわ。どいてちょうだい」
「…はい」
とても冷静に言われて、俺のテンションはまるで奈落へ転落するように一気に落ちていった。
上から下りると、先輩は埃を払うように制服を叩く。
「……」
「あ、あの…先輩…?」
黙ったままの先輩は無表情だが怒っているように見えた。
少し怯えながら、怖々と話し掛ける。
「何…?」
「その…ごめん」
「何、謝ってるのよ?」
身体を折り曲げるようにして頭を下げる俺に先輩は、キョトンとした表情を見せる。
「いや、あんな形で…その…いかがわしい事をしようと考えて…」
「ああ…そうだったの。私はただ重いだけだったんだけど…」
俺の必死の謝罪は、先輩にあっさりと流される。
先輩に全く他意はなかったようだ。
俺は何だか気が抜けてしまって、その場にへなへなと座り込んでしまう。
「そう…だったのか」
「大丈夫?」
クスクスと笑いながら、先輩はへたり込んでいる俺に手を差し延べてくれる。
「ああ」
俺はバツの悪い顔をしながら、先輩の手を助けに立ち上がった。
まったく…俺は何て馬鹿なんだ。
勘違いだったなんて…。
でも…その場の勢いで先輩と『する』よりはいい、そう感じていた。
やっぱり、お互いの気持ちが同じになった時が一番だろう。
「でも、少し嬉しいわね。こんな私をそんな風に思ってくれるなんて…。でも…」
「でも…?」
優しい笑顔でそこまで言った先輩の顔が不意に曇る。
先輩は何が言いたいのだろう?
俺が訝しげな表情で聞き返すと、先輩は今まで俺が寝ていたベッドに腰掛けると、横に座るように促した。
俺は促されるまま隣りに座る。
「拓哉くん、私…初めてじゃないのよ」
「……」
悲しい笑顔で呟く先輩に、俺は黙っていた。
先輩が初めてではない事は、容易に想像がついた。
先輩と初めて会った時の事を思い出せばいい。
先輩は付き合う事も、ホテルに行く事ですら、お茶でもするように言っていた。
あれは、自分の罪への罰のつもりだった。
恐らく、相手は都築だろう。
もしかしたら、都築だけではないかもしれない。
「期待してたら…ごめんね」
すまなそうな表情を見せた後、冗談でも言うように先輩は少し笑った。
だけど、その笑顔がとても悲しかった。
「なあ、先輩…」
「ん…?」
俺は先輩の肩にそっと手を置いた。
先輩と俺の視線が絡み合う。
「別に、初めてだとか関係ねぇよ。俺が先輩を好きな事には変わりねぇんだから…」
「…ありがとう」
俺は自分の気持ちを先輩に正直に伝えた。
そう、そんな事は俺達にとって、全く関係ないのだ。
関係あるのは、お互いを好きな気持ちだ。
先輩は俺の言葉にポロリと涙を零した。
それは嬉し涙…。
俺は瞳に溜った涙を指でそっと拭う。
先輩はそんな俺に、笑顔を見せた。
可愛かった…。
しばらく見つめあっていると、先輩がゆっくりと目を閉じた。
それはまるで自然な流れようで、俺は先輩の顔に近付いていく。
初めてのキス…。
「拓哉さん、大丈夫ですかー?」
ガラガラと保健室のドアが開かれて、緊張感の全くない間延びした口調で香澄さんが入ってきた。
「…ッ!」
俺は突然の乱入者に完全に固まってしまった。
香澄さん…何て間が悪いんだ。
「香澄?」
「あらあら。お取り込み中みたいですね。お邪魔のようですから、失礼します」
「別にいいわよ」
笑顔を絶やさずに、香澄さんは保健室のドアを閉め直そうとする。
先輩はそれを止める。
すでに気が削がれたようで、先程の可愛い笑顔は微塵も残っていなかった。
うぅ…せっかく良い雰囲気だったのにーーーっ!
俺は心の中で、涙ながらに叫んだ。




