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とある研究室にて

作者: 伏巻 透

 幼いころの思い出でも、学生時代の青春の思い出でも、まぁなんでもいいのだけれど、誰にだって美しいと思える思い出の一つくらいあるはずだ。統計的立証もなければ学術書に載っていたわけでもないが、この予想はおそらく、ワイドショーでよくやっているどうでも良い調査の結果と同じくらいには正確だと思う。町行く人に聞いているアレである。主婦のへそくり額や若者の浮気経験の円グラフを見せて、制作者は視聴者にどんな反応を期待しているのか、甚だ謎だ。しかしそれでも月に一回か二回、同じような調査をやっているので、熱烈的なファンがいるのかもしれない。ファンというものは、基本的にはどんなものにでも発生するのだ。世の中を探し回れば、パソコンの画面の上についている付箋のファンだっているかもしれない。本当に、世界とは可能性に満ちている。

 さて、話を戻そう。

 思い出の話である。

 自分の人生というやつを振り返るとき、人は必ずといっていいほど過去と現在のギャップから今の自分の状態を評価する。過去が美しほどに、現在は色褪せてつまらないものに見えるだろうし、その逆もまた然りだ。ときおり、美しかった過去の自分について他者に語ろうとする者がいるが、友人の数を減らしたくないと思うのならば控えるべきだろう。誰もそんな話は聞きたいとは思っていないし、間違いなく客観性が欠落しているからである。客観性が欠落している話はクリスマスパーティの会場みたいに過剰に装飾され、結果的に過去の自分が、百人の不良を無傷で倒した帰りに偶然遭遇したライオンを撃退し、最後はそのライオンに跨って家に帰った経験がある伝説の存在へと昇華してしまう可能性があるからだ。もしもこの話が滑稽で荒唐無稽なものだと感じたのならばよく覚えておいてほしい、美しかった過去の自分の話聞かされている誰かはそれと全く同じ感想を抱いてるかもしれないということを。美しい現在の自分を語るさいにも、ほとんど同じことが言える。なにが言いたいのかと言えばつまり、武勇伝を語るのはほどほどにということだ。用法容量を守らなければいけないのは、なにも薬だけではないのである。

 さぁ、物語に一切関係ない前置きはもういいだろう。いままでのは全て、映画上映前に流れるコマーシャルのようなものだ。映画本編には少しも関係ない、という事実がただそこに存在するのみである。

 S県S市にあるS大学。そこに数多にある研究室の一つに、宇津木教授が生息している。生息している、というと爬虫類とか珍獣のように動物を想像するかもしれないが、残念なことに宇津木教授は人間だ。そして正しくは、宇津木教授は午前九時から午後十時半まで研究室に生息していて、その他の時間は大学から三十分ほど場所にある自宅に生息している。現在の時刻は午前十一時十二分で、宇津木教授は自分の研究室で絶賛喫煙中だった。本当は大自然の中で澄んだ空気を吸いながら煙草を楽しみたい宇津木教授だが、そういった場所は大抵の場合は禁煙となっている。煙草だって食事と同じで、綺麗な空気の中で吸った方が美味しいのだ。しかしそんな場所で煙草を吸おうものなら、非喫煙者から袋叩きに合うこと必至である。恐ろしいことだなと、宇津木教授はわざとらしく身震いをする。

 宇津木教授が本日九十七本目のタバコを灰皿に捨て、九十八本目のタバコに火を点けようとしたとき、部屋の扉がノックされた。宇津木教授は部屋に入る際にはノックして下さいなんてこと一度も頼んだことはなかったが、どうしてかみんなノックをしてくる。扉ノックしないといけないキャンペーンでも実施しているのかと疑いたくなる。なにを隠そう、宇津木教授もそのキャンペーンを実施していた。部屋にいるのかいないのか、いま入っても不都合はないか、それを確かめるときに大変有用なキャンペーンだ。

「はーい、どうぞー」

 宇津木教授が返事をすると、ゆっくりと扉が開き、メガネをかけた女性が顔を出す。彼女は煙たそうに目を細め、なにもない空間を無意味に払った。煙を霧散させようとしているのだろう。なかなか可愛らしい努力だと、宇津木教授は微笑む。ちなみに眼鏡をかけた女性の名前は鳥羽といい、宇津木教授の助手である。大学内で変人と評価されている宇津木教授に対して、唯一超変人という正当な評価を下している優秀な人物だ。宇津木教授は自分が死んだら、墓標には鳥羽助手は優秀だったと掘るつもりだった。前にそれを彼女本人に話たところ、次の日に大学事務局の職員がセクハラ問題について聞きたいことがあると、部屋に押しかけてきて驚いた。その時は自慢の二枚舌でどうにか乗り越えた宇津木教授だったが、その程度であっさり引き返してしまう職員の仕事姿勢に僅かに危機感を覚えた。良かれと思いそのうまを書いた意見書を事務局に送った宇津木教授だったが、次の日に同じ職員に五時間耐久尋問をされ、尋問されながら人の親切を仇で返す世の中に対して危機感を覚えた。しかしそのうまを書いた意見書はどこに送ればいいのか見当がつかなったため、胸の中だけに留めておくことにした。自分の意見をベラベラと人に伝えないところが、自分の美点だと宇津木教授は信じて疑っていない。

「宇津木教授、ちょっとお話したいことがあるのですが」

 鳥羽助手はいつも通り真剣な顔をしながらそう言う。たまには真剣じゃない顔でもそすればいいのにと思いながら、宇津木教授は煙草に火を点ける。

「なに、どんな話? 犬の話以外なら相談にのれるよう努力するけど」

「犬?」

 鳥羽助手は眉を顰め、僅かに首を傾げる。

「どうして犬の話はダメなんですか?」

「僕は犬が嫌いだからだよ。子供の頃にチワワに追い回されてから、犬を見ると巴投げをしたくなってしまう」

「出来るんですか、巴投げ」

「えっ? そんなの出来るわけないだろう」

 そう言って、宇津木教授は大声で笑う。

「巴投げが出来たら、学者じゃなくてオリンピック選手を目指しているって話だ。そうだろう?」

「いえ、はぁ、どうでしょうね」

「まぁそんな話はどうでもいい。とりあえず、突っ立てないで座ったら?」

 宇津木教授が椅子を勧めると、鳥羽は失礼しますと言いながら椅子に腰かけた。

「それでお話しというのは、先生が先日の講義で実施した小テストについてです」

 お人形さんのように行儀よく椅子に座る鳥羽助手は、人差し指で自分のメガネを押し上げる。たったそれだけの動作が非常に知的に見え、宇津木教授は自分も眼鏡をかけてみようかなと考えた。自分は十分に知的だが、それが外部にイマイチ伝わっていないということが、宇津木教授の最近の悩みである。

「小テストがどうかした?」

 顔では無関心を装いながら、宇津木教授は心の中で待ってましたとウキウキしていた。なにせ先日実施した小テストは、宇津木教授が教鞭をとるようになってから作ったテストの中でも自信作と言えるほどの出来だったからだ。きっとなんらかの経路でそのテストについて耳にした鳥羽助手は、自分のもつ独創性に感激してそれを直接伝えたくてたまらなくなったのだろう。まだまだ初々しいところもあるではないかと、宇津木教授は思わずにやけそうになる。

「あのテストですが、講義を受講している全ての生徒から苦情が出ています。私も見ましたが、あれはあまりにもふざけ過ぎです」

 予想外の言葉に、宇津木教授は木綿だと思っていた豆腐が絹だったときと同じくらいの衝撃を受ける。宇津木教授はひとまず落ち着こうと、短くなった煙草を灰皿に捨て、新しいタバコに火を点ける。本日九十九本目の煙草だ。

「おいおい、そんな馬鹿な話があるか。僕は生徒からアンケートをとって、それを参考にしてあのテストを作ったんだぞ? 彼らの意思を大きく反映して作られたテストだ。感謝や絶賛があっても、非難があるなんてことは絶対にあるはずがない。ああもしかして、心理学部の木月先生が作ったのと勘違いしてるんじゃないの? 前に彼の作った問題をを見せてもらったけどね、僕は一問たりとも解けなかったよ。そもそも問題の意味がさっぱり理解できなかった。あれはイカンよ。絶対に学生たちから苦情がくる」

「宇津木教授、心理学を学んだことがあるんですか?」

「えっ? あるわけないだろう」

 そう言って、宇津木教授は大声で笑う。

「心理学を学んでいたら、心理学者になってるって話だ。そうだろう?」

「話を戻してよろしいですか?」

「嫌だと言っても、戻すんだろ?」

「もちろんです」

 鳥羽は力強く頷く。

「それで、宇津木教授はどうしてあんなテストを作ったんですか?」

「うん。僕みたいな真面目な講師はね、学生たちにとってどういう学習方法が効果的なのか、という命題にいつも頭を悩ませている。どうすれば学生は僕に口答えしないか、僕を尊敬し敬うか、嘘か本当か分からない無駄知識を僕に仕込まないか、そんなことを考えていると夜も眠れない。特に最後のやつだ。この前学生から教えてもらった知識を心理学部の木月先生に得意げに話したら、鼻で笑われた。信じられるかい? あの木月先生に笑われたんだよ? その日のうちに首を吊ろうかと思ったね」

「宇津木教授がどうして木月先生を毛嫌いしているか知りませんが、あの人は優秀ですし立派な方ですよ。学生からも人気があります」

 鳥羽助手の言葉を聞いて、宇津木教授は愕然とする。一度だって自分のことを褒めたことのない鳥羽助手が、まさか他学部の教授を称賛するとは思っていなかったからだ。いますぐにでも隕石落下の儀式を行いたくなるほど、宇津木教授の心は荒れ始めていた。

「はぁ、今日はもう誰とも話をしたくなくなった。悪いけど鳥羽くん、もう出て行ってくれないか。僕はいまからこの荒れに荒れた心を煙草によって癒やす。スモークヒーリングだ」

 新しい煙草を吸おうと箱を手に取るが、中身は空だった。煙草にまで裏切られるなんて、とうとう宇津木教授は生きる活力を失いつつあった。いますぐに地球内部でビックバンが起こらないだろうかと、宇津木教授は溜息を吐く。

「なんだかよく分かりませんが、テストの件はまた後でお話しましょう」

 そう言って、鳥羽助手は椅子から立ち上がる。

「それにしても、この部屋煙すぎます。窓を開けるか煙草を吸うのをやめた方がいいかと。おすすめは後者ですね。煙草は身体に悪いですから」

 身体に悪いというワードを聞いて、宇津木教授はあることを思い出し、慌てて自分のデスクの引き出しを開ける。そして彼は、中から一つの箱を取り出す。それはどこからどうみても煙草の箱で、中に入っているのも間違いなく煙草だった。

「見て見て鳥羽くん、煙草だ」

 子供のようにはしゃいだ声で言う宇津木教授に、鳥羽助手は明らかに軽蔑の視線を送っていた。いまの話を聞いていなかったのかと、その目は語っていた。

「いや、そんな目で見ないでくれ鳥羽くん、これは違うんだ」

 宇津木教授は弁解する。

「この煙草は僕が昨日開発した特別製の煙草でね。なんと身体に良いタバコなんだ。世の中では煙草は人の身体に悪いって言われているだろう? だから逆転の発想でね、人の身体に良い煙草を作ったんだ。これを吸うと腰痛肩こり冷え性に効くうえに、なんとビタミンとカルシウムも同時に取れてしまうという優れものだ。それに十回に一回くらいの割合で視力も上がる。どうだ、凄いだろう?」

「へぇそれは凄いですね」

 鳥羽助手は少しも興味が無さそうだった。

「それじゃあ、私はもう行きますから」

「ちょっと待ちなさい、どうだ鳥羽君、一本吸ってみないか、騙されたと思ってさ」

「騙されると分かっているのに、どうして吸わないといけないんですか?」

「いっいや騙してないよ。言葉が悪かった。そうだなえーっと、一本吸ってくれたら後で食事をごちそうしよう。鳥羽君は確か蟹が好きだったよね」

 鳥羽助手は少しの間をおいてから、宇津木教授の方に手を差し出した。彼女もようやくこの煙草の偉大さに気が付いてくれたようだと、宇津木教授は満足する。後はどうやって食事の話をうやむやにするかを考えるだけである。

 宇津木教授は箱の中から煙草を一本だけ取り出し、ライターと一緒に鳥羽助手に渡す。彼女は煙草を咥えて、慣れない手つきで火を点ける。そして数秒後、鳥羽助手は思い切り急き込んだ。吸いなれていないとそうなるだろうなと、宇津木教授はしみじみと考える。

「どう、肩こり腰痛冷え性は治った? 視力は?」

「治るわけないでしょう。全く、宇津木教授はこんな意味不明なことをやって」

 そこまで言いかけて、鳥羽助手は眼鏡の向こうの瞳を大きく瞬かせた。そして不思議そうな顔をしながら眼鏡を外し、部屋の中を見渡す。

「あれ、見える?」

「おお、良かったね。視力が回復したんだ。他のはどう?」

「ええ、その、なんだか肩はとても軽くなりました。えっ、本当に特別製の煙草だったんですか?」

「そうだよ。最初に言ったじゃないか。あっ、その眼鏡、いらないなら僕にくれない?」

「凄い! これ、世紀の大発明じゃないですか!」

「そうだろうね、それは間違いない。だけどこれは、世の中には出せない」

「は? どうしてですか?」

「だってこれ、煙草としては三流品以下だから」

 そう言って、宇津木教授は鳥羽助手が持っている火の点いた煙草を指さす。鳥羽助手が眉をひそめながら手を上げ煙草を見ると、煙草は日の光を浴びた吸血鬼みたいに真っ黒な灰になって崩れていった。

「あっあの、これはどういうことなのでしょう?」

「いやね、その煙草、人の身体にとって良い煙草であることには間違いないんだけどさ」

 そう言いながら、宇津木教授は灰皿の中から吸殻を拾い上げ火を点ける。

「どうやら煙草にとっては、人の身体が毒のようなんだ。唾液に触れると、約四十秒後に灰になり崩れる」

「はぁ、しかし少し吸っただけでこれだけ効果が出るのだから、問題ないのでは?」

「あのね、キミはなにを言ってるの?」

 宇津木教授は心底呆れたと言った感じで言う。

「たった四十秒で、喫煙が楽しめると思う?」

 最後まで読んでいただきありがとうございます。お手数ですが感想などがありましたらよろしくお願いします。

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[良い点] 前置きが長い割には何の苦もなくスラスラと読めました。やはり平さんの文章は非常に読みやすいなぁと再度実感した作品です。文章のセンスはもはや秀逸ですね。 宇津木教授の胡散臭さがいい味を出して…
[一言] うーん、相変わらず上質ですね。 ジャンルは確認してませんが、純文学ですね、愛煙家のための。 教授の独白と助手との会話だけでも そこはかとない胡散臭さを十二分に感じられます。 すごいふり幅…
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