第1章 第2部 ~お姫様の調教 3~
「ちょっと、お兄様。聞いておいでですか。」
「いてっ。」
姫の言葉と不意に頭にのしかかってきた重さに、アナキスは我に返った。
指5本分程の分厚さの『よく分かる!ジュラム国の古今東西』が、歴史の長さを重さに変えてずっしりと襲い掛かってきたのだ。
昨晩のシルマールとの取引が雲散していく。
「ぼーっとして。お兄様はそんな無防備なお方ではありませんわよ。」
造形物のように端正の取れた小顔を訝しげな表情に歪めて、姫が覗き込んできた。
息がかかるほどの近さに、思わずアナキスは顔を背け
「・・・うるせぇよ。チビガキが。」
と、言葉で押し返す。
姫は大げさに体をのけ反らせ、驚愕の表情を浮かべた。
「チ、チビガキですって!?そんなはしたない言葉をお使いになるなんて・・・。こ、心が穢れますわ。」
ひーっと、口を真一文字にしてうめき声をあげ、姫は両手で体をさすり出した。
忙しいやつだなと、分厚い本をバランス良く頭の上に乗せたまま、アナキスは目の前の少女を興味なさげに見やった。
そして、2階テラスから望む庭園へと視界をめぐらす。
庭師が手入れをし、メイドが花壇に水をやり、犬が駆け巡る。
これほど安心安全な場所などあろうかと思われるほど、時間がゆったりと流れ、明日の命の保証など案じている者などいない。
満足な笑顔が、色とりどりの花に負けないぐらい輝いていた。
それは、警護にあたっている王族近衛兵達も例外ではなかった。
ちらりと見渡しただけでも数十人の王族近衛兵達がリボルバー式回転銃と長剣を携えて警護にあたっているのだが、誰もが緊張感のない緩みきった表情を浮かべていた。
少なくともあくびはかみ殺しているものの、とろんとした目つきからは平和ぼけの匂いがこちらまで届いてきそうだ。
「・・・腐っている。」
もちろん、戦争などないに越したことがないが、略奪強奪裏切りのおよそ道徳心などみじん切りにされた貧困街で育ったアナキスにとっては、ここの空気は肌には合わない。
事実、綺麗すぎる生活に吐き気さえ感じてしまった程だ。
安全な世界で精神を堕落させ飼い犬のように思考を停止するのか、危険な世界で肉体を酷使させ獣のように生を求めるのか。
ぽつりと呟いた言葉にはっとし、アナキスは薄ら笑いを浮かべてしまった。
腐っている自分と対極にいる金持ち連中が腐っているなんて。
一体どちらが本物か分からないじゃないか。
「でしたら、腐らせないように致しましょう。」
頭の中を覗き込まれたかのような発言にアナキスは視線を姫に戻した。