第1章 第2部 お姫様の調教
「我がジュラム国は、北部のジュラ山脈から流れるクニート川を中心に、東西に分かれて経済が発展してきました。」
稟とした声が部屋中に響きわたる。
腹の底から発声された抑揚のあるそれは、聞く者達の意識を集中させる独特な声色をしていた。
聴衆に語りかけるには持って来いの武器になるだろう。
「東側は隣国との交易が盛んな商業地域です。シン国やラインハルト国、スーククーム自治区など、大小様々な国との友好関係に則った物資の貿易が行われています。」
穏やかな午後の陽気が、頭の中をとろけさせるほどの暖かさを連れて来る。
見渡す限り緑の芝が続き、その終わりには頑強な石塀が部外者の侵入を阻むようにそびえ立っていた。
いや、部外者どころか、中からも簡単には出られないような威圧的な壁だった。
「西側は北部からなだらかに連なるジュラ山脈から鉱物を採掘及び加工する工業地域です。その豊富な鉱物が隣国との貿易主目品となり、我がジュラム国の経済を支えております。」
庭園の中心には、バロック様式の大噴水が鎮座していた。
清流を上空へと吐き出す中央部には、女性を模した像が大がめを肩に担いでいるのが見える。
「北はジュラ山脈とクニート川が創り出す大自然、東は貿易が盛んな商業地域、西は商業を支える工業地域、そして南は・・・。」
肘をつき、じっと噴水を見つめ続けていると、頭の中がぼーっとし始めてきた。
心地の良い感覚に、瞼が磁石のようにくっつき始め――
「・・・って、お兄様、聞いておいでですか。」
――たのを、棘のある声で遮られた。
「ん、あ・・・聞いてるよ。東はクニート川が盛んな工業地域、だろ。ちゃんと聞いてるって、うるせぇな・・・。」
「ひとつも合ってないですから。ほら、肘をつかないで下さいまし。」
ぽんぽんとテーブルを叩く音で注意を促されたアナキスは舌打ちをしつつ、仕方なく姿勢を正した。
ジュラム国第一皇女と、その兄を演じるアナキスは屋敷2階のテラスにいた。
テーブルの中央に置かれた花瓶を挟んで、向かい合うようにして座っている。
傍から見ると、兄妹が仲良く読書をしている微笑ましい光景に見えただろうが――
「今、舌打ちをしましたね。」
「してねぇよ・・・うるせぇな。」
「今、うるさいと仰いましたね。」
「言ってねぇよ・・・チッ。」
「あっ、ホラ、舌打ちしたではありませんか。」
「してねぇって言ってんだろが。だから、いちいちうるせぇんだよ。」
「あっ、またうるさいと仰ったでは―」
「チッ!もう、うるせぇんだって言ってんだろうが!舌打ちもしたよ!3回したよ!これで満足か!」
踏ん反り返るように四肢を投げ出し天を仰ぐアナキスにとっては、微笑ましいなどという言葉は反吐が出ると言いたくて仕方がないらしい。
眉間に皺を寄せて大声を上げたその拍子に、テラスの手すりにいた小鳥が驚いたように飛び去る。
「何を威張っていらっしゃるのですか。・・・少しはやる気を出して下さいな。あなたはジュラム国皇子、つまり時期国王として扱われるのですよ。自覚と責任を持って、その名に恥じぬよう行動をしていただきたいですわ。」
そう言うと姫は、白磁のようにつややかな頬をぷくりと膨らませた。
薄桃色のドレスに、真っ白いカーディガンを羽織ったその姿からは、民が女神の子と奉るのも無理はないほど可愛らしさが漂い、金髪が太陽の光に照り映えて、艶やかなプリズムを生み出す神々しさが放たれていた。
こんな至近距離で会話できるものなら城下町の老若男女達卒倒しそうなほどであるが、アナキスにとっては小娘であることには違いなく、不躾な言葉――そもそも敬語など一度も使ったことがなかったが――で言い返した。
「皇子だが坊主だが知らねぇが、俺はただの影武者だろうが。しかも記憶を失った皇子として扱われるんだろ。勉強なんかしなくても『知りませーん』『分かりませーん』で、全部押し通せば済む話じゃねぇのか、何聞かれてもよ。」
背伸びから一転、テーブルに突っ伏したアナキスは頭に詰め込まれようとしていたジュラム国の情報を追い出すように 、ガシガシと銀髪を掻きむしった。
「それはいけません。確かに、シルマール先生が仰ったようにいきなり格式高い作法や皇子としての知識を身につけようとしても、お猿さんに言葉を教える如く不可能に近いです。」
誰が猿だ。
アナキスは小さく唸った。
「ですが、先ほども申し上げましたが、あなたはこの国の皇子なのです。影武者とは言え、たった一言間違った行動言動をするだけで戦争だって引き起こすことが出来るのです。ですから、少しずつでよろしいので、皇族の立ち振る舞いを覚えていただかなければなりません。」
往年の家庭教師のように、姫は朗々と語った。
テーブルに置かれた分厚い本をバタンと閉じ、紅茶を優雅にすする。
「人の行動は意識から生まれます。そのことを重々承知して、内面を磨いて下さい。」
ふんと、鼻で返事したアナキスはそっぽを向いた。
「・・・それに、生半可な気持ちでお兄様を演じられては・・・私の気持ちがおさまりません。」
「・・・ああ、何だって?」
「お兄様は凛々しくて、格好よくて、とても頼りになるお方です。それを踏まえ、もっと毅然とした態度でお兄様を演じていただけなければ困ります。」
「はぁ・・・何赤くなってんだよお前。気持ち悪ぃな。」
「気持ち悪いとは何ですか。私にとってお兄様はかけがえの無い存在なのです。あなたには分かりませんわ。」
そんなもん分かりたくもねぇよ。
兄という単語に過剰な反応を見せる姫にアナキスは隙間から空気が漏れるような力の無いため息を漏らした。
つられる様に姫もハァーと嘆息し、金色の長い髪を左右に振る。
「・・・まったく、しっかりして下さいまし。あなたが抱えている事の重大さをまだ分かっていないようですわね。いいですか、お兄様がこの国から失踪されてから2年間、政局は不安定になりました。次期国王の座をめぐった不毛な足の引っ張り合い、民が募らせる不信感、そして隣国との外交関係の悪化・・・。記憶喪失という病気を持ってすればある程度失態を犯したとしても取り返しがつくかもしれませんが、粗相のないよう最低限の知識は備えておかなければなりません。あなたに課せられた重要な役割を今一度再認識し、それを踏まえて日々の勉強は欠かさずに行い―――」
目を閉じ、まるで覚えの悪い生徒にお説教をするかのうように人差し指を立てながらしゃべり続けた。
・・・こいつ、兄のことになると話が止まんねぇな。
姫にばれないようにあくびをかみ殺しつつ、くどくどと始まったお説教を聞き流しながら、昨日のシルマールの言葉を思い出していた。