第3章 ~ヴィクトルとお姫様と影武者と 2~
一瞬の出来事だった。
「―っ!」
栗色の両眼が恐怖で見開らき、言葉にならない叫び声が図書室にこだまする。
もちろん、5メートル程の高さから落ちたとしても、命に関わる怪我には繋がらないかもしれない。
だが、華奢な姫の体ではガラス細工を落として壊すように、簡単に骨が折れてしまうだろう。
ましてや、頭から落ちれば大事故にも陥りかねない。
「お、おにいさっ―!!」
ようやく絞り出した声は甲高く、切実な助けを求めていた。
もし政務に支障をきたすような怪我を負えば、肉体的に受ける苦痛だけでなく精神的に受ける苦痛の方が大きい。
『ジュラム国のお姫様が図書室で本を取ろうとして大怪我をした』
こんな間抜けな知らせが国内外に轟けば、視察や懇親パーティーなど外出した際に笑い者にされてしまう。
薄桃色のドレスをなびかせ暴れるブロンドの髪もそのままに、顔を赤らめた姫があられもなく床に叩きつけられる光景を誰もが思い浮かべただろう。
「・・・何してんだよ、チビガキが。」
―アナキスの冷静な言葉がかけられなければ。
いつの間に5メートルの高さまで梯子を上りきったのだろうか、アナキスは姫の腰に左手を回して抱きかかえていた。
さらに、軽業師のように落としかけていた本を左足の上に乗せている。
「よっ、と。」
軽く息を吐きながらアナキスは姫を抱き起した。
小さな梯子に二人が寄り添うように立ち並ぶ。
万事休す、と襲い掛かってくる苦痛に身構えて顔を歪ませていたであろう姫は、何が起こったのか分からないといった様子で眼を丸くする。
先ほどまで椅子に座っていたアナキスが一瞬にして梯子を登り、落ちる姫を抱きかかえた。
そんな常人離れした素早さなど、宝玉使いを持ってしても可能であるかどうかは怪しいのに、それを生身の人間が軽々しく行うなんて。
まだ状況がうまくつかめていない姫は荒い呼吸を整えるようにして胸に両手を当てる。
「ガキがはしゃいでんじゃねぇよ。」
梯子の上で姫を抱き寄せたままアナキスは叱咤した。
「あっ・・・・・・・・・す、すいません。」
小さく吐き出された声は消え入るように小さい。
息のかかる距離で2人は互いに数秒見つめつつ、申し合わせたように顔を背けた。
ほのかに紅潮した姫の頬を見下ろしながら、アナキスは少し体を離そうとするが狭い梯子の上では叶わない。
もじもじと体をよじる姫を視界の端に捉えつつ
「ま、まぁ・・・重いものを盗み出す時は無駄な部分をそぎ落とすか複数人でこなすか、だな。」
アナキスは盗賊のイロハを口にした。
「・・・はい。」
律儀にも小さくうなずいた姫からは、鼻腔をくすぐる埃に混じって甘い香りが漂ってくる。
両手を胸の前で祈るようにして合わせ、姫はアナキスの服を掴んでいた。
その両手は小刻みに震えていたが、頭から落ちる経験をわずかでも味わったのだから無理もない。
アナキスは姫を支えていた左手を離し、器用に左足を持ち上げて足の甲に乗せていた本を手にした。
「後は自分で降りな。」
姫が一体何の本を手にしたかったのか気にはなったが、アナキスは姫に一言声をかけ、まずは自分から先に梯子を降りようとする。
「わっ、ちょ、ちょっと・・・待ってください!!私が先に降りますっ!!」
途端に姫は狭い足場で暴れ始めたのだ。
梯子が不安定に大きく左右に揺れ始める。
「な、なんだよ!!揺らすなって!そんなのどっちだっていいだ―」
数段降りたところでアナキスは揺れの元凶の姫を見上げた。
いや、見上げてしまった。
右へ左へ狭い足場を小刻みに動きながら下段の足場を確認しようとしていた姫の細い足首が見え、絹のように滑らかな肌の白い太腿が見え、そして―
「・・・・・あっ」
肌よりも真っ白いショーツが見えた。
それも手を伸ばせばいろいろと触れられるであろう距離に、薄桃色のドレスの中がすべて丸見えになっていたのだ。