第3章 ~ヴィクトルとお姫様と影武者と~
「うがぁぁぁぁあああーーーー!!もうやってられん!!」
陽光暖かな午後の刻、アナキスの悲痛な叫び声が屋敷中にこだまし、
「こらっ。何弱音吐いてるのよ。まだ始まって10分も経っていないじゃない。まだまだお勉強はこれからですからね。」
そして、姫の少しうわずった叱咤の言葉が後を追いかける。
2人がいるのは、ジュラム国客室用屋敷に備えられた小さな図書室である。
客室用屋敷は2階建ての洋館で、図書室は正面玄関に向かって一番右端に位置している。
1階と2階を突き破った上下に細長い吹き抜け構造となっており、壁一面天井高くまでの書棚が伸びたその部屋は、まさに「知の空間」だ。
「・・・なんだか前回の時よりも確実に本の量が増えてないか。」
「そうですか。前回同様40冊程を厳選して机に並べておりますが。」
「いや、まぁ、並べられた本もそうだが・・・なんというか視界に入る本の量が、馬鹿にはならんぞ・・・。気が狂いそうだ。」
部屋の中央に設けられた机に突っ伏したアナキスは、周囲をぐるりと取り囲む本棚を見回しながら呟いた。
申し訳程度に備え付けられた小さな窓からは、十分に外の風景を眺めることが出来ない。
アナキスにとっては「知の空間」というよりは「知の牢獄」と言えるであろう、あまりに多い本の威圧に顔を歪ませた。
お勉強に最適な場所があると、朝早くから連れて来られたものの、勉強に耐性などないアナキスにとっては非効率的にも程がある。
「もう一度確認なんだが、俺の設定は記憶喪失の皇子様の影武者なんだよな・・・。」
「はい、そうですよ。ですけど、外見だけでなく、内面からもお兄様を演じられるよう、磨いていきましょう。」
勉強を嫌がる子供をなだめすかすように、姫はアナキスの目の前に置かれた本のページを繰る。
「・・・・・・だがよ、さすがにこれはいらないんじゃないか。」
姫の言葉を聞き流しながらアナキスは赤ん坊が描かれた「子育て」の分厚い本を取り上げ、言った。
「・・・ま、まぁ・・・・そうですわね。この本からは学ぶことはまだなさそうですわね。」
受け取った姫が表と裏を見返しながら、どもるように答える。
知識を増やそうとする姫の強要は相変わらずだが、どこかしら姫の態度が優しくなったようにアナキスは感じていた。
「お兄様をただ演じていればよい」など、アナキスの人格を不定するような発言は少なくなり、こちらの言い分にも少しは耳を傾けてくれるような柔和な態度になってきているのだ。
昨日の夜、姫の機嫌を直そうと部屋を訪れたのだが、なぜか失踪した兄を擁護するという、奇妙な形で終わってしまった。
アナキス自身、自分でもよく分からなかったのだ。
いつの間にか頭が働き、口が動き、目が姫の顔色を窺っていた、それ以外は。
「いや、分かったこともある。」
目の前の少女が兄のことを2年間もずっと心配し続けていたということだ。
誰よりも深く、誰よりも多く。
―そして、兄と比較した己の存在の小ささにあきらめの感情を抱いていることも。
「分かったことがあるんですか、この本から。」
ひらひらと、確認をするように姫が手に持った「子育て」の本を振る。
思わず呟いた言葉に姫が言葉を返す。
「・・・なんでもねぇよ。」
肘をついた手のひらに顔をのせ、アナキスはぶっきらぼうに言った。
椅子から立ち上がり、姫は本棚に備え付けられた梯子に手をかけ、登り始めた。
腰元がきゅっと締め付けられ、下半身がゆったりとしたドレスが一段上がる度にふわりふわりと揺れる。
あんな登り方じゃすぐ見つかってしまうな。
心中で呟いたアナキスは、誇りを被った本棚にドレスがこすれるのを厭わず、一段一段ゆっくりとだが確実に登っていく姫を眺めた。
「これは戻しておきましょう。」
膝下までの長いドレスであったが、3メートルほど登った姫から顔を背けた。
「もっと、お兄様が興味の沸くテーマが、いいですわね。」
1人ごちる姫は口元に人差し指を当てて数十秒思案し、そして「そうだ」と言わんばかりの明るい表情を浮かべた。
無邪気で無防備な姫の横顔をちらりと見て、アナキスはまたそっぽを向く。
―くだらない。
早いところ、隙を見てこの屋敷から抜け出し、シオンを見つけ出さなければならない。
こんなところでガキのわがままにつき合っている暇はないのだ。
とりあえずは、ジュラム国本城の地下監獄に行き、しらみつぶしに探っていくか。
ぼんやりと、シオン奪還に向けて頭の中で算段をつけていたが、何かをひっかくような音に思考が乱された。
音の方を見やると梯子から半身乗り出した姫が、とある一冊に手をかけようと必死になっていた。
結局は5メートル程の高さまで登った姫が右手で梯子手すりを掴み、右足で踏ん張りながら、少しづつ目的の本を抜き出そうと背表紙をひっかいていたのだ。
「おい、お前あぶねぇぞ。何してんだよ。」
思わずアナキスは姫を見上げて声をかけた。
細くて白い太股が視界に入る。
「だ、大丈夫です・・・わ。あと・・・もう、少し・・・で、取れますから・・・。」
プルプルと細い腕を震わせながら、姫は目的の本をひっかき続けた。
目の前の光景にどうしていいか分からず、アナキスはただぼんやりと見上げることしか出来なかった。
―そして
「ほら!!取れまし―」
目的の本を手に取った瞬間、その本の重さに体がひっぱられ、姫は足をすべらせて梯子から落ちた。
ブロンズの髪が一気に逆立ち、5メートルの高さから盛大に少女が落ちてきたのだ。