第2章 ~アナキスは考える 4~
月の光がよく映えるのは光源が屋敷の周りに配置されていないからで、端から端まで一直線の長い廊下は薄暗い状態だ。
およそ5メートル間隔で吊りランプが配置されているが、ぼんやりと辺りを照らすだけで、光が行き渡らないところが多いのである。
メイドが手提げ式ランプで誘導する来客時以外は、日が落ちると部屋から部屋への移動がめっきりと減り、単身で行動することもある姫でも夜になると自分の部屋から出ることはなく、書物を読んで過ごすのが常だ。
だからと言うべきか、ふいにドアを叩く音が聞こえた時は、心臓が跳ね上がり、警戒心がむくむくと膨れ上がる。
姫は読みかけていた本をテーブルに置き、ゆっくりとドアに近づいていく。
ちょうど日が変わった時間帯に、一体誰だろうか。
シルマール先生がジュラム本城から帰ってきたのだろうか。
シルマール先生という単語を思い出し、姫は期待を込めてドアに手を掛けようとしたが、ドア越しに呼び掛けてくる声を聞いてピクリと動きが止まった。
姫の心を表すように腰まで流れる金髪が軽く揺れる。
「おい、開けろよ。もう寝たのか。ガキは早いな。」
「・・・・・。」
深夜であるにも関わらず、容赦なく扉を叩きつけるドア向こうの青年の顔を思い浮かべ、姫は溜息をついた。
たっぷり数十秒考えてから―
「・・・・誰ですか・・・・・こんな夜遅くに・・・・・・。」
「おっ。起きてんなら早く答えろよな。俺だよ、俺。」
「・・・・・・・・・・・・だから、誰ですか・・・。」
かろうじて聞こえるぐらいの声量で姫はさらに問いかける。
「俺だよ、アナキスだ。」
「この屋敷にそのような名前の人間はおりません。お引き取り下さい。」
「馬鹿言ってんじゃねぇよ。この国の皇子だぞ。」
アナキスは指一本分半開きになった扉に手を挟み込み、侵入を試みようとする。
「・・・・・・お、お兄様は2年前に出て行かれたきり・・・・・か、帰ってきておりません。ゆえに、ここにはお兄様はおりません。」
負けまいとドアを閉めようと力を込める姫。
だが、その引っ張り合いも少しずつドアの隙間が大きくなり、顔が半分程度出せるぐらいにまで広がった。
「ちょ、ちょっと、待てよ。お前がそれを言うなよな。・・・・・やっぱり午前中のこと怒ってるんだろ。」
「は・・・早く立ち去って下さい。あなたの顔など・・・・・見たくありませんっ。」
ドアを閉めようと全身で引くものの、やはり男の力には敵わないのだろう。
力を込めている姫のしかめっ面がさらによく見えてくる。
「見たくありませんって・・・この顔はお前の兄貴だっつーの。」
「・・・・。」
「メイドが後ろに控えてるんだ。怪しまれるぞ、せっかく記憶喪失の兄が妹に会いに来たっていうのに。」
「・・・・。」
「・・・・ちょっとでいいいから入れてくれ。話があるんだ。」
「・・・・。」
その言葉を聞き、栗色の両目をじとっと胡散臭い目つきに変えて、アナキスを見つめ返した。
そして、ジュラム国皇女は、
「・・・・どうぞ、お入りになって下さいな、お兄様。」
渋々と言った口調でドアを開けてアナキスを部屋に入れた。
「ワリィな。」
1人がやっと入れるほどの隙間ができると、アナキスはしゅるっと蛇のように部屋へと入った。
その、軟体動物のように体をひねりながら滑り込んでくる下品な動きに、姫は嫌なものを見る目つきで片目を細める。
そして、廊下のメイドに一言かけようとドアから顔を出したが―
「ちょっと、メイドなどどこにもいないではありませんか。」
発せられた言葉はただの非難の言葉だった。
等間隔で灯されたランプの光は、ぼんやりと闇を照らしているだけであった。
人の気配など微塵もない、恐ろしいほど静かな廊下。
「そんなこと言ったっけか。まぁ、いいやそんなこと。」
この暗い一本道の長廊下を歩く時まだ少し背筋がぞくっと恐い感覚を覚える姫であるが、この男は一番東にあてがわれた自分の部屋からちょうど真ん中の部屋まですたすたと歩いてきたのだろうか。
闇が自分の庭だと言わんばかりのひょうひょうとした表情のまま、アナキス姫のベッドに堂々と腰を下ろしては足を組む。
完全なくつろぎモードに入っている。
「なにぼーっと突っ立ってんだよ。まぁ座れや。」
「・・・・それはあなたの台詞ではありません。」
「いいんだよ、そんなことは。部屋割に兄も妹も関係ないだろ。」
相変わらず口の悪いアナキスは、指で近くの椅子を指さして促した。
「都合のいい時だけお兄様を気取って。・・・・・・何しに来たのですか、こんな夜遅くに。」
姫は勧められた椅子のひとつ隣に座りながら、視線は合わせずに低い声でつぶやいた。
「まぁ、なんだ、その・・・・・・あれだ、あれ・・・・。」
さっきまでの明け透けな物言いから一転して、アナキスはぶっきらぼうに答える。
「午前中のことだけどな・・・。互いに反省すべき点はあったと思うんだよな。」