第1章 ~アナキスと姫様の外遊 2~
あの女狐のニヒルな笑みを思い出すだけで、この外遊自体何かの策略のひとつに違いないのではないかと、疑念だけが頭をよぎる。
一国の皇子が他国に訪問するのだ。友達の家に遊びに行くのとはわけが違う。
まぁ、物心がついた時から盗賊団員以外で友達と呼べる輩が一人もいなかったせいか、その違いが良く分からないが・・・。
自嘲気味に鼻で笑い、アナキスはひじをついて顎を乗せ、小窓から外の風景を眺めた。
見渡す限りの草原に、時々目に留まるのは羊飼いの集団、絵に描いたようなのどかな風景だった。
そもそも、アナキスはジュラム国から一歩も外に出たことがなかった。
盗賊稼業が板につくまでは、ジュラム国南部の貧民街に運ばれるゴミ溜めの中から食べ残しや衣類をかっさらう毎日で、出来ることと言えば稀にお目にかかる民族衣装、異国の書物などから自分達とは異なる国に住む人々を妄想することぐらいだった。
どんな顔をして、どんな服装をして、どんな物を食べて、どんな暮らしをしているのだろう。子供心掻き立てられた妄想の世界がもうすぐ開かれる。
だからこそ、目新しいものに触れる好奇心と若干の不安が程よい緊張を生み出していた。
ぼんやりと外を眺めているようで、その実、アナキスの目玉は本人の意思とは関係無しにギョロギョロと周囲を観察していた。
また、他国の訪問は、アナキスにとって好都合だった。
(ジュラム国の南北格差を他国に周知させ、金持ち連中ばかりが得をしない国作りを外からの圧力で達成してやる!)
一身に浴びるスポットライト、オーディエンスからは待ってましたと言わんばかりの拍手喝采、その中心にいるのはジュラム国南部代表の盗賊アナキス。
客席最前列には、シオンにアン、団長がいて、その隣にはチビガキやシルマール、ケフィー達が並んで手を叩いている。
ありがとうみんな、ありがとう。俺これからも頑張るから。
・・・なんて、一体誰が期待しているだろうか。
どこからともなく、小鳥が窓枠に宿りせわしなく左右に首を傾げた。
ただ綺麗ごとをまくし立てる偽善者よろしく、アナキスは日々を一人前の影武者に叩き上げられる「お勉強」時間に費やしているばかりだった。
盗賊団から離れ、一国の皇子の影武者として生きる道を選択したことが本当に正しかったのか。
「皇子様、ほら見て下さいまし。羽の色が美しい小鳥です。」
このチビガキのお守りを選んだのが本当に正しかったのか。
「我が国では、見られない種類ですわ。」
ふんわりとそれを愛でる姫は、小さな口を大きく開き感嘆の声を漏らす。
――皇子の妹にして、ジュラム国の第一皇女。
こいつの考え方を変えることが出来れば、貧しい人達へ救いの手を指しのべることが出来るかもしれない。
むしろ、こいつを洗脳して自分の思うようにコントロールできれば、それこそジュラム国は俺の掌で転がすことが出来るかもしれない。
「・・・・・・・。」
アナキスは、手に乗せた小鳥を幸せそうに見つめる姫の顔を数秒眺めて――
「くだらねぇな・・・。」
小さく1人ごちた。
こんなチビガキに頼らなければいけないなんて、馬鹿馬鹿しい。
こいつは自分の兄貴のことしか頭にない偏愛狂者だ。金持ち貴族なんて頭のネジが一本か二本外れているようなもので、正常な人間などいやしない。
いいようにこの影武者の地位を使って、あとは好きにやって――
「貴様。姫様に向かってその口の利き方はなんだ。」
小窓からぬっと姿を現したのは、元皇族直属近衛兵副団長のヴィクトルだった。
「出た・・・。さらなる偏愛狂者。」
貴族の証であるプラチナブロンドの髪をなびかせながら、冷徹な言葉が馬車の中の温度を零度まで一気に下げる。
馬上のヴィクトルにとっては小窓を覗き込むのにちょうどよい高さで、そのぎらついた監視の目と耳は、どうやら周囲の警護に光らせていただけではなく、アナキスのことも監視対象に含まれていたようだ。
ひとりごちたかすかなため息すら聞き逃さないつもりだろう。
眉間に皺を寄せ睨みを利かす青金石の両眼からは、飛ぶ鳥を射すくめるほどの威圧を感じる。
掌に乗せて愛でていた姫の小鳥がチチチと怯えるように飛び去った。
「てめぇには関係ねぇだろうが、副総司令官さんよ。」
アナキスはぶっきらぼうに答えた。
「・・・元、だ。」
「あれ?元だっけ?そうだっけ?知らなかったぜ。今は何してんの?トイレ掃除?」
「口を慎め、貧乏人。今すぐ引きずり下ろすぞ。」
「貧乏人?それはジュラム国皇子に向かっての言葉か?侮辱だぞてめぇ。」
「貴様が皇子を語るな。欠陥品が。」
「シルマールといい、お前といい、よくもまぁ公然とそんなこと言えたもんだな、え?誰かに聞かれていないかとか思わないわけ?心配じゃないの?もっと慎重になろうぜ。」
「皇子の教育とあらば引きずり下ろすことも厭わん。ましてや、姫様への侮辱ほど看過出来ぬものはあるまい。」
「チビガキの悪口じゃねーよ。」
「今の言葉は侮辱に値する。」
「かー!うっとおしいな。引きずり下ろせるもんならやってみろよ。他の護衛兵達が見ている前でこの皇子様に手を出すなんてできっこな――」
「あー!!これはいけない!!毒を持った虫が車中に入ったようです!!この私めが取り除いて差し上げましょう!」
アナキスの言葉が終わる間もなく、ヴィクトルのまっすぐ伸びた右手が飛び込んできた。
それは、アナキスの顎を標的にした、固く握りしめた正拳だった。
「っ!!あっぶねぇな!!馬鹿野郎!」
すんでのところでそれを避け、シュッと小気味の良い風切音がアナキスの耳朶を打つ。
「ちょっとヴィクトル。何をするのですか。」
「姫様は動かないで下さいまし。今すぐこのヴィクトルがこの毒虫を排除させていただきます故。――この世からっ!!」
馬をキャビンぎりぎりまで近づけ、ヴィクトルは精一杯腕を伸ばして今度はアナキスの胸ぐらを掴む。
「馬鹿ッ!暴れんなッ!」
そのままぐいっと引っ張り上げられた反動で、アナキスはおでこを窓枠に思い切りぶつけた。
「離せよッ!トイレ掃除!汚ねぇ手で触るな!」
「トイレ掃除ではない!今は一個師団の兵長だ!」
「大した出世じゃねぇか!トイレ掃除の番長なんてな!」
「貴様ッ!減らず口がッ!」
掴まれた胸ぐらを振りほどこうともがくアナキス。
主の豹変に驚いたのか、ヴィクトルの馬が体を馬車にぶつけながら嘶く。
それ併せて車体が左右に大きく揺れ始める。
「ちょっと二人とも、止めなさい。ケフィー!ちょっと――」
制裁に介入しようと立ち上がった姫だったが、華奢な四肢で踏ん張りが利かず、あっけなく足元を取られた。
「姫様っ!」
「チビガキッ!」
狭い車中の中、つんのめるように倒れる姫に向かって双方が手を伸ばした。
だが、差し伸べられた双方の手にも姫は触れることなく、そのまま前方に座っていたアナキスの胸の中にすとんと収まった。
「――――っ!!!」
ヴィクトルの言葉にならない悲鳴が、呻きと共に響き渡る。
両手を胸の前で揃えた格好の姫を、思わずぎゅっと抱きかかえるようにして背中に手を回したアナキス。まるで愛し合う二人がそうするように。
顔と顔の距離はわずか数センチ。呼吸すら聞こえる二人だけの空間が車中に出来上がった。
「・・・あっ。」
「・・・お、おう。」
一瞬の出来事に思わず時が止まったようにしてじっと見つめ合う二人。
姫の絹のような肌、不安げにハの字に曲がった眉、水分をたっぷりと含んだ潤んだ唇、少し紅潮した頬、脳がとろけそうな甘い香り。
耳のすぐ近くで聞こえる脈打つ鼓動は、一体どちらのものか分からない。
だが、分かるのは、均整のとれた表情にすっかり魅入ってしまっていたことだ。
――たった数秒の出来事がとても長く感じる。
このままずっと続くかと思われた空間を遮ったのは――
「もうすぐ、ガロン公国に着きますよ。・・・って、ナニをしていらっしゃるのですか、お二人とも。」
車中へ繋がる小窓から覗き込んできた御者役のケフィーだった。
「あれ、何故ヴィクトル様がここに?今週分の王宮のトイレ掃除どうなさったのですか?」