第1章 ~アナキスと姫様の外遊~
「お兄様、ご覧になって下さいな。小川がかすかに見えますわ。綺麗ですね。」
「そうだな。」
「一体、どんなお魚がいるのでしょうか。」
「そうだな。」
「ソウダナというお魚がいるのですか?」
「いや、知らねぇよ。」
「シラネェヨというお魚がいるのですか?」
「いや、適当に相槌打っただけだから。いちいち拾うなって。」
「テキトウニアイヅチというお魚ですか?イチイチヒロウナというお魚ですか?」
「・・・。」
にこにこ顔の姫が、まっすぐこちらを見ている。
金髪の小柄な少女――ジュラム国第一皇女が、揺られる馬車に合わせて30度ほど首を横に傾げた。
鎖骨部分でゆるくウェーブのかかった金髪は無重力にふわりとたゆたい、水晶玉のように吸い込まれそうなほど透き通った両目は山なり。優しい破顔を演出していた。
知りうる限りの美辞麗句を並べたところで、目の前の少女の可憐さを表現することは難しい。一輪の花を愛でるが如く、老若男女分け隔てなく魅了されるに違いない。
そんな女性を眼前にし、ジュラム国皇子の影武者アナキスは――
「・・・いや、その、悪かったよ。」
ひねくれたようにむすっと顔を歪め、ただただ謝るしかなかった。
「だから、その気持ち悪い作り笑いはやめろ。」
「なっ!そんな言い方はないでしょう!しっかりと会話をしましょうと促しているのではないですか。適当に相槌なんてしないで下さい。」
「だから、悪かったって言ってるだろ。お姫様。」
「もっと一国の皇子としての自覚を持って下さい。そんなことでは、これからが心配で――って、あくびをしない!」
馬車の中、アナキスは姫と向かい合うようにして座っていた。
ガタガタと一定の速度が与える心地よいリズムに、アナキスは思わず盛大なあくびを漏らしてしまう。
右横に備え付けられた小窓から見えるのは、寝転がって昼寝でもしたらさぞ気持ちよさげな草原が、辺り一面に広がっていた。
アナキスはのどかな風景をぼんやりと眺めながら、姫のお説教を子守唄代わりにして、数日前のシルマールの言葉を思い出していた。
★★
突然、シルマールが部屋にやってきたのは、姫との午後の『お勉強』が始まる前のことだった。
「外遊のご準備は順調ですか、皇子様。」
挨拶や世間話などの前置きも無しに、ジュラム国枢機卿はそう言った。
「ガイユウ?なんだよそれ。・・・ええと、俺のなけなしの知識から察するに、『旅行にでも行って遊んでこい』ってことか?」
のけ反るようにして椅子の背もたれを倒し、アナキスは半ば挑発するように言い返した。
「あらあら。旅行だなんてとんでもございませんわ。これはれっきとした公務でございます。」
シルマールは部屋中央にでんと置かれたふかふかのソファに腰かけ、体半分をうずめたまま妖艶な笑みを浮かべる。
「ジュラム国の皇子がご健勝だということを、他国にお知らせしないと。幸いにも、皇子訪問を拒否する国々はなく、皆友好的でした。」
「友好的でしたって、おい。もう話はつけてある、みたいな言い方をするな。」
「あらあら、『みたいな』ではなく、すべて話はついております故。」
当然ではございませんか、とクスクスと含み笑いをする。
豊満な胸が小刻みに揺れ、頭がとろけそうなほど甘い香りが部屋中を満たす。
「加えて、訪問する国の順番はもう決めております。そして出発は明日ですよ。」
「えっ?あ、明日!?」
アナキスは飛びつくようにして体を起こした。
「姫様からお話を聞いておられないのですか?・・・・・・いえ、どうせあなたが聞いていなかっただけでしょう。」
「そんな話、してたような、してなかったような・・・。」
腕を組み、思案してみても、心当たりは無かった。
「・・・あーでも、影武者にそんな大事なことさせていいのか。発言とか、行動とか、めちゃくちゃ気を付けないといけねぇんだろ。めんどくさそうだし、俺は不参加で――」
「何を仰いますか皇子様。」
ひらひらと右手を振って応えようとしたアナキスだったが、音も無く近づいてきたシルマールは机に両手をバンと打ち付けて、声を荒げた。
「先ほども申しましたが、これも影武者としての立派なお仕事でございます。他国との交友関係を維持及び深めるために、皇族の訪問は最上級の外交策です。訪問する順番、滞在する期間は、その国に対する我が国の信頼関係と比例致しますため、公平性に欠けぬようスケジュールは国王含めた十二枢機卿議会にて綿密に決めさせていただきました。不参加だなんてとんでもない。馬鹿じゃありませんの。馬鹿じゃありませんの。」
「に、2回言うなよ・・・。ってか、この皇子に何も相談せずに勝手に決めていいもんなのか、そういうことは。」
「あらあら!都合のいい時だけ皇子様ですかぁ。器用な殿方だこと。どうせあなたが議会に参加したところで何も変わりはしなかったですわ。馬鹿みたいに暴れ回ると何でも問題解決できると思ったら大間違いですわ。これは決定事項ですから。」
「ぐっ・・・この性悪女が。」
アナキスが『偽物の皇子だった』と知る者がいないこの部屋では、さしもの枢機卿シルマールも容赦はない。
きっと相対する人に地位によって言葉使いを分けているのだろう、皇子ではなく俺に対して突然言葉が汚くなるあたり、枢機卿の威厳さなんてこれっぽちも感じられない。胸の北半球が大きく露わになった服装から漂うのは一介の聖職者然どころか、ただのみだらな娼婦と言ったところか。
「もちろん、姫様とケフィーは既に外遊の件はご存知ですわ。準備が着々と進んでおります。」
どうやら、逃れることは出来そうになさそうだ。
「改めて皇子様。皇族直属近衛兵1個師団を率いての他国外遊の政務、お願い申し上げます。」
さらに、シルマールは畳みかけるようにして深々と枢機卿のお辞儀をして見せた。
その立ち振る舞いはしっかりと枢機卿のものだった。
「・・・おう。」
「次、ジュラム国にご帰還されるのは、約3ヶ月後になります。お土産期待しておりますわ、アナキスさん。」
「・・・お、おう。」
顔を上げたシルマールは、不気味なほどニヒルな笑みを張り付けていた。