~序章~
辺りを静寂で包み込んだ夜闇を、乾いた発砲音が蹴散らす。
近衛兵の容赦のない銃撃が、茂みの中から躍り出た輩の頭部を正確無比に撃ち抜く。
たわわに実った果実を思い切り叩き割ったように脳髄と血しぶきを後頭部からぶちまける。
思わず目を背けたくなるような光景が月明かりの下に広がった。
神聖なるジュラム大聖堂に侵入する、死に急ぎの愚か者には天罰をーー
およそ慈悲の欠片さえ与えぬ一方的な銃撃は、硝煙の臭いすら残さぬほどわずか数十秒で終結。
頭部を撃ち抜かれたそれは、糸が切れた操り人形同様、がくんと膝から倒れ込む骸と化す。
わずかな痙攣を持続させながら、一生を終えようとしていた。
―――銃弾を弾き返す重厚な仮面を被っていなければ。
倒れ込む瞬間、大きく踏み出した右足で体を支え、それは近衛兵に一直線に突っ込んで行く。
「おい!!まだ、生きてるぞ!!」
「頭はだめだ!体を狙え!!」
近衛兵らの驚愕の声は、悲鳴に近かった。
月明かりの元に照らされたのは、まるで血糊に浸したかように真っ赤な仮面。
――亡霊。
ここがひと気の少ない大聖堂ということも相まってか、背筋を震わせた近衛兵の誰かがそう叫ぶ。
何発銃弾を撃ち込んでもたやすく仮面に弾かれ、体に命中したと思いきや実態の無い亡霊の如く貫通していくだけだった。
距離を詰められ、近衛兵の間合いにするりと滑り込む、と同時に、
「―――がっッ!!」
苦悶のうめき声。近衛兵の鳩尾にまっすぐの正拳突を繰り出す。
鍛え上げれた巨躯が衝撃で軽々しく持ち上がった。
まるで腕の一本が初めから鳩尾にめり込んでいたのではと思わせるほど、赤仮面の一撃は素早かった。
衛兵は目玉をぐるりと回転、白目を剥き出しにし、糸を引くよだれを垂らしながら倒れ込んだ。
赤仮面は右手を引き抜く勢いに全身の回転を加え、鞭のようにしなりを加えた後ろ回し蹴りで倒れ込む衛兵を蹴り飛ばす。
さらに、回転速度を上げ、にじり寄っていたもう1人の衛兵の太腿を指先だけで切り裂いた。
兵服と筋肉の繊維がスパッと裂け、鮮血が噴き出す。
何が起きたのか分かっていないのだろう、噴き出る血飛沫を見て情けない悲鳴を上げ、衛兵専用黄金鷲が刻印されたリボルバー式回転銃をただただ玩具のように放り投げた。
夜闇に投げ出されて空を切るリボルバー銃は、月光を反射させながら煌き回る、赤仮面は、そのリボルバー銃を凝視ーー
シリンダーとサイドプレートに映るのは、背後にいる残り最後の衛兵。
「後頭部からぶち抜けばッ!!」
怒号と共に吐き出された弾丸が、今度こそ亡霊を捉えた。
ゼロ距離から発射された弾丸が、撃鉄の合図に即発射、抉り取るように骨を穿つ。
だか、そのイメージも嘲笑うかのように虚となる。
梟のようにぐるりと背後を向いた赤仮面の額に衝突、弾かれてしまった。
2、3歩後ずさりした衛兵の続けての発砲はむなしく空を切る。
赤い仮面は、引き金を引く指の動きよりも素早く、軟体動物のように体をくねらせながら衛兵の背後に回り込み、背後から抱きかかえるようにして衛兵の胸板をひっつかみーー
「ぎゃぁぁぁあッ!!」
――10本の指を食い込ませ、盛大に引き裂いた。
赤いミミズ腫れが毒々しくぷっくりと膨れ上がり、一瞬にして血飛沫を巻き上げながら破裂する。
絶叫もわずか数秒で、衛兵は倒れ込んではピクリとも動かなくなった。
「ひぇっ!!」
太腿を切られた衛兵は情けない声を上げながら、後ずさりし、逃げていった。
それを追うことはせず、つかの間の静寂。
不気味なほど静かな夜闇、発砲音と悲鳴を聞きつけた他の近衛兵らが騒ぎ立てる。その数、2〜3人ほど。
「少ないな…」
ここは、神聖なジュラム聖堂だ。
何者かの侵入を許した事態が水を打った波紋のように瞬く間に王宮内に広がり、護衛兵達が騒ぎ始める。そう予想していた。
だが、明らかに警備は手薄と呼べるに等しい。衛兵が少な過ぎる。
それでも、赤仮面は辺りを警戒しながら小さく獣のようにさっと身を伏せた。
王宮の非常事態の対応策など知る由もないが、ひとつ言えることといえば、罠でも何でも赤仮面にとってはどうでもいいことだ。
大聖堂入口扉は、固く施錠されていた。特段驚く必要も無い。針金を取り出し錠をいじくる。
わずか数秒でかちゃりと小気味良い音が鳴り、錠が空いた。
背後を振り返るも、衛兵の姿は無い。
扉を開けると、キィと不満を漏らすように軋む音をあげ、聖堂は不穏分子を迎え入れた。
大聖堂内はひんやりとして、真っ暗だった。
灯される蝋燭の火も無く、ただ射し込む月の光がぼんやりと無機質な堂内を照らし出すだけだ。
わずかな月明かりを頼りに目玉だけを動かし、周囲に警戒心を張り巡らす。
足元に敷かれたコバルトブルー色の絨毯は、奥手の聖像まで真っ直ぐ伸び、その絨毯の両端に並べられているのは、3人掛けの簡素な木製椅子がずらり。
堂の天井まで、20メートルはあるだろうか、きっと聖歌隊の美声が良く通るに違いない。
何万もの信者が絨毯を踏みしめ頭を垂れ、何万もの願いや想いを吸収し続けた大聖堂。
200年もずっと人々の言霊を聞かされ続けた聖像。
さすがは言うべきか歴史ある空間独特のピンと張りつめた緊張感に、赤仮面は思わずその場に佇んでしまった。
だが、それもわずか数瞬で――
「・・・くだらねぇな。」
両断するように小さく呟き、薄汚れた土足のまま信者達を蹂躙するが如く無造作に闊歩する。
外界から遮断された静寂の中、聞こえるのは赤仮面の息遣いだけだ。
静かすぎて耳がおかしくなりそうなほどに。
だが、ゆっくりと、確実に、確固たる信念を持ったまま真っ直ぐ歩を進める。
そして、赤仮面は聖像の前で立ち止まる。
ジュラム神聖像の前に銀色の台座と柔らかい布袋。
その上に、無防備にも水晶玉がひとつ祀られていた。
「これか・・・。」
赤い仮面は自然と口をついて出た言葉に反応するように、ローブの隙間からやおら右手を伸ばした。
禍々しく鈍色に照り光り、鋭利に研ぎ澄まされた異形な爪――
刃渡り30センチ前後の鉤爪が、5本の指にそれぞれ取り付けられていたのだった。
尖った爪先で、祀られている水晶玉を軽く叩く。
叩いたり、突っついたり何度か様子を見るように、爪先で弄ぶ。
――特に変わった変化はない。
赤仮面は爪先だけで器用に水晶玉を持ち上げた。
重くもなく、軽くもない。手のひらで鷲掴みできるほどの大きさで、欠けている部分も無く、何の変哲のないただただ綺麗な水晶玉だった。
目の高さまで持ち上げ、興味深そうにその水晶玉を眺めた。
「こんなもののために、貴族達は躍起になって争っているのか。」
「こんなものではない。それが『宝玉』だ。」
突然、背後から言葉が襲ってきた。
恐ろしいほど冷静な声音が、波紋のように大聖堂内に反響する。
両肩をすくませた赤仮面は、水晶玉を掴んだまま背後を振り返る。
先人信者達の霊魂がひと固まりとなり、罰当たりな輩を処罰するため現世に姿を現したのか、はたまた神の怒りに触れ天上から舞い降りた神の使いか。
声の主は、聖堂の真ん中に居た。
純白の鎧を隙無く身に着け、鎧の両胸には、ジュラム国の象徴である黄金鷲が刻印されている。
――そこに居たのは幽霊でも、神の使者でもない。人間であった。
――世界にその名を轟かせ、かつ列国から恐れられている、ジュラム皇族直属近衛兵の副総司令官ヴィクトルだった。