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BLUE_LIGHT~海賊アリス~  作者: 葉山
Episode1.雪の女王
22/36

02.目指すはラップランド


 ふと目が覚めた。

 目が覚めたって言うか、意識が覚醒した、と言ったほうが正しいのかもしれないけど。

 重いまぶたをゆっくりと押し上げて、上下にブレる視界で薄暗い室内を見渡した。身体を起こす気にはなれなくて、ぼんやりとした頭でしばらくそのままでいる。


 寝返りをうつとふかふかの白い枕に顔を埋めて……、あぁ、なんだか二度寝できそうな気がする。


 絶えず響くのは波の音。

 不規則に聞こえる甲高い銃声と野太い悲鳴。


 誰かテレビ付けっ放しにしてる。しかも大音量で。

 しばらく枕に顔を埋めて放っといたけど、それがだんだん煩わしくなってきて、わたしは嫌々腕に力を入れた。


「うー…」


 まだ起きたくない、と主張するような重い頭を持ち上げて、長い髪を踏まないように上半身を起こした。

 くらりと眩暈がする。


 額を押さえてまたぼぅっとした。

 また野太い悲鳴と水しぶきが上がる音がして、ノロノロと動き出す。


 ……テレビ、消すんだっけ。


「リモコン……」


 リモコンは、大抵机の上にあるからそこまで移動しなくちゃいけない。

 あぁ、面倒くさいとか思ったけど、誰も消してなんかくれないからわたしは緩慢な動作で顔をあげて……。


 止まった。


「あ、れ……?」


 ここ、どこ?


 眠くて閉じてしまいそうなまぶたを必死に持ち上げて、ゆっくりと室内を見渡す。

 アンティーク物の調度品の数々が並べられた暗い室内。

 唯一ある丸窓からは光が射し込んではくるけど、同時に水しぶきが窓にぶつかってるのが分かる。


 少なくとも、わたしが見慣れている場所じゃない。

 ゴシゴシと目元を擦って、二度寝しないようにとりあえずふかふかのベッドから立ち上がった。


「えっと……」


 ぼんやりとする頭で、なんでこうも部屋が揺れてるんだっけ? とか思う。


 銃声はやっぱり鳴り止まないし、ドタドタとした足音が天井から聞こえてくる。


 テレビは、ない。

 じゃあ、これはどこから聞こえてきてるんだろう?


「あ、そっか……。ここ、船だ」


 ゆらりと揺れる床の上に立ったからか、徐々に記憶がよみがえってきた。


 ここは、わたしが知らない世界。

 それから、海の上の海賊船【不思議の国】号。

 わたしの名前は幸で、ただの女子高生だった。


 “だった”つまり過去形で、今は偽者アリスとして【神子の玩具】を捜している。

 公爵夫人に認めてもらって、【不思議の国】号に戻ってから……そこで記憶は途切れてる。


 なんでベッドで寝てたかなんて分からないけど、とりあえずここは【不思議の国】号だ。

 それだけは間違いない、と思う。


「あー…、髪ぐしゃぐしゃ……」


 寝る前に何の手入れもしなかったからか、変なクセがついてる。

 リボンも外さなかったから変に絡まってるし。


 備え付けの鏡に向かいながら、とりあえず手櫛で梳いてリボンも付け直した。

 それから服のしわも見苦しくない程度に整えて、かなり妥協してこれで一応人前には出ても大丈夫。


 本当はお風呂入ったり、髪や肌の手入れしたり着替えとかもしたかったんだけど、そんな贅沢言ってられないよね。

 ダムさんたちに貰った、着替えとかが入った箱が見当たらないし……仕方ない。


「えっと……」


 どうしようかな。

 【不思議の国】号の誰かがここにいるわけでもないし。

 かと言って、外からは物騒な音とか悲鳴が聞こえてくるから、出たくないな……。


 でも、起きちゃったからずっとここにいるわけにはいかないし……。

 この部屋で大人しくしてた方が安全な気もするんだけど、一人でいても安全だって言えるかな?


「……よ、よし」


 とりあえず、誰か見つけよう。

 【不思議の国】号の誰か。


 できれば帽子屋さんかマーチ……、船長室にたどり着けたら船長で、甲板に出れたらチェシャ。

 どれくらい寝てたか分からないから、もしかしたらヤマネくんも起きてるかもしれないし。


 自分を励ますように何度も頷いて、寝起きで少し肌寒く感じるからショール……が見当たらないから肌掛けを羽織って。

 薔薇の形が彫られたドアノブに手を掛けて、ゆっくりと扉を開く。


「お?」


 たまたま扉の前を歩いていた人と目が合った。

 半裸で、筋肉隆々で、腕に刺青が彫られた、いかにもその道の人って感じの人。


 ぽかんとした顔で相手の存在を確認した瞬間、わたしは思わず……


「間違えました」


 扉を閉めた。


 いやちょっと待ってよ。どういうことコレ。

 【不思議の国】号にあんな人いないよ。いるはずないし、え、何? 誰アレ。


 ドアノブを押さえながら混乱しているわたしは、急に外から開けられた力に抗えるはずもなく、内開きの扉に押されて数歩後ろによろめいた。

 混乱の原因の人と目が合う。


「……あ、どうも」


 驚きの余り出た言葉がどうもって……日本人のクセだとかなんとか何かで聞いたことあるけど、本当だったんだとかそんなこと思ってる場合じゃないんだけど!


 相手は岩のような身体で、のっそりと室内に入ってくる。

 そしてわたしを見下ろすと、黄色い歯を見せながらにたりと笑った。


「あんたが【娘】か?」

「ち、がいます」


 とっさに、口から飛び出した言葉に嘘はない。


 わたしは【娘】でも【主人公】でもない。

 だけど、【娘】や【主人公】だけが手にすることができる力を持つことができる。

 この世界の反則的存在で、立場を言葉にするのが難しいんだけど、あえて言うならわたしは……



 【不思議の国】号の偽者アリス。



 そう表現するしかない。そう名乗って良いと、公爵夫人から認められた。


「あんたの答えは聞いてない。これは確認だ」

「は? って、や、ちょっと!」


 言われるなり、腕を掴まれて乱暴に担ぎ上げられた。

 わたしの抵抗なんか抵抗にならない。ぐいっと引き上げられて、固い筋肉質の肩に担がれて、どこかへ連れ出されようとされている。


「離してっ!」

「あんたが暴れるだけ暴れたって、痛くもかゆくもねぇ」


 がっしりと固定されたまま笑い飛ばされるけど、お腹に笑った震動が伝わってきて苦しい。

 本当に、わたしが何したってなんとも思わないんだろうけどさ!


 後ろ向きで運ばれながら、せめてもの抵抗にスキンヘッドの頭を思いっきり押して支えにする。

 それすらも抵抗に感じられてないんだろうけど。


「おい! 他に女はいたか!?」

「いや、いねぇな!」

「決まりだ。やっぱりあんたが【娘】に違ぇねぇ」


 甲板に向かって歩く速度を速められて、お腹に食い込んでくる肩の圧迫感が強まった。



『【神子の玩具】と【娘】と【主人公】を強奪するから、海賊と呼ばれているのよ』



 公爵夫人が認めてくれる前に言っていた言葉を不意に思い出した。


 それってつまり、今のこの状態のことを言うんだよね、……多分。

 ってことは、この人たちは海賊で、今【不思議の国】号は襲撃されているってことだよ……ね?



「やだ、ちょっと離してよ! 本気で離してっ!」

「女がドレスで暴れたって、いいことねぇぜ?」

「違ぇねぇ、そんなにドレスで海を泳ぎてぇのか!」


 今更危機感を覚えて、わたしは本気で離してもらおうと抵抗してるんだけど、わたしを抱えている男以外に合流してきた、いかにも下っ端海賊って格好している人が何が可笑しいのかゲラゲラと笑った。


 て言うか、ドレスって?

 わたしそんなもの着てないんだけど。この世界の女の人って普通はドレスを着るようなものなの?


 はっとして口を噤んだ。

 肌掛け羽織っていて本当に良かった! なんてこと思う。

 俵担ぎされていると今のミニスカートじゃ確実に中見える。広がらない仕様のバルーンスカートだとしても、際どかったんじゃないかって。


 いや、そんなことよりこの状況どうしよう。


「おい女。大人しくしてた方が身のためだぜ?」

「大人して下ろしてくれるなら、言われなくても大人しくしてたわ!」

「そりゃできねぇ話だな。だけどな、いい加減にしねぇとさすがに温厚な俺もイライラしてくんだよ」


 声が低くなった。この人本気で苛立っている。

 頭に置いている手の横に青筋が浮き見えた。それくらいイライラを押さえている。


「お頭に傷付けんじゃねぇと言われてなけりゃ、一発や二発その顔にぶちこんでやりてぇよ」

「この船、女いねぇしなー。【娘】に手ぇだすなって言われてるし、やりきれねぇよ」

「ったっくよぉ、面倒くせぇよなー」


 そんなこと言うなら、わたしを攫おうなんてことしなければいいじゃない、なんて。

 今すぐこんなことやめればいいじゃない、なんて。

 【娘】じゃないって気付かれたときのことを考えると、わたしは怖くなって何も言えなくなっていた。


 視界の隅で何かが光った。

 彼らが片手で構えているのは、長い刃渡りのぶ厚いサーベル。


「甲板に出るぞ? 無事に【娘】を持って帰らねぇとお頭に殺されるからな、気張って行くぜお前ら!」

「おうよ!」


 構えて、甲板へと繋がる扉を乱暴に開いて飛び出す。

 わたしは担がれたまま連れ出されて、外の光に眩しくて目を細めた。


 目なんか覚まさなければ良かったって、開かなければ良かっただなんて思った。

 嫌だった、ここにいることを後悔した。


 何、これ。


 鼻につく鉄の匂い。

 潮風に乗って、消えてはくれない。

 視界に映る赤、赤、赤。

 水で溶いたペンキみたいに白い床や壁に鮮やかに飛び散っている。

 【不思議の国】号だけに赤が付いているんじゃなくて、船の周りの海水も、赤を交えて漂っている。


 船室にいるときから聞こえ続けている銃声と野太い絶叫が、より鮮明に大きく鼓膜に響いてくる。

 せりあがってくる吐き気を飲み込んで、嫌悪感で浮かんでくる涙を瞬きして乾いた眼球になじませて、震える手で胸元を握り締めた。


 ……気持ち悪い。


 冷や汗が噴出して、鳥肌が止まらない。火薬の匂いがする。

 べしゃりと俯いた視界に映りこんだ赤。投げ出された赤に染まる日に焼けた腕。痛みと恐怖に見開かれたまま濁っていく瞳。生気のない、動く気配のないそれ。船の揺れに合わせて流れていく赤い液体。

 それを見たのは一瞬で、甲板を駆け出した男に運ばれたまま次々に視界は別のものを見る。


 赤に染まったサーベルの刃。

 宙に飛び散る赤い雫。横たわる人だったもの。

 甲高い音をたてる火花。

 それから、耳に残る断末魔。


 わたしは知らない。それらを知らない。


 ううん、知らなかった。知らなくてもいい場所にいた。

 だから、それらは全部、信じられなくて。嘘のようで。視覚と聴覚と嗅覚を刺激してくるそれは、ただのまやかしで、これは夢なんだと思いたくて。


 これが現実? やけに生々しいコレが?わたしが知らない別の世界での現実が、コレ?

 気持ち悪くて、気持ち悪くて、気持ち悪くて。

 こんなのが現実だなんて認めたくなくて、嫌で、嫌で。嫌で!

 否定したくて、否定してほしくて!


「ユキッ!?」


 名前を呼ばれた。同時に甲高い銃声が響く。

 ぐらりと視界が揺れた。


「あぐあぁっ!!」

「邪魔されてたまるかよっ!」

「邪魔しなくちゃいけないようなことするからじゃん」


 がくん、と視界が下がる。赤く染まった背中が見えた。

 不自然なくらい赤い背中から、液体が流れてる。日に焼けた小麦色を、赤く塗り替えていく、鮮やかな赤い液体。


 視線を上げれば、横に勢いよく飛び散るそれ。

 ぴっと、わたしのほうまで飛んできて、生暖かい液体が顔についた。


「……んな、とこで、死んで、たまっ…かよ……っ!!」


 ぐっと、肩に押し付けられる力が強まった。

 わたしを、わたしの服を掴む手が微かに痙攣しているのを感じる。


 苦しくて、苦しくて、苦しくて。何に苦しいと思うか分からないくらいに気持ち悪い。


 背中から流れ出る赤い液体は、徐々にその色を暗く変えて、どろりとした何かに変わっている。わたしを押さえつける手が強くなれば強くなる程、やけに赤いその場所から、音を立てて赤い液体が噴き出した。

 びしゃり、と床に落ちるそれは、赤い水溜まりを作り出していた。


「……死…にた、く……ね」


 ごふっ、と咳き込んだかと思えば、わたしにまで伝わってくるくらい身体を痙攣させて、ゆっくりと傾いていった。

 赤い水溜りの中に、雫を弾きながら倒れこむ。


 掴まれたままのわたしは、それに抵抗するすべもなく重なるようにして倒れた。

 反射的に甲板についた手は、赤い水に滑って意味を成さなかった。

 声なんか出せない。さっきから鉄の臭いしかしない。


 コレは何? コレハナニ?


 だらんと投げ出された腕は、もはやわたしを拘束するような強い力は無い。ゆっくり身体を起こす。

 わたしを掴んでいた男の顔を見ても、感覚が麻痺してしまったのか何も感じない。


 赤い液体を吐き出して、瞳を濁らせて、船の揺れに合わせてしか動かないそれ。

 人間だったものが、ただの有機物でしかなくなった。


「ユキッ!」


 名前を呼ばれて、ゆるゆると顔を上げる。

 紫色の髪に、金色のアーモンド型の瞳。

 チェシャだ、【不思議の国】号の船員の、チェシャ猫。


 どこか焦った様子のチェシャが、わたしに向かって手を伸ばす。




―…赤く染まった手を。




 わたしは思わず、その手を避けるように後ずさった。

 ぴしゃりと、赤い雫が跳ねる。


 拒絶したんだ、チェシャを。

 あの手を。


 感情が顔に出ているかなんか全然わからない。

 でも、怖いと感じた。怖かった、あの赤く染まった手が。人間だったものの彼等を染めたものと同じで、死にたくないと呟いて倒れた彼から流れているものと同じで。

 そんなことありえないと頭のどこかで主張しているのに、チェシャが怖いと思ってしまったんだ。

 怖いと感じてしまったんだ。


 その赤い手で、わたしも殺されてしまうんじゃないかって。


「ユキ?」

「……っあ」


 喉が渇いて声が出ない。粘着性を持った何かが擦れた声しか出さなかった。


 不思議そうに手を止めたチェシャだったけど、不意に後ろでサーベルを振りかぶった男に向かって引き金を引いた。


「ああああああっ!!」


 パン! と甲高い音がしたかと思えば、サーベルを落としながら絶叫をあげて倒れ伏せる。それきり動かなくて、甲板に新しい赤の水溜りを作り出した。


 死んだ。

 あの人も、名前も知らない海賊も死んだ。

 ただの人だったものの塊になって、甲板に折り重なる一つになる。


 あまりにも無情に、瞬間的に訪れる“死”。

 潮風に散らされても散らされても、その量を多くしていくことによってその臭いを強くしていく赤い“血”。


「うっ……」


 せりあがってくる吐き気に堪えられなくて、船縁にしがみついて吐き出した。

 すっぱい胃液が、カラカラに乾いた喉を刺激して痛かった。息ができなくて苦しかった。

 肩で息をして、生理的に浮かんできた涙を拭ってぐいと口元を拭う。

 そのとき視界に飛び込んできた自分の手を見て、わたしは目を見開いた。


「あ、あぁ……っ!」


 赤い。わたしの手も、赤い。

 真っ赤に染まった手の平に、べっとりとくっついている赤い、血。

 カタカタと震える。赤い手がカタカタと震えた。


 空気はどこ? ひゅっと、何度も喉から空気が漏れる音がした。


「はーい、落ち着いてどうどう。大丈夫だからちょっと俺様のこと見ようか。なー?」


 対照的な白い手で、わたしの震える手を掴む。


 赤い血が、移っちゃう。この人の手が、赤く染まっちゃう。

 思わず振り払おうとしたけど、がっちりと掴まれて離してくれない。


「ね、ちょっと。マヂで、俺様のこと見て? 超カッコいい男前の俺様見て? ……って、おーい。スルーされると俺様哀しいんだけど」

「だっ、移っちゃ……」

「あ、分かった! 了解了解! 大丈夫だって、移っても! あ、どうしても気になるならこうして、こうすれば問題ないだろっ?」

「っ!」


 甲板を滑る赤い液体にその白い手をつけて、わたしと同じ色に染まる。同じ、赤になる。


 なんてことをしてるの?

 自分から赤く染まろうとするなんて。


 驚いて、その人を見上げた。


「お、ようやく見てくれた? どうよ、男前だろ俺様は」


 にっと笑ったその人を、なんて言えばいいんだろう。

 鉄サビ色の髪を無造作に長く伸ばして、同じ色の無精ひげを生やして黄緑色の瞳を細めて笑う、男の人。

 左目の下に赤いハートマークをつけたりして、にやりと笑う野生的な人だけど……今のわたしから言わせてもらうと、何て場違いな人なんだろうと思う。


 どうして、こんな鉄の臭いと赤に染まる中でそんな風に笑えるんだろう。


「大丈夫だって、ここにいる誰もがおじょーさんに手をあげようとか考えないから。なー? 大丈夫、大丈夫!」


 何が大丈夫なのか全然わからないけど、にこやかに笑うその人を呆然と見上げる。


 鉄の臭いは消えてくれないし、わたしの手もその人の手も赤く染まったまま。

 銃声だって、絶叫だって鳴り止まない。


「いやーしっかしおじょーさん可愛いねー。食べちゃいたいくらい可愛い」

「……は?」

「なんかやけにすっきりしてると思えば、ミニじゃんミニ! ぐはーっ! これが噂のミニスカート! あの双子いい趣味……いやいや、いい仕事してる!」

「ね、ちょっと!」


 赤く染まった肌掛けを剥ぎ取られて、鉄の臭いを散らす潮風に身をさらす。

 ぱさつく黒髪がふわりと風に揺れた。


「おじょーさん、あんた……」


 黄緑色の瞳を丸くして、わたしを見つめる。

 ふざけたような話し方じゃなくて、本当に驚いているような、信じられないような話し方。


 赤く染まったわたしを見て、どうしてそんなに驚くようなことがあるの?

 わたしみたいな小娘が赤く染まっているから、だから、驚いているの?


 ダムさんとディーさんに仕立ててもらった青を基調にした服は、所々赤く染まっている。長い髪も毛先は赤い水溜りに浸かってしまったからか、どこか重い。

 こんな姿を見られていることが嫌で、でも隠れられるような場所なんかなくて、わたしは顔を背けた。


「ねぇ」


 チェシャの不機嫌そうな声が聞こえた。


「なんであんたがここにいるわけ?」

「……猫か!? チェシャ猫かっ!?」

「だったら何?」


 すっごく嫌そうな顔しているチェシャが、ハッと我にかえった瞬間何故か嬉しそうな声をあげる男の人に、銃を突きつけていた。


 自分のことで手一杯だったから全然気付かなかったけど、もしかしてこの人、敵?


「おいおい、そんな物騒なもん向けんなって! 俺様とお前の仲じゃねぇか! 大好きだぜ、チェシャ猫!」

「その気持ち悪いこと言う口塞げば?」


 ……にしては、やけに馴れ馴れしい気がする。


「で、俺様の愛しの女王様は? いや、この際帽子屋でもいい!」

「ここは鎮圧したから、とりあえず敵いないけど。立てる?」

「っておい、無視かよチェシャ猫!」


 チェシャはやけに騒がしいこの人を完全に無視して、わたしの側で屈みこんでくれる。


 手は、出されない。


 わたしがさっき拒絶したから。

 だから、当たり前なんだけど……。


「……ごめん」

「何が?」


 赤が飛び散った紫色の髪を揺らして、白いシャツやその手や腕を赤く染めて、それでもわたしを気遣ってくれたチェシャに、そんな言葉しか出てこなかった。


 謝るくらいなら、最初から拒絶なんか、怖いなんか思わなければよかったのに。


「何がってお前なー。こんなか弱いおじょーさんに血なんか見せて平気なはずないだろーがっ! あーあぁ、こんな状況になんかしてよー、ばっかじゃねぇのお前」

「……あんたに言われたくないんだけど」

「おっ? マヂで? 自覚済み? うっわ珍し、チェシャ猫が他の奴のこと気遣うのとか」

「いい加減黙んないと、その頭に穴開くよ?」


 がちりと安全装置を外して銃口を向けるチェシャ猫だったけど、その人はそれを気にもせずわたしの手をとった。

 それから赤く染まれなかった爪に、そっと唇を押し当てる。


「チェシャ猫が気に入っているってことは、おじょーさんが【不思議の国】号の偽者アリスだろ?」

「!」

「公爵夫人からの知らせを聞いてすっ飛んできたんだ! いや、間に合って本当に良かったぜ! 俺様が来たからにはもう大丈夫だからなー? 怖いことなんか何もない。万事解決超安心!」


 どこが、と呟いたチェシャに同意したくなったけど、ぐいと手を引かれて立たされる。


 それから、内緒話でもするかのように顔を近付けられて、にやりと笑われた。


「ねぇ、なにやってんの?」

「これからすること見られたくないから、俺様だけを見てもらおうと思って」

「海に突き落とされたいわけ?」

「馬鹿野郎! そんなことしたら人魚の可愛子ちゃんに、俺様取り合いされるだろーが! そんな可哀想なことさせられるかよ!」


 何なのこの人、と呆然と見上げているとぐんと腕を引かれた。

 あれ? と思ったときには、すぽんと誰かの胸の中に収まっていた。

 大きくて、暖かな手でぽんぽんと頭を叩かれる。


「……これでいい?」

「マーチじゃねーか! 逢いたかったぜ愛しの料理長!」

「何? ウサギ、厨房の護りはもういいわけ?」

「【娘】を捕らえたって……、騒いでたから来た」


 ぎゅうと抱き締められて、本当に小さな声で無事でよかったって言ってくれたマーチの胸に顔を押し付けられた。


 ダメだよ、そんなことしたらマーチに赤が移っちゃう。

 ……移っちゃうけど、でも。


 現実を見なくてもいいと言下に言ってくれているような気がして、今だけはその優しさに甘えたかった。

 赤なんか見たくなかった。


「んじゃ、今から三つ数えるぞー。さーん」


 潮風が、ぴたりと止んだ。


 何が、起こるの……?

 何を起こそうとしているの?


「にー」


 絶えず聞こえていた波の音が聞こえなくなった。船も揺れてない。


 マーチが、わたしの頭を押さえるようにしてぎゅっと抱え込んでくる。


「いーち」


 それを最後に、耳鳴りがして、雑音しか聞こえなくなった。

 ザアアと、ノイズ音しか聞こえなくなって、乾いて赤がこびりついた手で耳を押さえた。


 何なの? と言ったはずの言葉ですら聞こえないくらい、それしか聞こえるものがない。


「はい、おしまい!」


 パン、と手を打った音と一緒に、潮風の感覚も波の音も、何もかもが元通りに聞こえ始めた。足元だって、もちろん揺れている。

 変わったのは、あんなに鼻についた鉄の臭いが全くしないってこと。


 ……何が、起きたの?


「あんたの力っていつ見ても便利だし、反則だよね」

「褒めてんならもっと堂々と派手に褒め称えろよなチェシャ猫! 男前で格好良くて惚れちゃうわ素敵ー! くらい言え!」

「どうして俺がそんなことしなくちゃならないわけ? って言うか、ウサギもいい加減放せば?」


 チェシャの言葉にゆるゆると腕を解かれる。


 そっと顔を上げれば、マーチのあまりかわらない無感情の顔。

 でも、そのオレンジ色の瞳がどこか心配してくれているように思えて、大丈夫、と小さく呟いた。


 マーチは黙ってわたしの頭を軽く叩いて、それからゆっくりと離れていった。

 ようやく見えた光景に、目を見開いた。


「え?」


 何も変わらない。変わってなんかない。

 始めに見たままの、いつもの【不思議の国】号だ。

 血の臭いも、甲板に飛び広がっていた赤い水溜りも、倒れ伏せていた人間だったモノも、何もない。


 信じられなくて、手すりに捕まって下の、もっと広い甲板の方を見下ろす。

 何もない。わたしがさっきまで見ていた現実と思いたくなかった光景は、どこにも広がってない。どこにもない。


 船縁にしがみついて、海を見下ろす。

 蒼のまま。何も変わらない。赤なんか幻だったのかと思えるくらいに、変わらずキラキラと水しぶきをあげている。


 それこそ、今まで目が覚めてからの事が夢のように思えるくらい、何も変わっていなかった。


「……どう言う、こと?」

「信じられないだろ? 信じられない顔してるもんなー。俺様その反応が好きだわー、何この子超可愛いんだけど」

「何、したの?」


 赤い血が乾いてこびりつきそうだったわたしの手だって、何事もなかったように元のままだ。


 三つ数える間に、この人は何をしたの?


「ちょっと元に戻しただけだからな? そんな怖い顔しなーい」

「だって、そんな!」

「そんな必死な顔もめっちゃ可愛いんだけどって言うか脚線美すげくねぇ? ちょ、ぎゅってさせてぎゅって!」

「はぁっ!?」


 何なのこの人。

 ただの変態なんじゃないかって思えて、距離を置こうと離れかけたそんな時、重々しい銃声が空に響いた。


「あらら?」


 いつの間にか、四つの剣先が目の前の人に突きつけられていた。


「海の藻屑にされたいわけ?」

「……やりすぎ」

「アリスに触らないでもらえますか?」

「ついでに、そのよく回る口を縫いとめられたくなければ、閉じた方が賢明だと思いますよ?」


 チェシャにマーチ、それからいつの間に来ていたのかヤマネくんに帽子屋さんまで。

 それぞれの剣先を向けて、追い詰めるように男の人を囲っていた。


「ちょ、可愛い本気の冗談だって! いつもみたいに軽く流してくれたっていいんじゃないかと俺様思うんだけど! と言うか、【不思議の国】号を敵に回したくないんだけど!」


 降参降参! と両手を顔の側まで上げて、妙に焦ったような声で叫んでいる。


 ……四人がこうしているって言うことは、さっきの銃声って、もしかして。


「……その喧しい口を、今すぐ閉じろ」


 船長が、その重そうな銃をその男の人に向かって構えていた。


 それを見たときは、やっぱりと言うか、なんと言うか、【不思議の国】号はわたしの味方になってくれているんだって、改めて実感した。



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