01.悪魔の鏡が落ちた先
「よく知っていたわね」
「馬鹿にしないで。雪の女王くらい、誰でも知ってるでしょ」
「いいえ、皆知ってるわけじゃないわ」
柔らかな午後の昼下がり。
大きな樹の根元に座ったその人を、少しくすぐったい芝生に寝そべったまま見上げた。
薄い金髪の縦ロールに、陽射し避けの大きなボンネット。
白いレースで縁取られたターコイズの古めかしいドレスを身につけて、サファイアの瞳でわたしを見つめてくる。
「普通の女の子は、本を読まないのよ」
「それじゃ、わたしもあなたも普通じゃないって言いたいの?」
「ふふっ、そうかもしれないわね」
鈴を転がすような声で笑うこの人は、お茶のおかわりはいかがかしら?とバスケットからポットを取り出した。
ポットと言っても、わたしがよく知る魔法瓶みたいなものじゃなくて、簡易型水筒的なただの丸い筒。
結構よ、と断るとその人は困ったように笑って、自分の陶磁のカップに琥珀色の紅茶を注いでた。
「あなたがいてくれて嬉しいわ。午後のピクニックは一人じゃつまらないんですもの」
そう言って、膝の上に置いてあった本のページをめくった。
「何を読んでいるの? やっぱり、雪の女王?」
「そんなところかしらね」
話の流れからそうなのかなって予想して聞いたら、曖昧に返された。
見れば分かるかなって、ゆっくりと起き上がって彼女の手元を覗き込んだ。
「あら、挿絵も会話文もない本はつまらないと言ってなかったかしら?」
「……それ以前に、字が読めないわ」
そこに並んでいたのは神聖文字みたいな異世界文字。
会話文どころか、一文字も読めないなんて。残念、と肩を落とした。
「もしかして、退屈? ここにいるのはつまらない?」
「そういう訳じゃないけど……」
ちょっと待って。
その言葉に、ふと気付いた。
どうしてわたしはこんなところにいるんだろう?
この人は誰なんだろう?
何の違和感もなく受け入れていた状況に疑問を覚えると、心に不安が広がっていく。
だってわたしは、【不思議の国】号にいたはず。
こんなにもゆっくりと時間が流れている場所じゃなくて、耐えず揺れる海の上。
公爵夫人の島からやっと帰ってきたと思ったのに、なんでこんな場所にいるの?
「あなた、誰……?」
「わたし? わたしは……そうねぇ、ロリーナとでも名乗っておきましょうか」
ふわりと微笑んだロリーナは、深窓の令嬢と言ったような感じで怪しげな雰囲気は感じなかった。
変な人じゃないって思うけど、でも一度抱いてしまった猜疑心は振り払えない。
なんなの、この人。
「そんな顔しないで。私はあなたの味方よ、アリス」
「わたしは偽者のアリスだから」
「そんなはずないわ、あなたは本物のアリスよ」
ゆるゆると首を振ったロリーナは、そっと手を伸ばしてきた。
薄いレースの透かしが入った手袋越しに、細い指がわたしの頭を撫でるように髪を梳いてくれる。
小さな子にしてあげるような手つきで、優しく優しく。
わたしの長い黒髪がさらさらと揺れた。
「あなた以外に【証】はアリスと認めなかった。だから、あなたが本物のアリス」
「どうして、そんなこと……」
「誰もかもあなたを偽者と言うけれど、忘れないで」
今の物語の主人公はあなたよ。
「不思議の国に落ちてきたのは、あなたなの。他の誰でもない、あなた」
「なんで」
「知っているかって? ……なんて言えばいいのかしら? ここからあなたの物語を読んでいたからかしらね」
指輪を見つけた時から、あなたの物語は始まっていたのよ。
そう言われても、わたしはただ困るだけ。そんな意味が分からない話なんか信じられるはずない。
だって、言ってることめちゃくちゃだし、そもそもが理由になんかなってない。
「信じられないって顔しているわ」
「だって、信じられるはずない」
わたしの言葉に、ロリーナは困ったように笑った。
「それなら信じなくてもいいわ。ここは夢の中だから」
「夢……?」
「そうよ、夢の中ならなんでもありでしょう?」
突拍子もないことに思わず言葉を失ったけど、でも深く考えない方がいいのかもしれない、とわたしは小さく息をついた。
これは夢で、なんでもありなご都合主義が通用する。
そう頭の中で繰り返すと、まぁそれでいっかって思えるのが不思議。
不思議なものに理由なんか付けないほうがいいみたい。船長たちじゃないけど、その方が楽そう。
「分かったわ、これは夢。わたしがアリスならあなたはロリーナなのは当然ね」
「ふふっ、そうね。そして今わたしたちは午後のピクニックに来ているのよ」
芝生に直接座り込んだわたしたちのそばを、心地よい風が駆け抜けていった。
わたしの長い黒髪と、ロリーナの縦ロールがふわりと揺れる。
ざわざわと葉が擦れ合う音が妙に心地よくて、暖かな木漏れ日が優しく眠気を誘ってくる。
時間がゆっくりと流れているように感じて、夢の中なのにこのまま微睡みに身を任せてしまいたくなった。
「ダメよアリス。こんなところで寝たら」
「ここで寝たら、白ウサギが慌てて通りかかるかもしれないから?」
「【不思議の国】号に白ウサギがいないから、誰もあなたを起こしてはくれないわ」
困ったようにわたしの肩を揺するロリーナに、わたしはゆっくりと目元を擦って小さく欠伸をした。
眠いのを我慢して、しぱしぱとする目を開ける。
「それで、何を読んでるの?」
「悪魔の鏡について、よ」
「は?」
わたしには読めない文字が並んでいる本を再び覗き込むと、ロリーナはゆっくりとそう言った。
聞き間違いかと思ってロリーナを見上げると、ロリーナはもう一度悪魔の鏡について、と繰り返す。
「雪の女王の冒頭に、悪魔の鏡が書かれているでしょう?」
「綺麗なものは醜く、笑った顔は怒った顔になって写るって言う、あれ?」
「そうよ、その悪魔の鏡について書かれている本なの」
そんなピンポイントなことを本にする人なんているんだ。
率直にそう思ったけど、それを読むロリーナもちょっと変わってるんじゃないかって思う。
「そんなの読んでどうするの?」
「あら、アリスは気にならないのかしら?」
「何を?」
「割れた鏡の欠片の行方よ」
神さまを写し出そうとした鏡は、神さまから放たれた光によって砕かれた。
鏡の欠片は人間の世界に落ち、その欠片が身体に刺さった者は冷たい心へと入れ替わってしまう。
物語では、カイに刺さったとしか書いてない。
だって話には関与しないから。
なのにどうしてそんなことが気になるの?
「鏡の欠片が刺さったのは、カイにだけじゃないはずよ」
「無数の欠片になってるんだから、そうかもしれないけど……でも物語には関係ないでしょ?」
「……アリス、覚えておいて」
ロリーナは栞を挟んで、ぱたんと本を閉じた。
それから、サファイアの瞳を真っ直ぐに向けてくる。
「知識は時に視界を狭めるわ。役に立つこともあるけれど、それで見落としてしまうものが出てくるのも事実よ」
その瞳が怖いくらい真剣で、目が逸らせなかった。
物語を知っているからって、それに頼りすぎるなってこと?
過信するなって言いたいの?
ロリーナにどこか叱られているような気がした。
「……そんな顔しないで。あなたを責めているわけじゃないの」
「分かってる。ロリーナが言っていることは正しいもの」
先入観にとらわれない方がいいのは確か。
“不思議の国のアリス”と言う物語を知っているからと言って、本当にその通りにいかなかったのがいい例。
ロリーナの言っていることは正しいのは分かるけど、改めてそれを指摘されると、わたしは分かったふりをしてたんじゃないかって思った。
「分かると言うなら、どうか考えてみて。悪魔の鏡はカイの他に誰に刺さったか」
ロリーナはわたしの頭をそっと撫でて、囁くようにして呟いた。
「悪魔の鏡の欠片は、何処に落ちたのか」
何度も、強調するかのように繰り返す。
まるで言い聞かせられているみたい。
悪いことをしちゃダメよって、昔お母さんに言われた時みたいに。
「分かった。考えてみる」
「それでこそアリスよ」
わたしが頷くと、ロリーナは嬉しそうにふわりと笑った。
それから、ふと何かに気付いたような顔をして、目を細めた。
「アリス、あなたは誰がなんと言おうと本物のアリスよ」
「だからロリーナ、わたしは」
「本物なの、あなたが。あなた以外にアリスはいないわ」
ロリーナははっきりと言い切るけど、そんなはずないって、わたしは何度も首をふった。
本物のアリスはわたしじゃない。
本物のアリスは、公爵夫人や先生、帽子屋さんに船長の中に確かに存在してるから。
【神子】だって、【神子の玩具】だって本物のアリスはいないって言ってた。
だからわたしは偽者。
自分でもそう分かってるのに、どうしてそんなこと言うの?
「……今は無理に受け入れなくてもいいわ。でも、これだけは覚えておいて」
ロリーナは淋しそうに微笑むと、わたしの肩に両手を置いて、目線を合わせた。
サファイアの瞳が目の前で輝いている。
「わたしはいつでもあなたの味方よ」
それだけは信じて、と言う言葉にわたしはゆるゆると頷いた。
ロリーナは満足そうに笑うと、わたしの肩から手を離して別の本を開いた。
「さぁアリス、もぅ起きる時間よ。物語を始めましょうか」




