01.ウサギがいなくても穴の中
おねがい、わたしからそれをうばわないで。
おねがい、わたしのそれをこわさないで。
おねがい、わたしのたからものを……
「え?」
ふと、誰かに声掛けられたと気がして顔を上げた。
後ろを振り返っても、誰も何事もなかったかのように歩いているだけ。
「どうかしたの?」
「……ううん、なんでもない。なんか空耳だったみたい」
「しっかりしてよね」
慌ててそう言ったら苦笑された。
自分でもよく分からなくて、なんでもないふりをしたけど、でも空耳なんかじゃない。
だって、確かに聞こえた。
おねがいって。
何がお願いで、何がそれで、何が宝物なのか分からないけど、泣きそうな子どもの声でそう言っていた。
でも、人が行きかうこの路上でそんな子どもはいない。
露店にふらりと寄り道したわたしたちの後ろでは、忙しそうに歩き去る社会人とか、学校帰りの学生とかしかいない。
「どうする? 買う?」
「え、あーどうしよっかな」
手作りシルバーアクセサリーを並べている露店にちょこっと顔を出したわたしは、特に何を買うわけでもなくただぶらぶらと見ている。
正直、アクセをつける習慣がないから、わたしにはただ見ているだけのものなんだけど。
「あたし、これ買おうかな?」
「……いいんじゃないかな」
クラウンのトップレスがついたブレスレットを手に聞いてくる。
疑問系にしても、買う気満々なのは目を見て分かった。
だから、わたしはにっこり笑って後押ししてあげる。
似合ってるかどうかなんか知らないけど、それを望んでいるならやってあげたほうがいい。
きっと、誰かにそう言ってほしくてそうやっているんだろうから。
「幸はどうする?」
「わたしはいいかな、今月すでに財布ピンチだし」
「そう? これとか幸好みだと思ったけど。ま、いっか。あ、これください」
無造作に渡された指輪を思わず受け取った。
少しわたしの指には大きいかもしれないけど、その側面に刻まれた模様を見てわたし好みだってこと、納得。
不思議の国のアリスをモチーフに刻まれた、それ以外に特に特徴もない指輪。
アリスから始まって、チェシャ猫、帽子屋、三月ウサギ、ヤマネ、ハートの女王、時計ウサギで一周。
この小さな指輪に、よくこんなに掘り込めたものだと感心しながらじっと眺めていた。
わたしは本が好き。
小さいときからずっと本を呼んできたから、けっこうな量を読んできた自信はある。
その中でも、童話が特に好き。
本当は恐いんだよとか、残酷なんだよって言われても、好きなものは好き。
「おまたせっ、行こっか!」
「わわっ!?」
驚いた拍子に、ころんと、わたしの手の中から指輪が転がり落ちた。
「ちょっ、待って!」
買ってもいない商品をなくすなんて、ありえない!
慌てて拾おうとしたけど、ころころと転がっていく指輪はわたしの手をすり抜けていく。
特に坂でもないのになんで!?
「え、ごめん幸!」
謝る声を後ろで聞いた気がした。
それに返す言葉も忘れて、転がっていく指輪をわたしはひたすら追いかけた。
たくさんの人が行き交うこの道路で小さな指輪なんて、いつ見失うか分からない。
わたしはただ必死で追いかけた。
「なんでっ、止まらないの!?」
不思議なことに、ころころと転がる指輪はこんな人通りが多い中でもぶつからない。
避けてるみたいにころころと転がって、追いかけているわたしの方がぶつかっている。
必死で追いかけてると、気がつけば大通りを抜けて、閑静な住宅街を抜けて……桜の大樹が目印になる公園に入り込んでいた。
「どこまで、転がる、つもり、なの、よ、本当にっ!?」
何分走ったか分からないけど、体力のないわたしの息は切れ切れで、走っていると言うよりは歩いていると言ってもいいくらいだった。
肩で息をして、どうしてこんなことしているんだろう、って漠然と思うくらいに疲れた。
一つ大きく息をついて、また走る。
小さくて、きらりと光る銀色の指輪。目を放せばすぐにどこにあるか分からなくなりそうな、ソレ。
意思を持っているかのように転がっていく指輪を追い掛けるわたしは、いつの間にか桜の大樹の根元まで辿りついていた。
「どこっ」
幹に手をついて、荒い呼吸をする。
目の前をきらりと光るソレ。
ころころころ、と転がっていく指輪の先にあるのは、なんでここにそんなものがあるのか分からないけど、穴だった。
大きな、穴。
なんでこんなところにあるの? と思うより前に、指輪がその穴へと落ちてしまうような気がして、慌てて走った。
「まっ」
待ってって言おうとしたのかもしれない。言えなかったのはきっと必死だったから。
ころり、と穴の中へ落ちてしまいそうな、指輪に手を伸ばす。
それを手に入れなくてはいけない気がして。
それを落としてはいけないような気がして。
それはとても大切なもののような気がして。
ただそれを掴む事だけを考えて、わたしは必死で手を伸ばした。
冷たく小さなそれを、掴んだ。
「あ」
その瞬間、ぐらりと体が傾いた。
ずるりと、足が宙に投げ出される。
「きゃああああああああああああああああっ!!」
暗い穴の中に、わたしは飲み込まれるように落ちた。
叫びだした悲鳴は空気を裂いて上へ上へと消えていく。
びゅんびゅんと落ちていく浮遊感。
恐くて恐くて、それでもどこか義務のようにわたしは指輪をぎゅっと握り締めた。
くるくると、落ち葉のようにわたしは穴の中へと吸い込まれていく。
わたしにはそれを止める事なんかできないし、何か方法があっても、怖くて体が動かなかった。
叫ぶことも忘れていた。
ただそれを強く握り締めて、わたしはただただ暗い穴を落ちていった。




