08.赤い薔薇とトランプ兵
船に乗って分かったこと。
波が大きいときに横にならない方が良いってこと。
上下どころか左右にも揺れて、更に言えば大きい揺れで身体が跳ねて寝てるどころじゃない。
何、この今までにない揺れは。
「はぐぅっ!?」
がくん、と跳ねた揺れに危なく舌噛むとこだった。
外で朝日が昇ってくるのが見える。そっか、もう朝になったのか……。
わたしは水しぶきがあがる丸い窓から射し込む朝日に、目を細めた。
結局一睡もしてない。
揺れが酷くてまともに立ってなんかいられないから、着替えだってお風呂にだって入れてない。
何一つまともにできないくらい、速度を増して進む船の揺れは酷かった。
……今この時点で船酔いしてないのが奇跡だと思う。
「亀って、もっとゆっくりしてる、イメージなかったっけ……?」
ぽんぽんと……揺れるというよりは跳ねるって言ったほうが正しいのかもしれないけど、そんな船に乗ることになるとか、半日前のわたしには考えられなかったな。
だって、普通はこんなこと起こるはずないから。
いつもと同じように家に帰って、いつもと同じように学校行って、怒ったり笑ったり頭抱えたり……変わらない日常が続くはずだったのに。
それが今、海賊船と言われる【不思議の国】号に乗って、これから強奪行為をしようとしてるとか昨日のわたしに予想できたと思う?
「ふおっ!?」
急にぐんと後ろに重心を持っていかれることもあるから、海がしけてるときとか注意しないとだよ、うん。
まさか船と同じ大きさの偽ウミガメに引っ張られるだけで、跳ねるほどの揺れが起こるスピードで進む体験なんか、誰もしないと思うけど。
激しい揺れに四苦八苦してると、トントン、と扉を叩く音がした。
しぶきをあげるくぐもった波の音しか聞こえないこの部屋でも、ノックの音はちゃんと聞こえるんだなって、眠くて仕方ない頭ではどうでもいいことを思って返事が遅れた。
「……寝てんの?」
「あ、どうぞっ」
控えめに掛けられた声に、慌てて返事をした。
まともに立つことすらできないから、扉を開けることが出来ないなんて、情けないとは思うけど。
「なんだ、やっぱりおーあたり」
扉を開けたのはニヤニヤと笑うチェシャだった。
いや、いきなり大当たりとか何?
「とりあえず、おはよユキ。寝てないでしょ?」
「え」
「図星? やっぱ分かりやすいよね、あんた」
思わず頬を押さえたわたしだったけど、カマかけられたって言うか、ただの当てずっぽうで言われただけだったんだ。
そんなに隈目立つかな、って不安に思っちゃうじゃないか。
こんなとき、自分の鞄があればよかったなって思う。
元凶である指輪を見つけた露天で、荷物が多くて足元に置いてたから本当に何もないんだ。
せめて携帯かポーチの一つでもあれば、って思うのは仕方ないよね。
「揺れ酷いから、寝れるはずないって分かってたけど」
「船に乗ったのだって初めてなんだから、仕方ない、でしょ」
「……その跳ねるの、見てる分には楽しいかも」
「わたしは全っ然、楽しくなんかないんだけど」
入り口に寄りかかっているチェシャは、わたしが揺れに苦戦しているのをニヤニヤ笑って見ている。
ニヤニヤ笑ってるのはいつものことなんだろうけど、馬鹿にされているみたいでイラっとする。
イラッとって言うか、ムカつく。
「まぁ、ユキが面白いのは別に良いけど、さ」
三白眼になりながらチェシャを睨みつけてたけど、チェシャは気にしてる様子なんかない。
それどころか、わたしが座るだけでも四苦八苦している揺れに、チェシャはなんてことないようにすいすい歩いてくる。
「な、何?」
「どーせ寝られないんなら、一緒に来る?」
「は?」
「それとも、一人で対策練ってたかった?」
わたしが一人で余計なこと考えていないように、気を使ってくれてるってこと?
この、チェシャが?
目の前でわたしをニヤニヤと見下ろしてくるチェシャを、ビックリして見返していると、ずいっと顔を近づけてくる。
「どっち?」
「……い、行く」
近さにぎょっと身を引きながらの答えだったけど、それでもチェシャは満足そうに笑った。
ごめん、数分前のわたしを恨んでもいいよね。
何で勢い任せで頷いたんだ。もっと深く考えてから物事を判断しようか、って言いたくなる本当に。
「ねぇチェシャ。本当に、お願いだからおろして」
「だーめ」
「自分で歩くから、本当に全力でお願いするから下ろしてよねぇ!」
子どものように駄々をこねながら、わたしはチェシャから精一杯離れようとあがいていた。
それでもチェシャは離してくれないし、面白そうに喉で笑ってるし……。
簡単に今の状況を説明すると、わたしはチェシャに、その、抱きかかえられている。
世に言う“お姫様抱っこ”ってやつ。
どれもこれも、すごい揺れでまともに立ってられないわたしが、行くとか言っちゃったことが悪いんだけど。
「大丈夫、覚悟してたよりは重くないし」
「ちょっと!」
「プティング食べても平気なんじゃない?」
「っ!?」
だから、その、ただでさえ近い距離なのに、さらに顔近づけてくるのやめてほしいんだけど……!
しかも、昨日の食堂でのこと引っ張ってくるし!
精一杯チェシャから離れようとしても抱きかかえられている身としては全然離れられないし、チェシャは相変わらずニヤニヤ笑ってるしで……、
わたしは赤い顔になっているのを自覚しながらただ睨み返すことしかできなかった。
「何それ? 抵抗のつもり?」
「……今できる些細な反抗」
「そ。俺全然なんともないんだけど」
ニヤニヤと見下ろされる。
アーモンド型の金色の瞳に、わたしの赤い顔が映ってるのが見える。
何も言い返せない。
本当は今すぐにでもその顔一発叩いてやりたいくらいなんだけど、このわたし一人じゃ立ってられない揺れで下ろされたくないから我慢。
それに、広がらない仕様のスカートとは言え、裾がだんだん下がってくるからそっち抑えるのに必死だし。
「おや、これは丁度いいところに」
とんと耳に響いたのは、帽子屋さんの心地良い声。
こんなとこ見られるのも恥ずかしいんだけど……。
わたしは思わず俯いた。
「アリスをお迎えに使わされたところでした」
「何、敵?」
右に左に傾いているけれど、チェシャも帽子屋さんもなんてことのないように立ってるのはすごいな。揺れる方向が分かってるみたい。
チェシャの腕に抱かれながらも、わたしの髪は右に左に揺れて跳ね返ってきているから、相変わらず自分では立てそうにないんだけど。
「えぇ。幸か不幸か、あちらからお迎えして頂けたようなので」
「うわ、嬉しくない出迎え」
「すぐに出撃準備をお願いします。先手を打ってしまいたいと、クイーンは仰ってますから」
恥ずかしいとかそんなの関係なくなった。
出撃だ。
予想より早く【地下の国】号に追いついた。追いついた、と言うよりは待ち迎えられたのかもしれない。
うまくできるかどうかなんか分からないけど、それでもやらなくちゃいけないんだ。
あの子の涙を止めてあげるために。
止めてあげたいから、わたしはやるんだ。
「行ける?」
「……行くよ。大丈夫、やる」
「ならいいけど」
チェシャの声に、しっかりと返した。
わたしは偽者のアリス。でも、あっちだって偽者のアリスだと公爵夫人は言っていた。
本物にはなれなくても、この【不思議の国】号のアリスとして負けたくなんかない。負けられない。
海賊だからなんだ。
強奪だからなんだ。
異世界だからなんだ。
分からなくったっていい。
戦わないで逃げたっていい。
それであの子の涙が止まるなら。
それがわたしを認めてくれた【不思議の国】号のためになるのなら。
「行こう」
チェシャの目をしっかり見て、わたしは自分の意思で言い切った。
チェシャに抱きかかえてもらったまま、わたしは甲板に出てクイーンさんと合流した。
甲板の端の方は水しぶきでびちゃびちゃで、霧雨のような水しぶきは飛んでくるけど、まだましな中ほどの場所で下ろしてもらった。
もちろん、ふらつきながらチェシャの腕にしがみついて立っている状態だけど。
「マッド、減速だ」
「かしこまりました」
帽子屋さんがさっと腕を振るうと、それが偽ウミガメに伝わったみたいでゆっくりと速度が落ちる。
揺れもそれと同時にそんなに酷くなくなって、さっきみたいに跳ねるなんてことはなくなった。
……それでも、まだふらついちゃうからチェシャの腕は放せなかったけど。
「……見えるか?」
すっとクイーンさんが指し示した方を見ると、穏やかな海にぽつんと小さな影が落ちている。
朝焼けの空に、黒いインクを落としたようなその船は、わたしが船長室で見せてもらった【地下の国】号だって分かった。
細かいところまでは見えないけど、でも黒い戦体に施された白縁に、赤い薔薇装飾のマストだけはハッキリと見える。
この【不思議の国】号と対照的な船は、朝焼けの空と白と青が入り混じった海に異様なほど浮き出ていた。
「【地下の国】号、ですよね」
「……誘い込むように待っているからな。招待を受けないわけにはいかないだろう?」
「うわ、船長久々にヤル気じゃない? 最悪」
「せいぜい巻き込まれないようにしてろ。お前もだ、アリス」
ニヤリと挑発的な笑みを浮かべて、面白そうに鼻をならしたクイーンさんに、嫌な予感がしながらわたしは頷いた。
チェシャが最悪って言うくらいだから、ろくなことにならないのは確定みたい。
「……全力で努力します」
「アリス、あまり無茶はなさらないでくださいね」
「帽子屋さん、それクイーンさんに一番言ってください」
「ふふっ、だそうですよクイーン」
「……言ってろ」
だからなんだとでも言いたそうなクイーンさんはそれを一蹴した。
クイーンさんがどれくらいの力を持ってるのかは分からないけど、それでも、わたしが巻き込まれないようにするには、クイーンさんに無茶されないのが一番なんじゃないかと思う。
「……怖気づきでもしたか?」
異議ありとでも言いたいわたしの視線に、クイーンさんは明らかに見下したような目で馬鹿にしたように言ってくる。
全然怖気づいてなんかいないとか言えないんだけど、噛み付くように言い返すのは違うような気がする。
視線だけは逸らさないでクイーンさんを睨み返していると、ぽそっとチェシャが耳打ちしてきた。
……それ言ってもいいの?
驚いてチェシャを見上げると、チェシャはニヤニヤしながら頷いてくれた。
そんなチェシャに後押しされるように、わたしは船長を真っ直ぐ見た。
「船長が、守ってくれるんでしょう?」
あなたがわたしをこの船のアリスと認めたんだから。
その意味を込めて言うと、切れ長の碧眼を少し大きく見開いてわたしをまじまじと見つめてきた。
それから、どこか楽しそうにニヤリと笑った。
「当然だろうが」
当たり前のことを言わせてくれるなと、クイーンさん……ううん、船長はちゃんと言ってくれた。
大丈夫だ、なんとかなる。なんとかしてみせる。
その言葉が嬉しくて、私も船長に向かってニッと笑って見せた。
船長みたいなカッコいい笑い方は出来ないけど、それでも自信あるように見えるかな。
「俺の言ったこと、間違ってなかったでしょ?」
「うん。ありがとうチェシャ」
チェシャがひょいと肩をすくめながらそう言ってくるから、わたしは笑顔を浮かべたままチェシャを見上げた。
さっきチェシャが言ってくれた言葉。
『俺らはユキを守るためにいるんだからさ。船長にも言ってやりなよ』
わたしを守ってだなんて、自分で言うのも図々しいと思ったけどね。
クイーンさんじゃなくて船長って言うのも勇気がいったんだけど、でもそれが船長の望む答えだったらそれでいい。
守られてるだけの存在になりたくないなんてカッコいいこと言えないけど、それなら自分のできることくらいはやらないと申し訳ないよね。
「それでは、送ります」
帽子屋さんがさっと腕を振るうと同時に、わたしの視界は光で埋め尽くされた。
あぁ、【地下の国】号に送られるんだ、だなんて。
光が消える頃それを理解して、目を開けたときに広がっていたのは……
「……薔薇園?」
「みたいだね」
少しも驚いた様子がないチェシャに、これは予想済みだったのかと思う。
チェシャが予想済みでもわたしにとっては予想外だったんだけど。
てっきり【地下の国】号の船に送り込まれると思ってた。
「なんで薔薇園?」
揺れてない地面だからチェシャに捕まっていた手を離して、朝露の降りた薔薇をまじまじと見つめる。
これ、本物の花だよね?
むせかえるような強い香りに包まれて、鼻がおかしくなりそう。
鮮やかに映る赤い薔薇と緑色のコントラストに、わたしは疑問符を浮かべるばかりだった。
「船長、これからどーすんの?」
「突破するだけに決まってるだろうが」
「だよね。でも、ユキがいるのに強行突破でもするつもり?」
「……ちっ」
ありがとうチェシャ。本当にありがとう。
何をするつもりだったのかは知らないけど……分かりたくもないけど、強行突破って嫌な予感しかしなかったから、止めてくれたチェシャには本当に感謝したい。
「あの、これってどういうこと……?」
「……」
船長が不機嫌そうに眉をひそめた。
うん、船長は説明するの嫌いなんだってことはもう分かったから、船長に状況説明をしてもらおうだなんて期待してない。
「あいつらの幻術。突破するには壊すか、かけた奴叩くか、地道に出口を見つけるか……だっけ?」
「幻術……つまりここは本当は船なんだけど、薔薇園に見せているってことだよね?」
「……いや」
わたしなりに噛み砕いて理解しようとしたところを、船長に否定された。
公爵夫人の館であったような、あれじゃないの?
「この空間だけ切り離されているからな。この薔薇園は幻術じゃない。本物だ」
「えっと、幻術じゃないってことは……どういうこと?」
「【地下の国】号に送られた瞬間、ここに飛ばされたってことじゃないの?」
至極どうでもよさそうに肩をすくめたチェシャの言葉に、分かったような分からないような……。
とりあえず、ここは【地下の国】号の領域内なんだけど、【地下の国】号の船ではないみたいな?
あやふやな状況でよく分からないけど、でも船長もチェシャも全く気にしてないからわたしも気にしない方がいいのかもしれない。
そっちの方が楽そうだ。
「それで? どーすんの?」
「あは、どーもしなくていーんじゃないのぉ?」
ビクリと、肩が震えた。
わたしは知ってる。この間延びしたような声を、知ってる。
だってそう。わたしはこの声を公爵夫人の島で聞いた。
殺されるかと思ってこの声から必死に逃げたんだから。
ここは【地下の国】号の場所なんだから、居て当然じゃないか。
「そこにいる娘って、島にいた娘だよねぇ?」
「っ!」
反応するな、馬鹿。
大丈夫だから。船長だってチェシャだっているから大丈夫。いきなり殺されたりなんかしない。
偽者アリスでも、守ってもらえるって言ってくれたから大丈夫。
そう心の中で何度も呟いて、わたしは緊張しながら間延びした声の主を見た。
薔薇のアーチの真ん中で、パラパラとトランプを弄っている優しそうな顔した人。
跳ねたマロン色の髪がふわりと広がって、少し大きな猫目の瞳が中性的な人に思わせる。胸元にあるチェックの大きなリボンがやけに目に付いた。
「もしかしてぇ、そっちの“アリス”?」
「だったらなんだ?」
不機嫌そうな声で船長が高慢的に言うと、その人はぱらぱらと弄っていたトランプを一つにまとめて、やる気のなさそうに立ち直った。
「面倒だけどぉ、始末しろって言われてるんだよねぇ」
「へー、できると思う?」
ニヤニヤと笑ったチェシャが前へ出た。
「試してみよっか。あんたができるかどーか」
パンッと甲高い音で何かが破裂するような音がしたかと思えば、わたしは船長に手を引かれて後ろに隠されるように立ち位置を変わった。
さっきの音が銃弾を放った音だと気付いたときには、間延びした話し方をする【地下の国】号の人がトランプを放っていた。
チェシャがそれを全て打ち落とすと、カードがさくっと音を立てて地面に突き刺さる。
……と、トランプって武器になるものだっけ?
「逃がしたら、また怒られるんだよねぇ」
「怒られてればいーんじゃない?」
「ヤだね。邪魔しないでほしいって言うかぁ、迷惑……!」
ひょいとチェシャが動き出すと、トランプをシャッフルしていたその人は、チェシャの動きに合わせてトランプを手裏剣みたいに放つ。
チェシャが難なく避けて、目標を失ったトランプはそのまま綺麗に咲き誇っていた薔薇の花を散らせた。
いや、トランプじゃ薔薇は切れないものだと思うんだけど。
「船長、巻き込まれると悪いからさっさと行っちゃってよ」
「始めからそのつもりだ」
「え、ちょ、船長!?」
何またこの人チェシャをあっさりと見捨てようとしてるの!?
抗議しかけたわたしなんか気にもしないで、船長はわたしの腕を掴んでこの場から立ち去ろうとしている。
「行かせるつもり、ないんだけどぉ……っ!」
ぱっと放たれた薔薇の花を切ってしまえるトランプの札に、チェシャが左手で持ったサーベルを振りかざして叩き落した。
なんでトランプなのにカキンとか、金属の音が鳴るの!? トランプって紙でしょ!?
「残念。これも失敗」
「お前が邪魔なのが悪い」
対峙するように武器を持って向かい合った二人を後ろに、駆け出したわたしたちだったけど、不意に船長が振り向いた。
「おい、猫!」
二人が嫌そうな顔をして船長を見た。
……ってことは、この人はダイナって呼ばれる人なのかもしれない。
ダイナはアリスの飼い猫の名前だから。
「……傷一つでも負ってみろ、船内で飼い殺してやる」
「うっわ、最悪。……ほら、うちの船長の方が性質悪いと思わない?」
「だからって、同情なんかしてやれないけどねぇ……!」
船長が再び走り出すのと同時に、後ろからまた金属が擦れあう音とか銃弾を撃つ甲高い音が聞こえてくる。
その音にいちいちビクビクしちゃうわたしだけど、震える足はなんとか動いている。船長に引っ張ってもらって、なんとか。
人のことなんか気にしてる余裕なんかないんだけど、それでも、言いたかった。
「気をつけて……!」
「……りょーかいっ」
振り返ってる余裕もなくて、ただお腹の底から吐き出しただけの震えた声だったけど、それでもチェシャに届いた。
パンッと響く音と一緒に、チェシャの機嫌の良さそうな声が返ってきた。
見なくたって分かる。今絶対チェシャはニヤニヤと笑ってる。
チェシャ猫だから?
……きっとそうかもしれない。
「……止まれ」
どれくらい走っただろう。
少なくともチェシャとダイナって呼ばれる人の、戦う音が聞こえなくなるくらいには遠くに来ているのは確か。
迷路のような造りになっている薔薇園で、全力で走らされたわたしは、肩で荒い息を繰り返しながら植え込みのそばで屈みこんだ。
こんなに全力で走ることなんて、体力測定のときくらいだから、ちょっと、辛い。
流れ落ちる汗が目にしみる。酸素を吸いたいのに、薔薇のキツい香りを吸ってるような気がしてならないのは何で?
「はぁっ……、はぁっ!」
「……浅い呼吸を繰り返すな」
「ちょっ、ちょっとまっ……」
不機嫌そうに言われたけど、今は落ち着かせるのに必死でそれどころじゃない。
いきなり止まっちゃ駄目だとか、浅い呼吸をするより深呼吸した方が早く楽になれるとか聞くけど、そんなことやってる余裕なんかないよ。
ただ精一杯息を吸って、胸の苦しさをとるのに必死だった。
「……仕方ない。そのままでいいから聞け」
面倒くさそうにため息をつかれて、わたしは荒い息のまま船長を見上げた。
「このままだといつ目的を達成できるか分からん。効率的に動くためにお前の力を使え」
「ち、から……?」
「“声”が、聞こえるんだろう?」
奪われた【神子の玩具】の“声”を聞け。
船長はそう言いたいらしい。
その方が、効率的に目的を達成できるから。
【地下の国】号に乗り込む前に、決めていたことがある。
偽者なのに聞こえる、【神子】にまつわる“声”。
わたしが“声”を聞けたのは、いつもアリスの【証】と言われる指輪が関わっているとき。
【神子】は、指輪がわたしをアリスの代わりに求めたと言っていた。
それから立てたのは一つの仮説。
裏付けも信憑性も、何にもないけれど。
この指輪が、【主人公】たちが持っている能力の代わりをしてくれているんじゃないかって。
だから、わたしは【神子の玩具】に関係あることはとりあえず指輪に触れようって、決めてた。
「……うまくいくかなんて、分からないですよ?」
「……弱気になるのは失敗してからにしろ」
前髪をかき上げながら、船長は面倒くさそうに吐き捨ててきた。
言葉にしていなくても船長命令だって、そう言っている気がするんだけど。
わたしは震える指で、服の上から指輪を握り締めた。
やわらかい布の感触の下に、丸い指輪があるのが分かる。
「……声を、聞かせて」
あえて声に出して言うのも、そう強く自分に暗示をかけるため。
何度もそう都合よく行くとは思ってないけど……。
それでも、これが【不思議の国】号に乗せてもらったわたしの役割だから。どうか、声を聞かせて。
もう一人のぼくがいるよ! 近くに、あっちに、感じるよ!
急かすような声に、わたしはパッと顔をあげた。
聞こえた。この【神子の玩具】の声が聞こえた!
「こっち! こっちです!」
「……聞こえたのか?」
「はい! こっちに感じるって、そう言ってるから……と?」
わたしが声の聞える方へと駆け出そうとしたら、船長にまた腕を掴まれて止められた。
こっちから聞こえるって分かるのはわたしだけだから、船長を先導しないととか思ったんだけど、どうして止めるの?
「船長?」
「お前の体力のなさと、この面倒な迷路に付き合ってられるか」
酷い言い草だけど、否定できない。
あからさまに不機嫌そうな船長が、帽子屋さんみたいにさっと腕をあげた。
それから、目の前の薔薇の茂みに向かって振り払って……
「失せろ」
ザシュッと、切り刻むような大きな音が聞こえたかと思えば、そこ一帯の薔薇の迷路がパッと裂けた。
見えるところ全部、船長が振り払った範囲にある薔薇が全部!細々とした花びらになって切り裂けていた。
はらはらと舞う無残に切り刻まれた赤い花びらが、より強く香ってる気がする。
むんと、濃厚な香りが鼻についた。
「……それで、こっちだな?」
わたしがさっき指し示した方向に向かって、船長は細々と刻まれた緑の蔦や葉、赤い花びらを踏みしめて歩き出した。
結局強行突破したってことになるんだけど、これって大丈夫なのかな?
「あの、船長」
「……くだらない疑問は却下だ」
「でも、これって【地下の国】号の人に、簡単に見つかっちゃうんじゃ……」
なるべくなら衝突とかしたくないんだけどって、そう考えているわたしっておかしいのかな。
ふわりと風が吹いて、地面に散らばった赤い花弁を舞い上がらせた。
船長は小さく鼻で笑って、わたしを見下した。
「だからなんだ?」
見通しの良くなったこの場所に舞い上がる赤い花弁。濃厚な香りをも奪い去ってしまうように吹いた風は、船長のそばを駆け抜けていくよう。
挑発するように口元を引き上げた船長に、その光景に目を奪われた。
あぁ、この人は赤い薔薇が似合う。
咲き誇った薔薇じゃない。
儚く散ったとしても尚、その存在感を主張している赤い花弁が船長の偉高さを表しているみたい。
ハートの女王を名乗っているだけの気高さと、威厳がそこにあった。
「見つかったら叩き潰すだけのこと」
まぁ、それを目的にしているのも否定はしないが。
そう言って、船長はわたしが指し示した方向に向かって歩いていってしまうから、わたしは慌ててそれを追いかけた。
薔薇の花弁が足元に敷き詰められていて、歩くたびにぱっと舞い上がる。
そうやって船長に追いついたとき、それは起こった。
「人の庭園を勝手に荒らすとは、躾がなってませんね」
「なっ!?」
ぶわっと巻き起こった小さなつむじ風に、切り刻まれた薔薇が吸い込まれていく。
そして、その風が収まったときにそこにいたのは……
「躾直しましょうか」
上品な服を着た、片目の男だった。
その人の特徴を挙げるなら、右目を覆う長いダークブラウンの前髪と、丸い片目眼鏡。それから、タキシードみたいな礼服。
率直に言うなら、隙のない人って思った。あまり近づきたくないタイプ。
それ以外に……、なんて言えばいいんだろう。印象に残りにくいと言うか、特徴があまりないと言うか……。
「……お前は何だ?」
「人にものを尋ねるにはそれなりの礼儀が必要でしょう、女王?」
「俺が礼儀を払うような相手か、お前は」
二人の間に火花が散ったような気がした。
ピリピリとした雰囲気に、これが一触即発なんだって肌で感じて、わたしは全然動くことなんか出来ない。
「ねー、せんせいどこー?」
二人の……わたしたちの気を引いたのは、この空気を破ったのは少し舌足らずのあどけない子どもの声。
“せんせい”って、言った……?
それじゃあ、この人が帽子屋さんが言っていた【地下の国】号の先生ってこと?
ひょいと後ろの薔薇の茂みから顔を出したのは、左目を覆う眼帯がその可愛らしい姿に不似合いな……
「あ、りす……?」
「おねえさんだ!」
ふわふわの長い金髪をなびかせて、水色のエプロンドレスを翻しながら小さなアリスは無邪気に笑った。
公爵夫人にこの子も偽者だって言われてたのに、こう見るとやっぱり本物のアリスなんじゃないかって思う。
不安になって船長の方を振り返った。
船長は小さなアリスに興味がないようで、先生を鋭く睨みつけたままだった。
「アリス、こちらへ来なさい」
「でもせんせい、おねえさんが」
「二度も言わせるつもりですか?」
「……はーい、ごめんなさいせんせい」
パタパタと慌ただしく先生に駆け寄る小さなアリスに、わたしは罪悪感ばかりが沸きあがってくる。
だって、あの子がアリスを名乗るのが当たり前のように思えて、わたしが偽者を名乗るのは間違っているように思えるから。
わたしなんか、全然、どこもアリスになれるような子じゃないから。
「……来い」
俯きかけたわたしの腕をひいて、船長は自分の隣にわたしを立たせて重そうな銃を構えた。
小さな、アリスに向けて。
「その物騒なものをアリスに向けてどうするつもりです?」
「所詮偽者だ、問題はない」
「偽者はそちらのお嬢さんでしょう? まぁ、その方をアリスと呼ぶには難しいでしょうが」
「素質がそれよりあるのは間違いないがな」
船長が挑発するように先生に向かってそう言うと、空いてる片手でわたしの背中をぽんと叩いた。
大丈夫だとでも言ってくれそうなそれに、わたしはぎゅっと服の上から指輪を握った。
もう一人のぼくが呼んでる! 近くに、あっちで、泣いてるよ!
小さくなる飲み物がそう叫んでいる。
大きな青い瞳をきょとんと丸くさせた小さなアリスに、この声は聞こえているの?
「アリス、この声が聞こえる?」
「こえ? おねえさんのこえはきこえるよ?」
「違うの。泣き叫んでいる子どもの声、あなたには聞こえる?」
こんなにも大きくなるケーキと離れ離れになって泣いている小さな飲み物の声が、あなたには聞こえる?
「おかしなおねえさん。だれもないてなんかないよ?」
その言葉に、どんなにアリスの格好をしていても、この子は違うんだって思った。
【神子】は本物でも声が聞こえないって言っていたから、偽者だって断定はできないけど。
それでもこの声が聞こえるのがわたしだけなら、わたししか出来ないことをやるだけだ。
ぐっと顔をあげて息を吸った。
「大きくなるケーキを返してもらうわ」
まっすぐに先生を見て、わたしはそう宣言した。
先生は片目眼鏡越しに鋭く細めた瞳で、わたしを見下してきた。
大丈夫、始めの船長に比べれば全然怖くなんかない。
怖かった船長だって、今はわたしを守ってくれるって言ってくれた。だから大丈夫。
「偽者が何を言い出すと思ったら……」
「貴方にそれを言われたくない。……先生だなんて、作者の偽者をしてる人に言われたくないわ」
「……あなたは、何者ですか?」
のどから押し出されたような声に、動揺を隠しきれていない。
何回目だろう、わたしが何なのか聞かれるのは。
わたしはだぁれ?
そんなの正確には答えられないけど。でも、今は違う。
「わたしは【不思議の国】号の偽者アリス」
「おねえさん、ボクのニセモノなの?」
小さなアリスがきょとんとしながら言うけれど、それに答えるつもりなんかない。
わたしは【主人公】であり【娘】であるアリスの偽者で、この子の偽者なんかじゃない。
その意味を正しく理解してくれたらしい先生は、失笑を漏らした。
「その偽者にどうして返すようなものがあるでしょうか?」
「本来の持ち主に返すのは、当然のことだろうが」
「本来の持ち主なら、ここにいるではありませんか。本物の、アリスが」
片目しか見えない青い瞳をくりくりとさせながら、小さなアリスが先生を見上げた。
「本物気取っている人の言うことなんか」
「ところで、貴方は何を知っているのでしょうかね? 私が、偽者などと嘯くなんて」
「嘘なんか言ってません!」
だってそうでしょ?
不思議の国のアリスの作者、ルイス・キャロルは数学学者で、教鞭を握っていた人だもの。リデル家の三姉妹がそんな彼のことを先生を呼ばなかったなんて、誰がそう言いきれるの?
アリスにそう呼ばせることで、自分が作者にでもなったつもりでいるのなら、それこそ頭がイカレてる。
「【地下の国】号にいるのは、アリスと飼い猫のダイナと、先生って呼ばれる人だけ。現実世界にいる人たちばかりの名前をつけるなんて、自分たちはまともだって言いたいんですか?」
「……何を知っているとでも言うのでしょうか、そんなちっぽけな存在で」
先生の手にいつの間にか握られた鞭が、ぴしりと音を立てた。
「貴方は少し、伝承について詳しすぎぎる。知識とは時に身を滅ぼすこととなるのですよ?」
「……お前に人のことを言えるのか?」
船長が照準を小さなアリスから先生へと合わせた。
やだな、また一触即発な雰囲気だ。
どうしてこう、平和的な解決に向けることができないんだろう。
そう考えるのは、わたしが平和ボケした頭だからなのかもしれないけれど。
「お前は先生と名乗るに値しない」
「……では、なんだと言うのでしょうか? 単純な頭の女王陛下なら分かると?」
「……アリス、お前なら何と言う名をつけてやる?」
わたしに話をふられたけれど、二人の間で交わされる言葉の深い意味なんか、考えてられる状況じゃない。
この状況をなんとかしないとって、そんなことばっかり頭を巡る。
小さなアリスはきょとんと先生のそばにいる。
先生は鞭を片手に船長を鋭い目で睨んでいる。
船長はそんな先生に銃を向けて、嘲笑しているかのように見下している。
わたしは、“声”が聞こえながらも動けないでいる。
目的なんか単純に分かっているけれど、そんな単純なことですらできない。
身体は強張っているけど、足が震えているわけでもないし、動けないわけじゃない。
どうしたらいいのか、考えて。考えて、動け!
「わたしなら……、ドードー鳥って呼びます」
「ドードー鳥だと?」
「知りませんか? ドードー鳥は、ルイス・キャロルの本名に一番発音が近いってこと。彼が物語の分身として登場させたのは、アリスだけじゃないんです」
アリスが喜ぶように、現実の人物をちょっとずつ混ぜて、作り上げた不思議の国の住人に、どうして彼が混ざってないと言えるの?
こんな推論と推測の飛び交う話だから、いろんな人がいろんな解釈をして、引き込まれる。
それが【不思議の国のアリス】と言う物語なのだから。
わたしがどう解釈して、どう動いたって、それでさえこの物語の一つだって言えるんじゃないの?
わたしがそう断言すると、船長と先生は小さく肩を揺らして笑ってた。
「我が船のアリスを舐めない方がいい」
「えぇ、十分イカレた考えをお持ちのようだ。ただのお嬢さんとは思えない」
「せんせい、なにがおもしろいの?」
小さなアリスが、不思議そうに先生を見上げた。
そんなアリスの頭を優しく撫でて、ニヤリと口元を引き上げた。
なんだろう、すごく嫌な予感がする。
「……コーカスレースを始めましょうか」
「は?」
「あぁ、面倒だからな。それでいい」
「ちょっと船長……!?」
意味がよく分からないものに、なんでそんなにあっさりと頷けるの!?
そんなわたしの声も船長は気に留めてくれないで、ガチャリと重そうな銃を鳴らした。
「聡いお前には、コーカスレースがなんなのか分かるだろう?」
「……あの、ぐるぐる回って身体を乾かそうってやつのことですよね?」
「……間違ってはいないがな」
コーカスレースはドヤドヤ競争って訳されることもあって……。
ええと、アリスの涙で作られた池に落ちた動物たちと手を繋いで、ぐるぐる回って身体を乾かそうって言うアレのことを指しているんだと思う。
それをレースとして言ったのはドードー鳥で、一番早くに乾いた人の勝ちとかなんとか言ったんじゃなかったっけ?
「貴方が私をドードー鳥と言うのでしたら、私はコーカスレースを開催する権限を所持できますからね」
「せんせい、コーカスレースってなぁに?」
「簡単なことですよ」
もちろん貴方も分かっているでしょう、と船長に向けて目配せをする先生に、船長も当然だと言うように鼻で笑って応えた。
わたしには全然、分かんないんだけど。
「ルールは極めて単純ですよ。それを手に入れた者が勝ち。それだけです」
……それがなんなのか、何が言いたいのか分かった気がした。
「実に単純明快なルールはお気に召して頂けましたかね?」
「あぁ、面倒がなくてクロケーをするより楽だ」
「それでは、問題ありませんね」
先生がとんと、小さなアリスの背中を押したと同時に、わたしも船長に肩を押された。
一目散に走り出した小さなアリスとわたしの背中に、先生のどこか楽しそうな声が聞こえた。
「楽しいコーカスレースの始まりですよ」
同時に聞こえる爆音。
爆風に押されるように走り出したわたしの近くで、小さな足を懸命に動かしながら走る小さなアリスが無邪気な笑い声をあげた。
「たのしい、たのしい、コーカスレース!」
全然、楽しくなんかない!
そう叫びたくても、そんなこと言えなかった。後ろでは連続した爆音が響き渡っている。振り返えらなくても分かる。
何をしてるかって、船長と先生が戦ってるんでしょ?
どうやってとか、何を使ってとかは考えたくなんかない。わたしはヤマネくんやチェシャを置き去りにして行ったように、船長までも犠牲にして逃げ出したんだから。
逃げだした……?
ううん、違う。
あっちだよ! あっちで、泣いてるんだ!
「わかっ、てる……!」
強く握り締めた指輪と、ポケットに入っている小さくなる飲み物を強く感じながらわたしは真っ直ぐ前を見た。
わたしには、わたしの目的があるんだから、そのために動くだけだ。
そのために協力してもらって、脅威になる彼等の相手をしてもらっているんだから。
そんな彼等に報いるために、わたしは見つけるだけだ。
「おねえさんと、きょうそうだねっ!」
この小さなアリスより先に奪われた【神子の玩具】を、大きくなるケーキを手に入れるんだ。
なんでもありなコーカスレースに勝つことが、わたしにできることで、やるべきことなんだから!
「ボクまけないよー!」
「わたしだって!」
大人気ないと言われそうな答えだけど、わたしだって【不思議の国】号の偽者とは言えアリスを名乗っているんだから。
同じアリスを名乗るこの子に負けたくなんかなかった。
『あなたはアリスに成り代わろうとしているの!? あなたがアリスになれるとでも思っているのかしら!?』
ふと、公爵夫人にそう言われたことを思い出した。
わたしがアリスになれるはずない。わたしはアリスじゃないのは事実だから。
……それでも偽者は本物に憧れるんだ。
本物になれたらって思うんだ。
本物になりたいと思ってしまうんだ。
それが酷く滑稽に見えたとしても、わたしは本物の代わりに動きたい。
わたしが偽者でもアリスと認めてくれた人たちのために。
わたしに目的を与えてくれた人たちのために。
何より、わたしのためにも。




