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Melancholy Summer

作者: 山本まや

午後はゆっくりと進んでいく。

金澤靖幸がこの町へやってきてから三日。あくまでも穏やかに、時間は過ぎて行く。

町営の宿に連泊したのは正解だと思った。

この町には普通の温泉旅館ももちろんあるのだが、行き届いたサービスを目指して仲居が出たり入ったりするのでは、かえって落ち着きようがない。

けれどもこの宿は、温泉付きではあるが町営のため、夕飯を予約していなければ、布団を敷きに来るときぐらいしか宿の者はやって来ない。

一日目は宿で夕飯を頼んだ。しかし、二日目からは、町の飲み屋へ出かけるようになった。余所者が珍しいのか、飲み屋の主人はとても愛想がいいし、おまけにいろいろな肴をサービスで出してくれる。夜の10時に閉店してしまうことを除けば、味も値段も、宿で夕食をとるよりもはるかに良心的だった。

 町には千枚田や渓谷めぐり、そして温泉などのひととおりの観光名所はそろっているものの、夏休み中というオンシーズンのわりに、ずいぶん閑散としていた。おそらくは、交通の不便さが理由だと思われる。JRの路線は隣町までしか通っておらず、高速道路となると、そのまた隣町までしか通っていない。あと数年もすれば、この町まで高速道路が通るらしいが、それにしても、温泉や渓谷めぐりにこんなところまでやってくるのは、よほどの暇のある者か、この町にゆかりのある者くらいだろう。かくいう靖幸も、以前に小さなガイドブックの取材に同行して、この町に来た事があった。それを思い出して、ふと立ち寄ったに過ぎない。

靖幸はフリーのカメラマンだった。今回は仕事でこの町へやって来たわけではなかったけれども、出かけるときには必ずカメラを持ち歩いている。

撮影用の本格的なものではなく、持ち運びに便利な小型のデジタルカメラだが、性能は悪くない。

靖幸はぼんやりと、宿の下を流れる川に眼を向ける。

宿の部屋には、小さいながらも洒落たテラスが設けてあって、靖幸はそこから川の流れるのを眺めるのが好きだった。

川は透明というよりも澄んだエメラルドグリーンの色をしていて、宿の前で、90度近くのカーブを緩やかに描いている。

靖幸は立ち上がった。

テラスから眺めるのも良いけれど、もう少し近くで川を見てみようという気持ちになったからだ。



宿の前の坂道を下ると、テラスよりもさらに川面が近づいてくる。近づけば近づくほどに、部屋から眺めていたのとは違う風景が生み出されていく。

靖幸は何度も立ち止まりながら、カメラのシャッターを切る。

一歩進むごとに、その風景は変化しているように見えた。

曲がりくねった坂道の途中にベンチが置いてあったので、そこに腰掛け、煙草に火をつけた。

煙草の煙をぼんやりと燻らせながら、靖幸はエメラルドグリーンの流れを眺める。色がついているのに、水は恐ろしいほどに澄んでいて、まだずいぶん川面から高い位置にあるこの場所からも、川底のゴロゴロとした石の姿がはっきりと見える。

ただひとつ、気になることがあった。河原には下りることができるはずなのだけれども、靖幸の視界は、一度も人の姿を映さない。

確かに宿の空き状況を見れば、この町に滞在している人自体が少ないのだとはわかるのだが。

もう少しこの川を見に来る人がいてもいいだろうに……そんなことを靖幸は考えていた。

手元まで熱くなってきたのに気づいて、靖幸は慌てて煙草をもみ消した。

靖幸は立ち上がり、さらに坂を下り、川原のほうへと足を向けようとしたのだが。

「お客さん」

靖幸の背に、宿の男が声をかけてくる。振り返ると、宿の男は少し難しそうな顔をしていた。

「川へは降りないほうがいいですよ。もし降りるにしても、あんまし長居せんほうがええですよ」

 靖幸は首をかしげる。

「せっかく川原があるのに?」

「はい。川原はありますけど、地元のもんはあまり川原へ行きません」

さらに不思議になって、靖幸は首をかしげた。

「どうしてですか?まさか川原に下りることを禁止されてるとか?」

「いやぁ……禁止ってわけじゃないんですけどね。事故が多いんですよ」

「事故……」

「私が知ってるだけで、二人ほど、あの川で亡くなってるんです」

靖幸は少し冷やりとした。私が知っているだけで……というのは、実際にはもっといる、という意味だろうか……。

「まぁ……迷信だとは思うんですがね。この川には竜神様が住んでいて、川に近づく者を連れて行ってしまうのだとか……」

靖幸はその話を聞いて、思わず吹きだしそうになった。

「それは迷信でしょう。どこの地方にもあるような話だ」

「そうなんですがねえ……」

靖幸は宿の男を安心させるように微笑んでみせる。

「なあに。河原を歩くだけですから。水が増したりはしないんでしょう? 河原はずいぶんと広かったじゃないですか? 水にはあまり近寄らないようにしますから」

それに天気も崩れるようなことはなさそうだ。いきなり増水するようなこともないだろう。

「そうですね……まぁ……気をつけていってらっしゃいよ」

男はやはり引き止めたいという顔をしていたが、靖幸が川原のほうへ歩き出すと、宿のほうへと戻っていった。



土手の階段を降りると、ひんやりとした心地のよい風が全身を吹きぬけていく。

顔をあげて、靖幸ははっとした。上から眺めているのと、河原へ降りてきたのとでは、川の様子はずいぶんと違って見えるのだ。まるで違う景色を見ているようだった。そう、原始の世界を見るような、そんないっさいの汚れのない自然の姿がそこにあった。

靖幸は思わずシャッターを切った。どんな角度からファインダーをのぞいても、それは素晴らしく、恐ろしいほどに美しい景色だった。

時々、足もとの大きな石につまづきそうになりながら、靖幸は川上をめざして歩いた。何処へ、というあては特にないけれど、日が落ちるまで新しい景色を探しに行こうと思った。河原がある以上、危険はないだろうと思う。それに、普通の川なら、危険な場所には立て札があるものだ。

もしかすると、自分は『戻れる』かもしれない。

そんな希望が、靖幸を先へ先へと急がせていた。

小一時間ほど歩いた頃だろうか。目の前に大きな岩が立ちはだかっていた。その後ろを通り抜ければ先へ進めるのだけれども、靖幸はその岩の下に腰を下ろした。煙草に火をつけてから、持ってきた缶コーヒーを開けた。

急いでしまうにはもったいない。そんな気がした。

煙草の煙をゆっくりと吐き出していると、けだるいほどの焦燥感に包まれた。

週刊誌やカタログなどの雑多な写真を撮りつづけてもう三年が経つ。

写真事務所へ勤めていた頃には、いくつか一流の仕事もこなした。けれども、フリーになってからは、とかく誰がやっても同じような仕事しか来る事がない。

不況のせいだと、周囲の同じフリーカメラマン仲間も言うけれど、果たして本当のところはどうなのだろうと思った。

才能がない。その一言を自分で認めてしまうのが怖くて、次の仕事にいつも期待を膨らませながらやってきた。けれども、その期待はことごとく裏切られるのだ。そのうち、期待をしない、という技術を覚えた。ただ、来る仕事を淡々とこなした。

けれどもその日々は、靖幸のプライドを少しづつ削り取っていく。欠片ほどになったプライドを護るために、自分よりもひとつでもふたつでも仕事の少ない仲間を思い起こしたりもした。

そうやっていくことでさえ、プライドを削り落としているのだということに気づいたのは、この町でゆっくりと自分を振り返ったときだった。

「ずいぶん熱心に川を眺めてるんだね」

突然声が上から降ってきた。



靖幸は驚いて声のしたほうを見る。自分の背丈の倍はありそうな岩の上に、一人の少年が足をぶらぶらとさせながら腰掛けていた。

「さっきからずっと見てたのに、ぜんぜん気づかないんだもん」

少年はくすくすと笑っていた。

出っ張った岩に器用に手足をかけながら、少年はすとんと河原へ降りてきた。ちっとも体重を感じさせない、軽やかな動作だった。

少し長めの髪をふわりとかきあげて、少年はにっこりと笑った。もう少し背が高くてあか抜けれいれば、テレビにでも出れそうだな、と靖幸は思った。

「驚いたな。この辺の子?」

「うん、夏休みだから、親戚の家に遊びに来てるんだ。退屈だから、毎日、ここへ来てる」

「なるほど」

確かに……都会の子がこんなところへ来ても、最初の一日二日はともかく、一週間も経つと退屈にはなるだろう。

実際、靖幸もそろそろ暇をもてあましそうになっていた。

「ぼくは、鳴瀬隼人」

少年はそう自己紹介し、自分の名を告げようとした靖幸を精した。

「お兄さんのことは知ってるよ。金澤靖幸さん。東京から来た有名なカメラマンだってみんなが言ってた。この町を取材しに来たんだって?」

「いや、そのそれは……」

靖幸は頭を抱えたい気分だった。どこをどうとれば、そういう話になるのだろうか。確かにカメラマンだとは言った。以前に取材で一度来たことがある。けれども、有名だとか、今回も取材に来た、などとは一言もいってないはずだ。

「悪いけど、取材じゃないんだ。プライベート」

なあんだ、と笑って隼人は川原に無造作に並ぶ岩のひとつに腰を下ろした。

「ずいぶん長いこと眠っていたんだ。お兄さんが来なかったら、ずっと眠ってたかも」

「夜になったら親が心配するだろ?」

「まあ……そうだろうけどね」

呆れ顔の靖幸をよそ目に、隼人は空っぽになって靖幸の手元に置いてあったコーヒーの缶を川の奥へと投げた。

「おい、何てことするんだ。せっかく綺麗な川なのに……」

靖幸は半ば本気で隼人を睨みつけたが、少年のほうはまったく悪びれる様子もなく微笑んだ。

「竜神様が怒るって? みんなそう言うんだよね。だから川を汚しちゃ行けない。川で遊んじゃ行けないってさ」

竜神様が怒る……それを聞いて、靖幸は先ほど宿の男が言った言葉を思い出した。この川でふたりの死人が出ている、と。靖幸を引きとめたのは、竜神への信仰心からか、それとも危険な場所があるからだろうか。

「ばかばかしいや。神様なんていやしないのに。いたらぼくなんて、とっくに罰が当たってるよ」

そう言って隼人は苦笑した。

「竜神様がいようがいまいが、せっかくこんなに美しい自然が残っているんだ。みすみす汚すのはよくないと思う」

不機嫌に言う靖幸を退屈そうに眺めて、隼人は河原へ座り込んだ。



(こんないまどきの子に説教しても仕方ないか……)

そう思った靖幸は、溜息をひとつ吐いてから、隼人の隣に腰を下ろした。

「カメラ……見せてよ」

隼人はそう言って、靖幸のデジカメを指差した。

「いいけど……壊さないでくれよな。小さいけどこれ、けっこう高いんだぞ」

「わかってるって」

靖幸から手渡されたカメラを、隼人は物珍しそうに眺める。

「へえ……これって、どうやって撮るの?」

「別に難しくはない。簡単なカメラだから、シャッターさえ押せば、バカでも撮れる。ほら、このボタンだ。ファインダーをのぞいて、好きなところでシャッターを切ればいい」

隼人は楽しそうにファインダーをのぞいた。無邪気な笑顔は、彼を年相応の幼さを滲ませる。

彼はまだまだこれから、いくらでも成長していけるのだ……。

そんなことを考えて、靖幸は少しばかり隣の少年をうらやましく思った。

もしも自分がこの頃に戻れたなら……いったい何をどうやり直すだろうか……。

「撮りたければ、撮ってもいいよ」

「本当?」

「ああ。でも、壊すなよ?」

靖幸の言葉に、隼人はカメラから顔を覗かせて言った。

「ちぇっ。絶対にぼくが使うと壊すって思ってるでしょ? ぼくだって自分の貯金の金額くらいわかっているから、そんな無茶はしないよ」

そう言って隼人は唇を尖らせた。

はじめはこわごわシャッターを押していた隼人だったが、そのうち、いろんなものを見つけるようにあちこちを写し始めた。そしてそのうちに、

「金澤さん」

ふいをついて靖幸の姿までカメラに収めたのだった。

「俺は写さなくていいよ……」

「ごめん、もう撮っちゃった」

そう悪戯めいた笑みを浮かべてから、隼人は両手で靖幸にカメラを渡した。

「もういいのか?」

「やっぱり、ぼくはカメラマンにはなれそうにないや」

「ちょっと見てみよう」

そう言って、靖幸は隼人が撮った写真をプレビューしてみる。何だかピントがあってなかったり、写したいものがちゃんと写っていなかったり。

けれども、何だか新鮮な印象を受ける写真が多かった。

「へたくそって言いたいなら、言っていいよ」

「いや……なかなか斬新だ」

「それって褒めてるの?それともからかってるの?」

「もちろん、褒めてるんだよ」



なんとなく、隼人といることが居心地がよいのは何故だろう。靖幸は少し不思議に思った。

少し考えて思い浮かんだ答えは、拍子抜けするほど単純だった。

隼人がある種の尊敬の念を、靖幸に対して抱いているのが解るからだ。カメラマンという職業。東京から来たと言うこと。カメラを扱う技術。たかだかそれだけのものに対して。

そんな些細な優越感ですら、これほどまでに靖幸の心を満たす。どれほど自分が賞賛というものに飢えていたのか、隼人の目を見て思い知らされたような気分だった。

冷静に考えてみれば、靖幸がここを発って東京に戻ることを決心できないでいる理由も似たようなものだったのかもしれない。

東京という、自分と同じ三流どころが腐るほどに溢れる街に比べて、ここはあまりにも居心地がいい。すべてにおいて、靖幸を見下すことのできるものなど、いないのではないかと思えるほどに……。

「ぼく、金澤さんが撮ってるとこ見てみたいな……」

ふと気がつくと、隼人はねだるように靖幸の顔をのぞき込んでいた。

嬉しさがこみ上げてくるのを、浅ましく思う自分がいる。けれども、まだ年端も行かない子供に対して、靖幸はそんな大人げない感情をあらわにする気にはなれなかった。まだ、そこまで自分は墜ちていない……そう思っている。

「じゃあ、記念に君を撮ってあげるよ」

靖幸は立ち上がって言った。

「ぼくはいいよ」

そう言って隼人は困ったように笑ったので、靖幸は川に向けて、岩に向けて、川原に向けてシャッターを切り始めた。

実際に写真を撮り出すと、隼人の存在も忘れてしまうほど夢中になった。

靖幸はしばらくの間、無心でシャッターを切りつづけた。

ファインダーに映る瞬間の景色。それを逃さないようにと。鳥が羽ばたく瞬間。川の流れが飛沫をあげる瞬間。小枝が風に揺られる瞬間。そして……。



「あ……」

自分に向けられたカメラに、驚くように隼人は目を見開いた。そんな隼人に、靖幸は片目をつぶってみせる。

「たぶん、いい絵になってると思う」

まだ少し、戸惑ったような表情の隼人に、靖幸はそう言って笑った。それでも、隼人は目を伏せたままだ。

「見てみるかい?」

「ううん、いい……」

隼人がうつむいたままそう答えたので、靖幸は何だか悪いことをしてしまったような気分になる。

写真を撮られることが、そんなに嫌なことだったのだろうか。人によっては、まるでトラウマでもあるみたいに写真を嫌う者もいる。

もしも隼人がそういう思いを抱えているのなら、少し軽はずみなことをしてしまったのかもしれない。

気まずい空気をかき消すように、靖幸は口を開いた。

「何だかね、カメラをはじめて手にした頃のことを思い出したよ。ありがとう……。どうして、今まで思い出せなかったんだろうな……」

「どうして、ぼくにお礼を言うの?」

「思い出させてくれたから」

「思い出させて……?」

「たぶん、まだ隼人にはわからないだろうなぁ……」

そう言って笑うと、隼人もつられたように白い歯を見せた。そして、また目を足元に向ける。

「金澤さん……ぼく、もう帰らなくちゃ。写真を撮らせてくれてありがとう。もっと……」

 そういいかけて、隼人は首を振った。辺りは急に暗くなってきていた。おまけに、先ほどまではそよいでいた風が、少し強くなっている。ひょっとすると、天気が崩れるのかもしれない。

「そうだな……もう帰ったほうがいい。天気が荒れそうだ」

「うん……」

隼人はうなずいて、何故だか近くの岩場に飛び乗った。

「ぼく、金澤さんはとてもいいカメラマンだと思うよ」

「そうなれるように、努力するよ。今はその褒め言葉は受け取らないでおく」

「でも、本当にそう思ってるんだよ」

「ありがとう、嬉しいよ」

 はにかんだように笑う靖幸を見て、隼人はようやく笑みを浮かべた。

「東京に戻るの?」

「うん、汚い世界にね。ちゃんと今度こそ『戻れる』気がするよ」

言ってから、靖幸は吹き出した。靖幸の言葉の意味をはかり兼ねて、隼人が不思議そうな顔で目を瞬かせていたからだ。

「今度来るときは、きっといい報告を持ってくるよ。もっと胸を張ってカメラマンだって言えるような報告をね」

「うん、待ってる」

嬉しそうに答えてから、隼人は突然走り出した。

そして、ずいぶん距離が離れてから、隼人は何かを叫ぶように言った。川の流れが邪魔をして、その声が何を言っているのか聞こえなかったけれど、靖幸は隼人の小さな影に手を振った。



あれからもう三ヶ月。季節はずいぶんと色づいてきたけれど、相変わらず、靖幸の仕事は同じようなものばかりだった。けれども、以前とは違う気持ちでシャッターを切ることのできる自分が、とても嬉しくて仕方がなかった。

そして今、またこの渓谷へ来ている。渓谷の緑はもうすっかり、秋の表情を見せている。

あの岩の前には、まだ新しい花束がいくつか置かれていた。靖幸もその場所に、自分が持ってきた花束を置いた。

あれから、宿に戻った靖幸は、プリントした写真を隼人に送ることを思いついて、宿の者に隼人の所在を尋ねたのだ。

二、三度、『鳴瀬隼人』の名を言ったように思う。気味悪そうに靖幸を眺める仲居の顔を、靖幸は今でも忘れることができない。

『その子は、去年の夏に亡くなりましたよ』

そう聞かされても、はじめのうちは信じられなかった。隼人が自分の名を偽っていたものとばかり思いこんでいた。死人の名を語るなんて、たちの悪い冗談だと。

宿屋の主人の話によると、鳴瀬隼人は、川のあの岩場で遊んでいて、岩から落ちて死んでしまったのだという。

それを聞いても、あの少年と、鳴瀬隼人はやはり別人だと思っていた。

そして、靖幸は宿泊を二日延ばして、自分の会った『隼人』を探したのだ。けれども、町に住む同じ年頃の少年には、靖幸の探す『隼人』はいなかった。

さらに二日を費やして、靖幸は彼の居所を探した。けれども、彼は見つからなかったのだ。

そうして、宿のチェックアウトを澄ませた後、靖幸は再び、あの岩のところへ行ってみた。

そこには……。

先日来たときにはなかったはずの花束がそこに置いてあった。

それでもまだ、靖幸にはあの少年が鳴瀬隼人だとは認められなかった。

靖幸はとうとう、岩から落ちて死んだと言う鳴瀬隼人の親戚の家まで足を運んだのだ。

そしてそこで写真を見せてもらって、全身から力が抜け落ちた。

その写真は……まさしくあの川原であった少年、隼人に違いなかった。

 彼が素足に履いていたスニーカーと、まったく同じものが彼がこの町にいる間に使っていた、という部屋に置いてあった。あのときに来ていたTシャツも、Gパンも、まったく同じものがベッドにきちんとたたまれて置いてあったのだ。

あの子が死んだときに着ていた物です……と、彼の叔母であるという女性が涙ながらに話してくれた。彼の両親は別居中で、どちらも子供を育てる環境ではないことから、この叔母夫婦が引き取っていたのだという。

東京に戻ってから、靖幸はもう一度、デジカメの写真を見直した。

隼人を撮った写真があることを思い出したからだ。

しかし……その隼人が写っているはずの写真に彼の姿はなく、代わりに真新しい花束が置かれていた……。



靖幸は、彼の叔母が頻繁に供えに来るというその花束の横に腰を下ろして、しばらくの間、煙草を吹かしていた。

もしかすると、また『彼』が現れて、写真を撮らせて欲しいと言ってくる、そんな場面が何度となく脳裏に浮かんで……。その場を離れることができなかった。

けれども、夕闇が迫っても、そこに訪れるものの姿はなかった。風はあのときよりも、ずいぶんと冷たい。

陽が傾くのも、恐ろしいほど早くなっていた。

『金澤さんは、とてもいいカメラマンだと思う』

 そう言ってくれたあの少年には、もう二度と会えないのかもしれない。闇が落ちてくるほどに、靖幸の胸には喪失感が広がっていく。

煙草をもみ消し、靖幸は立ち上がった。

彼には二度と会えないのだろう。

けれども、靖幸は彼と約束をしたのだ。

次にここを訪れるときは、必ず良い報告を持ってくると。胸を張ってカメラマンだと言えるような、そんな報告を。

約束を守るために、靖幸は川原に背を向けた。

次にここへ来るのは、いったい何年後になるだろう。

けれども、きっとここへ来るだろう自分を、靖幸は思い描くことが出来た。

何年も前に書いた小説を、大幅に書き直しました。デジカメがこんなに簡単に手に入るようになるなんて、これを書いた頃は思いもしませんでした……

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