第1話 山鳩
3/30、あとがき欄に、挿絵を追加させて頂きました。
あ、不思議。風もないのに、揺れている。
八月の終わり、四泊五日の旅行から帰ってきた翌日、私は洗濯物を干そうとしている手を止めた。
我が家のベランダと隣家の敷地との境界には、大きな一本の木が植わっていて、クリスマスツリーに似た色や形をしているのだが、樅の木ではなく、杉の木の一種ということだった。尖ったてっぺんは二階の窓に届くくらいに伸びている。
その木の、ちょうど私の目の高さにある枝だけが、なぜか不自然に動いていた。
深緑の細い葉が重なる陰にじっと目を凝らすと、何かがいるようだ。
「あっ」思わず声が出た。
鳥だ。鳩かな。
手を伸ばせば簡単に触れられるのではないかというほどの距離だ。
鳩は、逃げようという素振りを見せなかった。
枝葉の隙間に、足をたたんで座りこんでいるらしく、ピンポン球みたいにまるい頭が、私の方をまっすぐに向いたままで、ほんの少しも動かない。
相手の気に押されて、それ以上近づくことはできなかった。
留守にしていたあいだに、巣をかけたのだろうか。
まさか、こんな近くに人間が現れるとは思っていなかっただろう。
なんとも間がわるく気の毒なことになったな。
夕方になると、辺りが暗くて、鳩がまだそこにいるかどうかはわからなかったけど、物音を立てないよう気をつけて、急いで洗濯物を取り入れた。
一応の気遣いはしてみたものの、人間を怖がって、きっと、どこか違う場所へ引越してしまったに違いない、と考えていた。
だから、翌日、まだいる、こっちを見てる、と気づいたときは、びっくりした。
もっとも、鳩の方が、また来た!って、もっとびっくりしていたのだろうけど。
思い切り隅に身を寄せても、狭いベランダだから3メートルと離れていない。
せめて、じろじろ見るのは止めよう、と思いながらも、好奇心に負けてついちらちらと視線を向けてしまう。
公園でよく見かけるような土鳩だろうか。そうだとしても、この場所が気に入った、というのなら、無下に追い出したりはできない。でも、まあ、山鳩だったら、もっといいかな。その他の鳥、という可能性もなくはない。
どんな鳥か確かめたい、という私の望みはすぐに叶えられた。
15メートルくらい離れた向かいの家の塀に、一羽の山鳩が止まっていた。
ベージュががった灰色のボディ。茶色と黒で模様がふちどられた羽。オカリナみたいなまるみのあるフォルム。地味で質素だけど、きれいな鳥だ。
キジバトと呼ぶ人もいる。近くに里山があって、たまに、ででーっ、ぽぽーっ、という独特の鳴き声が聞こえるけど、ふだん姿はあまり見かけない。
その山鳩が、辺りをきょろきょろと慎重に見回しながら、植木の枝や生垣やらを移動するたび、少しずつこちらへと迫ってきていた。
鳴き声は短くて、いつものようではない。
まるで合図のようだな、と思うまもなく、杉の木に近寄って、ささっと枝の中に潜り込んだ。
入れ替わりに、同じ色、同じ形の鳩が飛び出し、二羽は場所を交代した。
つがいだったのだ。
ああ、そうか、番って、そういう字を書くんだっけ。
山鳩夫「おーい、きみ、大丈夫だったかい?」
山鳩妻「無事よ。でも、遅かったわね。わたし、もう、お腹がぺこぺこ」
山鳩夫「ごめんよ。巣の場所を敵に知られないようにしなきゃならなかったからね」
山鳩妻「ふふっ。用心深いに越したことないよ。じゃあ、あなた、後をお願い」
山鳩夫「おう、まかせとけ。いってらっしゃい、ゆっくりしておいで」
そんな会話が聞こえそうな気がして。
きみたち、なんだか、いい感じだね。私は、ひとりでに、頷いていた。
何日かたって、山鳩夫婦は一日に何度か交代しながら、卵をあたためているらしいとわかった。
どちらか一方が、いつも巣から離れないようにしているのだ。
洗濯物は他の場所に干そうかとも考えたけど、この頃、カラスが頻繁に飛んでいるようで、完全に人間の姿がなくなれば、すぐさま、狙いを定めて降りてくるのではないか、と思えた。
だから、私は、パトロール気分で、朝と夕に、ベランダに出た。
実際、杉の木の下をうろうろしている猫を見つけて、叩くふりをして脅して追い払ったこともあった。
そんなある日。
時期の早すぎる、季節はずれの台風がやってきた。
雷鳴とともに、突然、風や雨が激しくなり、杉の木の枝はばさばさと音をたてて、しなり始めた。
姿の見えない巨人が、力を込めて、乱暴に揺すっているかのように、枝という枝が上下左右に大きくうねり、まっすぐだった幹が弓形にぐねぐねと傾いでいる。
まるで荒海に揉まれ、揺れる小船から振り落とされそうな、そんな危うさのなかで、
しかし山鳩は、少しの身じろぎもせずに、落ち着いているように見えた。
怖くないのだろうか。怖いけれど、卵をまもろうと必死なのだろうか。
私は、インターネットで天気予報を調べた。
近畿一円に暴風雨警報が出ていた。
天気図は、白い大きな渦巻きに覆われている。台風は速度が遅く、一晩中、警戒が必要と解説されていた。
冗談みたいな名前だけど、YAHOO!じゃなくて、
YACHOO!という野鳥愛好家が集まるサイトを見つけて、掲示板に、「心配です。なんとかなりませんか?」と書き込んた。
回答は、すぐにいくつか寄せられたけど、「卵や雛を助けようと手を出してはいけない」「卵や巣が落ちても触ったり、元に戻そうとしてはならない」「暴風から守ろうと囲いや覆いを拵えてもいけない」「放っておくしかない」など、私の希望を断つようなものばかりだった。
なかには、「鳥の羽は多少の雨なら弾いて、水分を含まないので心配いらないですよ」と、どこか暢気さが漂うものさえあった。
「理由はこのサイト内に示してあるので、探して欲しい」という一文から、あちこちをクリックして、とりあえずは文字を目で追っているが、心の中では、こうなったら、傘を持って一晩中でも巣の傍に付き添って盾になっていよう、という覚悟だった。
しかし、読んでいくうちに、間違いに気がついた。
人間が触った卵や雛を、親鳥はもう育てようとはしないこと、落ちた巣は完全に放棄されてしまうので、元の位置に戻しても無駄なこと、地に落ちず、途中の枝に引っ掛かるなどで運良く営巣が続けられる場合もあるので、とにかくいじらないこと、人間が関わることで嫌気が差し、卵や雛を巣ごと捨ててしまう場合が多いこと、
仮に雛を保護しても、野鳥を育てることは難しく、野生に戻すこともまた困難であること、野鳥の飼育は法律で禁じられていること、……
野鳥と自然を愛する人たちの、長年の観察や経験を通して得たであろう知識や情報が、心を込めてわかりやすく、惜しみなく公開されていた。
多数の親切な方から正しい回答をもらっていたのに、そっけない、役にたたない、と感じていたなんて、なにもわかっていなかった。おかげで、浅はかで安易な考えを実行にうつさずに済み、感謝するべきだった。
その後は、祈ることしかできない長い夜になった。
風や雨の音に、耳を澄ませ、早く台風が去らないか、とただ窓の外を見ていた。
どこかで、一羽の山鳩が、私と同じように、杉の木を見ている。
そのことだけが、気持ちを少しだけ落ち着かせてくれた。
翌日。
巣は、無事だったようだ。
いつもと同じ場所で、山鳩は、じっとこちらを見つめている。
言葉が通じるなら、大変だったね、と労ってやりたかった。
地面には、折れた小枝や千切れた葉っぱが、くたくたになって散乱している。
だけど、そこに、落ちた卵は見つからなかった。
それから、また幾日かが過ぎた。
ででーっ、ぽぽーっ、ででーっ、ぽぽーっ、と鳴き声が響く朝だった。
私は、杉の木の枝の間が、ぽっかりと空になり、山鳩の姿が消えたことに気がついた。
初めて、充分に近寄って、おそるおそる巣の中を覗いてみた。
不恰好に数十本程の小枝が帽子をひっくりかえした形に積まれているだけで、卵の殻とか羽毛とか排泄物とか、そんなものが残されてあるのだろう、と思っていたのに、見事に何もない。
それにしても、巣ともいえないようなお粗末さ。
小枝は、どれもがせいぜい箸くらいの長さで、よく組み合わされていないので、風が吹けば簡単に分解されてしまいそうだ。
これが卵を包んで、あの暴風雨を耐え忍んだ器とは、とても信じ難い。
YACHOO!を開き、「山鳩 巣」と入力して、記事を検索してみた。
鳩類は、巣作りが下手で、枝を組むような器用さはなく、巣の造作は極めて粗雑、いい加減なものなのだそうだ。
だが、見た目に反して意外にも丈夫、と書いてあった。
雛の巣立ちは非常に急で、卵から孵るとすぐに飛び立つため、その姿は殆ど見られない、
その後、用がなくなった巣には、もう戻ることはなく、再利用はしない、ともあった。
なるほど。
今日は、秋晴れ。どこまでも、空は澄み切っていて、カラスもいなかった。
旅立ちにはいい日だ。
では、あれは、別れの挨拶だったのか。
これまでは、ずっと用心深く、天敵の目をやりすごそうとしていて、あんなふうに巣の近くで目だって鳴くことはなかったのだから。
雛を見送り、一仕事やりとげた、という誇らしさから、お得意の歌を披露したくなったのだろうか。
聞き応えのある、朗々とした美しい歌声だった。
そんなことを考えながら、画面を見ていると、掲示板に新しい質問を見つけた。
「庭の木に山鳩が巣をつくったようです。どうしたらいいでしょうか?」
質問者の文面からは、困ったことになった、追い払った方がいいのか、と不安になっている様子が感じられた。
私は、回答欄に、簡単に体験を記した。
最後に、
「どうか、少しの間、小さな生き物にお庭の片隅を貸してあげて頂きたいです。
すぐに巣立ちます。
きっと、後で、見守っていてよかったと感じられるはずです」と追記し、投稿ボタンを押した。
うまく伝わるといいな、と思ったそのとき、
いつのまにか胸につかえていた一抹のさみしさがすうっと引いていくようだった。