灰の誓い 蛮王の息子は、二度目の生で剣を取らない ~奪う代わりに守ると決めたら、滅びた未来をすべて覆せた~
## 序章 竪琴の残響
どこか遠くの帝都で——同じ夜、ヴァーレン公爵が書状に封蝋を押した。羽根ペンがかりかりと羊皮紙を走る。宛先は、北方。《計画通りに進んでいる》。炎が揺れ、赤い蜜蝋がごりりと固まる。帝国暗部の使者が扉の向こうで待機している。誰も、死者の数など数えない。
アッシュには、そんなことは知る由もなかった。
死は、二度目だ。
一度目は炎の中。今度は泥と灰の中で、ずるずると両手だけが動いていた。ひゅうひゅうと山風が吠える。焼け落ちた集落が骨組みだけになって、斜めに傾いている。部族の亡骸が灰の中に沈んでいく順番を、アッシュはもう知っていた。最初に沈黙するのは子供——七歳のニルスが最初だった。次に老人——トルカ長老の白髪が雪のように散った。最後まで叫ぶのが戦士だ。ガンナルの怒鳴り声が、徐々に小さくなっていった。それでも全員、消える。
手が触れた。
小さな竪琴。弦が一本、焦げて切れていた。残った四本の弦に、かろうじて指が引っかかった。
ぴ、と音を立てようとして——出なかった。
しかし——耳の奥に、旋律が満ちた。
月夜に、ひっそりと。誰にも聞かれないように。低く、澄んだ音が、石壁に吸い込まれていく。止めろと言えば止めて、去ればまた奏でた。アッシュはその音を、何度も通りすがりに耳にしていた。意味が分からなかった。分かろうとも、しなかった。
「——奪われた者だった」
声になった。誰にも届かない声に。
エレオノーラの遺体は、三歩先で冷たくなっていた。手を伸ばした。届かなかった。届いても——もう何も変えられない。力で従わせた。言葉を封じた。部族の掟だと言い訳した。《俺が正しい》と思い込んで、全部を壊した。怒りも悲しみも孤独も——全部が彼女のものだったのに、俺は何ひとつ聞かなかった。
胸の奥で、何かがじわりと溶けた。後悔が液体になって、骨の髄まで染みていく。
——目が、覚めた。
ぐっと跳び起きた。空が青黒い。北方特有の、澄んだ夜明け前の色だ。手のひらを確認した。傷がない。昨夜まで全身を覆っていた火傷も刃傷も、何もない。テントの天幕が、びゅうびゅうと北風に鳴っている。
「フェネック! ガンナルの荷物に虫入れたの、お前だろっ!」
「俺じゃないです! たぶん!」
「たぶん、って言った時点でお前だ!」
甲高い笑い声が、耳を打った。死んだはずの声だ。
アッシュは両手を目の前に出した。掌に、まだ残響がある。弦の感触ではない——あの焼け跡で触れた竪琴の、音の記憶。ほんのり熱を持つように、じわりと疼く。
今日こそが、あの決行日だ。
前世では、エレオノーラを攫った。
今度は——奪わない。
「……間に合う」立ち上がった。足が、しっかりと地面を踏んだ。
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## 第一章 捨てた剣と、拾った言葉
「アッシュ。出発の準備は」
テントを出ると、ガンナルの太い声が飛んできた。黒金の民の誇り、戦士の体躯。背後でフェネックとブレンク、ヤラの三人が武器を確認している——かちかちと金属の触れ合う音、革の軋む音。
前世では、全員死んだ。フェネックは疫病の冬に。ブレンクは谷の戦で。ヤラは集落崩壊の混乱で消えた。今は——全員、生きている。
「行かない」
ガンナルの眉が、ぐっと吊り上がった。「……なんだと」
「単身で辺境伯領へ向かう。丸腰で」
「落ちこぼれが何を——」
「ヘス」アッシュはガンナルを無視した。隣のテントから顔を出した族医ヘス——白髪交じりの短い髪、四十がらみの鋭い目の女——を見た。「北側の水源に混じりものがある。飲む前に一度沸かせ。子供と老人から優先だ。それだけでいい」
ヘスの目が細くなった。「……なんでお前がそれを知ってる」
「知ってるから言ってる。頼む」
鋭い視線が数秒、アッシュを射貫いた。「……試してみる」それだけ言った。
フェネックが追いかけてきた。「俺も連れてってください、丸腰なら俺も——」
「来るな」振り向かなかった。「フェネック。今朝、妹のイラが門の前で笑ってたか」
「……はい。ガンナルさんにちょっかい出して怒られてました」
「その笑顔を守るために、お前はここにいてくれ。それが一番ありがたい」
しばらく足音が止んだ。「……わかりました」かすかに、声が震えていた。
集落の中央で、長老トルカが焚き火の前に座っていた。弟子のモスクが記録板を抱えて控えている。「剣なしで辺境伯領へ。正気か」「言葉を持って行きます」。老人はしばらくアッシュを見た。しわの奥の目が細く細くなる。「……お前の母親に似てきたな」。ぐっと胸が鋭く痛んだ。母は前世で最初に死んだ。疫病で。
族長の父ヴォルカが門の脇に立っていた。何も言わず、ただ顎だけ前に向けた。「行かせてやれ、とガンナルに言っておく」。アッシュは深く頭を下げた。前世では最後まで見ることのなかった顔を、しっかりと見た。岩のような顎、傷跡だらけの首筋。これが最後でないことを、確認するように。
山道を下る。背後でウルナ老婦人が呟くのが聞こえた。「帰ってこないかもしれない」。フェネックが即座に言い返した。「帰ってきます。絶対に」
——
辺境伯領の城門は、石造りで分厚い。近づくにつれ、硫黄と松脂の匂いが強くなる。防衛用の炎油の臭いだ。
両手を広げた。何も持っていないことを示す。門番のドルフが槍をがちりと構えた。後ろでニコが固まっている。「止まれ! 北方蛮族——」
「俺はアッシュ。黒金の民、ヴォルカ族長の三男だ。エレオノーラ殿と話がしたい。丸腰だ。三日でも一週間でも待つ」
三時間、立ち続けた。冬の山風がびゅうびゅうと吹く。指の感覚がなくなりかけた頃——「連れてきなさい」。凛とした声が、城壁の上から降ってきた。ニコの目が丸くなった。ドルフが小さく舌打ちして、「……こっちだ」と顎を向けた。
——
エレオノーラは部屋の中央に立っていた。
背が高い。訓練着で、腰に剣がある。茶色の髪が肩まで落ちて、鋭い目がまっすぐにアッシュを捉えた。両足は肩幅に開き、重心がやや前にかかっている——剣士の立ち方だ。副官マルグが右後ろに控えている。女騎士セラが扉近く、廊下にスタン、ヴェル、カイドの三名が配置についている。
アッシュは部屋に入ると、即座に膝をついた。
エレオノーラが、ぴたりと固まった。かちり、と剣が半分、鞘から引き抜かれた。金属の冷気が頬に当たった。
動かなかった。顔を上げた。
「頼みがある」
帝国語で言った。前世で、憎しみの中でも彼女が教えてくれた言葉だ。
「俺の部族を——俺自身を——壊さないための知恵を、貸してくれ」
三秒。沈黙。かちり、と剣が鞘に戻った。
「マルグ。客間に。剣士四人、廊下に」「セラ、見張りを」「……よろしいのですか」「死角は作らないように。それと——縄の用意も」
セラの手がアッシュの腕をつかんだ。ひやりと、鎧の冷たさが布越しに伝わる。「立て。歩け」
——
交渉は三日間、始まらなかった。初日、食事が運ばれてきた。二日目、水だけになった。三日目の夜、セラが食事を再び持ってきた。
「お前、倉庫の在庫管理をしてるだろう」
セラが立ち止まった。「……なぜ知っている」
「腕に数字の跡がある。計算が習慣になってる人間の癖だ。それと——穀物の主力取引先が、三年前から変わってるはずだ。エルダン商会、もしくはそれに類する帝都中央区の業者に」
長い沈黙。返事なく去った。しかし翌朝、倉庫の入荷記録が部屋の前に置いてあった。記録の筆跡は、セラのものではなかった。
四日目の朝、エレオノーラが来た。「話してみなさい」
北方の交易路が二年で急速に詰まっていること。穀物の価格が三割上乗せされていること。帝都の商人ギルドによる独自課税が、書面では確認できない形で運用されていること——
「帝国の内政問題だ」とエレオノーラは言った。「あなたに関係ない」
「ある。去年、俺の部族は食料が足りなかった。子供が三人、冬を越せなかった」
エレオノーラの目が、わずかに動いた。「……あなたは何を求めている」
「正規の交易条約だ。書面による取り決め。見返りに魔銀の採掘権の一部を提供する。北方山脈産の魔銀は帝国産より純度が三割高い。お互いに利がある」
「なぜ蛮族が、そんな政治的な話を」
「馬鹿じゃないからだ」
言ってから、一瞬後悔した。しかしエレオノーラは怒らなかった。口元が——ほんの一瞬——動いた。
笑ったのだ。
前世では一度も見なかった笑顔だった。アッシュの胸が、ぐっと詰まった。
——
数日後、文字の練習が始まった。「読めないのか」「少しは」「嘘をつくな。字が逆向きになっている」「黒金の民は右から書く」「帝国語は左から書く。やり直し」
渋々、羊皮紙の端に名前を書いた。ぐにゃりと歪んだ字だった。エレオノーラが紙を持ち上げ、光にかざす。「笑っていいぞ」「笑わない」「笑ってる」「……笑っていない」。紙を机に戻した。口元の筋肉が、ぴくりとわずかに緩んでいた。
「アッシュという名前の意味は」
「灰、だ。前の名前は剣の傷で死んだ英雄の名を継ぐはずだったが、俺は戦が下手だったから別の名にした」
「灰は残るものだ。完全に消えない」「……そうかもしれない」
ある夜、部族への手紙を書いた。ヘスへの水源管理の指示、帝国語で。しかし三行で行き詰まった。エレオノーラが覗き込み、無言でペンを手にした。隣に座り、正しい綴りを上に書いていく。ふわりと、革と松脂を混ぜたような香りがした。二人の間に、羊皮紙一枚分の距離しかなかった。
「ここは『水源』だ。この文字の三画目は右跳ねではなく下払い。『今直ぐ』は一語だ」「……ありがとう」「礼はいらない。間違った手紙は相手に失礼だ」
手紙が完成した。エレオノーラが立ち上がると、廊下でセラとドルフがさっと位置を正す気配があった。
翌日、マルグの声が聞こえた。「あの男を信用なさるのですか」「信用などしていない。観察しているだけだ」「……違いが分かりません」「観察は、相手を理解しようとする行為だ。信用は、理解した後に選ぶ態度だ。まだ始めたばかりだ」。沈黙。「……ご自分で選ばれるのですね」「当然だ」
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## 第二章 後悔の純度
崖の上に、一人でいた。
足元に、雪解け水が溜まった濁った水たまり。ぽたぽたと岩肌から水が滴っている。手をかざした。何も起きない。もう一度。何も起きない。三度目、水は黒く濁ったままだ。「……くそ」
部族で「才能なし」とされた落ちこぼれだ。火のひとつも起こせない。しかし確信がある——あの春を変えるには、これしかない。
ヘスが何度も首を振った光景が蘇る。七歳のニルスが熱でうんうんと泣いた夜。フェネックが声を殺してしゃくりあげていた夜。ヤラの夫イセンが逝った朝の、しんと静まった焚き火。ダルという老人が、ゆっくりと仰向けになった昼。子供のリオが最後まで母親の名前を呼んだ夜。
ぼた、と雫が落ちた。涙だった。
次の瞬間——水たまりが、わずかに透き通った。
息を飲んだ。もう一度、集中した。後悔を純粋に、前世の死者たちの顔を一人ずつ思い浮かべた。ヘス。ニルス。フェネック。イセン。ダル。リオ——
じわり、と水が清まっていく。石の上の泥が、ぽつぽつと沈殿する。表面が鏡のように、夜の星を返し始めた。
「……これが、魔法か」
火も出ない。風も呼べない。水をきれいにするだけ。しかし——これがあの春を変えられる。
——
翌朝、商人オレクに手紙を預けた。細身で目ざとい中年男——交易路を五年知り抜いている。〈北側の水源に混じりものがある。飲む前に沸かせ〉。「金は?」「交易路が正常化すれば、お前の利ざやも戻る。今より三割は増える」「……五日後に行く」
翌週、ヘスからの返事が届いた。〈沸かして飲ませた。子供たちの咳が減った。ニルスが昨日庭で走った〉
その一行を、しばらく眺めた。前世では届かなかった言葉だ。
その夕、エレオノーラが廊下でアッシュを呼び止めた。「今朝、濡れた顔で山から戻るのを見た。何かあったか」「水の魔法が使えるようになった。攻撃魔法じゃない——水を清めるだけだ」「……役に立つか」「一つだけ、確かに役に立つ」
「城内の水桶を管理しているルガという老人がいる。七十近い、腰の曲がった男だ。腹を壊す兵が増えていると言っていた。何かできるか」「試してみる」
ルガは城内の奥まった倉庫の前にいた。ごつごつとした手で水桶の縁を叩いている。「よそ者が何の用だ」と言ったが、「好きにしろ」と桶を指差した。後悔を集中させた。泥が沈んだ。水がすうと透き通る。ルガが、ぐっと息を飲んだ。「……なんだ、これは」
三日後、ルガが部屋の前に来た。「腹を壊す兵が、半分になった」。それだけ言って去った。足音が、来た時より軽かった。
「役に立つと言っていたな」。翌日の文字練習でエレオノーラが言った。「そうだ」「続けるぞ」。ペンを取った。「私はあなたを信用していない」「知ってる」「観察しているだけだ」「それでいい」
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## 第三章 縫い目の模様
穀物袋の縫い目に気づいたのは、倉庫の視察中だった。
積み上げられた袋の一つ——縫い糸の色と配列が、前世でエレオノーラが深夜に呟いた言葉と一致した。帝国暗部の印。
「この穀物、どこから来てる」案内のセラが答えた。「帝都中央区、エルダン商会から。三年前から主力の取引先です。以前は辺境産の女官レナが管理していましたが、上からの命令で急に変わったと——理由は知らされなかったと彼女は言っていました」
縫い目の模様を羊皮紙に写し取った。
その夜、エレオノーラを呼んだ。資料を一枚ずつ広げた——穀物の入荷日付、出所、縫い目の印の写し。エレオノーラは一枚ずつ見ていった。しん、と部屋が静まった。
「……魔素枯れ病」「そうだ。水源に混入させる病原体だ。洗米の水が——」声が止まった。「……汚染されていた可能性がある。三年前から」
アッシュの拳がぎゅっと握られた。「誰が」
「ヴァーレン公爵派閥だ。北方の魔銀利権を独占したい。黒金の民を弱体化させ、辺境伯領を孤立させ、帝国中央の軍事管轄下に置くのが目的だ。魔銀は魔法触媒として軍需価値が極めて高い——一握りで帝国兵十人分の武器になる」
「帝国が自分の民を毒殺するのか」「帝国は広い。右手が何をしているか、左手は知らない」
声は平静だった。しかし手が——テーブルの端を、かすかに握っていた。指の付け根が白くなるほど。「……あなたが辺境に配置されたのも」「監視のためだ。私が知りすぎたから。私を攫わせれば、証人が消えて一石二鳥のはずだった」
重い沈黙が落ちた。
マルグが口を開いた。「このまま進めると、ヴァーレン派の耳に——」「分かっている」「エレオノーラ様——」「マルグ」。彼女の声が低くなった。「この男の部族に、何人の子供がいると思う。私たちが何もしなければ、来年の春もあの穀物が届く。理解しているか」。マルグは黙った。
アッシュはエレオノーラを見た。彼女は怒っていた。静かに、深く——何かを守ろうとして怒っていた。前世の彼女はただ憎んでいた。今の彼女は違う。
「ヴァーレン派の対抗勢力はどこだ」「東部の辺境伯グループ。私の父アルドリクの同盟先だ」「繋いでくれるか」「条件がある。魔銀の採掘記録を全て開示しろ。見返りに——あなたは私が作る証拠書類の署名人になれ」「それは俺が盾になるということか」「そうだ」
三秒、考えた。「いいよ」
マルグが叫んだ。「アッシュ殿、リスクが——」「分かってる。それでいい」
エレオノーラがアッシュを見た。「……なぜ」「俺の部族を守るためだ」。嘘ではない。しかしそれだけではない——とは、言えなかった。
——
数日後の夜、セラが奇妙なものを発見した。夜間に倉庫に入った者がいる——床の埃に、微細な足跡。記録台帳のページが一枚、ほんのわずか位置がずれていた。
「誰かが閲覧した。内側の者だ。エルダン商会の代理人ケレムが城に滞在中のはずです」
エレオノーラの目が険しくなった。「急げ、ということだな」「マルグ、今夜中にアルドリク父上に書状を。セラ、倉庫の鍵を今すぐ変えろ。ニコ、ドルフ——ケレムの動向を把握しろ。二人ともだ」
翌朝、辺境伯アルドリクとの話し合いが設けられた。初老の男で、エレオノーラに似た鋭い目を持つ。白髪交じりの顎鬚が厳格な印象を際立たせていた。北方の蛮族を前にしても、身じろぎ一つしなかった。
「黒金の民が書面に署名する。それが担保になると娘は言っているが」「帝国公認の商人ギルドが証人に立てば有効になるはずだ。オレク・テオドラン商会——辺境伯領との取引実績が五年ある。信用はあなたが確認してください」
アルドリクの眉がわずかに動いた。「この男は」とエレオノーラに向いた。「三週間、城内にいる。一度も剣に手を伸ばしていない」「黒金の民が、それほど長く剣を抜かずにいた事例が、帝国史に一度でもありますか」。沈黙。「……書状を書こう。ただし証拠書類は私が審査する」「もちろんです」
一週間後、東部連合の使者ミードが訪れた。細身の四十男で、眼光が鋭い。三日滞在し、去り際に「帝都がひっくり返るかもしれない」と言い残した。「それが目的だ」とエレオノーラが答えた。ミードは初めて笑った。「面白い女だ」「侮辱か」「賛辞だ」
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## 第四章 記憶を食む霧
作戦が動き始めて五日目の夜——霧が出た。
谷の方角から流れてくる白い霧。見た瞬間、ぞわりと全身に鳥肌が立った。「《記憶を食む霧》だ」
城壁の上でセラが叫んだ。「霧が来た! 全員内側へ——」遅かった。
白い靄がじわじわと視界を塞ぐ。ひやり、と冷たい。ひた、ひた、と靄が鎧の隙間を伝う感覚。体の深部から何かが引き抜かれるような——頭の端が、ふわふわとする。前世の記憶が、端の方からすうと薄れていく。
まずい。エレオノーラの声が——消えてしまう。
彼女が初めて笑った瞬間——歪んだ字を光にかざした時の、口元のわずかな緩み。前世では一度も見なかったもの。この世界で、初めて見たもの。それが消えたら。
「アッシュ!」マルグの声が遠くに聞こえた。
後悔を掻き集めた。全部、一気に手繰り寄せた。ヘスの死を。ニルスの笑顔を。フェネックが泣いた夜を。イセンが逝った朝を。ダルとリオの名前を。エレオノーラの冷たい遺体を——全部。
胸がじりじりと焼けた。目の奥がじんと熱い。喉の奥で、竪琴の旋律が——幻聴として響く。
しかし——後悔が固まった。霧がわずかに退いた。後退はしない。しかしこれ以上、前進もしない。
「こっちだ!」エレオノーラの声がした。ロープが飛んできた。ぐっと掴んだ。引かれる。石の壁。扉がばんと閉まる。霧が遮断された。
——
医療室で、息を整えた。エレオノーラが水を持ってきた。陶器の器が、ことりと机に置かれた。「……大丈夫か」「なんとか」「記憶は」「ある。全部」
椅子を引き寄せ、座った。しばらく無言でアッシュを見た。「どうやって防いだ」「後悔で」「……さっき、すごく苦しそうな顔をしていた」「記憶を守るためには、それが一番確実だった」「何を後悔した」「色々と」
しばらくの沈黙。エレオノーラは視線を落とし、静かに言った。「……あなたは、損な男だ」「そうか」「得をしていない」「それでいい」
少し笑った。今度は——かすかに温かかった。
翌日、ルガ老人が廊下でアッシュを捕まえた。「昨夜の霧、お前が止めたんだろ。防ぎ方を教えてくれるか。城の他の者にも伝えたい」「後悔を純粋に集中させること。策略的に使おうとすると効かない」「後悔か……年寄りには山ほどあるな」「そうだな」「……礼を言う」「礼はいらない。水桶の管理、これからも頼む」。老人は短く笑い、去った。
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## 第五章 谷の前夜
計画は三週間かけて動いた。
アルドリクの書状が東部連合へ届いた。魔銀採掘記録が証拠材料として流通し始めた。エルダン商会の代理人ケレムが城を離れた——翌朝、部屋に革袋を置いたまま逃げていた。ヴァーレン派の工作員ソランが帝都で拘束されたという報告が届いたのは翌々日だった。ミードからの書簡には一行だけあった。〈仕掛けは整った〉
しかし問題が残った。谷だ。
北方山脈の中腹にある大渓谷——前世でエレオノーラが死んだ場所。春の雪解けで暴走魔獣が活性化する。前世では力押しで多くの部族員を失い、エレオノーラも谷底に落ちた。
一人で谷に行き、地形を確認した。地下から湧き出る水が谷底を流れていて、魔獣の足場は沼地だ。「……水脈の方向を変えれば、沼地が凍る」
エレオノーラのところへ戻った。「剣術指揮を頼みたい」「……私に?」「お前の指揮は本物だと思っている。俺の部族員は戦えるが、統率が下手だ。お前が指揮をとれば、全員が生き残れる可能性が高い」。しばらくアッシュを見た。「戦闘前夜に条件を話す。それでいいか」「ありがとう」「礼はいらない。利害の一致だ」
——
前夜、焚き火の前で、二人でいた。
マルグは見回りに出ている。フェネックは部族員たちと武器確認をしていた。かちかちとした音が、遠くから聞こえてくる。
エレオノーラが荷物の中から、何かを取り出した。
小さな竪琴だった。
胸が——ぴたりと止まるような感覚があった。
弦を、そっとはじいた。ぽん、とろん、と。一音、二音——低く、かすかな音が夜気に溶けた。それからかぶりを振るように、竪琴をそっと袋に戻した。ためらうように。しかし素早く。
「……それは」「子供の頃から持っている。父に贈られたものだ。今日は……別に理由はない」
何も言えなかった。「どうした」と彼女が聞いた。「……聞いたことがある気がした。その曲を」「ありえない。これを人前で弾いたことは一度もない」
黙った。エレオノーラもそれ以上追及しなかった。ぱちりと火が爆ぜた。
「あなたは変だ」と彼女が言った。「蛮族の男が、剣も持たず、字を覚え、水を清め、霧の中で何かを後悔している」「……そうだな」「なぜ」
「昔、間違えた。大事なものを、奪うことしか知らなかった。だから全部なくした。今度は——奪わずに、隣に立ちたかった」
炎が揺れた。「……奇妙な男だ」。批判ではなかった。
「……もし、俺がまたお前を死なせたら」
沈黙。エレオノーラが静かに言った。「その時は私があなたを殺す。だから安心して死ねるだろう」
小さく笑った。「……それは安心できないな」「できなくていい」
フェネックが焚き火の前に来た。「眠れないんです、アッシュさん」「怖いです」「怖くていい。怖くない奴の方が危ない」「アッシュさんは怖くないんですか」「怖い。めちゃくちゃ怖い」「嘘だ。さっきエレオノーラさんと普通に話してた」「あれは強がりだ」。フェネックはふっと笑った。「なんか、安心しました」
遠くでガンナルがブレンクに怒鳴る声がした。ブレンクが言い返した。ヤラが二人を叱った。ドルフが「俺も眠れないんですが」と言い、マルグが「黙れ全員」と答えた。チェルネが口笛を吹いた。ヴェルとスタンが小声で話していた。
前世と同じ声だ。今夜は違う。明日も、同じ声を聞かせてみせる。
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## 第六章 足場の崩壊と、安堵の涙
夜明け前から、水脈に働きかけた。
前世で死んだ顔を、一人ずつ呼び出した。ヘスが最初に死んだ。七歳のニルスが次だった。フェネックが泣いた夜。イセン。ダル。リオ。集落を焼いた炎。竪琴の音——全部。
ごうごうと地下の水が動いた。流れが、ほんの少し——谷の西側へ向かった。夜明けと共に、谷底の沼地に、はりはりと薄い霜が張り始めた。
「やれる」
戦闘は二時間続いた。
魔獣は巨大だった。高さ四メートルを超える四本腕の獣——魔素が固まった黒い皮膚、ごつごつと節くれだった関節、息のたびにびゅうびゅうと風を吹き散らす。通常の武器はほとんど通らない。しかし今回、足元が違った。
沼地が凍っている。
踏み出すたびに、めきめきと氷が割れ、どかりとバランスが崩れた。「今! 左足が浮いた!」エレオノーラの声が谷に飛んだ。
「ガンナル! 右から回り込め!」「おうっ!」「フェネック! 後退!」「は、はいっ!」「ブレンク、ヤラ——左翼維持! 退くな!」「わかった!」「はい!」「ドルフ! マルグ! 東の岩場から!」「了解!」「はいっ!」「チェルネ、ヴェル、スタン——補助射撃の位置へ!」「了解です!」「はい!」「はいっ!」
前世では統率が取れず、ばらばらに突っ込んで死んでいった面々が——エレオノーラの指揮の下、一つの意思のように動いている。
戦闘中盤、魔獣が突然向きを変えた。フェネックの方向へ、腕をずんと振り下ろす。
「フェネック——!」
咄嗟に、谷底の水脈を引き上げた。泥と水が魔獣の腕に絡みつき、軌道がほんのわずかずれた。どがんと岩が砕ける音がした。フェネックは岩の影に転がり込んでいた。「生きてます!」
しかし手が、ぶるぶると震え始めた。後悔の蓄積が、限界に近い。膝がかくかくと揺れる。
「アッシュ!」
エレオノーラの声が飛んだ。すでに隣に駆け寄っていた。剣を正眼に構え、前に立つ。
「終わらせる。今から魔獣の注意を引く。お前は足場を崩すことだけ考えろ」「……できるか」「やる」
走り出した。魔獣の視線が彼女に集中した。
残った後悔を全て絞り出した。底をかき集めた。エレオノーラの冷たい遺体。竪琴の音。全部——全部。
水が動いた。
魔獣が大きく踏み込んだ瞬間——ばきんと大きく、氷が砕けた。
傾いた。一秒の隙。「今!」
エレオノーラの剣が首元を走った。
ずん——と地響きが来た。
魔獣が、倒れた。
静寂。
膝をついた。涙が出た。
前世では、ここでエレオノーラがいなかった。谷底に落ちていた。代わりに死んでいった仲間たちの名前を、アッシュは全員覚えている。
しかし今——「ガンナル!」「生きてるぞ!」「フェネック!」「生きてます! 脇腹に傷が——」「ブレンク!」「問題ない!」「ヤラさん!」「無事! こっちは全員立ってる!」「ドルフ! マルグ!」「両方生きてる!」「チェルネ!」「かすり傷のみです!」
全員、立っている。
顔を伏せた。肩がぶるぶると震えた。
エレオノーラが隣に来た。しゃがんで、顔を覗き込んだ。「……泣いているのか」「うるさい」「勝ったのに」「そういう涙じゃない」
何も言わなかった。ただ、隣に座った。一瞬の迷いの後——彼女の手が、アッシュの肩にそっと置かれた。
春の風が谷に吹いた。フェネックが「いててて」と叫んだ。ガンナルが「情けない」と怒鳴り返した。ヘスが「両方黙れ、傷の確認をしろ」と叱った。セラが「異常なし」と報告した。オレクが「終わったか」と谷の入口から顔を出した。ルガが水桶を抱えて駆けつけた。「水の用意をしてきた。怪我人に使え」
「やっと——やり直せた」。誰にも聞こえない声だった。しかしエレオノーラが、横にいた。
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## 終章 鍬と、竪琴
正式な条約の締結は、夏に行われた。
辺境伯領と黒金の民の間に書面による交易協定が成立した。魔銀の一部採掘権が辺境伯家に移る代わりに、穀物と農具の安定供給が約束される。ヴァーレン公爵派閥は証拠書類によって失脚し、エルダン商会の商権は凍結された。帝国档案にヴァーレン公の名が残ることになった。
交易都市の建設予定地が、谷の麓に決まった。エレオノーラが提案した。「あの谷は通商路の中心になる。地形が適している」「……あそこでいいのか」「問題があるか」「……特にない」
エレオノーラがじっとアッシュを見た。「あなたは、誰かを死なせた。だから今、誰も死なせたくない。違うか」。アッシュは答えなかった。「条約の署名は明日だ。今夜はゆっくり休め」
——
翌朝、エレオノーラを呼んだ。
手には一つの農具があった。鍬だ。黒銀色にぴかりと光る——魔銀で作られた鍬だった。
エレオノーラが、ぴたりと固まった。「……なんだ、これは」「求婚の品だ」「……剣でも、宝石でもなく」「魔銀は本来、武器か魔法触媒にしか使わない。それを鍬にした。俺の答えだ」
鍬を持ち上げた。柄の部分に、歪んだ文字が刻んであった。「……『共に耕すため』。文字が歪んでいるが」「まだ練習中だ」
彼女は長い間、鍬を見ていた。
「これはお前を縛る鎖じゃない」とアッシュが言った。「一緒に土地を耕すためのものだ」
「ならば——私が最初に耕すのは、あの谷だ」
言葉を失った。前世でエレオノーラが死んだ場所。彼女はそれを——死の場所ではなく、畑に変えようとしている。
「……いいのか」「私の答えだ」。鍬を、胸にそっと抱えた。「受け取る」
膝をついた。「ありがとう」「礼はいらない」「それでも」
エレオノーラは少し間を置いてから、言った。「……どういたしまして」
柔らかい言葉だった。彼女が、初めてアッシュに使った言葉だった。
——
都市の建設初日の夕暮れ。
エレオノーラは谷の縁に座って、竪琴を奏でていた。
ぽん、とろん、と。一音ごとに、夕空に吸い込まれていくような音が続く。
少し離れたところで立って、聞いていた。
旋律が、耳の奥の残響と重なった。あの日——全てが終わった焼け跡で、遺体の傍らで触れた竪琴の——幻聴と同じ曲だ。しかし今回は違う。彼女が、生きて、弾いている。
北方の山脈が夕焼けの中に紫色で浮かんでいる。あの山の向こうに、部族がいる。フェネックが石を運んでいる。ガンナルが文句を言いながら測量をしている。トルカ長老が火の前で笑っている。ヘスが子供たちを診ている。ウルナ老婦人が新しい家の柱を撫でている。イラがフェネックを追いかけて走っている。オレクが帳簿をめくりながら口笛を吹いている。ルガが水源を確認している。レナが建設記録をまとめている。モスクが長老への報告書を書いている。ヤラとブレンクが壁に石を積みながら笑っている。チェルネが新しい衛兵の動き方を教えている。ドルフとニコが正門で交代の挨拶をしていた。ヴェルとスタンが夕飯の鍋を覗き込んでいた。マルグとセラが明日の配置を打ち合わせていた。ミードからの書状が机に届いていた。
刑罰は、終わった。
喉から、音が出た。
旋律に合わせた、低い鼻歌だった。自分でも気づかなかった。
エレオノーラの手が、止まった。ぴたりと、弦が静かになった。
「……それを、どこで聞いた」
息を飲んだ。「知らない。……ただ、耳の奥にある気がした」
しばらく竪琴を見ていた。それから、また弦を弾いた。ぽん、とろん、と。「……奇妙な男だ」
隣に座った。二人で、夕暮れを見た。
「エレオノーラ」「なんだ」「……お前が笑っていてよかった」「いつ笑った」「最初に、俺の歪んだ字を見た時」「笑っていない」「笑ってた」「……証拠は」「俺が覚えてるから」
沈黙。「……奇妙な男だ」
二度目の、その言葉。今度は——かすかに、温かかった。
旋律は続く。谷は静かだ。
耳の奥の残響が——静かに、消えていった。
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**後日談**
交易都市《灰誓の街》は、三年後に帝国公認の自治都市となる。初代市長アッシュの施政下、北方山脈と帝国南部の交易は正常化し、黒金の民の人口は回復した。疫病の記録は帝国档案に残り、ヴァーレン公爵派閥の失脚と共に公開された。エレオノーラは都市の騎士団長として防衛と治安を担った。マルグは副団長。セラは在庫管理と警備の両方を担当し、誰よりも帳簿の字が美しかった。フェネックは建設作業の現場監督になり、毎日ガンナルと口論した。ルガは水源管理の顧問として毎朝水源を確認した。レナが建設記録の公式档案係となった。チェルネが衛兵隊長に就いた。谷を耕した畑には、翌春、麦が実った。
夕暮れになると、エレオノーラはあの曲を奏でる。アッシュはいつも、隣に座る。
それで、十分だった。




