2.それでも俺はここを選んだ
元勇者は怯えてる
「なにしてんの?」
ゴミ袋を持って部屋に戻ろうとしていた俺に声をかけてきたのは、同じマンションに住む元カノだった。出し損ねた燃えるゴミに注がれた不思議そうな視線が、ちょっと恥ずかしい。
「……もう回収されてたんだよ」
朝起きてからゴミをまとめて部屋を出たら、ゴミ捨て場はきれいになった後だった。いちおうゴミの日が書かれたプレートを見たけど、今日が燃えるゴミの日で間違いはなかった。
「寝坊したの?」
「まあ、そんなとこ」
今日の講義は三限からだから、寝坊したわけじゃない。でも、ゴミ出しという点においては寝坊だろうな。
……そういえば、昔は講義の時間に関わらず、毎朝七時に起きていた気がする。いちいちゴミが回収される時間を考えたことがなかった。起きてからゴミをまとめて出せば問題なかったのは、かつての俺が規則正しい生活をしていたが故らしい。
「なあ、ゴミの回収って何時だっけ」
「八時半くらいじゃない?」
八時半か。これからは確実にゴミ出しをするために、八時には出すようにしようと誓う。
「ゴミ袋大きいけど、大そうじでもしたの?」
右手の重みがつらい。家にあった一番大きなゴミ袋に詰め込まれたゴミは、ここ一ヶ月くらいの分だ。でも以前なら週に二回の燃えるゴミの日にゴミ出しをしていたし、そもそも一人暮らしで、昼食は大学の食堂が多かったこともあって、Sサイズのゴミ袋で間に合っていたのだ。なのに、ゴミ出しという行為そのものが頭から抜け落ちていた現在、Lサイズのゴミ袋がパンパンになっている。部屋に入った時に嫌な匂いがしてゴミ捨てという行為を思い出した時は、マジで愕然としたな。
「最近出し忘れてたんだ……」
元カノの目がまん丸く見開かれる。ぱちぱちと何度か瞬いてから、少し考えるように視線が上を向いたあとにニッコリと笑った。
「そっか。まあ次は間に合うようにがんばってね。んじゃ私は大学行くね」
言うなり歩き出した背中を見送って、少しさびしい気持ちになる。
俺が覚えているあいつの髪は肩までのストレートだったのに、最近はパーマをかけたようでふわふわとしたウェーブが揺れていた。髪色も、黒から少し明るくなっている。この前聞いたら、ミルクティーベージュだと教えてくれて、そういえばミルクティーが好きだったなぁと思い出す。
俺の部屋にもあいつが持ち込んだミルクティーのインスタントスティックが残っていたはずだ。もうそれが勝手に減ることはないから、俺が飲んでしまったほうがいいのだろう。味がある飲み物って最高だよな。
ちょっと薄めのハーブティーもうれしかったけどさ。
銀髪の少女が、柔らかく香るハーブティーを淹れる姿が脳裏に浮かぶ。
嗜好品なんて王城ですらほとんど出てこないのに、あの子はしっかりと自分の分を確保して、たまに淹れてくれた。あの香りに、味がある温かな飲み物に、どれだけ心が慰められただろうか。
ここに帰ってきてからは味のある飲み物なんて当たり前だし、食事だって美味しいものを腹いっぱい食えて当たり前だけど、あそこではそうじゃなかった。
そういえば、あのハーブティーはこちらでも飲めるのだろうか。ハーブの名前は聞き慣れないもので、ここでも同じものが存在しているとは限らない。でも、似たような香りのものがあるなら、飲みたい。
……会いたいな。
浮かび上がった想いを振り払うように首を振って、手元に視線を落とす
この燃えるゴミはどうしようか、ベランダと玄関、虫が沸く率が低いのはどちらだろうかと考えたら、ため息が出た。……いやマジで虫イヤだし殺虫剤ふりかけておくか。
***
大講義室に入ると、前から二列目の席の端に座ってスマホを取り出した。昔は真ん中より少し後ろくらいが定位置だったけど、最近は前から二列目が定位置になりつつある。
大学での友人関係の記憶はもう薄れていて、向こうは俺のことを知っているのに、俺は顔も名前もおぼろげなのは居心地が悪いんだよ。そうなると、前から二列目は、隣りに座ってくる奴の大半はふるい落とせるし便利だった。講義を真面目に受けること自体は嫌ではないし、困ることはない。講義がはじまるまで暇な時間はあったとしても、スマホや本があれば時間は潰せるもんな。
にしても、スマホってやっぱすごいよな。直感的とかいうかなんというか、いろいろとおぼつかないことが多くなった俺でも、すぐに使い方を思い出せた。
おかげで、困った時はググってどうにか解決できるし、パスワードがわからずとも顔認証で突破できる。あと暗証番号がわからなくて現金を引き出せない中で、電子マネーで支払いができたのはマジで助かった。これが向こうにもあれば、いろいろ便利だったんだろうなぁ。
ぼんやりとSNSを眺めていたら、漫画広告が目に止まった。異世界召喚された勇者の物語らしい。よくある設定だし、俺も昔は好きだったはずなのに、今は、ちょっと複雑な気持ちになるんだよなぁ。
……だって俺も、勇者として異世界召喚されたし。
ため息が出た。どんな妄想話だと思っても、あの世界で過ごした日々は、俺にとって現実だった。
っつか戻ってきてから一ヶ月くらいしか経っていないし、まだ鮮明に思い出せることも多い。剣で肉を斬った感触も、浴びた血の生暖かさも、足元に転がるたくさんの死体も。……いまだって、夢に見て飛び起きるんだ。
俺は、約半年を勇者として異世界で過ごして、役目を果たして帰ってきた。
召喚された時間と戻ってきた時間のタイムラグがなかったおかげで、誰も俺が異世界に召喚されたことを知らない。
拉致られて勝手に役目を押し付けられはしたけれど、最初の約束通り、終われば帰ることはできたし、行方不明とかにならないよう、戻る時間軸もピッタリな、アフターフォローが手厚い神様だった。
俺は神様の姿どころか声も聞いたことはないけど、神の声を聞くことができる聖女が言うには、俺に謝っていたらしい。謝るくらいなら拉致るなよ。
タイムラグなく帰って来ることができても、周りは何一つ変わっていなくても、俺自身は変わってしまったんだから、なにもなかったみたいに日常には戻れなかった。
半年。それが長いのか短いのかはわからないけれど、あの濃密な時間を過ごしたことで、俺はすっかりここでの生活を忘れてしまっていたんだ。自分でも、驚くくらいに。
ゴミを捨てるということを忘れて、俺の部屋の玄関にはでかいゴミ袋が鎮座して、微妙に匂いを放っているという不都合も生まれている。あれは地味にへこむ。
もちろん、戻してくれたことはうれしい。
俺が勇者として召喚されたくらいだから、あっちは滅びかけだったんだよな。周りに死は溢れていたし、王城ですら食事はかなりひもじかった。討伐が役目だったから大半が野営だったし、嗜好品なんてものは当然ほぼなくて、あの子がたまに淹れてくれるハーブティーだけが楽しみだったんだ。
だから、戻ってきて最初に飲んだ麦茶に、少し驚いた。お得用の麦茶パックをお湯に放り込んだだけなのに、こんなにも美味しいのか、と。
そして目にはいったドリップコーヒーを丁寧に淹れてみたら、部屋中に広がった匂いに泣きたくなった。口に広がった苦みに、これはあの子は飲めないかもしれないな、と笑いたくなった。
あの子が――聖女が、ハーブティーが好きだったことは知っている。けれど、味の好みを知るにはあまりにも食べ物や飲み物の種類が少なかった。
ただ苦みはあまり好きではなかったみたいで、討伐遠征中の野営で食べた苦みのある薬草スープに、涙目になっていたことがある。それでも必要な食事だとがんばって食べきった姿が懐かしい。
ああでも、ハーブティーの香りに顔をほころばせていたのだし、もしかしたらコーヒーの香りは好みかもしれない。
会いたいな。
そう思うのは何度目かと呆れてしまう。
俺の手元にあるのはスマホで、今いる場所は大学の講義室だ。ここにあの子はいないし、俺はあそこに残ることを選ばなかった。ならこんな感傷に浸っていても仕方がない。
帰ることを選んだ俺に、あの子は聖女としての顔で笑った。神の意思を実行するために、役目を終えた勇者が望むままに聖女としての役目を実行したあの子は、その手で俺をこの世界に戻してくれた。……最後まで、笑って。
選ばなかった俺が、繰り返し想いを馳せるなんてばかみたいだ。
先生がやって来たことが視界に入る。スマホを片付けて深呼吸をしてから、気持ちを切り替えて、俺はただの大学生になった。
***
ふたつめの講義を終えて、帰ろうとキャンパス内を歩いていると、わっと声が上がったほうに視線が向いた。見れば、元カノが「あああああごめんなさいぃぃぃぃぃ」と木の上を見上げて頭を抱えている。周りはゲラゲラと笑って「奇跡かよ」「ある意味天才」とか言っていた。
あいつらが見ている先に目を凝らしたら、黄色いボールが枝に引っかかっていた。きれいにすっぽりとハマりこんで、落ちてくる様子はない。
周りの奴らの持っているものを見れば、手のひらサイズのボールやディアボロで、ジャグリングサークルだと検討をつける。あいつはサークルには入っていなかったと思うけど、友達がサークルメンバーなのかもしれない。練習するのを見かけて、やってみたいと声をかけて混じった可能性はある。そして、混じった結果ボールを木の枝にひっかけたんだろう。
メンバーの男がひとり、ディアボロのスティックの片方だけ握って上に放り投げ、もう片方の手持ち部分を器用にボールに当てて、弾き落とす。いやマジで器用だな。今の俺には、あんな芸当はできない
あちらの世界にいた頃は、神の加護を得た勇者だったから、ああいうことも少し練習したらできただろう。というか、超人的な身体能力があったから、ボールが引っかかっている場所までジャンプで手が届いた。一階くらいまでのジャンプ力はあったし、木から木へと飛び移ることも、二階くらいの高さなら飛び降りるという、漫画みたいなことが実現できたんだからすごいよな。
正直戻ってきて戸惑ったことのひとつは、超人から一般人に戻った身体能力だろう。聖女を抱えて半日歩くなんてザラだったし、時間短縮に城の二階から飛び降りて移動することもあった。ほとんど疲れないし、眠りも少なくてすむ身体が便利で、それに慣れきっていたから、一般人に戻ってからはやらかしかけたことが何度かあった。
階段の上から飛び降りようとした時は、さすがに肝が冷えたな。何気なく実行していたら、今頃俺は大怪我どころか死んでいたかもしれない。
――ぱちりと、目があった。
ぼんやりと眺めていたら、あいつも俺に気づいたのか、パッと笑顔を浮かべた。そして手でこっちに来いと示してくる。それで俺の存在に気づいた周囲の数人が、俺とあいつを見比べて、微妙な顔をした。特にあいつの友達らしい女が、こそこそと何か言っている。そりゃあそうだろう。少し前に別れた相手に普通に接してくるあいつが変なんだ。
だからといって、呼ばれて無視するのもなんだし、俺は集団に近づいていった。
「ちょっとあんたもやってみてよ! 私が不器用なわけじゃなくて、みんながすごいだけだよね!?」
「みんながすごいのは確かだろうけど、お前が不器用なのも事実だろ」
体を動かすことが好きなこいつに付き合って、屋内でも屋外でもいろいろなスポーツやゲームに付き合った。ボルダリングやトランポリンは器用に楽しんでいたが、ボールが絡むととたんにノーコンっぷりを発揮した。
卓球ではどこかに飛んでいくし、テニスではよくスカっていた。バスケではすぐ近くからでもなかなか入らず、バレーボールでは自分の顔に打ち返していた。ボールとの相性はとことん悪いらしい。
まずは二個で、と茶髪の男がボールを渡してくれる。たぶんこいつは俺達が元恋人同士だとは知らないんだろう。
受け取ったボールをお手玉みたいに放り投げると、特に問題なくできた。身体能力は一般人になったが、あちらの世界で身についた一部のことは今もできるみたいで、少しうれしい。とはいっても、三個が限界だった。これでも十分すごいんだろうが、たぶん勇者の力があった時はもっとできた。
「……なんかくやしい」
ふくれっ面で元カノは拗ねている。周囲からはサークルに入らないかと誘われたけど、笑って断って、再び練習をはじめた姿から目を逸らしさっさとその場を離れた。
本当に、元カノには助けられている。あいつにとっては理不尽なほど唐突に振った元カレなのに、戻ってきた直後の物慣れない俺を見かけると、なんかんだと手助けしてくれている。今だってふつうに、友人みたいに接してくれた。
好きだった人が、そのままの姿でそこにいる。
……いや、髪型も髪色も変わっているし、彼女だった頃と態度は変わっているか。あいつの態度は、付き合う前、友達だった頃の距離感に戻っている感じだ。
そもそもあいつと知り合ったのは、大学と住んでいるマンションが同じだったからだった。
マンションで見かけたことがある女の子と大学の食堂で顔を合わせた日、お互い人見知りでもなかったことでそのまま一緒に昼飯を食って仲良くなった。基本的には食堂で一緒に食べたり、マンションですれ違った時に少し立ち話をする程度だったけれど、その距離感は居心地がよかった。今日みたいにキャンパス内で友達が近くにいるときでも普通に声をかけられることもあった気がする。
お互いにそれなりに好意はあったけれど、関係が変わったのは一年のクリスマス翌日だった。割引になったホールケーキを買ったあいつがテンション上がりすぎて、俺の部屋に押しかけてきたことがきっかけだった。一人で食べきれないからとは言っていたけど、三分の二をあいつは食べていたなぁ……。
ちなみに恋人になったきっかけはホールケーキで、別れる原因となった異世界召喚に巻き込まれたのはカフェでのアフタヌーンティーンセットを堪能している最中だった。
俺にとってはじめての三段プレートで、ケーキやサンドイッチ、スコーンが並ぶ光景はおもしろかったし、「ここのスコーンはおいしんだよ」とうれしそうに食べる彼女はかわいかった。
でもそんな中、おかわりし放題だった紅茶をガブガブと飲んだあいつがトイレに立った時、異変は起きたんだ。
瞬きをしたら、カフェじゃなくて知らない場所にいた。
意味がわからないと思うけど、俺だって未だに意味がわからない。女子が多い店内にいたはずなのに、瞬きしたら変な服を着た人達に囲まれていたんだ。
ついでに、椅子に座っている状態から急に召喚されたせいで、ふつうに尻餅をついた。食べようと手に持っていたスコーンがころころ転がっていったのを、無意識に視線で追ったことを妙に覚えている。
「勇者様、ようこそおいでくださいました」
スコーンがたどり着いたのは、一番近い場所で跪いて頭を下げる銀髪の少女の足元だった。それに合わせて、少女の背後に居た人たちが音もなく一斉に跪いてビビったんだよなぁ。
そこまで思い返したところで部屋に帰り着き、玄関を開けたら微妙に匂いを発するゴミ袋に出迎えられて、なんかへこんだ。
***
あの子が淹れてくれたハーブティーを探そう。
そう思ったのは、戻ってきてから二ヶ月が過ぎた頃だった。
二ヶ月も経てばこちらでの生活にも慣れて困ることも減って、ようやく落ち着いて行動できるようになってきたんだよな。
ちょっと前まで、あれはどうだったこれはどうだったと戸惑うばかりだったし、大学では単位を落としかけるどころか諸々の手続きを忘れていて、資格講義やら実習やらと申込みを忘れるところだったんだ。学費は親が払っても、大学での手続きは自分でやらないといけないもんな。
友人関係がだいぶ希薄になったせいで、自然と入ってくる情報が少なくなったのは痛手だ。でもまぁ、自覚すれば掲示板や学生マイページでいろいろと確認する習慣ができたし、今後はそこまで苦労しないだろう。
そうやって、自分の生活ペースが掴めてきたら、あの子が淹れてくれたハーブティーが懐かしくてたまらなくなってきた。
眠れないほどのストレスに苛まれていた俺に、野営の時でもあの子はハーブティーを淹れてくれた。外で簡易的に淹れただけだから、たぶん香りも味もだいぶ薄かったんだろう。でも、嗜好品なんてない中で、気遣ってくれたあの温もりは、本当にうれしかったんだ。
勇者として召喚された俺の役目は、魔物の王を倒すことだった。
魔物の王って言われたら、知能があって言葉を喋って魔物を統率しているって思うだろ? 俺は姿も人間みたいなのをイメージしたんだけど、全く違ったんだよなぁ。
――瘴気を生み出す生き物。それが魔物の王だった。
昔は魔物は魔物として生まれてくると思われていたみたいだけど、実は瘴気に狂わされた動物たちが変質した存在が、魔物だったらしい。
魔物の王が生まれるまでは、魔物は濃い瘴気のある森や山にいるだけで、見たことがない奴のほうが大半だった。だけど、魔物の王は生き物だ。しかも、かなり活動的らしく、どこかを根城にするわけでもなく、どんどん移動していくタイプだった。
最初は北の領地。そこから東に移動したかと思ったら、西に南にと縦横無尽に駆け回っているようだった。領地も国も関係なく、魔物の王は移動した。その道程に瘴気が撒き散らされ、野生動物も家畜も次々と魔物へと変質して、あっという間に魔物が増えた。
そして人間は、魔物を倒すと病で苦しむことになった。魔物に触れたら瘴気を浴びるんだからそりゃそうなんだけど、放っておいたら魔物は人間を襲うのだから、倒すしかない。でも、倒すと病を得る。しばらく戦えなくなるどころか、そのまま蝕まれて命を落としてしまう人もいたと聞いた。
俺の場合は勇者だから、無自覚発動している浄化の力があったし、瘴気を浴びた苦しみとかわかんなかったけどさ。
まあそんなわけで、討伐した後に病を得た者が回復するだけの人員や時間や術を確保できた王都や一部の領地だけはかろうじて生き残り、他はほぼ壊滅状態。国交どころか自国の中ですら分断状態で、協力して現状を打破することもできなかったんだって。
そんなガチめの滅亡の危機だったからこそ、世界を救うために神の信託が降り、勇者召喚の儀式が行われた。そして、俺は勇者になった。
なんで俺がとも思ったけれど、漫画みたいな展開に興奮もした。勇者だぞ勇者。そりゃテンションあがるだろう。世界が大変なことになっていると言われても、言葉を聞くだけだとピンとこなかったということもあった。最初こそ戸惑って誘拐だなんだと騒いだが、しばらくすれば、世界の滅亡を救う勇者という立場にわくわくしてしまったのも仕方がなかったと思う。
なぜなら勇者の力はすごかった。
初めて握った剣を軽々と扱うことができた。筋力がついてこなくて多少のトレーニングをする必要がありはしたけれど、騎士団の鍛錬に混じって鍛えれば鍛えるほど、おもしろいくらい簡単に動けるようになっていった。
まず、ジャンプ力が超人だった。一階建ての小屋の屋根ならジャンプで飛び乗ることができたし、屋根の上を走ったり飛び越えたりもできた。森で木の枝を忍者みたいに移動することもできたし、アクロバティックな剣技だって披露できた。小石を投げたら、魔物の眼球に命中させることだってできたな。
この世界の人間の身体能力が優れているわけではなく、神の祝福を持つ俺が異常だった。つまりは、少しの練習でイメージする動きを実現するというチートを手にしたらしい。
ちなみに、俺が思う魔法はなかった。召喚や治癒の力が魔法といえば魔法なのだろうが、火や水を出したり、空を飛んだりというようなものがなかったことは少し残念だ。俺も手から水を出したり、剣に炎をまとわせてみたりしたかった。
あの世界においては、祈りによって神の加護を得ることが魔法みたいなものだったらしい。神の力を分け与えられた聖女を中心とした一部の巫女や神官が祈りを捧げることで、癒やしを行ったり、豊穣の神事をすると言っていたな。それでも十分すごい。
神の加護を受けて召喚された俺は浄化の力はあったけど、祈るとかわからなかったし、癒やしとかそういうのはできなかったな。練習したらできたかもしれないけど、異常な身体能力を活用するほうが俺にはわかりやすかったし、そっちはさっぱりだ。というか、身体能力は浄化の力を発揮しやすくなるための付随要素だったとも言われたな。
勇者は存在するだけで瘴気を薄めるし、剣を振ることでその範囲や濃度を強める。おかげで、俺の周囲で戦う騎士達は瘴気の影響はほとんど受けていなかった。俺自身が倒せば魔物自体が浄化されて、完全に瘴気を払うこともできた。勇者ってすごいよな。
ちなみに、浄化だ云々といえば聖女を思い浮かべるけど、あの世界にも聖女はいた。俺が召喚された時に目の前にいた銀髪の少女で、召喚の儀式を執り行った張本人だ。
神の声を聞くことができ、神の意思を代行する。そして神の力の一部を使い、他の巫女や神官よりも強い治癒もできていた。魔物を討伐すると普通の人間は体調を崩すから、聖女の力で育った薬草を使った薬を持って騎士団は討伐に出るんだと教えられた。俺はその薬、飲んだことないけど。
そんな聖女が討伐にも度々参加していたのは驚いたな。俺がはじめての実践に出た時は当然のように参加していて、食いちぎられた騎士の腕を手に持って治癒を施してくっつけていた。顔色も変えずに。
一方俺は、倒れた。はじめて魔物を見て、そして血なまぐさい死と隣り合わせの戦いの場を見て、そして年下の少女が血まみれになって治癒して回っている姿は、衝撃だったのだ。いやまぁ、血まみれといっても他人の血でだが。
「恐怖は邪魔になりますから」
そう微笑んだ聖女の顔を見て、俺はいろいろ反省した。勇者という立場と力に興奮していたけど、現在進行系で人はどんどん死んでいっているということをようやく理解したんだ。
周りのみんなが優しくて協力的なのは、俺が勇者だからだ。一体の魔物の討伐の様子を見ているだけで倒れたことで、失望というか、ひどく不安に思った人も多いだろう。俺が慣れるまでゆっくりと待ってくれるような時間は、この世界にはないのだ。
本来ならば、早急に魔物の王を倒してほしいはずだ。なのに勇者を道具みたいに扱うのではなく、俺が力を扱えるようになるよう鍛えて、待ってくれている。倒れたことをなじられるでもなく、心配され、王様たちがいろいろと頭を悩まして話し合っていると知れば、俺自身が変わらないといけないと思った。
それから、王都の近くで騎士団と三度演習がてら魔物の討伐を行い、とりあえず戦えるようになった。後で吐いたり、寝付きが悪かったり、悪夢で飛び起きたりもしたけれど、魔王討伐の旅に出ることができるようになったのだ。
メンバーは、勇者の俺と聖女、第二騎士団から三人選出された五人だった。少ないと思うが、王都に常駐しなければならない騎士団の人数もギリギリで、それ以上出せなかったというのもあるらしい。
そもそも、動物は瘴気が近づくと魔獣化しちまうから、馬に乗って移動もできず、徒歩だ。人数が多くなると物資も多くなってしまう。一部の領地を除けば、村も街も壊滅状態の今、少人数で地道に進むしかないという事情もあったんだよな。
そして本来なら王都にいたほうがいいであろう聖女が同行しているのは、魔物の王がどこにいるか察知できるのは、神の声を聞くことができる聖女だけだったというのが大きい。どこかを根城にしているというわけでもない移動する対象のもとにたどり着くには、聖女の力が必須だった。
宿があるわけでもなく、野宿の日々だった討伐遠征では、正直大変だった。勇者と聖女の力で死の危険はあまり感じなかったが、野営生活はかなり堪えた。
魔物の王のいる位置は、聖女の力でわかる。だけど、人が通れる道を探りながら進んでいく必要があったし、聖女はそれほど体力があるわけでもない。結局、俺が抱えることが多かった。神の加護がある勇者は常人より疲れにくいし、片腕に聖女を座らせて抱え、もう片方の手はいつでも剣を抜けるようにしていれば、何かあっても直ぐに対応できた。
そもそも俺が居れば自動的に浄化されていくんだし、自分で魔物がいる場所に突っ込まない限りそこまでの危険はなかった。魔物が近くにいれば聖女が感知して指示を飛ばしてくるため、不意の攻撃も受けない。強すぎるだろう、勇者と聖女のコンビ。
もちろん知識の乏しい俺は、戦いや野営経験のある騎士たちがいなければ別の意味で野垂れ死んでいただろうが。
そんなチートじみた俺達ではあったけれど、あの頃の俺は魔物とはいえ生き物を殺すことに、かなりのストレスを感じていた。
身体能力が上がって、超人的な動きができることは楽しい。だけど、それとこれとは別だ。
剣を使って殺すのだから、その感触がある。時に拳で殴り飛ばすこともあった。肉を刺す感触を、骨を砕く感覚を、血を浴びた匂いも、何もかもが気持ち悪かったし、怖かった。俺が魔物の王を倒さなければ人がどんどん死んでいくことを理解したからこそ、無理をしていただけだ。
道中には魔物に殺された人間の死体がごろごろ転がっていたんだから、余計にきつかった。
反動は当然あって、眠れない夜が多かった。これも神の加護か、疲れも感じにくく、仮眠程度でも問題なく動き回れた。食欲も激減していたが、野営中に食べられるものも限られていたし、食べられる時に最低限は無理やり食べていた。
そういうことに騎士たちも気がついていて、眠れない夜は見張りだと笑って一緒に夜を過ごしてくれたり、俺のために食べやすい果物を見つけてくれたりと、さり気なく助けていてくれた。
聖女も同様で、何かと気遣っていてくれた。俺の疲労やストレスが強い時は、ハーブティーを淹れてくれた。香りで落ち着きを得た夜は、眠ることができたんだ。もちろんハーブティーは俺だけではなく全員に振る舞っていたが、それでも手渡される優しい温もりがうれしかった。
そういう中で、共に旅する騎士たちには友情と信頼を、そして聖女には愛情を抱くのは、当然のことだったと思う。元の世界の恋人を思い出して会いたいと想うより、目の前にいる聖女へ惹かれる気持ちが強まっていったことは必然だった。
「勇者様、神からのお言葉です。――望めばいつでも帰す、とおっしゃっておりました」
魔物の王を倒して王都に帰る途中、聖女はそう言った。
旅立って一ヶ月ちょっとで俺達は魔物の王の元にたどり着いて、討伐することができた。居場所がわかる聖女と、瘴気の影響を受けず浄化できる勇者がいれば、難しいことではなかったんだ。ただ、たどり着くまでの徒歩移動と野営が本当に大変だっただけだ。
たどり着けばひどくあっさりと倒せたことで気が抜けたけど、聖女や騎士たちはこらえきれずに泣いていた。俺も、役割を果たせたのだと心から安堵したことをよく覚えてる。
世界は救われた。勇者は役目を果たした。
そうなると、もう勇者はいつでも元の世界に戻ることができるらしい。
聖女や騎士たちから、帰るのは王様に報告をしてからにしてほしいとはお願いされたけど、求められたなら役目を終えたその場でも帰ることはできるとは言われた。
だけど、その場でさよならなんて言うのは気が引けたというか、一緒に旅をした五人で王城に戻りたい気持ちはあった。お世話になった人に挨拶をしたかったというのもある。
そもそも薄汚れた格好のまま帰るわけにはいかなかったんだよ。
風呂なんて何日も入ってないし、服もボロボロで、血やなんやとついていた。その格好で、デートをしていたカフェに戻ったら、あいつも腰抜かしだろう。店にとっても営業妨害だ。そもそも座っていた男の格好が一瞬で変わるって恐怖だろ。
だから俺は、こざっぱりとしてから城に保管してもらっているあちらの服に着替える必要があったんだ。
「……帰るんですね」
王都に戻る途中の野営中に、あの子はぽつりと言った。
騎士二人は寝ていて、起きているのは最年長の騎士(副団長で俺達のリーダーというか世話役でもあった)と、俺とあの子だけだった。聖女は体力的にも野営中の見張りで起きている必要はない立場だったけど、俺の隣で夜空を見ながら、寝る前に少し話をしにきていた。
こういう夜は、何度かあった。男四人で夜の見張り番を回していたけど、俺は必ず騎士の誰かが一緒だった。そして副団長と俺がペアになった時は、あの子は他の二人が寝た後もしばらく起きて、ぽつぽつと俺の隣で話をすることがあった。副団長はそんな俺達を視界の端に入れてはいたけど、武器の手入れや薬草で薬を作ったりして、基本は放っておいてくれた。
「そりゃ、あっちには家族もいるし」
恋人もいるという言葉は飲み込んで、俺は夜空を見上げるその横顔を見た。
銀髪の少女、聖女、あの子。抱き上げた時の温もりや柔らかさ。優しいけれど時にきっぱりとした厳しさを含む言葉。血まみれになってでも騎士たちの治癒をする姿。夜営中はあまり役に立てないと落ち込む背中。薬草や果物を見つけては俺に浄化させて煎じたり料理をする手。聖女の祈りでこっそり育てて確保してた貴重な嗜好品のハーブティーをこの旅では全員に振る舞いながらも、内緒ですよと笑った口元。
……惹かれるのは、この環境が大きく作用していることはわかっている。
勇者と聖女と騎士たちの力があれば、自分が死ぬとは思わなかった。
でも、道中そこら中に食い荒らされた死体は転がっていた。死に絶えたかつて人が暮らしていた場所もたくさん通ってきた。魔物を避けて通るのではなく、倒した。倒して、自分たちが通ってきた道を浄化していた。
だから俺は、魔物とはいえ、肉を裂いて血を浴びて数え切れない命を殺してきたし、時間が経って腐っていく死体たくさん見て歩いてきた。
ただの大学生の俺にとって、勇者の役目から逃げるほうが怖かったんだ。逃げて、世界が滅んでいくのを見せつけられながらこの世界で生きていくなんてできなかった。役目さえ果たせば、優しくしてくれた人たちは救われる。元の世界に帰ることができる。だから覚悟を決めたけど、精神が病まないわけがない。
そんな中で、あの子がそばにいると心が落ち着いた。それは聖女の力のせいかもしれない。っつかそもそも、頻繁に腕に抱えて密着してる時点で意識するのは必然だ。しかもそんな近い距離にいる女の子が自分を気遣ってくれているなんて、好きになるだろ。
触れたいと思う。キスしたいと思う。心も身体も通わせたいとも思う。……だからといって、理不尽に連れてこられたこの世界にずっと居たいとも思えなかった。平穏で平凡な日常に戻りたい。それが俺の望みだった。
「……私は、あなたといたい、です」
夜空から俺に視線を移して、あの子は言った。泣きそうなか細さで告げ、その心を渡そうとしてくれる。
このまま手を伸ばして抱きしめてキスができればいいのに。衝動のままに流されてしまいたい。でも俺は帰るから。どれほど愛おしいと想おうと、ここに残らないなら手は伸ばせない。刹那的な、身勝手な恋情を、背負わせたくはなかった。
「――ごめん」
引き結ばれた唇から吐息が漏れると、あの子は「休みます」と自分の寝床に向かった。
……視界の端にいる副団長の視線が、ちょっと気まずかった。
***
目の前には、いろいろなハーブティーのパッケージが並んでいる。
スーパーの紅茶売り場の一角にはハーブティーもあった。あの子が淹れてくれたものはどれが近いだろうかと考えて、とりあえずはその場にある全種類をかごに入れた。
あの香りが恋しい。選ばなかったくせに。差し出された想いを受け取らなかったくせに。……なのにこの胸にあるのは恋しさだ。
こちらに帰ってきた日、俺は彼女に「別れよう」と言った。他に好きな人ができたからというのは嘘じゃないけど、あの時はそれ以上に、……絶えられなかった。あれほどまでに帰りたかった世界が、日常が、あまりにも平和すぎて苦痛だった。
一瞬前までいた世界では、数え切れないくらいの死体が転がる道を歩いたんだ。魔物とはいえ多くの命を奪ったんだ。この手は肉を斬る感触を覚えているし、肌にかかる血の温さを知っている。
なのにあいつは何も知らない。変わってしまった俺のことを知らないまま、剣を握り慣れたこの手を握った。へらりと笑って、帰ろうと言ってくれた。
このまま全部忘れて日常に帰ってしまってもよかったのかもしれない。誰も何も知らない。俺しかわからない。なら、全部なかったことにして、この世界の日常に戻って忘れてしまえばいい。……でも無理だった。
だってあの世界は、これからも悲惨な状態は続く。
これ以上魔物が増えないとはいえ、残った魔物を狩らないといけない。生き残った人間たちで、復興に奔走しないといけない。役割は果たしたとはいえ、俺があちらを選んで留まれば、残りの魔物を安全に倒しまわることはできたし、高い身体能力はそれ以外の復興作業にも役立ったはずだ。
なのに俺はここを選んだ。あの世界から逃げた。
召喚されて、理不尽に勇者の役割を押し付けられただけだ。役目を果たしただけでも十分だろう。でも、逃げた気持ちになってしまうんだ。あそこで過ごして、数は少なくても人々との交流を持った。そんな人達を見捨てた気になってしまって、罪悪感に潰されそうになる。
だから、衝動のままに別れを切り出した。両親に会って時間を置いた後でさえも、他に好きな人ができたとあいつを振った。どこまでも中途半端で、どこまでも卑怯な俺は、あの子を理由に、あいつから、平和な日常から、距離を置こうとした。
俺は本当に、今でもあの子を好きなんだろうか。ただ、こちらとあちらのギャップを抱えきれなくて、あの子への恋情という形で逃げているだけなのかもしれない。
聖女という立場で帰る方法を示しながら、それでも俺に帰らないことを選んでほしいと望んで「あなたといたい」と言ってくれたあの子を、言い訳にしているだけなんだろうか。
――ああ、あの香りを嗅ぎたい。
帰ってから、買ってきたハブティーを片っ端から淹れてみたら、残念ながら記憶に似た香りも味もなかった。
買い漁ったパッケージにはまだまだ袋が残っていて、気落ちしている今はこれを一人で消化するのも気が進まない。あいつはこういうの好きだし、あいつにあげるか。……あの子が恋しくて買い漁ったものの残りをあいつにあげるのはどうなんだろうか。
そうは思ったけど、マンション前で会った時に聞いてみたら、欲しいと言うから渡した。
「……紅茶やハーブティーのお店とかで相談したらいいんじゃないかな」
どうしてこんなにたくさん買ったのかと聞かれたから、探しているハーブティーがあるんだと伝えると、そう言われた。確かに、探しているものがあるなら無差別に買って確かめるより、店の人に相談したほうがいいかもしれない。
でも、それでも見つからなかったらどうすればいいんだろうか。――そして感じるのは、焦燥。
時間が経っても、脳裏には地獄のような光景が焼き付いているのに。この手には命を奪う感触が染み付いているのに。なのに、どんどんあの子の姿が薄れていく。
忘れたくない。あの子のことはもちろん、騎士たちのことだって、忘れたくない。王様とかは接していた時間が少ないから仕方がないけど、少なくとも、一緒に旅した四人のことは忘れたくない。
なのに、薄れていく。曖昧になっていく。もうとっくに、名前が思い出せない。顔だって霧がかかったようで、髪色くらいしか思い浮かばない。交わした言葉は覚えているのに、声も遠い。
おぼろげだ。あの子を抱き上げた温もりも、赤毛の騎士とお互いいろんな歌を教えあったことも、金髪の騎士に眠気覚ましに木の棒や小石を使ってゲームをしたことも、年嵩の騎士に火の起こし方を教えてもらったことも、覚えているのに。なのに、顔も名前も思い出せにあ。あの世界であの子や騎士達の存在に救われたくせに、帰ってきたら曖昧になるなんて、なんて薄情なんだろう。
忘れたくない。覚えていたい。……死に溢れた忘れたい光景や感触だらけなのに、あの子達のことは忘れたくないのに。
どうして忘れていくんだろう。わからない。でも、あの子が淹れてくれたハーブの香りがあれば、思い出せる気がするんだ。
――「また、大学で」
ふと、俺が一方的な話をした日の、あいつの言葉を思い出した。
大学生活という日常が明日もあるんだということを、恋人じゃなくなってもつながりがなくなるわけでもないことを、暗に示したような別れの挨拶だった。
あいつはそんなつもりはなかったのかもしれない。でも、俺にとっては許されたような気持ちになったんだ。この日常に戻ってもいいんだと、手を差し伸べられた気がした。この世界の日常に怯えて、理不尽な別れ話をした直後のくせに、それでも俺はこの世界の日常に戻れたことを喜んだ。
あの子を想ってハーブティーを探しているくせに、俺は何度だってこの世界での日常を選ぶ。その確信が、ひどく申し訳なかった。
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