聞こえてはいけない声
## 第一章:新居
春の終わりの午後、田中隆史は武蔵野市の古いアパートの前に立っていた。三階建ての薄汚れたコンクリート造りの建物は、周囲の新しいマンションと比べて明らかに時代遅れの佇まいを見せていた。
「サンハイツ武蔵野」という色褪せた看板が、建物の入り口上部に掲げられている。隆史は不動産屋から受け取った鍵を握りしめながら、これから一人暮らしを始める新居を見上げた。大学院を修了し、都内のIT企業に就職が決まった彼にとって、この部屋は社会人としての第一歩を踏み出す記念すべき場所となるはずだった。
二階の奥から二番目、202号室。家賃は月6万8千円と、都心近郊にしては格安だった。不動産屋の営業マンは「築年数は古いですが、リフォーム済みで住環境は良好です」と説明していたが、実際に建物を目の前にすると、その古さは隠しようがなかった。
階段を上がると、廊下には薄暗い蛍光灯がちらつきながら点いている。壁には湿気によるシミがところどころに浮かび、床のリノリウムは所々剥がれていた。隆史は202号室の前で立ち止まり、深呼吸をしてから鍵を差し込んだ。
ドアを開けると、リフォーム特有の新しい壁紙の匂いが鼻をついた。6畳のワンルームに小さなキッチンとユニットバス。決して広くはないが、一人暮らしには十分な広さだった。窓から差し込む夕日が、真新しい白い壁を薄いオレンジ色に染めている。
「これで俺も一人前か」
隆史は呟きながら、持参したスーツケースを床に置いた。明日から引っ越し業者が荷物を運び込む予定だったが、今夜は布団とわずかな生活用品だけで過ごすつもりだった。
部屋を見回しながら、隆史は左側の壁に注目した。それは隣室との間仕切り壁で、薄い石膏ボードに壁紙が貼られているだけのようだった。手で軽く叩いてみると、思ったより薄く、隣の生活音が聞こえてきそうな構造だった。
「まあ、この家賃なら仕方ないか」
隆史は肩をすくめると、コンビニで買ってきた弁当を開いた。新しい生活への期待と不安を胸に、彼の一人暮らしが始まった。
その夜、隆史は床に敷いた布団の上で天井を見つめていた。慣れない環境のせいか、なかなか眠りにつけずにいた。古い建物特有の軋み音が時折響き、水道管から「ピシッ」という音が聞こえてくる。
「家鳴りってやつか」
隆史は建築関係の知識は乏しかったが、古い建物でよく起こる現象だということは知っていた。木材の伸縮や温度変化によって発生する自然な音だと理解していたが、一人でいる夜には少し不気味に感じられた。
時計を見ると午前2時を過ぎていた。明日は会社で入社前の面談があるため、早めに眠らなければならない。隆史は目を閉じ、ゆっくりと深呼吸を始めた。
そのとき、左側の壁から微かな音が聞こえてきた。
最初は水道管の音かと思ったが、それは明らかに違っていた。まるで誰かが壁に向かって何かを呟いているような、低く曖昧な音だった。隆史は耳を澄ましたが、具体的な言葉として聞き取ることはできなかった。
「隣の人がテレビでも見てるのかな」
隆史はそう考えて安心しようとした。しかし、その音はテレビや音楽とは明らかに違っていた。人の声のような、でも言葉としては成立していないような、奇妙な響きだった。
音は数分間続いた後、突然止んだ。静寂が戻った部屋で、隆史は自分の心臓の音だけを聞いていた。
「気のせいかもしれない」
彼は自分に言い聞かせながら、再び目を閉じた。新しい環境への不安や疲れが、些細な音を大きく感じさせているのかもしれない。そう思いながら、隆史はようやく眠りについた。
## 第二章:最初の声
翌朝、隆史は目覚まし時計の音で目を覚ました。昨夜の壁からの音のことは、朝の明るい陽光の中では些細なことのように感じられた。シャワーを浴びて身支度を整えながら、彼は新しい生活への期待を膨らませていた。
会社での面談は順調に進み、隆史は正式に来月からの勤務が決定した。帰り道、彼は家具や生活用品を買い揃えるため、近くの家電量販店やホームセンターを回った。冷蔵庫、洗濯機、テレビ、そして書棚や簡単な家具を注文し、配送の手配を済ませた。
夕方、隆史は買い物袋を両手に下げてアパートに戻った。階段を上がる途中、隣室の201号室の前を通りかかったとき、ドアの隙間から薄っすらと明かりが漏れているのに気づいた。誰かが住んでいることは確かなようだった。
202号室に入ると、隆史は改めて部屋を見回した。昨夜は気づかなかったが、201号室との間仕切り壁には小さな黒いシミがいくつかあった。湿気によるものか、それとも何かの汚れなのか判然としなかったが、リフォーム時に見落とされたのかもしれない。
その夜、隆史は新しく買ってきた簡易テーブルでカップラーメンをすすっていた。テレビはまだ配送されていないため、部屋は静寂に包まれていた。外からは時折車の音が聞こえてくるが、建物内部は驚くほど静かだった。
午後9時頃、隆史はノートパソコンを開いて会社から渡された資料に目を通していた。来週からの研修内容を確認しながら、新しい職場での不安と期待を抱いていた。
そのとき、また左側の壁から音が聞こえてきた。
昨夜と同じような、低く呟くような音だった。しかし今夜は昨夜よりもはっきりと聞こえる。隆史は作業の手を止めて、耳を壁に近づけた。
「...だれか...」
隆史の背筋に寒気が走った。今度は確実に人の声だった。誰かが「だれか」と呟いているように聞こえた。しかし、その声は非常に微かで、壁の向こうからというよりも、まるで壁の中から聞こえてくるようだった。
隆史は壁に耳を押し当てた。冷たいコンクリートの感触が頬に伝わる。声は続いていたが、言葉として明確に聞き取ることは困難だった。
「...たすけて...」
今度ははっきりと聞こえた。「助けて」という言葉だった。隆史の心臓が激しく鼓動を打った。誰かが助けを求めているのなら、放っておくわけにはいかない。
彼は立ち上がって玄関に向かった。隣室の201号室を確認してみようと思ったのだ。ドアを開けて廊下に出ると、薄暗い蛍光灯の下で201号室のドアが静かに佇んでいる。
隆史は201号室のドアに耳を近づけた。中からは何の音も聞こえてこない。テレビの音も、人の話し声も、生活音も一切聞こえなかった。
「あの...」
隆史は小さく声をかけてみた。しかし、返事はなかった。もしかすると、住人は外出中なのかもしれない。それとも、深く眠っているのかもしれない。
隆史は自分の部屋に戻った。壁に近づいて再び耳を澄ましてみたが、もう声は聞こえなかった。静寂だけが部屋を支配していた。
「何だったんだろう」
隆史は首を振った。もしかすると、隣室の住人がテレビや動画を見ていて、その音声が壁を通して聞こえてきたのかもしれない。あるいは、電話で誰かと話していたのかもしれない。
そう考えて安心しようとしたが、どこか釈然としない気持ちが残った。あの声は、確かに助けを求めているように聞こえたのだ。しかも、壁の中から聞こえてくるような奇妙な響きだった。
その夜、隆史は再び寝つきの悪い夜を過ごした。壁からの声のことが頭から離れず、何度も目を覚ましては壁に耳を澄ましていた。しかし、もう声が聞こえることはなかった。
翌朝、隆史は隣室の住人について管理会社に問い合わせてみることにした。もし何か問題があるのなら、適切に対処してもらう必要がある。しかし、管理会社の担当者は「プライバシーの問題があるため、入居者の詳細についてはお答えできません」と答えるだけだった。
「ただし、何か緊急事態や問題がございましたら、すぐにご連絡ください」
担当者はそう付け加えたが、隆史にとってはあまり役に立つ回答ではなかった。
## 第三章:調査
引っ越し業者が荷物を運び込み、隆史の部屋は徐々に生活感のある空間になっていった。冷蔵庫、洗濯機、テレビなどの家電製品が設置され、書棚には本が並べられた。しかし、隆史の心は落ち着かなかった。
壁からの声は、その後も不定期に聞こえてきた。常に深夜や早朝の静かな時間帯で、内容は断片的だった。
「...いたい...」
「...だれか...」
「...でられない...」
隆史はスマートフォンで録音を試みたが、壁越しの微かな音は録音されなかった。まるで彼の耳にだけ聞こえる幻聴のようだった。
一週間が過ぎ、隆史は会社での研修を開始した。新しい職場での忙しさは、壁からの声のことを一時的に忘れさせてくれた。しかし、夜になってアパートに戻ると、再びその謎に直面することになる。
ある夜、隆史は思い切って隣室のドアをノックしてみることにした。もし住人がいるなら、直接話を聞いてみたかった。午後8時頃、隆史は201号室の前に立ってドアを軽くノックした。
「すみません、お隣の202号室の田中です」
隆史は声をかけたが、返事はなかった。再度ノックしても、やはり応答はない。ドアノブに手をかけてみたが、当然ながら鍵がかかっていた。
隆史は管理人室を訪ねてみることにした。一階の一番奥にある小さな部屋に、管理人の老人が住んでいることを知っていた。ドアをノックすると、70歳前後の痩せた男性が現れた。
「お隣の201号室の方について、何かご存知ですか?」
隆史は丁寧に尋ねた。管理人の佐藤という男性は、しばらく考え込むような表情を見せた。
「201号室...ああ、あそこですか」
佐藤は曖昧な表情を浮かべた。
「実は、あの部屋の住人とは最近お会いしていないんです。家賃は自動引き落としになっているようですが...」
「どのような方が住まれているんですか?」
「30代の男性だったと思いますが、とても静かな方でした。ほとんど姿を見かけることもありませんでしたね」
佐藤の話によると、201号室の住人は半年ほど前から住んでいるが、近所付き合いは一切なく、姿を見かけることも稀だったという。
「何か問題でもありましたか?」
佐藤が心配そうに尋ねた。隆史は壁から声が聞こえることを説明しようかと思ったが、相手にされない可能性を考えて躊躇した。
「いえ、ただ挨拶をしたいと思ったんです」
隆史はそう答えて管理人室を後にした。しかし、佐藤の話は新たな疑問を生んだ。隣室の住人がそれほど静かな人なら、なぜあのような声が聞こえてくるのだろうか。
その夜、隆史は壁に関する情報をインターネットで調べてみた。古い建物では水道管の音や家鳴りによって、様々な音が発生することがわかった。しかし、それらの音が人の声のように聞こえることがあるのだろうか。
検索を続けているうち、隆史は「ラップ現象」という言葉に出会った。超常現象の一種で、誰もいない場所から音が発生するとされる現象だった。しかし、隆史は超常現象を信じるタイプではなかった。
「きっと合理的な説明があるはずだ」
隆史はそう考えながら、さらに調査を続けた。建物の構造や音響に関する資料を読みあさったが、明確な答えは見つからなかった。
深夜になって、再び壁から声が聞こえてきた。今度は今までよりもはっきりと聞こえる。
「...だれか...きこえますか...」
隆史は壁に手を当てた。コンクリートは冷たく、微かに振動しているような感覚があった。
「聞こえます」
隆史は小さく答えてみた。すると、壁の向こうからわずかな間を置いて声が返ってきた。
「...ほんとうに...きこえるんですか...」
隆史の全身に鳥肌が立った。これは間違いなく会話だった。誰かが壁の向こうにいて、彼の言葉に応答している。
「はい、聞こえます。あなたは誰ですか?」
隆史は震え声で尋ねた。しばらくの沈黙の後、声が続いた。
「...わたしは...もう...おぼえていません...」
「どこにいるんですか?」
「...このかべの...なかに...とじこめられて...」
隆史は立ち上がった。壁の中に閉じ込められている?それは物理的に不可能なはずだった。壁の厚さはせいぜい10センチ程度で、人が入り込める空間などない。
「助けを呼びましょうか?警察や消防を...」
「...だめです...だれも...しんじてくれません...」
声は次第に小さくなっていった。隆史は必死に耳を澄ましたが、もう何も聞こえなかった。
## 第四章:真実の断片
翌日、隆史は会社を早退して図書館に向かった。建築や音響に関する専門書を調べ、壁の中から声が聞こえる可能性について徹底的に調査するつもりだった。
図書館で数時間を過ごした結果、隆史はいくつかの可能性を見つけた。古い建物では、配線や配管の隙間を通って音が伝わることがある。また、建物の構造によっては、音が思わぬ経路で伝達される場合もあった。
しかし、それでも人間が「壁の中に閉じ込められている」という状況は説明できなかった。隆史は別のアプローチを考えた。アパートの建築履歴や過去の事件について調べてみることにしたのだ。
市役所の建築課で、サンハイツ武蔵野の建築許可証を閲覧した。建物は1985年に建設され、これまでに数回の改修工事が行われていた。特に2018年には大規模なリフォームが実施され、内装や配管の更新が行われていた。
次に、隆史は地元の警察署を訪れた。過去にアパートで事件や事故が発生していないか調べるためだった。しかし、警察は一般市民に対して詳細な事件情報を開示することはなく、隆史の調査は行き詰まった。
図書館に戻り、隆史は新聞の縮刷版を調べ始めた。1985年から現在までの地域の新聞記事を読み返し、サンハイツ武蔵野に関連する記事がないか探した。
数時間の調査の末、隆史は2017年の新聞記事に興味深い記述を発見した。「武蔵野市のアパートで男性が行方不明」という小さな記事だった。記事によると、30代の男性会社員が突然姿を消し、家族や職場の人間が心配して警察に届け出たという内容だった。
記事には具体的なアパート名は記載されていなかったが、住所がサンハイツ武蔵野の所在地と一致していた。隆史の心臓が高鳴った。この行方不明者が、壁の向こうから話しかけてくる人物と関係があるのではないだろうか。
その夜、隆史は壁に向かって話しかけた。
「あなたの名前を教えてください」
しばらくして、微かな声が返ってきた。
「...やまだ...やまだたろう...」
隆史は図書館で見つけた記事を思い出した。行方不明者の名前は確か「山田太郎」だった。一致している。
「山田さん、あなたは2017年に行方不明になった方ですか?」
「...そうです...もう...なんねんも...ここに...」
隆史は震えた。もし本当に山田太郎という人物が壁の中に閉じ込められているとしたら、それは7年以上前からということになる。しかし、それは物理的に不可能なはずだった。
「どうやって壁の中に?」
「...あのひ...こうじのひとが...わたしを...」
声は途切れがちだったが、隆史は必死に聞き取ろうとした。
「...かべの...なかに...うめられて...」
隆史の背筋に寒気が走った。2018年の大規模リフォーム。もしその時に何かが起こったとしたら...
「工事の人があなたを壁の中に?」
「...はい...だれかに...いわれて...」
隆史は立ち上がった。これが事実なら、重大な犯罪だった。しかし、どうやって証明すればいいのだろうか。警察に「壁の中から声が聞こえる」と報告しても、相手にされるとは思えなかった。
「なぜあなたは死なないんですか?7年間も...」
「...わかりません...ただ...くらくて...さむくて...」
隆史は考え込んだ。現実的に考えて、人間が7年間も壁の中で生存することは不可能だった。では、これは一体何なのだろうか。
## 第五章:聞こえてはいけない声
隆史は一晩中考え抜いた末、壁を調べてみることにした。もし本当に誰かが壁の中にいるなら、何らかの痕跡があるはずだった。
翌日、隆史は工具を購入して部屋に戻った。201号室との間仕切り壁を詳しく調べてみると、確かに他の壁とは微妙に色や質感が異なる部分があった。まるで後から補修されたような跡だった。
隆史は小さなドリルで壁に穴を開けてみた。壁紙の下は石膏ボードで、その奥にはコンクリートがあった。しかし、一部分だけ空洞のような感触があった。
「山田さん、聞こえますか?」
隆史は穴に向かって話しかけた。
「...はい...きこえます...」
声は確かに穴の奥から聞こえてきた。隆史は穴を少し大きくして、中を覗き込もうとした。
そのとき、玄関のドアがノックされた。隆史は工具を隠して、ドアを開けた。そこには管理人の佐藤が立っていた。
「田中さん、何かDIYでもされているんですか?工具の音が聞こえまして...」
佐藤の表情は険しかった。隆史は慌てて説明しようとしたが、適切な言葉が見つからなかった。
「実は...」
隆史が口を開きかけたとき、部屋の奥から微かに声が聞こえてきた。
「...たすけて...」
佐藤の顔が青ざめた。彼にも声が聞こえたのだ。
「今の声...」
佐藤は部屋の中に入ってきた。隆史が開けた壁の穴から、まだ微かに声が聞こえている。
「...だれか...そこに...いるんですか...」
佐藤は震え声で壁に話しかけた。
「...はい...やまだです...やまだたろうです...」
佐藤の顔から血の気が引いた。
「山田太郎...まさか...」
佐藤は何かを知っているようだった。隆史は詰め寄った。
「ご存知なんですね?山田太郎という人を」
佐藤は長い間沈黙していたが、やがて重い口を開いた。
「2018年のリフォーム工事の時...山田さんは確かにここに住んでいました。しかし、工事の途中で突然姿を消したんです」
「工事の途中で?」
「ええ。工事業者の話では、山田さんが工事に文句を言って、業者と口論になったそうです。そして翌日、山田さんは荷物も置いたまま姿を消した...」
隆史は佐藤の話に聞き入った。
「その工事業者は?」
「実は...その業者も工事完了後に姿を消したんです。支払いだけは済ませていきましたが...」
隆史は全ての点が線で結ばれていくのを感じた。山田太郎は工事業者によって殺害され、壁の中に埋められた。そして何者かがその工事業者に指示を出していた。
「佐藤さん、あなたは何を隠しているんですか?」
隆史の追及に、佐藤の表情が変わった。
「私は...私は何も...」
そのとき、壁の向こうから声が聞こえてきた。
「...さとうさん...やっぱり...あなたでしたね...」
佐藤の顔が土色に変わった。
「...あなたが...こうじぎょうしゃに...いらいしたんですね...」
隆史は佐藤を見つめた。管理人が山田太郎の殺害に関与していたのだ。
「なぜですか?なぜ山田さんを...」
佐藤は観念したように話し始めた。
「山田さんは...この建物の秘密を知ってしまったんです。このアパートは...過去に何度も事件が起こっている。そして私は...その度に隠蔽してきた」
隆史は息を呑んだ。
「どのような秘密を?」
「このアパートには...他にも...壁の中に...」
佐藤の告白は衝撃的だった。サンハイツ武蔵野は過去数十年間、不都合な住人を「処理」するために使われてきた。佐藤は管理人として、その隠蔽工作を行ってきたのだ。
「山田さんは家賃滞納者の行方を調べていて、偶然にも他の被害者の存在に気づいた。それで...」
隆史は恐怖で体が震えた。このアパートは巨大な墓場だったのだ。そして自分も、真実を知ったことで次の標的になる可能性があった。
「警察に通報します」
隆史がスマートフォンを取り出そうとしたとき、佐藤が突然隆史に飛びかかってきた。二人はもみ合いになり、隆史は床に倒れた。
そのとき、部屋中の壁から一斉に声が聞こえ始めた。
「...たすけて...」
「...いたい...」
「...でられない...」
何十という声が重なり合い、部屋全体が悲鳴に包まれた。佐藤は耳を塞いで苦悶の表情を浮かべている。
隆史は這いずりながら玄関に向かった。しかし、ドアは開かなかった。まるで見えない力で閉じられているかのように、ビクともしなかった。
「もう...逃げられませんよ...田中さん」
佐藤の声が聞こえた。振り返ると、佐藤の手には大きなハンマーが握られていた。
「あなたも...この建物の一部になるんです」
佐藤がハンマーを振り上げたとき、突然部屋のドアが勢いよく開いた。そこには数人の警察官が立っていた。
「動くな!」
警察官の声が響いた。佐藤はハンマーを落として、その場に崩れ落ちた。
後に判明したところによると、隆史の図書館での調査や市役所への問い合わせが記録に残っており、それを不審に思った関係者が警察に相談していたという。また、近隣住民からも「アパートから奇妙な声が聞こえる」という通報が複数寄せられていた。
壁の解体調査により、サンハイツ武蔵野からは山田太郎を含む7体の遺体が発見された。佐藤は全ての犯行を自白し、建物のオーナーと共謀して長年にわたって殺人を繰り返していたことが明らかになった。
隆史は事件の重要参考人として調べを受けたが、被害者ではなく真実を暴いた功労者として扱われた。しかし、あの夜に聞いた声たちのことは、彼の心に深い傷として残り続けた。
壁の中から聞こえてきた声は、確かに存在していた。それは死者の声ではなく、まだ生きていた山田太郎の最後の叫びだったのかもしれない。あるいは、この世に残された無念の声だったのかもしれない。
隆史は別のアパートに引っ越した後も、時々壁に耳を澄ますことがある。しかし、もう声が聞こえることはない。ただ、あの時に聞いた「聞こえてはいけない声」は、彼の記憶の中で永遠に響き続けるのだった。