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三日月

作者: 有栖川 幽蘭

書斎の窓から、今日もあの頼りなげな光が顔を覗かせている。三日月だ。弓張月、あるいは眉月とも言うらしいが、私の眼には、どうにも未熟で、心もとない存在にしか映らない。これから満ちていく希望の象徴だなどと、誰が言ったのであろうか。私には、むしろ、満ちることへの怖れと、やがては必ず欠けていくという宿命を、その細い光の中に見てしまうのだ。


文机に向かい、インク壺の蓋を開ける。ペン先に吸い上げられる黒々とした液体が、私の内にある澱のような思考を吸い出してくれれば良いのだが、現実はそうもいかない。原稿用紙の白い升目は、埋められるのを待つ墓標のように、静かに私を見つめている。何を書けというのか。何を語れというのか。言葉は、もはや私の内から湧き出る泉ではなく、乾いた井戸の底に辛うじて残る、泥水のようなものになってしまった。


かつては、この胸にも燃えるような情熱があった。書くべき物語が、それこそ夜空の星々のように、数え切れぬほどに煌めいていた。しかし、一つ、また一つとそれを紙の上に写し取っていくうちに、星は瞬く間にその輝きを失い、ただのインクの染みへと成り果てていった。書けば書くほど、私の内なる宇宙は光を失い、今では、あの三日月が浮かぶ夜空のように、広漠とした闇だけが広がっている。


妻は、そんな私の姿を案じてか、時折、温かい茶を盆に載せて書斎へやって来る。「あまり根を詰めなさいますな」と、優しい言葉をかけてはくれるが、その眼の奥に宿る憐憫の色に、私は気づかぬふりをし続けるしかない。彼女のその優しさが、私の心を一層惨めにするのだ。満ち足りた愛情という円満な月を、私は彼女に与えることができぬ。私の心は、常にどこかが欠けた、いびつな月なのだから。


近頃、どうにも寝つきが悪い。床に就いても、頭の中で言葉の破片が、まるで骸骨の踊りのように、かちかちと不気味な音を立てて乱舞する。ようやく微睡みかけたかと思えば、決まって、あの三日月の夢を見るのだ。夢の中の月は、鋭い鎌のように、私の胸を切り裂こうと迫ってくる。その度に、私は声にならぬ悲鳴を上げて目を覚ます。冷たい汗が、じっとりと肌にまとわりついている。


思うに、私は恐れているのだ。満月になることを。一つの作品を完成させ、世に問う。それは、小説家にとって、いわば満月を迎えるようなものだろう。しかし、満ちてしまえば、後は欠けていくだけではないか。人々の賞賛も、いずれは静まり、やがては忘れ去られる。その忘却という名の闇の中に、再び身を投じる勇気が、今の私にはない。それならば、いっそ、このまま未完の三日月として、か細い光を放ち続ける方が、どれほど慰めになることか。


しかし、同時に、私は知っている。このままではいけないということも。ペンを握る指は、自らの意思とは裏腹に、何かを書き付けようと微かに震えている。それは、死にゆく者が最後に言い遺そうとする、遺言のようなものかもしれぬ。あるいは、生まれ出ようとする赤子が上げる、最初の産声のようなものかもしれぬ。


私は、ゆっくりとペンを動かし始める。原稿用紙の最初の升目に、ぽつりと、一つの文字を落とす。それは、何の変哲もない、ありふれた言葉だ。だが、その一文字が、私の内に淀んでいた泥水を、僅かに掻き回したような気がした。


窓の外では、三日月が、なおも静かに空にかかっている。その姿は、相も変わらず頼りなく、心もとない。しかし、今宵の私には、その不完全な光が、不思議と、責め立てるようには感じられなかった。むしろ、こう語りかけてくるかのようだ。――それで良いのだ、と。満ちることだけが、完全であることだけが、価値ではないのだ、と。


お前は、お前のままの、欠けた月として、その物語を紡げば良い。


そう、私は、満月を目指すのではない。この欠けた心のまま、この不完全な言葉で、一つの世界を詠み上げてみせよう。たとえ、それが誰の目にも留まらぬ、ささやかな光であったとしても。


再び、私はペンを握り直す。インクの匂いが、不思議と心地よく鼻腔をくすぐる。外は、しんと静まり返り、ただ、私のペンが原稿用紙を掻く音だけが、夜の静寂に響いている。


あの三日月が、満ちては欠けるように、私の物語もまた、寄せては返す波のように、続いていくのだろう。今は、それで良い。ただ、ひたすらに、この一瞬を書き連ねていくだけだ。夜が明けるまで、まだ、もう少し時間がある。

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