009.刑事の勘……ではない
警視庁の一室にて、事情聴取は行われた。
トルロイはまだ目を覚まさないので、ラスフィア一人が聴取を受けることになった。トルロイは現在、警視庁内の医療室に寝かされている。医者も常駐しているらしいので、そこは安心だ。
二人に使われた薬は、簡単に調べたところただ強い睡眠を誘発するのみで、後遺症もないらしい。それを聞いたラスフィアは、ほっと胸をなでおろした。
「なるほど。亜人たちの喧嘩に巻き込まれたのか。そこで助けられたリューンの店に、怪我の治療のために付いて行ったと……」
ライナスは聞き取りをしながら、手元の書類に細かく書き込みをしている。おそらくは、会話のすべてを記載しているのだろう。
ラスフィアが話し終えたあともしばらく書き物を続けていたライナスが、ふいに顔を上げた。
「あと、君の御父上の目が覚めたら君と同じように聴取をすることになるが、薬が完全に抜けて目が覚めるには、おそらくまだ数時間はかかる。それから事情を聴くとなると、御父上には今日はこちらに泊ってもらったほうが良いだろう」
「あ、そうか……。そうですよね」
トルロイが目を覚まさない限り、聴取は行えない。そして目を覚まさないトルロイを、いくら体調の心配をしないで良いとはいえ、まさかそのままホテルに運ぶわけにも行かないだろう。
「君はどうする? 君だけホテルに帰るか、もしここに残るというのなら、君には別に部屋を用意するから、そこに泊ってもらっても構わない。……まあ。仮眠室には、なってしまうが」
ここに泊っても良いというライナスの言葉に、ラスフィアは驚いた。だが、それならぜひ、そうさせてもらいたい。いくら無事だったとはいえ、今トルロイの傍を離れる気には、なれないからだ。
「……ここでお世話になっても良いでしょうか」
遠慮がちに聞いたラスフィアに対し、ライナスが柔らかな笑みを浮かべた。その笑顔を目の当たりにしたラスフィアは、思わず息を飲む。元が美青年なだけに、笑顔の迫力がすさまじい。
(さすが、ヒーローの恋敵……)
作中で、ヒロインであるリアーナが、二人の間でぐらぐらと揺れていた気持ちが良くわかる。
「もちろん。もし御父上の傍が良いなら、仮眠室ではなく病室に泊ってくれてもいい」
ラスフィアはライナスの言葉に安心しつつ、同時にやるべきことを思い出した。
「でしたら私……私たちが泊る予定だったホテルに、連絡しておかないと」
ホテルには、今日の夕方までにチェックインすることになっている。その時刻を過ぎても何の連絡もなければ、心配されてしまうだろう。
(いえ、そういう時って、普通にキャンセルされちゃうのかしら……)
どちらにせよ、迷惑をかけてしまう前に連絡は入れておくべきだ。
「では、ホテルにはこちらから連絡を入れておこう。泊る予定のホテルの名前を教えてくれ」
ライナスにホテルの名を伝え終えたラスフィアは、ほっと息を吐きだした。するとタイミングを見計らったかのように、目の前にカップに入った紅茶が差し出された。
カップの柄に添えられた指は細く白く、女性のものだとすぐにわかる。もしかしてと思い、ラスフィアはわずかに顔を上げ、その指の持ち主の顔を見た。
ラスフィアに向かって優しく微笑んでいるのは、やはりヒロインのリアーナだった。
長い褐色の睫毛に彩られた青緑色の瞳が、わずかに細められている。
(こちらもさすが……。やっぱり、綺麗……)
前世読んでいた小説のヒロインに間近で会えた興奮と歓喜で、ラスフィアも思わず微笑み返していた。
とんでもない目に遭ったというのにここまで冷静でいられるのは、きっとこの三人のお陰だ。おそらくは興奮と驚愕が、恐怖に勝ったのだろう。
「しかし……こんなに早くに連続誘拐犯が捕まるとは思わなかったよ。すべて君のおかげだ」
ライナスの言葉の意味がわからず、ラスフィアは首を傾げた。
「私は何もしていませんが……」
(しかも、こんなに早くってどういうこと?)
今が小説の終盤なら、最初の事件発生からはかなり時間が経っているはずだ。多少うろ覚えではあったが、小説の中での連続誘拐事件は、解決まで一年近くかかっていた記憶がある。
「ああ、それは……まあ何と言うか……」
言葉を濁したライナスが、レイドに視線を向けた。ライナスの視線を追って、ラスフィアもレイドの姿を瞳に捉える。すると、なんなくレイドと視線が交わった。夜空に浮かぶ月ように淡い金色の瞳が、ラスフィアをじっと見つめている。
(もしかして……ずっと私を見てたの?)
聴取する人物を見張るのは警察隊としての職務なのかもしれないが、それでもレイドの視線はそれとは別物であるような感覚をラスフィアは覚えていた。リューンのお店でじっと見つめられていたことも、そう思った理由かもしれない。
ライナスとラスフィア、二人からの視線を受けたレイドは、何も答えようとしない。ただこちらをじっと見つめている。
レイドはヒロインのお相手だけあり、とても容貌が整っている。前世でいうところのイケメン。今世で言うところの美男、美丈夫。十六歳の時に告白してくれた子爵家の次男も美しかったが、レイドはそれ以上だ。
そのような相手にここまでつぶさに見つめられた経験のないラスフィアにとって、レイドの視線は非常に居心地が悪かった。
(何なの……? ……もしかして私、疑われている?)
第一発見者を疑えというのは、ミステリの基本ではあるが――。
(いやいや! 殺人は起こってないから! 誘拐だから! しかも私被害者!)
ラスフィア自身、わずかとはいえ薬を飲まされていたのだ。普通だったら、疑われようがない。
「レイドが……」
沈黙を破るかの様に発せられた、リアーナの言葉。ラスフィアは思わず、リアーナを振り返った。
「レイドが、匂いがすると言って本部を飛び出していったの」
「……匂い?」
(それって……危険な匂い、ってやつかしら?)
レイドは亜人であるから、そういった野性の勘的なものに頼ったのかもしれないとラスフィアは考えた。あるいは警察隊らしく、刑事の勘だろうか。
長年その職務に殉じる者たちの中には、日常の中で起こった些細な出来事に対し、経験則から瞬時に、本人さえ自覚しないままにそこから起こりうる未来を予測できる者がいると聞いたことがある。これは前世の世界でも今世の世界でも、きっと同じだろう。
「なるほど……警察隊としての勘ですか。優秀な方なんですね」
だがラスフィアのその答えに、何故か周囲が先ほどよりも静まり返った。
「いや……そうではなくて……」
そして、その考えを否定されてしまった。しかも否定したのは、何故かレイド本人ではなくライナスだ。
ライナスはレイドの能力を評価していたはずなのにと、驚きを持ってライナスを見つめたラスフィアに対し、ライナスが「優秀なのは認めるが……」と何やら煮え切らない答えを返して来た。
「あ……もしや、私たちに使われた薬の匂い、とか?」
ラスフィアたちは珈琲に入れられていた薬については、匂いも味もまったくわからなかった。だが、亜人の中には匂いに敏感な者も多くいる。しかしすぐに、ならば狼の亜人であるライナスの方が、匂いには敏感なのではないかと思い直した。
そんな疑問と想いを込めてラスフィアがライナスを見つめると、ライナスは大きく嘆息してから、改めてレイドに向き直り問いかけた。
「レイド。どうなんだ?」
(どうって、何が? 抽象的過ぎる……!)
警察隊の勘でも、薬の匂いでもないなら何なのだ。
ライナスに問われたレイドはしばし沈黙し、一度ラスフィアと視線を合わせた後口を開いた。
「――間違いない。彼女だ」