002.亜人と人。そしてガルストラへ
ラスフィアが前世の記憶を思い出したのは、六歳になった頃のことだった。
己が六歳という年齢に達したとき、日がな家で弟と遊んでいるだけの己の境遇を、ラスフィアは疑問に思ったのだ。そして、その疑問を母親にぶつけてみた。
「ねえ、お母様。私、小学校には行かなくていいの?」
ラスフィアのその問いに、母であるミレーネはただ首を傾げるばかり。結局ラスフィアのその問いには、出張から帰って来た父トルロイが答えてくれた。
「ラスフィア。小学校というのは小さな学校という意味かい? あるいは、小さな者たちが行く学校? どのみち、よくそんなことを君が知っていたね。お客さんにでも聞いたのかな?」
トルロイにそう聞かれたラスフィアは、己がどこでその知識を仕入れたのかを思い出そうとした。そこで思い出したのは、人に聞いた記憶ではなく、己がその学校に通ったことがあるという記憶だった。
けれど、まだその時には自分が転生をしたのだという実感はなかった。ただ現実には行った事のない場所に行った記憶がある己のことを、不思議に思っていただけだ。
当時のトルロイは、何やら色々と考えているらしい娘の様子に、小さく笑いを零していた。それから、娘の質問に丁寧に答えてくれた。
「世界には幼少期から教育を施すことを試みている国もあるんだけれど、残念ながらこの国には、まだその教育施設はないんだよ。この国の子どもたちが学校に通うのは、十五歳になってからだ。今から教育を受ける場合は、教会に行くか、個別で家庭教師を雇うかだね。けれど家庭教師を雇える家は、ほとんどが貴族になってしまう」
「じゃあ……うちは貴族じゃないから、私はお勉強しなくてもいいの?」
「ラスフィアはお勉強がしたいのかい?」
勉強をしたいかトルロイに聞かれたラスフィアは、考えた。知識は武器になる。知らないよりは知っていた方が良い。それに、文字が読めないと本が読めないし、将来家の手伝いをすることも出来ない。
「したいわ。そうすれば、お店のお手伝いが出来るもの」
その時のトルロイは、それは嬉しそうに微笑んでいた。そしてそれからしばらくして、ラスフィアには家庭教師が付けられることになった。
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己に前世の記憶があること、そしてこの生まれ落ちた世界が、前世とは異なる世界であること。家庭教師が付き、その教えを受けるうちに、ラスフィアはそれらを知ることになった。
十歳になる頃には、ラスフィアは完全に己が転生したのだという実感を持つようになっていた。そしてその事実を受け入れたラスフィアは驚き、次いで興奮した。
この世界には、人間の他に亜人と呼ばれる存在がいる。
獣型、鳥型、爬虫類型、昆虫型と様々だ。
この世界での亜人と呼ばれる存在は、人と、各型名となった生物の祖とされている。どうやらこの世界の生物の進化の過程は、前世の世界とは異なるらしい。
まずは亜人ありき。それから、人と、各生物。これらの生物たちは、どこかの進化の段階で、亜人から分れたものとされているのだ。
遥か昔。
進化の過程で亜人から分かれた人が、同じく亜人から分かれた数種の生物を引き連れ、新たに見つけた大陸――新大陸に移り住んだ。そうして人の歴史は始まったと、歴史学者は語っている。
それからかなりの時が流れ。
五百年前、人が亜人の住む大陸を発見したことにより、人と亜人の交流が再び始まり、現在にまで至っているのだ。
ちなみに、現在では新大陸に対し、亜人の住む大陸を旧大陸と呼んでいる。
そして亜人と呼ばれる存在は、この新大陸では人や他生物よりも数が少ないし、種類も限られている。現存する亜人たちのほとんどが、今でも旧大陸を生活圏としているためだ。
ラスフィアの住むこのリアンタにも、亜人は存在している。長年通ってくれる客の一人も、蜥蜴の亜人だ。だが、やはり絶対数は少ない。しかし、それは一つの国を除き、どこの国でも同じことだろう。
それは新大陸に住む亜人の多くが、とある一つの国に纏まって生活をしているためだ。五百年前に、この新大陸にやって来た亜人が興した国に。
その国の名は、ガルストラ。
亜人の住む旧大陸と、同じ名を冠した国だ。
いつか、このガルストラに行ってみたい。いつしかラスフィアはそう思うようになっていた。
そしてそれが叶うことになったのは、ラスフィアが十七歳の時。
ラスフィアの実家は様々な商品を扱う商会だったのだが、その商会は三歳下の弟が継ぐことが決まっていた。
そのため、十五歳からの三年間を地元の学校に通った後、ラスフィアはその後嫁に行くか、家で従業員として働くか、家を出て働くかの三択の中から自分の将来を選ぶことになっていたのだ。
そんな中ラスフィアが選んだのは、家を出て働くことだった。前世は普通に働き一人暮らしもしていたのだから、何ら苦ではない。
ラスフィアは、これはチャンスだと考えたのだ。亜人の坩堝、ガルストラに行くチャンスだと。
ケモミミ、ケモシッポ。
二足歩行の熊とか牛とか、狼とか。
爬虫類型や、昆虫型だってやぶさかではない。
ガルストラへ行けば、着ぐるみではない、飾り物でもない、本物が見られるのだ。
とはいえ、前世とは色々と事情の異なるこの世界で、一人で隣国に行くことにはやはり不安もあった。どうしたものかと悩んでいたところ、その悩みは意外とすぐに解決した。ガルストラの首都に店を出している、父の仕事上付き合いのある人のところで、働けることになったのだ。
その人はラスフィア自身もよく知る相手で、幼い頃から色々お世話になっている人だった。その人がリアンタに訪れた際に、ガルストラで働いてみたいと相談したところ、だったらうちの店で働けば良いと言ってくれたのだ。
働く場所も実家と同じ商会なので、経験を生かすことができる。それに、知らない国で知り合いが近くに居ることは、たいへん心強いことでもある。
ラスフィアは、すぐに父に話を持ち掛けた。最初は渋っていた父も、知り合いの店で働くならばと、最終的には承諾してくれた。
――そして。
年が明けて十八となったラスフィアは、父親と共に隣国――ガルストラにやって来ていた。
この国で、新たな生活をはじめるために。
父親が付いてきたのは娘が心配だったからと、これから娘が働くことになる店への挨拶、そして引越しの荷物持ちを兼ねてのことだった。
荷物はトランク二つ分。その他必要なものは現地調達だ。
住む場所もすでに決まっている。
蔦の這う、古めかしい外観のアパルトマン。かつて貴族の居住地だったというその赤いレンガ造りのアパルトマンを、ラスフィアは一目で気に入った。
そこへ荷物を運びこみ、これから働く店への挨拶へ赴く前に、ラスフィアと父親は隣国では有名な、とある料理店に入り昼食を取っていた。
「これ美味しいわ! お父様」
野牛の肉を使ったトマト煮込みのシチューを食べたラスフィアは、瞳を輝かせた。そんなラスフィアの様子を父――トルロイが微笑ましそうに見つめている。
野牛は飼育されているものと違い、肉は固いがその分旨味が勝る。だが、とにかく肉が硬い。
歯と顎の強い亜人ならばシンプルに焼いただけでも良いが、ラスフィアたち人間にはその肉は固すぎる。そのため、野牛の肉を食べる場合は、人間の場合煮込み料理をチョイスすることがほとんどだ。そして肉そのものが美味いため、どのような煮込み料理を食べても大体ハズレがない。
「そうだろう? 以前来た時、とても美味しいと思ったんだよ。いつか家族で来たいと思っていたんだ」
トルロイの方はまだ湯気の立つ焼きたての肉にナイフを刺しこみ、丁寧に切り離し、その一口を頬張り相好を崩した。もちろん、野牛の肉ではない。こちらは野生でも、肉の柔らかい兎肉だ。
「落ち着いたら、今度は母さんとマルコイを連れて、もう一度ここへ来ることにしよう」
「そうね」
母も弟も来たがったのだが、弟はまだ学校があったため、今回は母と共に家に残ることになったのだ。
「そうだ、ラスフィア。これから挨拶に行く店は警視庁の近くにあるからね。サーベルや拳銃を持った警察隊を多く見かけるようになるけど、怖くはないかい?」
心配そうに眉を垂れる父親に、ラスフィアはくすくすと笑いながら答えた。
この世界の生物の進化の過程、新大陸旧大陸の設定については、この作品では特に重要ではありません。