包まれる街
「ベルンハルト様?」
聞き覚えのある声が聞こえたので、そっと扉を開ける。僅かな隙間から様子を伺うように外にいるその人物を見ると、ベルンハルト様は怒るでも呆れるでもなく、深い緑色の瞳を細めて小さく息を吐いた。
「無事のようで何よりだ」
よく見ると、黒いローブは適当に引っ掛けただけ、と言わんばかりにぐちゃぐちゃで、呼吸も乱れている。手紙を見てから、急いで来てくれたことが伝わってきて、警戒して扉を開けなかったことが申し訳なく思えてくる。
「すみません、直ぐに扉を開けなくて」
「構わない。実用性は低いと思うが、声を真似る魔法もある。この非常事態に警戒を怠らないことの方が重要だ」
そう言いながら、ベルンハルト様は部屋を見渡す。異変が無いか確認してくれているのだろう。その際、ベッドで眠っているトッド君とターシャちゃんが目に入ったのか、私に確認をしてきた。
「この二人も目を覚まさないのか?」
「いえ、二人は指輪を持っていたからか、問題ないみたいで、私を起こしに来てくれました。ただ、今は疲れて眠っています」
「指輪……、成程、ルイーエ嬢が魔法付与を施したものか」
二人が手に持っている指輪を少し観察した後、ベルンハルト様は窓の外を眺める。相も変わらず星一つ見えない真っ暗な空だ。見ているだけで気が滅入りそうになる空を、ベルンハルト様は険しい表情で睨みつけ、私の方に向き直った。
「……ルイーエ嬢。予想が正しければ、状況は、かなり悪い」
「ベルンハルト様は、この空が何なのか、心当たりがあるのですね?」
「ああ。文献と、幼い頃の記憶が正しければだが、全く同じ現象が二十年前と五十年前にも起こっている筈だ」
「それは……」
二十年前と五十年前。その数字に、私も心当たりがあった。どちらも、聖女が召喚されたという年だ。そして、聖女が召喚されたという事は、国中、ひいては世界中で瘴気が大量に発生したということだ。
「これらの原因は、恐らく、瘴気だ」
「……放っていたら解決するような物ではない、という事ですね」
ベルンハルト様が頷く。だが、此処で疑問が浮かぶ。今迄、瘴気は瘴気溜まりと呼ばれる特定の場所から発生し、周囲に広がっていた。そして、聖女はその元となる場所で儀式を行うことで瘴気を祓うことができる。瘴気は空気よりも重たいのか、洞窟など、低い場所に溜まる傾向もあった。だというのに、どうして空を覆いつくしているのだろう。
「王宮から全く知らせが来ないはずだ。この瘴気が蔓延している中、迂闊に外に出れば体中の魔力が吸い上げられて瞬く間に昏睡状態になるだろうからな」
「瘴気が、蔓延?空を覆っているのではなく、街ごと瘴気に包まれているのですか?」
「そうだ。だが、これは、聖女が役目を終えつつある証拠でもある」
前回も前々回も、聖女が地上にある全ての瘴気溜まりを塞ぐと、空まで噴き上げるほどの瘴気の塊のような物が地上に現れ、それと戦うことになったという。ただ、瘴気の中心地は予想することができないらしく、今回は偶然王都の近くだったのだろう、とベルンハルト様は言う。
「瘴気が魔物を生み出す方面に作用しているなら、騎士団や魔法使いで対応できるが、最後の瘴気だけは何故か人間の生命力を吸い上げるものばかりらしい」
「……ジュディさん達の命が危ないという事ですか?」
「幸い、魔力がない一般市民は眠り続けるだけで済む。瘴気が祓われたら問題なく目を覚ます。が、問題は貴族たちだ。自分の身を守る魔力が尽きれば、瘴気に取り込まれる」
瘴気に取り込まれるというのは、言葉のまま、身体が形を失い、黒い霧のようになって瘴気と一体化してしまうらしい。そうなると聖女が対峙する瘴気の塊もより強力なものとなってしまう。
「対策として、各屋敷に身を守るための魔法陣が貼ってあるから、外に出なければある程度持ちこたえることができるだろうが……」
「食料の確保など、問題は山積みですね」
「……ああ。聖女たちが瘴気を完全に祓うまで、被害を出さないように尽力することしかできない。差し当たって、瘴気に包まれていない地域からの移動を止めなければ」
聖女一行は、今、何処にいるのだろうか。最後の瘴気溜まりと、瘴気の塊が発生する場所が近いとも限らない。それに、儀式にどれくらい時間が掛かるかもわからない。備蓄している食料だけで何とかなる、という楽観的な考えはやめた方が良いだろう。
「私も、出来ることは協力します」
「助かる。外に出られるものは多ければ多いほどいい」
その言葉に、私は首を傾げる。外に出れば瘴気に包まれて危険なのではないだろうか。いや、瘴気から身を守る魔法陣が貼ってあるのは貴族の屋敷だけだ。なら、どうやってベルンハルト様は来たのか。私は、全く体に影響が無いのか。
「外に、出られる、とは?」
「異世界から来た者、そして、その血を引く者は、瘴気が効かないからな」
基本的に魔法研究所の者以外とは会わないようにするから安心してくれ、とベルンハルト様は何でもないように言ったのだった。
次回更新は6月18日17時予定です。