《短編》茨木童子
(父さんはちゃんと飯を食っているのかなぁ)
今は遠く山の彼方にいる義理の父親を思ってサチはため息をついた。
周りはむさ苦しい異形の連中、人間ならばすぐにでも逃げ出したいところだ。
(あ、そういえばそろそろ都に行く時期か、もしかしたら会えるかもなぁ)
つい、一年前のことだ。サチは仕事に失敗した。
サチにとっての仕事とは家業の手伝いである。今で言うところの床屋を営んでおり、サチはそこの娘だった。
本当はサチにとってその失敗は気にすることでもないのだが、いかんせん状況が状況だったので思わず家を黙って飛び出し、この大江山の地まで遠路はるばるやって来たのだった。
(まさか私が鬼だっただなんてねぇ)
それは突然のことだった。サチは誤って客の頭を切ってしまいその血をなめてしまった。
ちょっと拭うつもりだったのだ。ぺろりと舐めたその味はまさしく蜜の味だった。
あまりの甘さに頬が赤み、口は半開きになり、目はとろんとしてしまった。
すぐさまハッとなって、客に謝り手当てをしたが、その後もその味が忘れられず、ついに自分を抑えきれなくなり野山へ駆け出して行ってしまった。
その時父親は暢気にも「早く帰って来いよぉ」と言っていたが、まさかそのまま一年も帰らないなんて予想もしていなかっただろう。かくいうサチも予想していなかった。
サチは一陣の風となり街をかけた。行き交う人々が何事かと声をあげていた。
けれども、サチはそれには構っていられず、どんどんと槍のように突き進んでいった。
気が付くと辺りは暗くなり、湖のほとりで力尽きて座っていると、無性に頭が重い感じがして水面に顔を映してみると……
(たいそうたいそう立派な角が二本ありましたとさ)
初めは目の前に化け物がいると驚いて腰が抜けてそのまま湖に落っこちたが、それで頭が冷えたのか次第にサチは自分がその化け物本人であることに気づいた。
いつまでたっても襲ってこないし、それに見えた化け物は自分の顔だったのだ。
分からないはずがなかった。
(まぁその後、訳が分からず泣いていたけどさ)
サチは人目がないことをいいことに、ワンワンと泣いた。
仕事で失敗したこと、何も言わずに出て行ってしまったこと、鬼になってしまったこと、これからどう生きていくかということ――あらゆる涙がサチの双眸から溢れだした。
だから近づく者の足音や気配に気づくことができなかった。
「おい、嬢ちゃん何泣いてんだ?」
見られたことに驚きながら顔をあげるとそこにいたのは赤い異形だった。
甲高い悲鳴と、水しぶきの音が再び辺りに響き渡ることになった。
(今でも思い出すとぎょっとするなぁ、アイツとの出会いも)
その後浮き上がることのないサチを心配して、赤い異形は気絶したサチを湖の底から引き揚げ、目を覚ますまでつきっきりで看病したのだ。
サチは意識を取り戻しては、驚いて失神し、というのを繰り返すこと三日、ついに赤い異形への耐性ができ話すことができるまでに至った。
何気にサチは赤い異形の好意からの看病が続いていたから今生きていられるというのに、その時のことを懐古すれど感謝は程々にしかしていないようだ。
(それからあれよあれよという間にこの大江山まで連れてこられたけど)
サチを助けたのは大江山の鬼一派の一人(一鬼?)だった。
なんでもこのご時世、人ではない者が人に紛れて暮らすのはとても困難なことである。
後から友人になった狐から言わせると「化かしゃあいいのよ、化かしゃあ」と言っていたが、鬼は腕っぷしが強い脳筋妖怪だ。
人間に化けて、人間の街に行くことなんて難しいし、ましてやその有り余る力のベクトルが明後日の方向に向かうかもしれない。
そういうわけでサチはその赤鬼、紅天丸の後ろに着いて大江山まで行くことにしたのだ。
(そうして、頭領の岩窟丸さんに会わせられて、この鬼一派の雑用として一年過ごしてきたわけだけど、そうかぁもう一年かぁ)
時が流れるのも早いものである。
雑用としてサチがこの鬼一派に加えられ、鬼になったばかりのサチにここの鬼達はまるで自分の娘を見るように鬼について教えてくれた。
そのおかげで鬼の認識がただの人間の娘として暮らしていたときと異なったことはサチの記憶に新しい。
(この世には善鬼と悪鬼がいて、善鬼は地獄の番人とかやっている、もしくは人間界にて悪鬼退治をする。悪鬼は人を喰らい、モノを盗み、やりたい放題やる、か)
まぁ要は、鬼には二種類いて、良いやつと悪いやつがいるというわけだ。しかも、どちらも同じ鬼であり、人間で言うところの警察と犯罪者の関係に同じだろう。
どうやらサチは生まれは悪鬼らしかったが、人間の良心があるからか比較的善鬼に矯正しやすかったらしい。
一年前のあの時とは違い今のサチはたとえ血を舐めたとしても暴走することはない理性を覚えたのだった。
「よっこいしょ」
サチは洗濯物を籠に入れるとそれを持ってパタパタと廊下を歩く。
今サチがいるところは大江山の山頂付近にある鬼達が住む寺だ。
その寺は人間が作った後に放置されていたところを、鬼達が住むようになり、その数が多くなるにつれて、増築に増築を重ねて、寺というよりはもはやどこかの文化遺産じゃないかというぐらいまで入り組んでいる。
だからちょっとした迷宮のようなのだが、一年も雑用をやっていれば大体の場所は覚える。
途中、巡回の鬼達と陽気に挨拶を交わしつつ、いそいそとしながらサチは洗濯物を運ぶ運ぶ。
最初は体力が無くて辛かったが、今では稽古の甲斐もあって楽々と運べるようになった。
無論、サチが一人で洗濯をしているわけではない。
麓の村々から幾人か、護衛の対価に奉公に女達を出してもらっている。
彼女達は主に掃除洗濯食事などをする。
サチの身は鬼ではあるがやっていることは変わりないので彼女達とは仲がいい。
若干その佇まいが幼いからか、もしくはよくドジを踏むからか彼女達からサチは随分と可愛がられているようだが。
サチはその事に少し不満を覚えるが、サチはお菓子が大好きだ。
彼女達からお詫びと称してお菓子を貰うとそういったことはすぐに忘れてしまう。
まぁつまるところサチは餌付けされているのである。
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