死への接近
八十八年生きた老人がいた。
凛と澄み切った大空のような、美しい生を全うし、今まさに息を引き取ろうとしていた。
家族は、老人の次なる旅立ちを祝福するために、老人の萎びた手を代わる代わる握った。それぞれが別れを告げ、磨かれた真珠のような涙を零した。
最後の一人が別れを済ませ、皆で老人を見守った。
「ご臨終です」
老人はその瞬間、事切れた。旅立ったのだ。
白衣を着た医者が、枯れ枝のような老人の脈を図り、その最後を家族へと伝えた。
その伝えを聞いて、皆すすり泣いた。
「ありがとう」
皆がそう言って、老人との別れを済ませた。
◇◇◇
老人は、家族の別れの挨拶を聞いた。
萎びて、もはや自由に動かす事の儘ならない手ではあるが、ギュっと優しく手を握られるたびに、暖かな気持ちを感じていた。
老人は、人生を思い出していた。老人の頭には、煌めく星屑の様に美しい人生の思い出が去来していた。
いよいよ終わりだろうか。
ついに最後の一人が老人の手を離し、別れを済ませた。
悔いはない。老人はそう思った。
そうして、最後の音が聞こえた。
「ご臨…終……で………
…………
………………
……………………
老人が異変に気付いたのは、しばらくしてからだった。
死ぬとどうなるのか知らなった。老人は死んだはずだ。
だが、どういう事だろうか。目に映る優しい風景は変わる事が無い。
何故、生きている。いや、生きているのか?
老人は体を動かそうとしたが、無意味だった。体に意識を集中させたが、何かがおかしい。
何一つ、動くものがない。首も、指一本でさえも。
老人は考えた。しばらくすると、気が付いた。その不思議な違和感に。
呼吸をしていない。いや、僅かながら、大変ゆっくりとだが、息を吐いている、ような気がする。息を吸おうとするが、まったく体が言う事を聞かない。
さらに違和感を感じた。そうだ、家族だ。可愛い子供達が動いていない。医者もだ。
老人は、何もかもが判らなくなった。美しい思い出と共に、あの世に旅立つはずではなかったのか。
老人にとって、世界の全てが止まっていた。しかし、思考だけは動いていた。
時間がいくら過ぎ去っても、老人は身動き一つできなかった。ただそこには思考があるだけだ。
そうしてふと意識すれば、目に映るのは優しい顔をした家族の顔。
家族を感じるたびに、何故だろうか、常に心から温かな気持ちを感じていた。
老人はこの不思議な事象を考えた。それはとても長い間だ。他に表現できない。
そして老人は一つの仮説を立てて、真理を理解した。
この意識は、死へと接近している。しかし接触していない。死に近づくたびに、意識の時間が引き伸ばされている。近づけば近づくほど、時間と意識がゆっくりと流れていくのだ。
これは、「極限」という奴だ。限りなく、死に近づいている。だが、死に接触する事はない。
昔、聞いた事がある。数学では、「極限」といって、限りなくその数に近づくが、交わる事のない数がある事を。例えば、「ゼロ」に限りなく近づくけれども、「ゼロ」には決してならない数字。しかしその数字は、「ゼロ」なのだ。
老人は、永劫の時間をかけて死に近づいた。家族に見守られ、暖かな気持ちを持ち続けて、死へ接近していた。
「ご臨終です」
そして死への接近は収束し、老人は天国へと旅立った。
(了)
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