冬木と柊 3
「ユキ、授業終ったぞ」
降ってわいたような唐突さで、長年馴染んだ声が耳を打った。
「まったく、午後まるまるさぼりやがって…」
意識がすっと覚醒する。
変な感じだ。いきなり、腕や頭部ができたような気分。眠いというより惰性ではりつく目をこすり、ぼんやり窓の外を見る。
……ああ、ばっちり夕方だ。図書室で惰眠を貪る女子生徒を誰も起こさなかったということだが、司書さんが気づかなかったとは思わない。功刀女史の完全なる放置プレイに、感動を通りこして脅威を感じる。多分、火事になろうと起こしてもらえない。
「川名いないけど、放課後に約束したんじゃないのか?」
「違うわよ、川名さんとは明日の昼に……」
ん?
「ちょっと、イチ」
なんで彼女とのことを知ってるんだ、あんた。
音源に冷淡な目を向ける。
黄昏のひいた影がジグザグに走る本棚を横切り、178センチ強の長身が腰をかがめた。
「なるほど。明日のお昼、また図書室でお会いしましょうとちゃっかり逢引をとりつけたわけだ」
断りもなく隣の椅子が引き出され、どさりとスポーツバッグが落ちる音が続く。知った気配が濃厚になる。
「気色悪い言い方しないで。―――いつから図書室にいたのかいいなさい、イチ」
「いつから?」
こらえるようにくっと笑いを噛んで、斜めにこちらを向くと大きく口を緩める。
全体に短い黒髪に逆らって前髪だけが鬱陶しくたれさがった顔には、柔和に微笑むタレ目がふたつ、細い鼻筋と小さい八重歯を見せて笑う口がひとつずつ。明朗快活な少年という評判に相応しい笑顔である、が。
「おまえが誘導尋問であざとく川名を堕落させようとして失敗したとこから、図書室の外まで追いかけた後、戻ってきて寝場所決めるとこまで。その後、俺は誰かさんと違って授業にでたけどね」
くそ、一部始終見てたのか。最悪だ。死んでほしい。
ギリギリの殺意を微塵も感じ取らずにイチは笑って首を振る。
「にしても、ユキは恐いよなあ。自分からは情報をださないで、川名にだけしゃべらせてるし」
その通り。
私は彼女が前もって手にしていた情報以上に、なにひとつ与えなかった。
しかし、彼女の方は名前と所属クラス、柊一……今、私の隣にいる男との関係までしっかり喋らされているのである。
「それ、あんたが笑っていうことじゃないでしょ」
「なんで?直で告られたわけじゃなし、後輩は常に先達の肴にされるもんでショ」
ふざけんな。
あんなのほとんど告白現場と同義だ。あれで察することができない頭なら捨ててしまえ。
そう思うものの、あくまで第三者の一方的かつ無責任な意見なので口にはしない。
イチの確信的な無神経さは腹立たしいが、求められての意見や考えた上での諫言ならともかく、個人の事情にただ考えを押しつけるなんて浅慮で品がなさすぎ。強行したら、今度は自分に腹を立てるはめになる。
忌々しいジレンマに溜息をついた。
それもこれもイチの人格が歪んでるせいだ。自分に好意をもつ後輩を、貶める意味でさえなく、ただ笑い話にできる男である。屈折度は並大抵ではない。
「せめて感想とかないわけ?」
「なんの」
「さっきの」
「ユキの性格の悪さとひねくれっぷりにマジで感心した。悪魔の誘惑ってあんな感じ?」
苛々する。
誰が私の感想いえっていった。聞いたのは、川名愛実という存在への感想に決まってる。
さっきの私と同じ手口だ。相手の意図を知りながら、のらりくらりとかわして会話に実を結ばせない。これが噂の同属嫌悪か。やってられない。
「ハ、冗談でしょ?性格の悪さじゃあんたのひとり勝ちよ。頭わいてるんじゃないの」
「そりゃユキの方だろ」
近づく声に腰を浮かせる直前、頭に両手を添えて引き寄せられた。
触れ合うぎりぎりの距離で目をのぞきこまれる。
「なんで、わざわざ小うるさい一年のガキと会う約束なんかすんの。そんなに川名が気に入った?」
「……」
「おまえ、ほんと男女問わず惚れっぽいよな。恋愛は全然しないくせに」
「……」
「ユキちゃんは否定できないと口数減りましゅよねー」
「あんたのにやけ面と存在そのものは否定しておく」
「ひどっ!ユキは心が雪女だ!」
「あんたがしゃべれないよう氷づけにできるなら、神様にお願いしてでも雪女になりたいわよ、ホント」
「えらい残酷なドリーマーすね、ユキさん…」
このまま話が脱線してしまえばいいのに、イチは、無邪気な笑顔に邪気だらけの声をのせた。
「で、結局、俺の後輩は気に入ったわけ?」