冬木と柊 10
「どうして」
「シー。静かに」
予想していなかった人の登場に、心臓が活発になる。
本当なら血の巡りが良くなるところだけど、逆に、私の手は冷たくなった。
「悪い、こいつ寝てるから。できるだけ足音も立てんなよ」
ハニーブラウンの流れを、優しくなでる掌。緩んだ目。すごく楽しそうな顔。
竹刀を握っていた時とは全然違うけれど、柊先輩がその行為で満たされる感情を持っていることは伝わってくる。
例え、それが恋愛感情ではなかったとしても、酷い。こんなの辛すぎる――――――って、それよりもあの猫女、見せつけるつもりで今日ここに来いっていったわけ?
美玖ふうに「雌豚兼泥棒猫がァ!」って叫んで安眠妨害した上で恐怖の貞子司書(仮名)を巻き込んで修羅場っても許される所業だと思うんだけど、それ。
「川名」
……もちろん、全ては柊先輩がいなかったらの話だ。
瞬間冷却を実体験した私は、いつもの後輩顔を取り繕うことができた。
「なんですか?」
いわれた通り、足音を殺してそばに寄る。小声で話す距離は随分近い。正直な体温が上昇していく。
柊先輩は、隣の寝太郎女をなでながら、私ににっこり笑った。
「うちの図書室にくるなんて物好きだな。本、好きなのか?」
「…………ハイ、ダイスキデス」
すみませんすみません、柊先輩。川名愛実は今日から読書家になります。薄くて眠くならない本をいっぱい読みます。
だって、いえない。先輩の隣にいる寝坊女と約束してたとか。絶対不審がられる。理由を聞かれたらどうすればいいのか。
縮こまるようにまるくなって眠る人に目をやる。
柊先輩のこの様子―――昨日のこと、話さなかったんだ。
「川名すごいな。ちなみに、俺は漫画の方がいいヒトね。ハードカバーとか、ぜってー挫折するタイプ」
「そ、そうなんですか」
良かった。下手に本好きだったらあれこれつっこまれて嘘がばれるところだった。
このまま話を変えてしまおうと、思いつくまま尋ねる。
「先輩はどうして図書室に?」
そういった途端、柊先輩の視線が彼女に戻ってしまい、激しく後悔した。
目が悪戯っぽく笑って、長い指で猫のしっぽをつかまえるみたいに髪をつまんだ。
「ここ、こいつのお気に入りなんだよ」
「この人に用事でもあったんですか」
冬木雪が図書室に入り浸ってるのは知ってる。
職員室で立ち話をしていた先生から聞いた。運のいいことにおしゃべりが好きな先生で、聞き出すまでもなく愚痴まじりに話してくれた。教師が知ってるくらいだ、友人間でも有名だろう。彼女を探すには本の中とか。
柊先輩は、ハニーブラウンのしっぽをするりと放すと、伏せ目がちに口元を緩めた。
「そういわれると、用があってこいつ探したことってほとんどないな」
「………」
続きを促すべきか、止めるべきか、迷った。聞いても聞かなくても後悔しそうな予感があったから。
何も知らない先輩は、私の選択なんて待ってくれなかったけど。
「こいつ、昔っからすぐ行方くらますやつでさ。さっき顔見たなと思ったらもういないわけ。別にどこ行ってもいいんだけど、ふっと思うんだよ。―――もう、帰ってこないんじゃねぇのって」
髪を撫でていた手がゆっくり離れていく。
先輩は笑っていたけれど、前髪に留まる指先と眼差しが、言葉よりはっきりと不安を語っていた。
気持ちが伝染したみたいだ。落ち着かない。こんなに不安定な柊先輩は見たことがなくて、ぎこちなく茶化すことしかできなかった。
「なんですか、それ。まるでペットみたい。失礼ですよ、先輩」
ペットという単語に先輩が口を押さえる。手の甲の裏でくくっと笑いを零して、愉快そうに彼女の頬をつつく。
「いーの。こいつ、俺の外猫だから」
「は?」
「は?じゃねーよ、川名。見ろ、この見事な猫っ毛を。昔からミケさんに似てたけど、最近手触りまでそっくりでさー。あー、撫で回してー」
……後輩なので口には出さないものの、現在進行形で撫で回しているように見える。
言葉のあやだろうか。あと、それ以上撫でたらセクハラになる気がしてならない。
柊先輩の新たな側面にどう対応するべきか悩んだが、猫と縁側でのんびりする先輩を思い浮かべたら癒されたので、なかったことにした。
Love is blindという英語が意識の片隅に浮かんだけど、気づかなかったことにする。